缶コーヒー「あ、お疲れ様です」
「あ、お疲れ様」
咲子が食後の飲み物を買うために会社のビル内にある自販機に向かうと、そこでバッタリ磯貝と出会った。
「磯貝さんがここにいるの珍しいですね」
「インスタントコーヒー切らしちゃって…」
「なるほど」
そんな会話をしながら磯貝が携帯を自販機にかざしてボタンを押す。
缶の落ちる音が小気味よく響いた。
磯貝が缶を取り出している間に咲子が小銭を用意しようと財布に目線を落としていると、磯貝が短く声を上げた。
その声に目線を上げると磯貝がガクッと項垂れている。
どうしたのか、と咲子が心配して覗き込むと、磯貝の手にはココア缶が握られていた。
「…間違えた」
独り言に近い声色でため息を吐く磯貝。
咲子はそれを見て、用意していた小銭を急いで自販機に投入し即座にボタンを押した。
また缶の落ちる音がして、咲子が缶を取り出す。
咲子はそれを磯貝に差し出した。
「あの、良ければ交換しませんか?」
差し出されたそのコーヒー缶は、彼がいつも飲むメーカーのものだった。
磯貝が目を少し見開いて固まっていると、咲子は首を傾げた。
「もしかして別のコーヒーを買おうとされてましたか?」
「あ、いや、これで合ってる。……けど良いの?」
「はい!甘いもの飲みたい気分だったので」
咲子がマスク越しでもわかる笑顔を向ける。
「…ありがとう」
磯貝もマスク越しに微笑んだ。
こうして会社で笑うのが珍しい磯貝に、咲子は少し心の奥がムズムズするのを感じた。
2人は缶を交換すると、少し沈黙が流れる。
だが今は昼休み中である。いつまでもこうしているわけにもいかず、磯貝が先に口を開いた。
「じゃあ、また…」
「あ。はい、お疲れ様です」
2人はお互いに頭を下げて、それぞれ自分が所属する部署の部屋へと向かって分かれた。
磯貝は企画部の部屋へと向かいながら、磯貝は内心で反省会を開いていた。
(危なかった…)
咲子と会ったことで咲子が好きそうな甘い飲み物が目に入り、気づいたらココアのボタンを選んでしまったのが事の真相だった。
(変に思われなくて良かったが…気を遣わせてしまったな…)
咲子と交換した缶コーヒーを握り締める。
そして、ふと気がついた。
(そういや…池田さん、何で俺が買うコーヒーの種類わかったんだろ?)
会社のビルに入っている自販機なだけあり、そこには様々なメーカーのコーヒーが並んでいた。
無糖のものであれば、3種類くらいあったと記憶している。
磯貝は缶コーヒーを見つめる。そしてそれを買った時の咲子の様子を思い出した。ボタンを押すその手の動きはまったく迷いがなかったはずだ。
(前にご飯に行った時に話したんだっけ?)
火鍋を食べに行った時のことを思い出す。
楽しくて色々な話をしたので、その中の一つにコーヒーの話題もあったのかもしれない。
(…まあ良いか)
企画部の部屋のドアの前に着き、磯貝は息をゆっくりと吐いた。
勘の良い部下の顔がよぎる。
何か良いことがあったのか、と以前指摘された事を思い出したのだ。
今回はバレないように気をつけなくては。
磯貝は気を引き締め直してドアノブに手をかけるのだった。
自分の席に戻った咲子は、デスクの端に磯貝と交換したココアの缶を置く。
(磯貝さん、お仕事忙しいのかなぁ。あんまり無理してないと良いけど…)
飲み物を間違って購入するくらい疲れてるのではなかろうか、と咲子は心配していた。
椅子に座り、午後からの仕事の準備を進めつつ、磯貝とのやり取りを思い出す。
ココア缶を取り出してガッカリした様子の磯貝を見ていたら、何かせずにはいられず、気づいたら体が動いてしまっていた。
(合っていたから良かったけど、せめて何買うか聞いてからにしたら良かったかなぁ)
そこまで考えて、咲子は首を傾げた。
(あれ?何であのコーヒーを選んだんだろ?)
磯貝がブラックコーヒーを飲むのは知っていたが、無糖の缶コーヒーは複数あったはずだ。
咲子は両腕を組んでうーんと考え続ける。そして、あるシーンを思い出した。
(あ!そうだ!前に芋まんじゅうを渡した時に磯貝さんがあのコーヒーを買ってたんだ!)
答えが見つかってスッキリとした咲子はマスクの下で口端を上げる。
上手く飲むコツを教えてもらったコンポタ缶のことや、美味しそうに芋まんじゅうを食べてくれた磯貝の笑顔を次々に頭の中に巡っていく。
磯貝とは連絡先を交換したとはいえ、頻繁にやり取りをしているわけでもなく、更に部署が違うので会えない時は滅多に会うことがない。
だから今回会えたのは、さつきがくれたりんごのお裾分けを渡しに行った時ぶりだったことに咲子は気づく。
(…もう少しお話ししたかったな)
咲子はココア缶を手に取り、指でそっと撫でる。
何だか勿体無くて、プルタブを開ける気にはなれなかった。
――どうして磯貝のコーヒー缶の銘柄まで詳細に覚えていたのか。咲子がそれ気づくのはもう少し先のお話し。