秋日和に、ともに食事を マンションのエントランスから一歩外へ出たとたん、柔らかな秋風が暁人の全身を取り巻いた。
風は首筋ににじんだ汗を優しく拭い、半袖からのぞく二の腕を撫でさすると、かすかな音を立てて駐輪場を横切ってゆく。玄関ポーチに植えられているシマトネリコが、わさりと重たげに枝葉を揺らした。
十月初旬の昼下がり。気温こそしつこく夏日のままだが、肌に触れる空気はとても軽い。絶え間なくそよぐ風のおかげで、むしろ室内より外のほうが心地よく感じられるほどだ。
しゃらしゃらと楽しげな葉擦れの音に鼓膜をくすぐられ、暁人は思わずその場で立ち止まった。
建物の合間から射しこんでくる陽光が、歩道に淡い葉陰を作りだしている。どこか白っぽくも見える陽射しを追って、暁人は何気なく空を見上げた。
ひゅっと息を呑む。
「う……わぁ!」
いちめんに広がる雲、雲、雲、雲。雲の群れ。
まるでニワトリの卵を横倒しにしたような、とても綺麗な楕円形の高積雲が、マンションの真上、四角い空をびっしりと埋め尽くしていた。雲の表面にはもやもやとした凹凸があり、千切って丸めた綿のかたまりを、青い色画用紙に貼りつけたようにも見える。おびただしい数の真白い雲が整然と列をなして居並ぶさまには、見る者の言葉を奪うほどの凄みがあった。
「こりゃまた……、すげえひつじ雲だな」
ぽかんと口を開けて立ち尽くす暁人の耳に、吐息交じりの低いつぶやきが飛びこんできた。遅れてエントランスから出てきたKKの声だ。いつの間に追いついてきたのか、彼は暁人の真横に立ち、同じく呆然とした様子で空を眺めている。
耳に馴染んだ恋人の声に、暁人ははっと我に返った。この一瞬だけの光景を少しでも長く手元に留めておこうと、慌ててズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
「ごめん、ちょっと写真撮らせて」
それだけ言うと、カメラアプリを起動して空にかざした。
立ち位置を変え、角度を変え、向きを変え。しばらく夢中になって撮影していた暁人は、ふと、KKが妙に静かなことに気づいた。いつもであれば、「またかよ」と呆れ混じりの笑い声が返ってくるのに、今回に限ってはそれもない。
スマートフォンを頭上にかかげたまま、暁人は首だけを巡らせて彼の姿を探した。
「KK?」
「おう」
返事は右後ろから聞こえた。
「もういいのか?」
「あ、ううん。もうちょっとだけ」
答えながら振り返ると、彼はまだシマトネリコの横に立っていた。わざわざボディバッグから取り出したらしい未開封の煙草の箱を片手に持ち、手持ち無沙汰そうに弄んでいる。「早くしろよ」と平坦な声で急かす彼のつむじを眺めながら、暁人は意外な気分で目を瞬かせた。
「KKって、ああいうの苦手なの?」
他意なく訊いてしまってから、ラブハチのグラフィティで彼の動物嫌いをからかったことを思いだし、慌ててつけ加える。
「集合体恐怖症とか?」
「いいや」
怒りだすこともなく簡潔に否定したKKは、ちらりとだけ暁人に視線を向けると、軽く顎をしゃくって頭上を示した。
「だが、いくら何でもアレは密集しすぎだろ。さすがに気持ち悪い」
そう吐き捨てた彼の眉は軽くひそめられ、口元はむっつりへの字に曲がっている。どうやら、これ以上ないほど見事な秋に出会えた感慨よりも、生理的な嫌悪感のほうが勝っているらしい。
暁人はかすかに苦笑した。
「ああ、まあ、確かに」
周囲は明るく気温も高いのに、見上げた先には無数の白い雲。みっしり詰まったひつじたちといい、その一匹一匹の隙間からのぞく網目状の青空といい、確かにあまり気持ちの良い光景とは言えない。言えないのだが、しかし。
「ああいう空を見てると、魚料理が食べたくなってくるんだよね」
「はあ?」
言い終わるか終わらないかのうちに、KKが勢いよく顔をあげて暁人を見た。
「オマエ、あんなもんで食欲がわくのか?」
呪いの藁人形でも見るかのような苦々しい表情で見つめられ、暁人はむっと唇を尖らせた。何もそこまで引かなくてもいいのにと胸のうちだけで文句を言いながら、スマートフォンを持つ手とは逆の手で、真上のひつじ雲を指差す。
「あの雲の塊に、魚を捌くときの光景を思いだしちゃうんだよ。包丁でうろこを取ってると、もろもろした塊ができるから」
「あれはうろこ雲じゃなくてひつじ雲だぞ」
「大きさは関係ないよ。ニワトリもウズラも鳥の卵だし、イクラもとびこも全部魚卵だろ」
もちろん気象学的には色々と違うのだろうが、素人である暁人にとって、うろこ雲とひつじ雲の違いといえば大きさの差でしかない。暁人がああいった雲から魚料理を連想するのは、KKが粒の細かな魚卵を見て食欲をそそられるのと同じくらい、とても自然なことなのだ。
「へえ」
片眉をあげたKKが、短く相槌を打った。思うところがあったようで、声からは棘が消え、目の奥には面白がるような光が浮かんでいる。
「確かに、イクラやとびこにゃ、気持ち悪さより食欲が勝つな」
「でしょ」
すっかり待たせてしまっている恋人の機嫌が上向いたらしいことに安心して、暁人はふたたび上空へと視線を戻した。撮影ボタンをタップする合間にも、ゆっくりと言葉を続ける。
「うろこを剥がして、頭を落として、内臓を取って……。魚の下処理って面倒くさいし、生臭さが指に染みついてなかなか取れないのがアレだけど。でも、実はけっこう面白いんだよ。きれいに三枚におろせたときなんか、達成感がすごいしさ」
そのやり遂げた感こそが空腹の次に良いスパイスになるのだと、暁人は魚のうろこだらけ、もとい、ひつじだらけの空を写真におさめながら語った。
「それにしても、お暁人くんよ」
満足するまでひとしきり撮影し、役目を終えたスマートフォンを尻ポケットに戻しかけた暁人の耳に、背後からひどく楽しげな含み笑いが飛びこんできた。
「ただの雲の塊で食欲が刺激されるなんざ、オマエはいつでもどこでも食欲の秋だな。まったく情緒ってもんがねえ」
小馬鹿にしたような物言いとは裏腹に、くつくつと喉を鳴らす低い声音には、どこか甘やかな響きがにじんでいる。きっと、その眉は下がり気味で、目尻には笑いじわが浮いているのだろう。
恋人として相棒として、それが分からない暁人ではなかったが、だからと言って、黙って聞き流すことはできなかった。
「そっか。じゃあ〝情緒〟が分かるKKには、今さら秋の味覚はいらないね」
「ああ?」
暁人はスマートフォンを素早く操作した。馴染みのスーパーが発行しているデジタルチラシを表示させると、勢いよく振り返り、ずいっと彼の鼻先へ突きつける。
「これ、今日の夕方四時からの目玉商品。今年の新物」
画面いっぱいに表示されているのは、流線型の細長いフォルム。鋭く尖った口先に黒々とした丸い目玉。すっと伸びた鈍色の背中と、大きく膨らんだ銀色の腹、うっすら浮いた網目模様。それから、ピンと広がる半透明の尻尾。
一本丸ごとのサンマが、そこにあった。
「脂を活かしたシンプルな塩焼きか、さくっとした食感の竜田揚げか。いっそ、生姜をしっかり利かせた煮付けにするのもいいかなあと思ってたんだけど」
今度こそスマートフォンをポケットに仕舞った暁人は、わざとらしくため息を吐いた。
「KKがいらないって言うなら仕方ない。まあ安心してよ。あんたのぶんも僕がちゃんと食べてあげるからさ」
言い終えるより先に、恨みがましい視線が返ってきた。
「旬の食い物を独り占めしようってか? 無粋にもほどがあるぞ」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。食欲の秋だけ軽く扱うのは許さないから」
つかのま、暁人とKKは無言で睨みあった。
火花散る二人の視線をくぐり抜けるようにして、涼やかな秋風が空へと舞いあがってゆく。街路樹から舞い落ちた葉が暁人の足下で乾いた音を立て、少し気の早いアオマツムシが夕焼けを待てずにどこかでリーリー鳴いていた。
しばらくして、二人は弾かれたように笑いだした。
「それで? KKはどんなサンマ料理が食べたいの?」
くすぶる余韻に声をふるわせながら、暁人は上目遣いにKKを見た。返事を待たずにきびすを返せば、彼はすぐに追いついてくる。
二人は肩を並べて歩き出した。
「そうだな、かぼすをかけた塩焼きを日本酒で食いてえ。ああいや待て。炊きたての新米に生姜焼きをのせて食うのもありだな。だが、こないだのイワシみてえにツミレ汁ってのも……」
KKは無数のひつじ雲が浮かぶ空を見上げながら、真剣な顔で思い悩んでいる。先ほど自分が言い放った言葉など、きれいさっぱり忘れ去ってしまったかのようだ。
暁人は堪えきれずにまた吹きだした。すぐ右隣にある二の腕を、何度も肘で小突く。
「ほらあ! やっぱりあんただって食欲の秋じゃん」
とたんにKKはバツの悪そうな顔になった。ほんの一瞬、歩みまでもが遅くなる。が、すぐに表情を取り繕うと、咳払いして暁人の腕を払いのけた。
「うるせえ。毎回毎回、美味い飯を作るオマエが悪い。オレが馬みてえに肥えちまったらどうしてくれる?」
「何それ。それで褒めてるつもり?」
「呆れてるんだよ。オマエの食にかける情熱に」
ひねくれて子どもじみた責任転嫁の悪態とは裏腹に、その表情はどこまでも鹿爪らしい。
あの夜の褒め上手はどこへ行ったのかと、呆れた暁人が口を開くより先に、KKがじろりと睨みつけてきた。
「だいたいな、オマエはいつもオレにばかり訊いてくるが、そっちこそ何が食いてえんだよ?」
「え、僕?」
暁人は目を瞬かせた。
「最初からチラシに目をつけて、あんな気持ち悪い雲からも魚料理を連想するくらいだ。塩焼きか竜田揚げかは知らねえが、あるんだろ、食いたいやつが。なら、そいつを作りゃいい。オマエが作った飯を食えるなら、オレはなんの文句もねえよ」
物言いこそぶっきらぼうだが、その声からは拗ねたような響きが消え、かわりに、噛んで含めるような真摯な色がのっている。
まっすぐに向けられる彼の黒い眼差しを見返すうちに、暁人の胸に、じわりとした温かさが湧きあがってきた。唇がむずむずとふやけ、頬がゆっくりと持ちあがってゆく。
衝動に逆らうことなく、暁人は満面の笑みを浮かべた。
「僕は別に。なんでもいいんだ」
「なんでもいいって、オマエなあ……」
「だって、塩焼きも竜田揚げも生姜煮も、ツミレも蒲焼きも炊き込みご飯も、そのうち全部食べる予定だから」
KKはしばらくあっけにとられた顔をしていたが、やがて声をあげて笑いだした。
「こりゃしばらくは三食サンマ三昧だな。全身の血がサンマの脂と入れ替わるんじゃねえか?」
「何言ってるんだよ。秋の味覚はサンマだけじゃないだろ」
今度は、暁人が真面目くさった顔で反論した。歩く速度は変えないまま、互いの二の腕が触れあうくらいに身を寄せる。立てた五指を親指から順に折り曲げながら、ひとつひとつ数えあげていった。
「サバとか、シシャモとか、秋鮭とか。野菜なら白菜にサツマイモ、かぼちゃに秋ナス。まいたけ、しめじ、しいたけもこの時期だし、フルーツなら梨と栗とブドウ、みかんもそうだよね?」
ちらりと目顔で同意を求めると、傍らのKKはすぐにあとを引き取った。歌うように付け加える。
「牡蠣にレンコン、チンゲン菜。マツタケに柚子ってか? 食いきる前に秋が終わっちまうぞ」
そんなこと、と暁人は目を細めた。
「来年の楽しみが増えるだけだよ」
「……そりゃあいいな」
KKが吐息混じりに低くつぶやいた。噛みしめるような声だった。
暁人の心臓が、音を立ててふるえた。季節外れの夏日すら霞むほどの熱が、あっという間に全身をめぐる。秋風ですら冷ませない熱だった。
「んじゃ、まずは王道の塩焼きから頼むぜ。せっかくだから尾頭付きのまま、皮はパリッと。焦げ目もしっかりつけてくれよ」
がらりと声音を変え、楽しげな顔で遠慮なく注文をつけてくるKKに、暁人もまた悪戯っぽく笑い返した。胸を張って大きくうなずく。
「そのかわり、大根おろしは任せたからね」
「おう」
「指まですりおろさないでよ」
「んな不器用じゃねえよ。オレの印結びを知ってんだろ」
「ああ、うん。そうだね。お師匠の印結び〝は〟すごいなあっていつも尊敬してるよ。印〝は〟ね」
「棒読みで含みのある言い方をするんじゃねえよ!」
情緒も何もあったものではない。アオマツムシの鳴き声も街路樹の葉擦れの音も、すべてをかき消すほどのじゃれあいを繰り広げながら、暁人とKKの二人は住宅街をゆっくりと歩いた。
止まらないおしゃべりと軽やかな笑い声が、柔らかな秋風にのって、ひつじと綿とうろこだらけの真白い空へと吸い込まれてゆく。
マンションのシマトネリコから街路樹へ、街路樹から落ち葉へ、そして、落ち葉からまた街路樹へ。次々と乗り移りながら秘かにのぞき見していた木霊たちが、わずかに紅葉した体をしゃらしゃらとふるわせながら、寄り添って歩く二人の後ろ姿を見送っていた。