▽
ゆっくりと目を覚ました。
朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の輪郭をぼんやりと照らしている。
何故か、全身が妙に重い。節々が鈍くて、肩の辺りが凝っている。喉も渇いている。
何だろう、この感じ。変な夢でも見たのかな。
しばらくぼんやりと天井を見つめていたけれど、徐々に状況を認識していく。
柔らかな布団の感触。
隣から伝わる微かな体温。
そして、すぐ横で寝息を立てる気配。
――誰かがいる。
「……え?」
ゆっくりと、視線を横に向けた。そこには、眠っているティア・マクドールの姿があった。
穏やかな寝顔。布団は肩辺りまでかかっていたが、首筋から肩にかけて覗く肌は、どう見ても……素肌だった。
「えっ」
一瞬で、目が冴えた。
え、え、え、えっなんで なんでマクドールさんが隣に
混乱の嵐。言葉にできない動揺。思考が宙を舞う。
まさか、まさか、そういうこと で、でも、そんなはずは、僕にそんな度胸が……
ふと、自分の布団を見下ろす。恐る恐る、そっと捲ってみる。
裸だ。全然服を着ていない。下着だけはかろうじて履いているけど、明らかにこれはただ事じゃない。
慌てて布団を元に戻す。が、次に浮かぶのは隣のマクドールさんの状態だった。
まさか、マクドールさんも……つい、生唾を飲み込んだ。
布団の中でごそごそと身を捻り移動しながら、マクドールさんの足元にある布団の端に手を伸ばした。
ごめんなさい、ごめんなさい、これは確認のためです、決して疚しい気持ちでは――いやちょっとはあるけど、それはそれとして確認は必要なことで――ああもう!
できるだけ見ないように、しかし確認はしたくて、視線は逸らしつつも捲り上げて指の隙間からそっと覗く。
……良かった……下着は、着てる…………
マクドールさんは僕と似たような薄手の下着姿で、顔をこちらに向けて眠っていた。体が少し丸まっていて、その首から肩にかけて曝された肌が、やけに柔らかそうで……
「……ふあ……」
マクドールさんがゆったり寝返りを打ち、薄く目を開けた。
「……朝……? あれ……リアン……?」
「おっ、おはようございます」
かけられた声に、僕は距離を置くように跳ね起きた。
マクドールさんはまだ寝ぼけ眼のまま、ぼんやりと部屋を見回している。
「ここ…………どこ?」
「ここ、あの、たぶん僕の部屋……ですね……」
「……え? なんで僕、リアンのベッドに、寝て……」
そのとき、マクドールさんの表情が一瞬で強張った。視線が自分の身体に向いて――たぶん、ようやく自分の状態に気がついたんだと思う。
上半身には一切布がなく曝されていて、下半身を覆っている掛け布団一枚しか身につけていなかったことに。
「…………ッ!」
視線がかち合う。この場を一瞬支配したのは、沈黙だった。
「ま、まさか……僕たち……その」
「い、いやっ! その、わからない、というか……実は僕もその、記憶がなくてですね」
「……覚えがない?」
「はいっ!」
答えながら、思わず正座になった。
ただ、マクドールさんと同じベッドにいる。しかも、裸で。そして記憶がない。これは、その、アレしかない。理屈として導き出された結論は一つだけだった。
やってしまった……
否定したくても、記憶は途切れている。起点すら掴めない。
ただ、目覚めた今の感覚は……初めてそういうことをしたのだと言われたら納得してしまいそうな、変な倦怠感が身体に残っている。
「身体、どこか……変なところはない?」
マクドールさんがおずおずと尋ねてくる。
「えっ あ、いえ! 僕はどこも異常はないです! たぶん!」
言いながら、内心でぐるぐると悪い考えが回り始める。
〝やってしまった〟可能性があるなら。どちらかが入れて、どちらかが、入れられているわけで。
つまり、僕か、マクドールさんか……どっちだ
慌てて尻に手をやる。違和感はなし。
これは、たぶん、大丈夫。たぶん、何もされてない。
だとすると……入れたのは…………
あまりに露骨な発想に、思わず顔を顰めてしまった。けれど、頭の中では勝手に想像が膨らんでいく。
マクドールさんのあられもない姿。朱に染まる肌。甘い声。乱れた髪。恥じらいの滲む目……いやだめだ。こんな時に何を考えてるんだ。本人が前にいるのに!
頭をぶんぶんと振って、妄想を必死に振り払う。
……でも、もしそうなら。
好きな人と一線を越えた、ということだ。普通に考えれば舞い上がっても良いはずなのに、記憶が、これっぽっちもない。それが何よりも悔しい。
どうせなら覚えていたかった……
「……あの、マクドールさんは……大丈夫ですか?」
「……うん、特に変なところはない、かな」
何度か腕や背中を曲げ伸ばししてから、マクドールさんが答えた。
ということは、何もなかった可能性もある。けれど、そんな簡単に安心できる話じゃない。
この状況、この場で疑いを完全に晴らすのは不可能に近い。
「リアン。何か覚えていることはある?」
「残念だけど全然です。ここに戻ってきた記憶もなくて……」
「なら……とりあえず、昨夜の記憶を照らし合わせて整理してみないか?」
「は、はいっ!」
「…………その前に…………」
マクドールさんが言葉を濁しながら視線を外した。
ほんのりと頬が赤い。今までマクドールさんのそんな姿なんて見たことない。駄目だと思っても鼓動がどんどん煩くなっていく。
「……服、着てもいいかな……?」
マクドールさんが、そう呟いた瞬間――僕の頭の中に、現実がようやく戻ってきた。
「あっ、す、すみません! そうですよね! 服! 服着ましょう! 今すぐ!」
思わずベッドから跳ね起きて、ソファに駆け寄る。そこに、昨夜の服が丁寧に畳んで置いてあった。僕のも、マクドールさんのも。
ちゃんと順番に並べられていて、どれがどれかすぐにわかる。妙に几帳面な置かれ方に、逆にいろんな想像をしてしまいそうになる。
服に鼻を近づけると、ふわっと、石鹸の香りがした。落ち着け僕、深呼吸だ。
ああ、マクドールさん、昨夜のこと……どこまで覚えてるんだろう。
気になって仕方がないのに、さっきから顔をまともに見られない。
手早く着替えてから落ち着かせるためにお茶を淹れてみたけど、全然喉を通らない。湯気だけが目の前に漂ってる。
マクドールさんは静かに湯飲みに口をつけていたけれど、その穏やかな表情の裏にある心の中は、やっぱり読めなかった。
「……飲みに行こうって誘ったのは、僕でしたね」
記憶を探る。たしかに、そうだ――遠征から戻った夜のことだ。
その時の僕は、きっと少しだけ浮かれてた。興奮も、達成感も、ほんの少しの――欲もあった。
「マクドールさん! あの……お酒でも飲みませんか?」
理由なんて、はっきりしてる。
少しでも長く一緒にいたかった。ただ、それだけ。……それだけだった、はず。
マクドールさんは、任務が終わるとすぐに隣国へ戻ってしまう。
〝紋章のことがあるから〟って、他人との距離を取ろうとするのも分かってた。分かってたけど、それでも傍にいたかった。
「お酒? ……リアン、飲めるんだ?」
「頻繁には飲まないですけど、飲めますよ。マクドールさんは?」
「僕も飲めるよ。酒豪かどうかは、そこまで深酒したことがないから分からないけれど」
「じゃあ飲みましょう! レオナが良いお酒が入ったって言ってて……。大人と飲むのはちょっと気を使うし、ナナミは飲めないし、一人で飲むのも寂しいし……だから、その……一緒にどうですか?」
今思えば、誘い文句がくどすぎたかもしれない。恥ずかしい。
でも、マクドールさんは笑って、優しく言ってくれた。
「……分かった。晩酌に付き合う。今晩、世話になるよ」
このときの笑顔。ちょっとズルいって思うくらい、可愛かった。
酒場は賑やかだったけど、レオナが気を利かせて奥の席を空けてくれていた。
「リーダー。早速来てくれるなんてね。嬉しいよ」
「なんと! 今日はマクドールさんも一緒!」
「ふうん……親睦会か、そりゃあいいね。とっておきのを出してあげるから席で待っておいで。でも、いきなり葡萄酒は駄目だね。まずはエールから、だ。おつまみもすぐに出すから座っているんだよ」
レオナの気遣いが嬉しくて、自然と笑ってしまった。
マクドールさんは小さく「お邪魔します」と言って、席についた。
最初はお互いに少し緊張してた。でも、料理が美味しくて、お腹もすいてて、だんだん会話が弾んでいった。
「このチーズ、美味しいですね。どこで作られたんだろう」
「お酒に合うから、カナカンだったりして」
「後でレオナに聞いてみます」
そんな、他愛もない話で――すごく、嬉しかった。
普段の〝英雄〟って雰囲気とは違って、マクドールさんが友達みたいに笑ってくれるのが、どうしようもなく嬉しくて、何より可愛かった。
ちょっとずつ、頬が赤くなって、目がやわらかくなっていく。そんな仕草の一つ一つが、たまらなかった。
――やっぱり、好きだな。
お酒のせいか、それとも本音が溢れただけか。頭の中でそんな言葉が勝手に浮かぶ。
話題が、僕の遠征の話から、マクドールさん自身の過去――戦争のことに移ったとき、少しだけ迷った。
聞いていいのか。傷を抉るだけじゃないかって。
でも、思い切って尋ねると、マクドールさんは少し考えてから頷いてくれた。
「リアンの参考になるなら、いいよ。話せること、あまりないけれど」
言葉少なに語られた、たくさんの喪失と、背負ってきたもの。
どれだけ重かったか、想像するだけで胸が痛くなった。
本当は、ただもっと近くにいたかっただけ。可愛い姿が見たいとか、そんな軽い気持ちだったのに。
マクドールさんは、大切な記憶を、僕に分けてくれた。
僕ばっかり、どんどん好きになってる気がしてくる。
その時だった。
「おーい、リアン!」
騒がしい店内に響く、聞き慣れた声。ビクトールだった。
「おお、珍しいな。ティアと飲んでんのか。ほら、レオナに持って行けって言われた特別仕込みの葡萄酒だ。しっかり味わって飲めよ」
どん、とテーブルに置かれた瓶とグラス。
あのときの僕たちは、すでにちょっと酔ってたと思う。ビクトールに礼を言って――そこで、記憶が、途切れてる。
……それが、最後の記憶だった。
現実に引き戻されて、僕は目の前の湯飲みに目を落とした。まだ、ぬるい。
「……ビクトールに話を聞きに行かないと、駄目ですね」
そう口にすると、マクドールさんもお茶をそっと置いて、少しだけ苦笑いをした。
「そうだね。ちょっとだけ、気が進まないけれど」
仲間たちに聞いて回って、辿り着いたのは──やっぱり、酒場だった。
昼間っからしっかり酔ってるビクトールが、堂々と席にふんぞり返ってワインをあおってる。
「おお、お二人さん。昨日はお楽しみだったようで」
葡萄酒の瓶をラッパ飲みしながら笑うその顔を見た瞬間、顔がかっと熱くなった。
マクドールさんの寝顔とか、さらけ出された肌とか、断片的に思い出しかけては、慌てて振り払う。……今は、それどころじゃない。
「……ビクトール」
どうにか平静を装って名前を呼んだつもりなのに、声はやけに低くなってしまっていた。
「なんだ、怖い顔して。昨日の続きか?」
「違う! あの……聞きたいことがあって」
喉が渇くのをごまかしながら言うと、ビクトールは気楽な調子で答えてくる。
「なんでも聞いてくれ。小難しい話じゃなけりゃな」
「酔っ払いにそんなことは尋ねないさ」
背後から落ち着いた声がして、振り返らなくてもわかった。マクドールさん。いつもの、感情の波を表に出さない口調だ。
でも僕には、その一言だけで充分。隣にいてくれる、それだけで、ぐらついた気持ちが少し整う。
「相変わらず辛辣だな」
肩を竦めるビクトールを見て、僕はひとつ咳払いをした。
「昨日さ、ビクトールが持ってきてくれた葡萄酒あったでしょ? しばらく僕たちと一緒に飲んでたけど、そのときどんな感じだったか、覚えてる?」
聞きながらも、変な汗が背中をつたう。
「ああ、覚えてる覚えてる。あの酒な、結構良いやつだったんだよ。香りも上等、味も濃い。けどな……お前らにはちょーっと強すぎたみたいだな」
ビクトールが瓶をテーブルに置きながら笑う。その調子のまま、悪気ゼロでどんどん言ってくる。
「見てて面白かったぜ。最初は普通に飲んでたけど、ティアすらだんだん頬が赤くなってきてたな。リアン、お前は途中から完全にぐだぐだしてたぞ」
「う……」
反論できない。全然覚えてないってのが、余計にタチが悪い。
「ティアもな、昔はもうちょいしっかりしてた気がするけどなぁ?」
「……戦争中は、気を張ってたから……」
「ま、そりゃそうか」
並んだふたりの会話を聞きながら、なんとなく、不思議な感じがしていた。昔から知ってる間柄なのに、どこか距離があるような、でも嫌な感じじゃなくて──大人の関係というか。ちょっと羨ましかった。
「……で、問題の話だけどな」
急に声のトーンが落ちて、ビクトールの顔がにやつく。
「お前ら……すっげー仲睦まじかったぞ」
「……えっ」
……なにそれ、まさか……まさか、そんなわけ──
「肩寄せ合って、手ぇ握って、撫でたり撫でられたり……あれを他人に見せていいのかって思ったぞ」
「ちょ、ちょっと、ビクトール!」
声が上ずって、自分でも何を言ってるのかわからない。顔が熱い。
「〝マクドールさんって本当に可愛いですよね~〟ってリアンが甘ったるい声で言えば〝リアンのほうが可愛いよ~〟ってティアも甘ったるい声で返すし」
「や、やめて……」
やめて、と本気で言った。頭が真っ白。恥ずかしすぎて死にそう。
「しまいにはリアンがティアの頭撫で始めて、ティアがリアンの手を握ってほっぺくっつけて喋ってたぞ?」
「もういい わかった わかったから」
マクドールさんと同時に叫んだ。声が揃ったのが、もう最悪だ。
顔が燃えそうなくらい熱くて、今すぐ穴があったら入りたい。
「でな、そのあとリアンがワインを倒しちまって、お前らの服にぶちまけた。で、レオナが飛んできて〝あんたが飲ませすぎたからでしょ!〟って何故か俺が怒鳴られてよ」
「えっ」
……記憶が、ない。けど、ありそうで怖い。
「ワインは汚れが落ちにくいとか言われてすぐに脱がせて洗濯に回して、お前らをリアンの部屋に運んだ。水と着替えを持って戻ったら、早速二人揃って寝てて驚いた。裸で、ぴったりくっついて、至近距離で向かい合って──」
「…………ッ」
な、なにそれ、なにそれ……
「──と、茶化すのもこれくらいにして。俺が見るに、何も起きてないし起きそうな雰囲気もなかった。二人とも、完全に寝落ちてたからな」
その言葉に、自然と息が漏れた。マクドールさんも、同じように安堵の吐息をついたのがわかる。
本当によかった……なにもなかった、んだよね。心臓が痛いくらい、ほっとしてる自分がいた。
「ああ、そうそう」
ビクトールが空になったワイン瓶を指で弾いた。その乾いた音が耳に残って、胸がざわつく。
「お前ら……互いに好きで好きでたまらないくせに、なんでまだ告ってねぇんだ?」
一呼吸置いたあとで、頭を殴られた。
「なっ、な、な、なに言って………………」
「そ、そ、そんな……わけ…………………」
咄嗟にマクドールさんを見てしまって、でもその視線が合ってしまって──
その瞬間、頭の中が真っ白になって、顔から火が出そうになって、思わずしゃがみ込んだ。
マクドールさんはふらついたと思ったら、そのまま床にぱたんと倒れ込む。
「おいおい、キスの一つでもして見せてくれよ!」
酒場の中に、ビクトールの笑い声が憎らしいほどに響き渡っていた。