犬も食わない「イコさん」
自分を呼び止める声に振り返る。そこには案の定、いや声の主から考えても他の人間がいたら困るのだが、やっぱり街頭に照らされた水上ひとりが憮然とした顔でこちらに向かって左手を差し出していた。はて、たった今「また明日な」と生駒のアパートの目の前で挨拶を交わしたばかりだと言うのにまだ何か用があるのだろうか。生駒は自身のアパートに向かいかけていた足を止めると名前の後に続くはずの水上の言葉を待つ。すっかり冷え込んだ夜道にはどこからか食欲をそそられる香りが漂ってきて、生駒の腹がクルクルと鳴った。今晩は丁度冷蔵庫に人参や玉ねぎが余っていたのでポークシチューにする予定だ。一通り具材を切ってお鍋にぶち込み、煮えるのを待ちながらお風呂に入るという完璧な計画まで企てている。せっかくだしこのまま水上を夕飯にお誘いするのも手かもしれない。うん、ひとまず水上の話を聞いたら誘ってみようかな。そこまで考えて辛抱強く水上の言葉を待ち構えていたのだが、待てども暮らせども水上は口を開くどころか微動だにすらしない。生駒は訳が分からず水上の白い掌と顔を交互に見比べた。
「え、なに? どした?」
「ん」
「え、えっ?」
「ん!」
「トトロにもあったよな、こんなシーン」
「は? こっちは真剣に話してるんすよ」
「うそ〜、そんな空気やった?」
生駒としてはただ穏やかに共に帰路についていただけのはずだったのだが、どうやら生駒の預かり知らぬところでシリアスな展開に発展していたようだ。これは自分も真剣に応対しなければと相変わらずこちらに突き出された水上の五本指を見つめる。水上の白く細い指は寒さからか指先が微かに赤く色づいていて、なんだかとても哀れに映った。ただでさえ寒がりなのに、ポケットからこんな長時間手を出していたらそりゃ冷えてしまうだろう。下手したら霜焼けになってしまうかもしれない。生駒は真剣に真摯に考えた結果、一歩踏み出し水上の左手を両手で握り込んだ。触れた掌は想像通りやっぱり冷たくて、生駒の体温を吸い取っていくようだ。
「いや握手したいと違うんすよ」
「あれ?」
しかし生駒の真摯な対応を水上はお気に召さなかった。どうやら生駒の対応は不正解だったようだ。生駒はますます訳のわからぬ難解な渦の中に取り込まれ首を傾げた。
「ほんまに分からないんすか?」
「え〜、分からん。ヒントくれ」
「俺はイコさんの彼氏ですよ」
「ん? うん」
「……俺は、イコさんの、彼氏ですよ」
「? はい」
「…………はぁ〜〜〜」
急な事実確認に頷けば、水上は心底残念そうな深いため息をこぼす。どうやらこの返答も水上のお気に召さないらしい。今日の、正確には今この瞬間の水上は分からない所ばかりだ。はて、どうしようか。このままでは水上の機嫌は夜の底冷えする空気と共に下降していくばかりだ。うんうんと生駒が悩んでいると、目の前からクルクルと音が聴こえる。音源を辿ればそこには水上の薄っぺらい、内臓しか入っていなさそうな細い身体があった。
「……ひとまず、うち寄ってく? 今日俺んちポークシチューやねん」
「……はあ」
腹が減っては始まらぬだろうと当初の予定通り水上を誘えば、またしても気だるげなため息が返ってくる。けれども、やれやれ仕方ないっすね、とでも言いたげな顔は眉間のしわが幾分か和らいでいた。どうやら今回の生駒の返答はそこそこ水上のお気に召して頂けたようである。
「全く、しゃあないっすね」
「お前、分かりやすいのか難解なのか分からんなあ」
「なんですか?」
「いや、想像通りやったから」
「? そうですか」
さして気にした様子もなく水上は急かすようにスタスタと生駒のアパートの階段を登っていく。部屋に入るまで、水上がお気に召さなかった生駒の手を離すことは無かった。
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風呂から出れば炬燵にくるまっていた水上が顔を上げる。すっかり常備している水上用のスウェットに身を包んでいる水上は風呂上がりということもあり、完全リラックスといった様子で床に寝転がっていた。この様子では今日は泊まって行く気だろう。生駒としても夜寝る時まで話し相手がいるのは大歓迎であったし、そもそも彼氏の水上を追い出す理由も特に無かったので好きにさせることにした。
「なあ〜、アイス食べる?」
「いや……いや、食べます」
「お、珍しいな」
普段は食後お腹いっぱいのタイミングでデザートのお誘いをしても断られることが殆どなのだが、今日の摩訶不思議な水上はデザートにノリノリのようである。生駒は冷凍庫の中から常備しているバニラアイスのミニカップを二つ取り出すと居間に戻った。
「寒い日におこたで食うアイスは格別やもんな」
「……他の味はないんすか?」
「ん? バニラお気に召さん? まだストロベリーなら残ってるけど」
「……や、これでいいっす」
「天下のダッツでもお気に召さないんか?」
「期待した俺が愚かやったんです」
「今のやりとりの中に俺落第するようなとこあった?」
分からない、難しすぎる。元々水上は分からない所ばっかりのおもしろ人間であったが今日の水上は一段と謎だ。ただ、アイス自体はモリモリ食べているのでバニラが気に入らないということでは無さそうであった。生駒も水上の隣に座ると両手でカップを包み込む。少し周りが溶けてスプーンが入りやすくなったアイスの方が生駒好みであるからだ。そうこうしている内にあっという間にアイスを食べ終えた水上は生駒のアイスのカップをじっと見つめると、そろりと生駒の指先に触れた。
「ん? 足りんかった? 俺のもちょっと食う?」
「や、それはいいっす」
「遠慮せんでええで。カチカチのも美味いけど、ちょっと溶けたんも美味いもんな」
「……せっかく風呂入ったのに、手ぇカチコチやないすか」
今や生駒よりもすっかり温くなった水上の指先が生駒の指先を絡めとる。ジンと痺れるような熱は生駒のものよりも長く骨ばっていて、その綺麗な指先は無数にある水上の好きなところの一つであった。
「んー、でもこうした方が早いしなあ」
「せっかちですねえ」
スリ、と水上の爪が生駒の指の合間を滑り股を爪が引っ掻く。かと思えばアイスから引き剥がすように生駒の手を絡めとると、水上の白い指先が生駒の手の甲の血管をゆっくりと辿った。
あ、これエッチなやつかもしれん。そう思い水上の顔を確認しようと目をやれば、鼻先の触れ合う距離に水上の顔があった。
「むぅっ……」
息をつく間も無く唇が塞がれる。触れ合う舌がほんのりと甘くて、鼻先をバニラの香りが抜けていった。どこでスイッチが入ったのか不明だが、どうやら水上は『そういう』気分であるようだ。アイスを食べていただけなのになぜと思わなくもないが、今日の水上は謎だらけの未知の生き物なのでそういうものかと処理をする。考えても仕方ないことは変に思い悩まず乗った方が面白いもんだ。迎え入れた舌を軽く喰み返すとピクリと揺れる水上の肩先がなんだか可愛らしかった。生駒の手を弄んでいた指先はそろりと背中に回されたかと思えば腰骨を揺蕩う。そのまま着古したスウェットを通過しボクサーパンツのゴムに引っかかった所で、生駒は途端に正気に戻った。
「あー、まって、ちょお」
「あ?」
「こわ、顔……。や、俺今日こんなんなる思ってなかったからお尻洗ってないねん」
「はあ?」
「ひく、声」
慌てて止めに入れば水上の機嫌は即座に急降下となった。今日の水上ミリオネアは不正解を引き当ててばかりである。でも、本当に予想できなかったのだ。泊まりに来ても何もせず寝るなんて割としょっちゅうであったし、エッチなことをするぞという日は『エッチなことします』サインを送ってきてくれるのが常であった。なので、ただポークシチューを食べてお風呂に入っただけの今晩は何事もなく過ぎ去っていくものだと思い込んでいたのだが、どうやら水上はやる気満々であったようだ。またしても生駒の預かり知らぬ所でエッチサインが送られていたらしいが、生憎受信ができていなかった。
「いやー、今日そんな雰囲気あった? 全然気づけんかったわ」
「……た…………、ろ」
「ん?」
「バレンタインに恋人に家に誘われたらそんなん期待するに決まってるやろ!」
「……おぉー?」
「あんた忘れてたやろ!」
バレンタイン。そう、何を隠そう本日は可愛いかわいい女の子からチョコを頂ける特別な日である。どうやら水上はバレンタインを忘れていた生駒に怒っているようだが、生駒はバレンタインを忘れたことなどなかった。その証拠に毎年二月に入ると必ず学校などで「チョコ大好きです」アピールは惜しまないようにしているし、隊室のカレンダーにだって該当に日付にデカデカと花丸を描いていた。それらの地道な努力が実ったのか、今年も無事可愛いかわいい真織からお手製のチョコカップケーキを賜ることに成功している。これまた可愛いかわいいラッピングを施された小さなケーキは、盛大な写真撮影会を行われた後、隊室でみんなと共に有り難く頂いた。そう、みんなで。水上を含む生駒隊のみんなでだ。なので生駒がバレンタインの日を心待ちにしていたのも、真織からチョコカップケーキをもらった時感動して涙ぐんでいた姿も全て見ていたはずなのだが、それでも水上には生駒がバレンタインを忘れているように見えたらしい。うーん。
「俺ら隊室でさっきマリオちゃんのチョコ食べたよな」
「はい。美味かったすね」
「な。お返しちゃんと考えんとな! それにしても器用よな、あの上に乗ってたクマさん? あれも手作りって俺真似できんわ。可愛すぎてずっと眺めてもうたもん。俺料理はまだしもお菓子作りはまだそんなチャレンジで」
「そこは可愛いかわいい敏志のために練習して作って持ってくるところやないすか?」
「え?」
「……はぁー、やっぱまじで用意なかった」
がくりと水上が項垂れる。机に伸びてしまった水上の身体はしなしなに萎れていて、すっかり拗ねてしまった様子だ。なるほど。つまり水上の様子から察するに今日一日水上は生駒からチョコを貰えると期待し生駒が渡してくるのを待ち侘びていたのだが、一向に生駒がチョコを渡してくる気配がないので不機嫌になっていたらしい。先ほど突然カンタになっていたのも、生駒からチョコをもらおうとしていたのだと分かれば納得がいく。もっと早く気がついていればミズカミオネアだって突破できていたかもしれない。
付き合ってから判明したことだが、水上は意外と季節のイベントを大いに楽しむタイプであった。ついこの間のクリスマスだって水上は数ヶ月前から予定を調整し県外のちょっと良い旅館を予約していたし、水上の誕生日だって例年は隊のみんなで祝っていたのに去年は生駒と二人で過ごすために当日は空けていた。付き合って一ヶ月記念だって水上から先にケーキを渡してきたくらいだ。そう、季節のというか、恋人のイベントごとに関しては水上は生駒よりもよっぽどマメな気質であった。もちろん生駒とてイベントは大好きなので記念日はちょっと豪華なご飯を作ったりして大いに共に楽しませてもらっている。のだが、水上レベルのマメさには到達できていないので今回のように恋人のイベントをスルーしかけることはたまにあった。というか、バレンタインは女子から男子にチョコを贈る日だと思い込んでいたので恋人同士のイベントでもあるという認識がすっぽりと抜けていたのである。これは申し訳ないことをしたと生駒は居住まいを正した。
「ごめんな、俺男がチョコを贈るって発想がなかってん。せっかく水上は用意してくれたのに……」
「え、いや。用意してないすけど」
「え? でも、え? お前は今俺がチョコくれなかったのに腹立ててるんよな?」
「はい」
「でもお前もチョコ用意してない、と」
「そうですね」
「……なんかこれっておかしない?」
「まあ、今回の反省を活かし来年はとびきりのチョコを用意していただければと」
「や、え? 俺だけ贈るん?」
「だって互いに贈りあったらホワイトデーどうするんです? また交換し合うんですか?」
「……確かに」
「ね。今年は後日でもいいっすけど。ホワイトデーは期待しといてください」
「……なるほど?」
なんか、すごい、なんか。理不尽なことを言われてないか? そう思わなくもないが、期待しといてくださいの言葉に湧いて出てきた疑問も有耶無耶になる。期待しといてください、なんて一体何を用意してくれるのだろうか。今から俄然楽しみだ。これは自分もそれに見合うチョコを用意しなければと生駒は気合を入れた。遅れてやってきたバレンタインのやる気に燃える生駒の頬を水上はじっと見つめると、晒された耳たぶに触れる。耳朶をなぞる悪戯な指先がくすぐったくて、生駒の鼻先からくふんと息が漏れた。
「おお、なんやなんや」
「しましょ、続き」
「でも俺お尻ばっちいで?」
「使わんでもどうとでもなるんで。ていうか、正直我慢の限界なんすわ。こっちはチョコ用意できんかった代わりにヤらせてくれるもんやとばかり思ってたのに」
「お前、そんな、俺の預かり知らん所でばっか話進めて!」
「や、期待するやろ、普通」
「言葉にしてくれな分からんよ俺〜!」
生駒の必死の抗議の声は「はいはい」と聞き流される。水上はかなり察しがよく普段はその高精度の察しの良さに助けられることばかりであったが、それ故他者に対するコミュニケーションもこの様に端折るところがあるので注意が必要であった。まあ、でも。生駒と違って思ったことはグルグルと腹で溜め込むタチなのも、言葉にせずいきなり行動に移す妙にエネルギッシュなところも、全部予測不可能で面白いので構わないのだが。生駒は相変わらず人の耳たぶを弄る面白人間を見つめると口を開いた。
「んー、まあちょっと待ってな」
「や、ほんと。ケツとかええんで、いい加減焦らさんでください」
「そうやなくて、ほら。アイス、たいぶええ感じになったから」
「……」
「溶けてまうから。今がベストタイミングやねん」
ちょうど良く周囲が溶け始めたアイスをスプーンで掬う。少々放置されたことにより柔らかくなったアイスは口に運ぶとあっという間に溶けて無くなった。やはりアイスはほんの少しグズグズになった方が美味しい。生駒は食べ頃を見逃さない男であった。
「ほらお前も、アーン」
「……」
「美味いで。これ食べて機嫌直し?」
「……はぁ〜〜〜っ」
ガブリと水上がスプーンにくらいつく。なんだかんだ言ってはいたが、やっぱりちょっと溶けたアイスに興味津々であったようだ。
「な、美味いやろ」
「ほんまあんた覚悟してくださいよ」
「おー……。ん?」
おかしい。生駒の予想ではアイスを食べた水上は機嫌を直し喜んでくれるはずだったのだが、これは確実にまた機嫌を損ねた。
「むずすぎる、ミズカミオネア……」
「何またおもろいこと言うてるんですか。はよ食わなあんたのアイス全部俺が食いますよ」
「やっぱ食いたかったんやん……」
難儀な恋人の口に言われるがまませっせとバニラアイスを突っ込む。水上は相変わらず不貞腐れていたが、それでもアイスの効果からか生駒がスプーンを口に運ぶたびに、ほんの少し頬を緩めた。