おもらし夏尾「お兄さん、どう? 初回は飲み放題三千円だよ」
バイト終わりに繁華街を歩いていると、そうやって声を掛けられた。客引きに出会うのは日常茶飯事なのでいつものように聞こえなかったフリでやり過ごそうと思ったんだけど、今日は失敗した。騒がしいのにその人の声がはっきりと耳に届いたからだ。思わず男に目をやってしまった。
バチ、と大きな黒目と視線がぶつかる。その瞬間、俺の脳内で警報が鳴った。この人はダメだ。絶対に関わってはいけない。「あは〜」なんて笑いながらその場を立ち去った方がいい。ちょうど信号が青なんだから、真っ直ぐ駅に向かった方がいい。
分かっているのに、どうしてもできなかった。お兄さんから目が離せない。瞳に吸い込まれそうになるとはこのことなんだな、とどこか冷静な俺がいた。そんな場合じゃないのに。
黒シャツスーツに綺麗なツーブロ、こだわりの強そうな顎髭。客引きに付いていっちゃダメだと、ガンガン放送が流れているのに全く気にしないのは何なんだろうか。この街の客引きは気が強すぎる。それとも自分の店は絶対にぼったくらないという自信があるのかな?
「綺麗系からあざと可愛い系までいるけど、お兄さんの好みは?」
まだ行くも行かないも返してないんだから、勝手に話を進めないでほしい。でもここで話を進めないとお客さん逃すことになるんだもんな、そりゃ隙を見せたら怒涛の攻撃が始まるよな。足を止めた俺が悪い。目の前の横断歩道を渡らなかった俺が悪い。次の青信号では絶対駅に行くぞ。
「今日だったらぽっちゃり系もいる。でもあんまりそういうのはタイプじゃないだろ?」
「まあ、はい……」
答えちゃった!
いや信号が変わるまでだから……それまでなら、お兄さんの顔と声を堪能するのはありだよな、な、な。
「どっちかっていうと綺麗系? あと……胸より尻派だな?」
ウッ、何でバレた。俺は思わず目をつぶる。三秒置いてから一回だけ頷いた。ああ、また答えちゃった……。警告音が大きくなる。もうダメだ、この信号じゃなくてもいい、もう一本向こうの信号を渡ろう。だから今すぐ「えへ〜」と笑ってこの場を立ち去るんだ。
そこの君! 客引きについていったらトラブルが起きるぞ! と路上放送の声がする。そうだよ、トラブルになるって分かっているのについていくバカがどこにいるんだよ。お兄さんについていったってお兄さんに接客されることはない。そりゃそうだ、お兄さんはお姉さんが働いているお店の人なんだもん。
だというのに、俺はお兄さんから目が離せない。足がミリも動かない。世界は頭の中の警告音とお兄さんの声しかないみたいだ。
「来てくれるよな?」
ずい、と近づいた顔に、俺は首を縦に動かす。
「い、いいとも……」
搾り出した声にお兄さんが口を開けて笑った。
楽しくお酒を飲んだ。
本当に三千円でいいんですか? ってぐらい綺麗なお姉さんに相手をしてもらって、せっかくだし、もう来ないだろうし、と思って楽しく飲んだ。楽しく、元を取ろうと、いつも以上のペースで、お酒を飲んだ。
飲んだんだよ、飲んだ。飲んだ記憶はある。一部ないけど。
「起きたか?」
ソファから落ちている俺を、客引きのお兄さんがモップでつつく。痛い。しかも濡れてんじゃん、それ。やだぁ、パンツの中まで染みてる。びちょびちょかよ。
モップの柄の先に手を置いて、その上に顎を乗せたお兄さんはすごくいい笑顔だ。ちょっと視界がぼやけてるから分からないけど、多分笑顔。雰囲気が笑ってる。あー、飲みすぎた。
立ち上がろうとソファに手をついたけど力がうまく入らない。ダメだ、マジで飲みすぎた。お兄さんを見上げてみたけど、手を貸してくれそうな気配はない。俺は足を動かすけど本当に力が入らない。それにやっぱりパンツまでびちょびちょに濡れてるのが気持ち悪い。絞ってないモップで人のことつつかないでくださいって文句が言いたいけど、それよりも先に立ち上がりたい。
「会計できるか?」
「うぅ……はい……」
じゃあ立つのを手伝ってくれよ! じたばたしている俺を見下ろしたまま、お兄さんは動かない。何なの? お兄さんも酔っ払っててそのモップから手を離したら倒れちゃうの?
なんて思っていたけど、どうにかこうにかソファに座り直した俺を見届けたらお兄さんはふらっといなくなった。伝票持ってくるのかな。三千円って言ってたよな、大丈夫だよな。
「本日のお支払い」
「はあ……」
そうして俺は領収書を見て絶叫する。
知らない知らない、聞いてない聞いてない、待って待って。
酔っ払いの頭が一気に覚醒した。できれば酔っ払ったまんま「この〇はドーナッツですか?」なんて呑気な質問をしていたかった。ああ〜、怖い、どうして、絶対嘘だ。そんなわけがない。一回領収書から目を離してみたけど、〇の数は変わらない。どう数えても百万円だ。
「ええと、その、これ」
「まず初回飲み放題で三千円。これは一時間分の金額で、そこから延長料金、飲み放題外のボトルと食べ物も追加していたな。それとお前が今座ってるソファのクリーニング代。諸々合わせて百万円。うちはカードもキャッシュレス決済もないから現金払いのみだ」
「待ってください待ってください、え、ソファ? クリーニング?」
俺はお兄さんの言葉を止めるように腕をばたばたと振る。「ん?」と片眉を上げたお兄さんが俺の股間を指差した。え? なんかやだな、怖いな、知りたいけど聞きたくないな。
「お漏らし」
「…………?」
「寝ションベン太郎」
「……」
「気持ち良さそうにしてたぞ」
「うううう嘘ですよ!」
今までだって飲みすぎたことはあるけどお漏らしなんてしたことがない。ゲロ吐くとか、道端で寝るとかはあったけど! お漏らしは! さすがに!
「嘘だと思うなら自分のパンツ嗅いでみろよ」
「ええ……?」
俺は恐る恐る自分のズボンに手を当てる。びちょびちょなのってお兄さんのモップのせいだと思ってたけど、いやまさか、そんな、嘘だと思うんだけど、……………………思いたかったな〜。
現実を受け入れたくなくて俺は目をつぶった。はあ〜、意味が分からない。どうしてこうなったんだろう。飲みすぎた俺が悪いのか。百万ってそんな、嘘だろ。
「現金払い」
お兄さんの声が近くなって目を開ける。ずい、と近寄った顔に、俺は喉を鳴らした。
「で、できません……」
「それはつまり無銭飲食ってことか?」
「ち、ちが」
ガッと前髪を乱暴に掴まれる。うひ〜〜〜〜〜、鼻が! ぶつかる!
「じゃあ現金ニコニコ払いだな?」
「な、ないんですぅ……」
大学生アルバイターが百万用意できると本気で思ってるんだろうか。俺は涙目になりながら首を細かく左右に振った。掴まれてる前髪が痛い。
「ちゃんと、払うんでぇ……」
「どうすんだよ、現金ないんだろ?」
「うえぇ、さ、皿洗いとか……」
「ああ? お前爺さんになるまで働く気か?」
「でもでもだって」
どうしたらいいのか分からない。目の前のお兄さんの眼光は鋭く、もうずっと心臓と言わず全身を刺されている気持ちだ。お兄さんの顔が好みだったからって客引きについていくんじゃなかった。あれだけ路上で放送されてるのに。本当にトラブルになった。怖い、どうしよう。どうしたらいいんだろう。
お兄さんから目が離せないでいると、チンコに濡れたパンツが押し付けられた。うえ、やだ、気持ち悪い。この場合の気持ち悪いはあくまでも濡れたパンツっていうかズボンっていうか結局チンコに当たるのはパンツだからパンツでぐりぐりされるのが気持ち悪いって話なだけでお兄さんに触られるのは全く全然一ミリも気持ち悪くないっていうかむしろ嬉しいまであるっていうかそもそもなんで触ってるんですか、ああ、ダメ待って。
「体で払うか?」
「か」
「無銭飲食で警察の世話になるか、今から体で払うかの二択だな」
「体で払わせていただきますッ!」
ちょっと食い気味に返事をした俺を笑うのは、目の前のお兄さんしかいない。
ほー? なんて笑いながら勃ち始めた俺のチンコの先をくるくると撫でる。
うう、俺はどうなっちゃうんだ。体で払うって勢いで答えたけど、もしかしてこれはこのままエッチなことになるんだろうか。それはそれで嬉しいんだけど大丈夫かな、気がついたら内臓を売られてたりしないかな。
俺の目に滲む涙の意味が変わっている。さっきまでは恐怖一色だったのに、今は期待が少しだけ混じってる。もちろん恐怖が勝ってるんだけどさ。
「寝ションベン太郎の名前は?」
「か、夏太郎です」
「はは、夏太郎、寝ションベン太郎、あんま変わんねぇな」
名付けてくれた親に謝ってほしい! 全然違うだろ!
と拳を握る自分がいるのはいるんだけどそれよりも笑ったお兄さんの顔の可愛さとか、エロさとか、何よりもやさしーくチンコを撫でる手の動きの方が気になって気になって気になって、俺はやっぱり首を横に振るしかできなかった。