世界でひとつだけの終末論 暁人にとって、死は終わりではなかった。
だって、暁人は身をもって知っているのだ。無残に殺されてなお諦めず、世界を救った名無しの男を。死してなお暁人を信じ、待ち続けてくれていた心優しい妹を。そんな妹を黄泉平坂まで迎えに来ていた両親を。
暁人は彼らに恥じない己でありたかった。いつか、いつか彼らと再会したときに、胸を張って笑えるように。たくさんの思い出話をお土産に、彼らと何日でも語り明かせるように。
お盆がくるたび飾った胡瓜と茄子の乗り物は、使われた様子もなく萎れていった。あの日が訪れるたび墓参りがわりに昇った東京タワーは、いつしか老朽化を理由に閉鎖された。どれだけ技術が進歩しようとも、犬は人の言葉を話さないし、猫の尻尾は一本だけ。いつの時代でも高校生には首があるし、薄青い半透明の人間はどこにもいない。
暁人はできるだけ長生きしたかった。だって、妹と約束したのだ。今度会うときは最後まで生き抜いたあとだと。
暁人はできるだけ多く思い出を作りたかった。だって、両親と約束したのだ。今を大切にして生きると。
生きて、生きて、生きてさえいれば、いつかきっと証明することができる。あの夜は夢ではなかったのだと。あの約束は確かに交わされたのだと。
そう、死んでしまった彼らに会えないのは、暁人が生きているからだ。暁人が生者で、あの夜に得た力を失ってしまったから。
寂しいけれど仕方がない。その寂しさは今を生きている証だ。
悲しいけれど仕方がない。この悲しさは約束を守れている証だ。
暁人は生きている。生きているから会えない。生きているから約束を守れている。大丈夫。だって暁人は生きている。生きているのだから。
あの夜が明けてから、何十、何千、何万、何十万回目の陽が昇る。眠れぬ夜をどうにかやり過ごした暁人は、白んでゆく東の空と可愛らしい鳥の鳴き声に、ほっと肩の力を抜いて目をつむる。意識がゆっくりと朝陽に溶けてゆく。
暁人にとって、死は終わりではなかった。