Secret 確かに合鍵は渡してある。用事が長引きそうだから先に部屋で待っていろとも告げた。だがここまでくつろぎすぎた恰好で出迎えられるといっそ腹立たしささえ湧き上がってきてしまうのは人間として間違っていることだろうかと、エンカクは自室のベッドの上に寝そべったままの上司の姿にギリリと奥歯を噛み締めた。
外勤がメインの自分とロドスにおける三トップの一人という男の立場では、そう頻繁に休みが一致することはない。現に目的地の天候不順さえなければエンカクは先週にはロドスに帰還できていたはずであるし、本日はとっくに別の任務へと出立している予定だった。そのため不意に転がり込んできた休暇を正直持て余してしまっていたのは事実である。そんな時に上司であり不本意ながら恋人であるという間柄の男から『部屋へ行ってもいいか』と簡潔すぎるテキストを受け取っても、返事などひとつに決まっていたのだった。
「おかえり、その様子じゃパフューマーはずいぶんと君の譲歩を引き出せたらしい」
「お前の入れ知恵か」
「まさか。私が彼女に頭が上がらないのは知っているだろう?」
しかし園芸部が参加する次の艦内イベント日程がエンカクの任務の合間に設定されていたことから、この男の関与はまず間違いないだろう。機嫌良さそうに笑う男は、エンカクの着古したTシャツを身にまとったままごろりとベッドの上で身体を伸ばした。
そのシャツは最初にこの部屋へと上げた夜に、様々な事情で急遽彼の着替えが必要になってしまったため手身近にあった一枚を渡したものだった。彼は何故かいたくそのTシャツを気に入り、以降エンカクの私室へと招かれるたびにサイズも合っていないそれにニコニコと袖を通すのであった。何度か着替えを持ってこいと言ってはみたのだが、いわくこのリラックスできるサイズがくつろぐのには最適だの、君は彼シャツのロマンを理解していないだのと意味の分からないことをまくしたてられたので、エンカクは非常に不本意ではあるが、年季の入ったTシャツを彼専用として置いておくことにしたのだった。
どこがどうお気に召したものか、何の模様も刺繍もないただの黒いTシャツからは、すらりとした肉のない手足が伸びている。最初はボトムも用意はしたのだが、どう足掻いてもサイズの違いによりずり落ちるため、諦めて絶対にその恰好で部屋の外には出るなよと約束させたのちにそのままにしている。出会った頃よりは多少マシな肉付きになったとはいえ、やせ細ったままの身体は容易にサイズ違いのシャツの中で泳いでいた。襟ぐりなどともすれば胸元どころか腹まで覗けそうなほど余っているし、ギリギリ下着を隠せる程度の裾からは野の獣すら食いでの無さから見逃してしまうそうなほどの骨と皮ばかりの下肢が伸びていた。その腿裏の白さについ喉を鳴らしてしまったが、しかし自身の失態に気がついたエンカクは盛大な舌打ちをこぼした。
そんなエンカクの様子には気がついているだろうに、まったく気にも留めない彼はのんびりと端末を手に口を開いた。
「今日はどうしようか、時間もあるし映画でも見る?」
「……コーヒーでいいな」
「いいよ、そのくらいなら私にもできるから」
彼の舌には一抹どころでない不安があるが、インスタントコーヒーの粉に湯を注ぐだけでゲテモノが出来上がるはずがないだろうと、見たい作品を選んでおけと預けられた端末の艦内向け映像データベースサービスの画面をエンカクは特に興味もなく眺めた。すでにいくつかピックアップ済みではあったらしく、シリーズものらしいアクション映画から子供向けのアニメーションまでジャンルも様々なタイトルが並んでいた。そのまとまりのなさはまるで彼の思考の一端を覗いたかのような錯覚さえエンカクに引き起こしたが、あの男の思考がこの程度で収まるはずがないことを他ならぬエンカク自身が重々承知していた。
ヴィクトリアのとある貴族の庭園を取材したドキュメンタリー作品の詳細を確認している最中に、ひょこひょこと危なっかしい足音とともに両手にマグをもった男が戻って来る。
「見たいものはあった?」
「あぁ」
頷きとともに受け取ったマグはたっぷりと褐色の液体が満ちており、鼻をくすぐる香りも少なくとも異常はなさそうだった。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
「前科者が何を言う」
「美味しくはないけど、十分食べられる味だと思ったんだけどなぁ」
犯人はまったく反省していない様子であったので、エンカクは深々とため息をつく。手間と時短を最優先とする人間にキッチンを任せてはいけない。特に舌が壊れている人間であればなおのこと。えー、となおも不満そうな男は、しかしマグカップにひとくち口をつけ、あ、と小さく声を上げた。
「砂糖なら補充しておいたぞ」
「ありがとう」
「マグは置いていけ。またこぼされてはかなわんからな」
「ん」
ことりと素直にヘッドボードにマグカップを置いた彼は再び狭いキッチンスペースのほうへと駆け出していく。その後ろ姿を眺めていたエンカクは、ふといつもとの違いに気がついてしまった。
「…………」
シャツの裾から、いつものように下着が見えていないのである。味覚ほどではないが、着るものにも頓着のない彼はいつも購買部で一番安価なセット売りの下着を身に着けている。それについてはエンカクとて同じもののサイズ違いを履いているため別段文句はないのだが、多種族向けとして調整可能な尻尾用の穴と余裕のあるサイズ感のそれは、いつもならばシャツの裾から数センチはのぞいているはずだった。だが本日はといえば、戸棚を開けるために背伸びをするシャツ裾からのぞくのは彼の太もものみであり、見慣れたロドスロゴの端ではない。エンカクが小さな疑念と格闘している間に、ようやく目当てのスティックシュガーを手にした彼はうきうきとした足取りでベッドのエンカクのもとへと戻って来た。
「君は要らなかったよね」
「……あぁ」
歯切れの悪いエンカクの返事に首を傾げつつ、彼はベッドに腰かけたエンカクの前に立つ。近づいて観察しても疑念は解消するどころか募るばかりで、しかしそんな些細なことに悩まねばならないという事実はひどくエンカクを苛立たせた。
「あれ、なんか機嫌悪い? やっぱり君も砂糖入れる?」
「いらん」
もはや見当違いの疑問すら腹立たしい。それが八つ当たりであることはエンカク自身とて十分にわかっていたが、手に持っていた色違いのマグカップをヘッドボードに置く手つきはいささか乱暴ではあっただろう。その音にびくりと硬直した細い肢体に手を伸ばし、しかしおのれの行動のあまりの下らなさに頭痛すら覚えながらも、エンカクは彼のTシャツの裾に手をかけた。
「お前、下着はどうした。まさかその恰好でここまで歩いてきたとは――――」
それから先の言葉は出なかった。目の前の光景があまりに衝撃的だったからだ。
「あ、えっと、その、これは」
「……………………おい」
そこにあったのは、精緻なレースの下着だった。左右は細いリボンで結ばれ、薄い腹から股間にかけてをレースとサテンの生地が覆っている。性器をかろうじて隠す程度の面積しかない小ささのそれは下着と呼んでもよいものなのか。少しでも勃起してしまえばたちどころにその最低限の機能すら失ってしまうことは想像に難くない。エンカクの視線を受けて、繊細なレースに包まれたそこはぴくりと震えた。陽光を知らぬ内ももの白さと対照的な黒いレースは、いったいどこまでが計算ずくであるのか。しかしゆっくりと見上げた彼の双眸が今にも涙をこぼしそうなほどの潤みを湛えていたので、エンカクはすべての思考を吹き飛ばすことにした。
「……この後のお楽しみの予定だったのに」
ばか、と消え入りそうな声で続けた男の腕を引いてベッドに押し倒しながら、当然ではあるがエンカクは予定の前倒しを申告し――ささやかな攻防こそあったものの、彼が自分の声にことさら弱いことをエンカクは重々に承知していたので――――なんとか無事に受理されたのだった。