楽園にはほど遠い わざと隠していたつもりでは、なかった。
だから、主人と墓参りに出かけていたハウレスから報告を聞いたとき、ショックを受けている自分に気づいて、ベリアンは驚いたのだ。
「ベリアンさん。先ほど主様に、俺たち悪魔執事が不老であることをお伝えしました。トリシアの墓石がかなり古いことを疑問に思われたのでしょう。いつごろ作られたものなのかと聞かれて、その流れで……」
「そう、ですか……わかりました」
主様は、なんと?
そう聞きたくて、けれどベリアンはハウレスに問うことができなかった。若い執事たちのまとめ役を務めるこの青年は、腹芸の類があまり得意ではない。その彼の様子からして、不老の事実を知った主人が悪魔執事を恐れるような事態には、なっていないだろうと思うけれど。
天使との戦いは、この先何年続くかもわからない。不老の事実は、一年や二年ならともかく長い年月をともに過ごせば、いずれ知られていたはずだ。だからベリアンとて、折を見て話すつもりでいた。
一度に全てを伝えずにいるのは、異なる世界からやってきた主人が、驚きでパンクしてしまわないようにという配慮からだ。もちろん、やっと見つけた大切な主人を失いたくないという打算がなかったわけではない。仲間の命を守るために、主人の存在は絶対に必要だ。
けれど、それが主人に隠し事をする不誠実への言い訳にならないこともまた、ベリアンは理解していた。話しに行かなければならない。どこまでも沈んでいきそうな心のまま、ベリアンは重い腰を上げた。
悪魔執事の秘密の一つを、ハウレスが伝えた。それで終わりにすることもできる。実際、主人にしてみれば、誰から聞くかなど瑣末な問題に過ぎないだろう。でもベリアンにとっては、そうではない。主人に知らせないことを選んだのはベリアンだ。だからこのまま、不誠実なまま終わらせたくはなかった。
二階にある主人の部屋を訪ねたベリアンは、いつもと変わらぬ穏やかな声で入室を促された。
「失礼します」
主人が変わらぬ態度で接してくれるなら、執事たる自分もそれに倣わなければならない。思いとは裏腹に、ベリアンの表情も声も、とてもいつもどおりとはいえないぎこちなさだ。当然、主人はベリアンの異変を察して、困ったように眉尻を下げる。
「どうしたの、ベリアン? なにか困ったことでもあった?」
驚くほどに、主人はいつもどおりだった。悪魔執事が普通の人間とは異なると知ってなお、変わらずに優しさと親しみを向けてくれる。
私は……本当に浅ましく、愚かだ。自嘲して、ベリアンは懺悔するように言った。
「主様、申し訳ありませんでした……」
隠していたつもりはなかった。けれど明確な意図をもって伝える真実を選別しているうち――伝えることが、徐々に怖くなっていった。
主人となった彼女の傍が、あまりにも心地よかったから。道具ではなく人として扱われることも、自分の仕事へ感謝を向けられることも。嬉しかった。幸せだった。絶望を糧に、途方もない時間を天使を狩るため生き続けてきたベリアンに、生きる喜びをもたらしてくれた。そんな主人のことが大切で、愛おしかった。
だからこそ。悪魔執事が徒人ではないことを知った主人から、恐怖や侮蔑の目を向けるのではないかと考えて、ベリアンは怖くて堪らなくなったのだ。
必ず守るから信じてほしい、と。主人へ繰り返し言って聞かせていたベリアン自身が、主人を信じきれずにいた。こんな滑稽な喜劇は他にないだろう。
ベリアンの告解に、主人は真剣に耳を傾けてくれた。
「いいよ。謝らなくていい」
やがて主人が返したのは赦しの言葉だった。どんな言葉も甘んじて受けるつもりでいたベリアンは、信じられない気持ちで主人を見つめる。彼女は目を伏せて、言葉を探しているようだった。
「……実を言うとね。不老のことは、薄々気づいてはいたんだよね」
「そう、なのですか?」
「うん。ベリアンとルカス、あとミヤジも。ときどき言うことがおじいちゃんみたいなんだもの。あとは、テディさんが言ってた伝説の憲兵の話とか……ふふ、ハウレスって嘘がつけないよねえ」
そう言って、可笑しそうにくつくつと声を立てた主人は、不意に目を細めた。笑顔のつもりでそうしたのか、あるいは悲しみを隠そうとしたのか、ベリアンにはわからなかった。
「ベリアンの気持ち……わかる、とまで言っちゃうと言い過ぎになるけど、想像することはできるよ。たぶん、怖かったんでしょう? 普通の人間じゃないって知ったら、私が皆を拒絶するんじゃないか、って。だから……謝らなきゃいけないのは、私のほう」
そう言うと、主人は椅子から立ち上がった。扉の前に立ち尽くしていたベリアンの傍へやってきて、小さな両手で包むように、彼の頬へと触れた。
「信じさせてあげられなくて、ごめんね」
囁くように告げられた声は、涙で震えていた。瞬きと同時に瞳から雫が落ち、蝋燭の明かりを弾いてきらめいた。
あまりのことに、ベリアンは押し黙ることしかできなかった。嗚呼という嘆息さえ出なかった。
世界でいっとう大切な人に、たった一人自分たちの味方でいてくれるこの人に、なんて酷いことを言わせてしまったのか。そう思うだけで、胸が張り裂けそうだ。
「私……私、頑張るよ。もっと皆に、信じてもらえるように。デビルズパレスの主として、相応しい人になれるように。だから……だからさ」
まだもう少し……ここにいても、いいかなあ。
主人はぽろぽろと涙を零しながら希う。ベリアンは胸がいっぱいで、返す言葉を上手く紡げなかった。代わりに、頬に添えられたままの手に己の手を重ね、縋るように握りしめる。
もう少しなどと、悲しいことを言わないでほしい。デビルズパレスの主人は彼女だ。ベリアンが主人でいてほしいと願うのは彼女だけ。この方以上に仕えたいと思える人間など、存在しないに違いないとさえ思っているのに。
声に出せなかったのは、理解していたからかもしれない。末永く、主様のお傍に、と。願うことを許されてしまったら、ベリアンはきっと、大切な人から故郷を奪ってこの世界に縛りつけてしまう。
自分は、なによりも大切なこの人に、酷いことしかできないと、ベリアンは思う。関係なかったはずの世界の運命に巻き込み、死と隣合わせの戦場に立たせ、貴族たちの横暴や人々の悪意に晒している。まさに、悪魔のごとき所業だ。
主人は執事たちのことを優しいと言ってくれるけれど、本当に優しいのは彼女のほうなのだ。主人が受け入れ、許してくれたものの大きさに比べてしまうと、ベリアンたちが執事として仕え、尽くすことで返せるものなど、微々たるものでしかない。
それでも、ベリアンはもう、主人のいない生活を考えられなかった。今となっては、彼女と出会う以前のデビルズパレスを、思い起こすことさえ難しい。
声にできない願いを注ぎ込むように、ベリアンはそのまましばらく主人の手を握りしめていた。