どんな格好をしていたとしても仕事終わりの金曜日。会社から少し離れた駅。
咲子は改札を出てすぐ前の開けたスペースの柱の前で立ち止まった。
駅の時計を見上げると、待ち合わせ10分前を指している。
少し早く来すぎてしまったかもしれない、と咲子は周りを見渡した。スマートフォンをチラチラと確認しながら待っている人、何人かで集まって笑い合っている人たち、様々である。皆楽しそうで、咲子は笑みを浮かべた。
路線が複数ある大きめの駅のため、電車を降りてきた人波が何度も改札を通り過ぎていく。
それをソワソワしながら見送っていると、またやってきた人波の中から磯貝を見つけた。
磯貝の方も咲子を見つけたようで、軽く片手を上げた。
咲子はそれに応えるように手を軽く振る。だが、磯貝が改札を出てきた瞬間、手を止めて大きな瞳を更に見開いた。
なんと磯貝がスーツを着ていたのだ。いつもは私服――と言ってもオフィスカジュアルなものだが――の彼がスーツを着ているなんて珍しい。
「ごめん、待った?」
「いえ、私が早く来すぎちゃっただけなので」
咲子の方へ小走りにやってきた磯貝に、咲子は首を傾げた。
「磯貝さんがスーツを着ているの、珍しいですね」
「あ、うん。今日は客先でちょっとした打ち合わせがあったから…」
そうは言うが余程重要な打ち合わせだったのだろう。磯貝は少し疲れた表情を浮かべている。
「それはお疲れ様でした」
咲子は仕事内容を深く掘り下げるのは遠慮して労いの言葉だけをかけて頭を下げた。部署が違うため、付き合っているとはいえ線引きはしっかりと引く。そんな咲子の気持ちを有難く受け止めて磯貝も軽く頭を下げた。
「池田さんも仕事お疲れ様」
二人で軽く微笑み合った後、磯貝は腕時計を見た。
「じゃあ、ちょっと早いけど店に向かおうか」
「はい!」
今日予約している店に向かって二人は並んで歩き出した。
咲子はこっそりと磯貝の格好を見つめた。
スーツはダークネイビー色のもので、ボタンを1つだけ留めて、スラックスは折り目がしっかりついており着崩れは一切ない。スーツの色に合わせたシャツは清潔感のあるブルーの色で襟まで糊がしっかりと効いており、その襟元はワインレッドの無地のネクタイがきちんと締められている。靴はブラウンのプレーントゥシューズ、鞄は黒のトートバッグで、小物まで洗練された印象を与えている。
この格好でこの少し蝕む暑さの中を歩いているからか、磯貝の額にはじんわりと汗が浮き上がり、髪の毛の先が少し肌に張り付いていた。
咲子は胸の鼓動が少し速くなるのを感じた。
スーツ姿の人は今までたくさん見てきたのに、磯貝だけはなんだか特別に格好良く見えた。
だがその分、別人のようにも見えて少し寂しいような不安なような不思議な気持ちが咲子の中に芽生えてくる。
「池田さん?」
「は、はい!?」
急に名前を呼ばれて、咲子はいつもより少し高い声を出してしまった。
磯貝は首を傾げながら咲子の顔を心配そうに見つめる。
「大丈夫?なんかぼうっとしてたけど…」
「えっ!?…あ、いえ今日は暑いなって思って!」
咲子は少し赤くなっていた顔を手でパタパタと煽る。
磯貝はそれに大きく頷いて同意した。
「そういや天気予報で真夏日に近い日だって言ってたな…」
「そうなんですね。磯貝さんは今日スーツだから余計に暑そうですね」
「あー確かに。普段私服だから調整効く分、いつもより暑く感じてるかも」
「一旦立ち止まって上着脱ぎますか?鞄持ちますよ」
「あー…ごめん、そうさせてもらおうかな」
磯貝と咲子は道の端に寄って立ち止まった。
磯貝の鞄を咲子が受け取ると、磯貝はジャケットを脱いだ。そしてホッとため息を吐く。
「ありがとう。大分マシになったよ」
「いえいえ」
鞄を咲子から受け取って、磯貝は脱いだジャケットを腕にかけて持つ。
これはこれでなかなかに様になっていた。
咲子はなんだか緊張した心地のまま、磯貝と店に向かうのであった。
店に着き案内されたのは個室であった。
部屋はこあがりの和室で中は掘り炬燵になっていた。4名までの小ぢんまりとした広さに全体的に落ち着く雰囲気ではあるのだが、今の磯貝と2人きりになると考えると緊張していた気持ちが更に強まるのを感じた。
2人は向かい合わせで座ると少し涼しい風が入ってくる。まだ夏前ではあるが、おそらくクーラーを効かしているのだろう。
店員が先に飲み物をどうするか聞いてきた。
「「生ビールで」」
即答で思わずハモったその言葉に磯貝と咲子は目を合わせる。
店員は肩を震わせながら頷いて部屋を去っていった。
「やっぱりビールだよな」
「はい」
磯貝が口端を上げて言えば、咲子は笑顔でコクコクと頷く。
食べたいものをメニュー表で探しながら待っていると、店員が生ビールを持ってきた。
もう既に決めていた料理を注文し、2人はジョッキを重ねた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
2人は同時にビールを喉に流し込み、気持ち良さそうに息を吐いた。
「あ。もう個室だからネクタイ取って良い?」
「どうぞどうぞ」
磯貝が礼を言ってネクタイに指をかけて、スルッとネクタイを外していく。そしてそのまま襟元のボタンと第二ボタンを外していった。
そんな何気ない仕草でさえ、咲子はまたドキドキした。声をかけられずにいきなり外されたら焦って顔に出してしまっていたかもしれない。
「あー、やっと人心地付いた」
磯貝は畳んだネクタイを鞄の中にしまって、またジョッキを呷った。
咲子は緊張感を振り払うかのように話し続ける。
「これからもっと暑くなっていくんでしょうね」
「うん。今からこれだと今年の夏が怖いな」
「そうですね。あと会社はいつもクーラーが強めなので、中と外の温度差の調整も大変なので今からちょっとげんなりします」
「そっか、女性にはあの温度キツいよな」
「はい…でも営業部の方とか外回りある方のことを思うと仕方ないとも思ってて。寒いのは着込めば何とかなるので」
「確かに…暑いのは脱ぐにしても限度があるもんな」
そんな世間話をしているうちに、注文した料理が次々に並んでいく。
そのうちの一つに、この店の人気メニューであるもつ鉄板焼きがあった。名前の通り、鉄板で提供されておりジュージューと熱そうな音が続いている。
磯貝が取り皿にそれぞれ取り分けて1つを咲子に渡す。
そして自分の皿からモツを1つ摘み、真剣な表情で息を吹きかけ始めた。彼は猫舌なので、熱い食べ物はこうやって少し冷まさないと食べれないのだ。
そして何度か息を吹きかけた後に口に含んで、カッと目を開いた。
「美味い!俺、モツはどて煮ばっか食べてたけど、これはこれで美味いな」
咲子も釣られて一口口に運んだ。そしてパッと顔を明るくする。
「本当に美味しいですね!醤油ベースの甘辛味でモツがプリプリです。これはお酒が進んじゃいますね」
「うん。これは焼酎とかも飲んでみたくなるな」
磯貝が頷いてビールを呷るのを真似して、咲子もビールを数口飲む。
「モツは優秀ですね。味噌も醤油もどちらも合って。なんだかどて煮も食べたくなってきました」
「食べ比べするのも楽しいかもな」
「確かに!今度やってみませんか?」
「良いね。どて煮なら俺、作れるから任せてよ」
「はい!では鉄板焼きは私にお任せください」
磯貝は笑って頷いて、またモツを箸で掴んで息を吹きかけた。
美味しい料理を食べ、楽しくおしゃべりをして。そしていつもの磯貝の仕草に、咲子はすっかり先ほどの緊張感はどこかへ行ってしまったのを感じた。
どんな格好をしていたとしても、磯貝は磯貝なのだ。
猫舌で、名古屋料理が好きで、一緒にいるととても楽しくて。咲子の好きなことに心から楽しそうに付き合ってくれる優しい人。
咲子の好きな磯貝のままなのだ。
「えへへ」
「ん?」
「いえ、とても美味しいなって」
「そんなに気に入ったなら雑炊も頼んでみる?モツ鉄板焼きで使っているタレにご飯を絡めて雑炊にしてくれるサービスがあるみたいだけど」
「わぁ、良いですね!是非!」
店員を呼び出すベルを鳴らし、磯貝はまたフーフーと息を吹きかけながらモツを食べる。
そんな磯貝を愛おしそうに見つめて、咲子は微笑んだのだった。