Call My Name この世の中には、散歩の途中でふらりと迷い込むにはふさわしくない場所というのがいくつかある。例えば遺品の収蔵庫など。
ロドス号の内部はとにかく広い。大きさだけならばもちろん大国の移動都市などとは比較にもならないが、問題は内部構造が複雑に入り組んでいて、艦内管理を担当する部署のスタッフですらその全貌のすべてを把握できていないというところにある。子どもたちが艦内図未記載の通路に入り込んで捜索班が組まれることも昔よりは減ったとはいえ年に数件は発生するし、利便性のための増改築も頻繁にくり返されているため最新版のマップを手にしていたとしても途方に暮れる住人の姿は後を絶たない。そして本日のドクターもまた端末のマップを片手に右往左往しているうちに、気がつけば総合感染生物処理室の一番奥、引き取り手のいない大量の遺品を収めた棚の真ん中に立っていたのだった。
頭上の埃をかぶった区画表示を見てようやく自身が立っている場所を理解したドクターは、さすがに無言で眉間を押さえた。よりにもよってこんな場所に彷徨い出ることもないだろう。だが目の前の現実は何をどう嘆いたところで変えることは不可能であるため、静かな空調音の中にいっそう響く自身の足音とともに一番近くの出口へと足を向けるしかないのだった。
天上高くまで設置されたラックの中には、大小さまざまな物品が並んでいる。どれもが持ち主を失った物ばかりだ。ドクターが迷い込んだ倉庫奥が一番古く、出入り口付近が一番新しい。思い出すよすがとしたいのに、目には入れたくない。古いロドスロゴの印刷されたジャケットには手書きのネームプレートが縫い付けられていた。彼女のフルネームすら思い出すことも出来ない自分に、ドクターの足取りはいっそう重いものとなる。
そうしてようやく出入り口の非常灯が見え始めたときに、ドンと足元から突き上げるような振動があった。数秒して流れ出した緊急放送によると、現在システムの故障で一部の区画の自動扉が機能しにくい状態になってしまったらしい。クロージャが先日新しいセキュリティ対策を試したいのだと意気込んでいたが、どうも上手くいかなかったようだ。対象が狭い区画に限定されているのは不幸中の幸いであるが、読み上げられるエリアには現在ドクターのいる倉庫区画も含まれていたため、仕方なく扉の前で足を止める。一応試しにかざしてみたセキュリティカードは当然のように反応せず、防火壁も兼ねている重い扉をドクターの赤子にも劣る腕力でこじ開けるなど夢のまた夢の話であったので、仕方なくドクターは壁に背を預け復旧を待つことにした。この後に会議などが入っていなくて良かった。もちろん長引くようならば連絡を入れなければならないだろうが、ほんのわずか、一人になる時間をドクターは許されたかった。ほう、と天井を見上げて吐き出したため息は想像していたものよりも大きく、思っていたよりも疲れていたのかもしれないとドクターはひとりごちる。だが足りないのだ。何もかもが足りない。時間も、能力も、失った記憶に紐づけられていたものは膨大で、欠如が露わになるにつれて顔をのぞかせる焦りと失望を見逃せるほど、ドクターは無能ではなかった。だからつい、一人の時にはぐるりと回り道をしてしまう癖がついたのかもしれない。そうしてこんなところに閉じ込められているのだから笑い種である。ぐらりと傾きかける頭に、ポケットからごそごそと食べかけの栄養食を取り出す。どうも思考が後ろ向きになってしまうのはこの場所ということもあるだろうが、単純に栄養が足りないのも理由だろう。死者の残したものに囲まれてかじるエナジーバーはまったく味がしなかったが、少なくとも口内の乾燥にむせるだけの元気を得ることはできた。
くしゃくしゃの包み紙を破片をこぼさぬよう小さくたたみポケットに収めていると、ふと目の前の棚に収められているものがドクターの目を惹いた。周囲と比べても一段と積もっている埃が少ないことから、故人がずいぶんと慕われていたということがわかる。それは狙撃用のボウガンだった。倉庫の蛍光灯を鈍く反射するそれは型式としてはかなりの旧型で、一目で持ち主が歴戦の強者であったことが見て取れた。ストックには何度も補修された痕跡が残っているし、かと思えばスコープは目盛りも鮮やかな最新型、いったいどれほどの戦場をともに駆け抜けてきたのか、想像するだけで眩暈がするほどのボウガンは、しかし原型こそ留めてはいるもののひどく破損していた。
慣例ではあるが、この収蔵庫に収める遺品は可能な限り修復されるのが一般的である。汚れや破損はできるだけ取り除かれ、許される程度の修理を経てからここへと持ち込まれる。だからそのボウガンが壊れたままというのは奇妙なことのようにドクターには思えた。というのもその壊れ方は、戦場で取り返しのつかない暴力を受けた結果というよりも。
(まるで、整備中に故意に手を滑らせたかのような)
どくり、と心臓が嫌な音を鳴らし始める。気がついてはいけない、理解してはならない。否、私は知らなければならない。ボウガンの横にはくたびれた背嚢が置かれていた。ボウガン同様に年季の入ったそれもまた、持ち主の背から彼の人生を眺めていたのだろう。擦り切れかけたベルトの端には、何度も縫い直された跡の残るネームタグがあった。――Scout。
その文字を見つけてしまった瞬間、ひゅっと喉が音を立てた。その名前は知っている。チェルノボーグから救出された際に命を落としたメンバーの一人だった。彼と彼の率いたチームとは最後まで合流がかなわず、顔も見ることができないままの別れとなってしまった。彼らの葬儀に、ドクターは参列することを許された。ありとあらゆる罵倒を覚悟しての参加ではあったのだが、みな遠巻きに思わし気な視線を向けるだけで、死者の安寧を乱す者は現れなかった。ただ単に、今のドクターにはそれだけの価値もないというだけの話だった。
もしも自分に記憶があれば、もっとマシな指揮が執れていたのなら、彼らは死なずに済んだのだろうか。もしも自分があの石棺の中で死んでいたのならば、もっと早く脱出できた彼らは生きてロドスへと帰れたのだろうか。ドクターは考える。それだけが自分に許された機能であるがゆえに。古ぼけたネームタグに書かれた名前を、私は何度呼んだことがあったのだろう。息を吸い、その最初の音を発しようとした瞬間に、ごぼりと胃袋が嫌な音を立てた。慌てて口元を押さえ、必死に逆流しようとする胃液を押し戻す。こんな場所で醜態を晒すわけにはいかなかった。だが何故、私はただその名前を呼ぼうとしただけなのに。ぐるぐると回り始める視界にがくんと膝をつき、けれど最後のプライドとして倒れ込むことだけはかろうじてこらえる。心臓の音がうるさい。歪む視界に、とうとう涙まで流れ始めたことを知りいっそうの困惑が深まる。いきなりの不調を訴える全身とは裏腹に、頭の一部だけが非常にクリアだった。だとするのならば、『私』には理解できないこれは。
(そんなにも受け入れがたいことだったのか、彼の死は)
身体が、その事実を拒絶しているということなのだろう。記憶を失った頭ではなく、いまだ過去の延長線上にある身体の側が。口を押さえていなければ今にも無様に叫び出してしまいそうだった。まったくコントロールの効かない身体を、しかし今だけは羨ましく思う。その慟哭を、私は理解できない。それだけの衝動に駆られる理由を、私は思い出すことができない。たった一つの名前が引き起こした現状はあまりにも酷いものだった。それだけのものを、以前の私は持っていたのだ。
どれほどの時間が経過したのか、ふと気がつけば全艦放送が流れており、いわくエンジニア部によってシステムの復旧は完了したとのことだった。断片的にしか聞き取ることはできなかったが、それだけがわかれば今の自分には十分である。誰かに見られる前に、ここを立ち去らねばならない。いまだふらつく身体をゆっくりと起こし、最後にもう一度だけ彼の遺品を眺める。彼が、何の意図をもって最後にボウガンを破壊したのか。まだ名前を呼ぶことすら許してもらえない彼は、何を考えて最後に残された短い時間をそんなことのために使ったのか。資料によれば、彼の遺品であるボウガンを欲しがるオペレーターはそれなりに多くいたらしい。だがその誰もが、この破損を一目見るなり修復すら断念したのだという。元は一般に流通した市販品であるのだから、時間をかければ元通りの形と機能を取り戻させることは十分に可能だったはずだ。だが彼らはそれを行わず、このまま遺品としてここに収めることに同意した。
(彼らに見えていて、私が見えていないもの)
遺品を望んだ者の多くは、元の持ち主と同じサルカズだった。古い付き合いだった者から、教練を受けた若いオペレーターまで顔ぶれは様々で、当然ながら誰もが長距離狙撃を得手とする顔ぶればかりである。同じ武器を欲しがるのだから当然で、ああ、しかしサルカズにとっての武器の継承は他の種族とは意味合いが違う。武器と名前の継承は血統とはまた別の、強固な繋がりを作る。
(彼の名前の継承を拒絶した?)
否、拒絶させたのは故人である彼のほうである。破壊は他ならぬ彼自身の手によって行われたのだから。ぐらりと再び視界がふらついた。だが今度は倒れるわけにはいかなかった。視界の先の壊れたボウガンは何も答えてはくれない。語るべきはすでにここにはいない所有者であり、道具である彼らは沈黙のままに座するのが仕事である。
「慕われていたんだろうに、どうして」
久しぶりに出せた声は、ひどく掠れていた。口の中には胃液の味がまだ残っているが、吐き気はずいぶんと治まってきている。そろそろ外へと出るべきだろう。ここで遺品とともに朽ち果てることは、今のドクターには許されてはいないし本望でもなかった。
多くの疑問を残したままの足取りは遅く、重く、けれどそれが今のドクターのせいいっぱいの歩調だった。セキュリティカードを押し当てたドアはあっけなく開き、しんと静まり返ったその奥の暗い通路を見せている。もう一度だけ、目を閉じて先刻見た物を瞼の裏に描いたドクターは、二度と振り返ることなくゆっくりとその一歩を踏み出した。