「あ、」
鈴鳴支部の扉が開かれて、声を発したのは半崎だった。雨音が煩く、掻き消えただろうそれに反応することなく所属隊員である別役太一は一歩を踏み出す。やけに静かに。ぺしょりという情けない靴音と共に。俯きながら。
「お帰り、太一」
「ただいまです〜」
村上の出迎えに弱った声を返し、目の届く範囲を探る。何となく察したのか村上も室内に目を配ったがすぐに別役と半崎を屋内に招いて問いかけた。
「濡れたのか」
「すんません、おれの傘取られてて」
「災難だったな」
別役との距離を詰めた村上に対し、荒船は動かずに労う。ちらりと盗み見た半崎は予想外の自隊隊長の存在に驚きつつも、上級生達の関係を思えば不思議ではないと判断して視線を村上へと戻す。
「こないだ自分の傘壊したから、今先輩に借りたのに…」
「それで半崎に入れてもらったのか」
「そうっす」
「ありがとう」
鈴鳴支部はこの賑やかな同級生に対してやはり優しくて、そしてみな律儀だ。友人の親兄弟に持て成されているような感覚が擽ったい。随分慣れたが暫く前までは、そう足を向ける機会のない支部を訪れる行為は半崎にとって緊張を伴う行動だった。
「タオル取ってくるよ」
ここで待てということらしい。大人しくしていようと棒立ちでいると、村上に続いて荒船が口を開く。
「今なら奥で来馬さんと話してるから、ついでに話してくる。そもそも盗んだ奴が悪いんだからあんま気に病むなよ」
そう言って、勝手知ったる様子で歩き出す。村上とは別方向だ。何やらやけに感動している別役とは異なり、半崎は少し居心地悪げに見送る。
「…近かったよな、距離」
「なんて?」
「なんでもない」
邪魔をしたかという懸念は、どうやら別役にはないらしい。隊のオペレーターを努める先輩からのお叱りに身構えるので精一杯だったのだろう。そもそも、荒船隊とは異なり伝えられていないのかもしれない。
半崎の脳裏に、何時だかの隊長の宣言が反復される。
『お前ら…もし連絡先がどうのって聞かれたら、好きな相手がいるから嫌だってきっぱり断ってくれ』
その宣言は半崎が荒船の連絡先を同級生から求められたことがきっかけだった。女子高生の行動力は凄い。上手く発展するケースもあるので賛否両論ではあるのだろうが、少なくとも半崎は良くない意味合いで凄いと思っている。そしてそれは多分、荒船も同じことなのだ。
「お待たせ。半崎も太一も、帽子預かる」
隊長のいう"好きな相手"が、目の前の村上であることは明言されなかった。ただ、加賀美も穂刈も、見たことないほどにんまりとした表情で「了解」と告げて、それを見た半崎もなぜか自然と村上を思い浮かべて同じく了承した。詮索はしない。野暮な趣味はないからだ。それに相手が村上ならば、色々な配慮があったうえでの発言なのかもしれない。
「ありがとうございますっ」
「ありがとう、ございます」
「うん。元気でたな。ついでに何か淹れるよ。荒船が手土産持ってきてくれたから一緒に食べよう」
「やった!」
後輩の活力が戻った大まかなきっかけを予想して、村上は「隊長、流石だな」と半崎に同意を求める。優しい人であるし、律儀な人だ。半崎は頷くにとどまったが、だからこそ自分の師匠に対し尊敬の念を強めに抱いている気がする。こんな人に慕われれば知らない相手の連絡先などそれは不要だろうと胸の内で納得していた。
一つの傘を二人で使い無理に帰路についたおかげで吸ってしまった水分をできる限り丁寧に拭う。それをやはり律儀に待ち、村上は帽子と一緒に湿ったタオルを回収する。
「太一、靴下濡れてないなら手洗ってお湯沸かしてくれるか?」
「はいっ!」
「あの、村上先輩。帽子…」
「ドライヤーあてるよ。先に入っててくれ」
「すんません」
「気にするな」
別役を促し小さく笑う様は確かに格好いいのだが、その器量のよさ故かなんとなく母を連想してしまう。少し申し訳なくて、つい頭を左右に振って意識を変えるよう試みた。
連れられるがまま進んでいけば、その先で荒船と鉢合わせる。
「あっ…ど、どうでした?」
「後で謝っておけば問題ないだろ。とりあえず来馬さんとの話し合いが先みたいだぞ」
「良かった〜…」
「良かったか?」
「で、鋼はどうした?」
「帽子乾かしてくれてます」
「じゃあ風呂場のほうか。あ、半崎…気をつけとけよ」
ポットに手を伸ばす別役を一瞥しての忠告に、やる気なさげに返事をしておく。さっさと姿を消してしまった荒船は、勝手知ったる他人というよりもはや身内のようだ。
半崎は、野暮は嫌いなはずなのだ。だがああも自然に好きな相手の私生活に溶け込んで、玄関から見た肩がくっつくような距離感で接して、本当にまだ他人なのだろうかと疑念が浮かぶ。もしかしたら村上を思って一方的な感情しか明かさなかったのかもしれない。それはそれで、随分とカッコいい真似だと思う。
「なあ太一…」
「どうかした?」
きょとん。と表現するのが妥当な顔で別役が半崎に振り向く。あまりに間の抜けた顔つきに村上の恋人事情を尋ねるといった思いつきは憚られた。
実を言えば、半崎としては村上も荒船と同じ気持ちなのではないかと見当を付けている。だから思ったのだ。知らないのではなく伝えられていないのではないか、と。
「…なんでもない。」
あの二人、またくっついてんのかな。途切れたドライヤーの音にそんなことを思う日がくるとは、ましてやそんなことを聞くなんて、あまりに自分らしくない。半崎は疑問を飲み込んだ。別役の表情を言い訳にして、さっきと同じ台詞を口にしておいた。