とっておきの魔法をかけてよ ベリアン・クライアンの一日は、主人の起床時間に彼女の寝室を訪うことから始まる。
「主様、おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
「起きてるよ。どうぞ、入って」
「失礼いたします」
ドア越しのやりとりを経て入室する。このときには大抵、主人は身支度を終えているので、ベリアンが主人のためにできるのはアーリーモーニングティーを淹れることくらいだ。
こことは異なる世界でも生活を営む主人は、身の回りのことはほとんど自分でこなしてしまう。よっぽど疲れているときくらいしか寝過ごすこともないので、朝の手伝いはそれほど必要ではないのだろうなと、実のところベリアンは思っている。
優しい主人は、ただ執事たちの仕事を奪わないでくれているだけなのだ。それでも、主人が毎朝ベリアンの用意する紅茶を美味しそうに飲んで、笑顔で礼を言ってくれるのが幸せで。だからベリアンは主人が拒否しないかぎり、毎朝主人の部屋を訪ね、朝の紅茶を淹れるのをやめるつもりはない。
「今朝は少し暑いので、ペパーミントとレモングラスのハーブティーにいたしました。清涼感のある香りをお楽しみください」
「いつもありがとう、いただきます」
猫舌ぎみの主人が熱いお茶をのんびりと飲んでいる間、ベリアンは不躾にならないように気をつけながら、主人の様子をつぶさに観察する。疲れた顔をしていないか。体調を崩しているような様子はないか。肌や髪の調子はどうか。目の下に隈はできていないか。
土曜日の今日は、一週間の労働による疲労のあとが濃い。カフェインの含まれないお茶を選んで正解だったと独り言ちながら、ベリアンは主人の疲労を回復させるための方法をあれこれ思案し始めた。
「ベリアン」
「……っ、はい」
考え事をしていたせいで、主人の呼びかけに反応するのが一拍遅れた。反省と同時に応答すると、主人は下ろしたままの黒髪を揺らして首を傾げた。
「大丈夫? もしかして疲れてる? 体調が悪いなら無理はしちゃだめだよ」
心配そうな顔の主人がかけてくれる言葉に、ベリアンの胸はろうそくの明かりを灯したように熱を帯びた。本当に優しい人だ。ベリアンにとって、彼女が仕えるべき主人でいてくれることは、他にはなにもいらないと思えるほどの僥倖だった。
「いえ、問題ありませんよ。申し訳ありません、少し考え事をしておりました」
「そう? だったら、いいんだけど……ベリアンは頑張りすぎちゃうから、心配だな。昨夜はちゃんと寝た?」
「ええ。主様が心配してくださるので、これでも以前よりは体調管理に気を配るようになったのですよ」
「……そっか」
相槌までの短い沈黙は、ベリアンの答えに納得がいっていないことを告げるようだ。主人はティーカップを静かにソーサーへと戻した。
「ねえ、ベリアン。手を貸してくれる?」
「え? ええ、どうぞ」
主人が伸ばした手に、ベリアンは手袋をはめたままの手を預ける。彼女はベリアンの手を両手で包むように握った。カップを持っていたほうの手から、じわりと熱が伝わってくる。主人はベリアンの手を引くと、そこに額を寄せた。
「いつか……いつかベリアンが、自分のために自分を大切にできる日がやってきますように」
「主様…………」
ベリアンはそれきり言葉を詰まらせた。握られていた手はパッと離され、顔を上げた主人は照れたようにはにかんでみせる。
「おまじない。ちょっと子どもっぽかったかな?」
「いいえ……いいえ。ありがとうございます、主様。とても嬉しかったです」
「それならよかった。あなたが私を大切に思ってくれているように、私もあなたを大切に思っているんだってこと、忘れないでくれたら嬉しい」
「はい……お言葉、胸に刻みました」
胸に手を当て、ベリアンは恭しく頭を垂れた。伏せた顔が熱い。主人の前であるので、鏡で確かめることはできないが、耳まで朱に染まっているに違いなかった。
主人はベリアンを喜ばせるのがあまりにも上手すぎて、だから彼はときどき困ってしまう。その困惑さえ甘やかな幸福をもたらすのだから、もはや手の施しようがない。
ベリアンは、主人に握られたほうの手を緩く握りしめた。おまじないの効果だろうか。触れあったときに伝わった温もりが、まだそこに残っているような気がする。
執事として、幸福を与えられるばかりではいられない。ベリアンは決意も新たに、気を引きしめ直した。主人の休日はまだ始まったばかりだ。溜まった疲れを癒してもらうために、できることはきっとたくさんある。
世界でいっとう大切な主人のために、できることを。彼女が喜んでくれたなら、それがそのままベリアンの喜びだ。
彼女と出会ってからというもの、ベリアンの幸福は、彼の仕える主人のかたちをしている。