【ビーフシチューを食べよう】「七海さん。」
「はい。」
「ナナミン!」
「はい。」
「七海さ~ん!」
「はい。」
七海は天然人たらしだ。
僕の生意気でかわいい生徒達をすぐに懐柔した。
それどころか七海を警戒していた琢真も補助監督達も、今じゃあ七海にメロメロだ。
自販機で缶コーヒーを買っているだけで皆集まってくる。今も補助監督達に囲まれていた。
「あぁ、そうだ。」
「どうしました?」
「先程この前言っていたマクロを組んでおきましたので使ってください。」
「えっ!?ありがとうございます!」
「七海さんマジ神…」
「流石七海さん…!」
「大袈裟です。それに、」
七海は缶コーヒーを一気に煽り、缶を握り潰す。
「神なんていませんよ。」
その言葉に、表情に、はしゃいでいた全員が口を閉ざす。
「うわ、何?お前スチール缶握り潰したの?ゴリラじゃん!」
一瞬でお通夜みたいな空気になった自販機前に割り込む。ウケる~wと笑いながら七海の手から無惨に潰れた缶を回収する。……うん、怪我はしてないみたい。
「誰がゴリラですか。」
「お前以外いる?」
「貴方も出来るでしょう。」
「僕そんな野蛮な事できなーい!」
「は?」
「ガチトーンじゃんwwww」
「ご、五条さん…」
突如現れた僕に補助監督達は動揺している。いや、七海への罪悪感かな?
「ん~?ほら、七海ぃ~お前が怖い顔してるから皆怯えてるよ~?」
「元からこの顔ですが。」
「あは!確かにお前は昔から無愛想だったよねー。はい、スマーイル!」
「ひゃめへふらはい。」
七海の頬を引っ張って釣り上げる。僕にされるがままの七海を見て補助監督達はオロオロしてる。その時だった。
「あー!五条さん!やっと見つけた!」
伊地知の声に補助監督達は一斉にそちらを見る。
「あ、伊地知やっほー」
「やっほー、じゃないですよ!今日は大切な会合が入ったって言ったじゃないですかぁ!」
泣きそうな伊地知に同情の目を向けながらも、助かった!と内心思ってるんだろう。補助監督達は、それじゃこれで…と皆去って行った。
「ごひょうはんははひて。」
「え~?仕方ないなー」
頬っぺから手を離せば七海は頬を擦り、伊地知の方を見る。
「こんにちは、伊地知くん。」
「こんにちは七海さん。」
ぺこりとお辞儀をする七海と伊地知。七海を見た時の伊地知は少し嬉しそうだったのを僕は見逃さない。
視線に気付いた伊地知はハッとしてまた泣きそうな顔をする。
「五条さん!急いで下さい!」
「え~?別に待たせても良くない?僕の貴重な休憩時間に急に会合捩じ込んで来たのは向こうじゃん?」
「良くないです!お願いですから行きましょう!」
「どーしよっかなー」
「五条さぁ~ん!」
「五条さん、あまり伊地知くんを虐めないであげてください。」
「七海さん…!」
「やだな~虐めるなんて人聞きの悪い。伊地知で遊んでるだけじゃーん。」
「はいはい。わかりましたから早く会合に行って下さい。」
「やだやだ!僕七海から離れたくなーぅぶっ!」
七海に抱きつこうとしたら顔面に何か押し付けられた。え、何。冷たいんだけど。
「それあげますから。」
押し付けられてたのは僕の大好きないちごミルクのパック。
「……わかったよ。」
「だそうです。良かったですね、伊地知くん。」
「七海さん…!」
「あと、君にはコレを。」
伊地知に差し出したのはコーヒーと栄養ドリンク。
「ありがとうございます!」
「無理はしないで下さいね。」
「え~?僕には1つで伊地知には2つなの~?」
「貴方が掛けた迷惑料です。」
「迷惑なんて掛けてないよなぁ?伊地知?」
「ヒィ」
「早く行きなさい。遅刻しますよ。」
「はぁ…仕方ない…。伊地知、先行って車回して。」
「!わかりました!七海さんありがとうございました!」
「いえ、気を付けて。」
伊地知が七海に頭を下げて走り去る。賑やかだった自販機前は今は僕と七海だけ。周りには誰の気配も無い。七海はぼんやりと伊地知の去った方向を見つめていた。
「……七海。」
「はい。」
「気を付けろよ。」
「何にですか。」
「みーんなお前を慕ってるけどね、腐ったミカン共はお前を良く思ってない、って事だよ。」
そう言うと七海はやっとこっちを見た。
「そりゃそうでしょう。」
「何当たり前な事を、みたいな顔してるけどね。意味わかってる?お前殺されるかもしれないのよ?」
「だからなんですか?別に死ぬのが怖いわけでもないですし、死にたくないとも思いませんよ。ましてや楽に死ねるだなんて思ってない。」
無表情で何の感情も篭っていない声で言い放つ七海の腕を引き抱き締める。
「此処学校ですよ。」
「………」
「五条さん。」
抵抗はしないが少し咎める様な言い方に七海の顔を両手で包み上を向かせる。焦点の合わない瞳が僕を映す。
「七海。」
「はい。」
「勝手に僕の前から居なくなるなんて、許さないからな。」
覗き込んだ翠色の瞳の焦点が一瞬合い、僅かに揺れる。
「まぁ…そうですね。善処します。」
「うん。そうして。」
目を逸らした七海に優しくキスをして七海を解放する。
「僕、帰ったら七海の作ったビーフシチューが食べたいかも。」
「わかりました。」
「行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「ねー、伊地知。」
「なんでしょうか?」
「お前さ、七海の事どー思う?」
緩やかに進む車に揺られながら窓の外を眺めたまま、質問を投げかける。
「七海さん、ですか?」
「うん。」
「そうですね…大人オブ大人、ですかね…」
「そーじゃなくってさ。」
「えっ。」
「もっとこう…あるだろ?」
「は、はぁ…」
伊地知は少し考える素振りをして口を開いた。
「七海さんは…信頼も尊敬も出来る、大切な先輩です。」
「今のアイツの事を信頼できんの?尊敬も?アイツは「えぇ、わかってます。ちゃんと、わかってますよ。」……そ。」
伊地知が酷く哀しそうな顔をするから、僕の言葉を遮った事は許してやった。
伊地知は本当に七海の事を信頼して、尊敬もしているんだろう。現在進行形で。
「……七海はさ、」
「はい。」
「あんな事があって、壊れちゃったけど…ちゃんと七海だよなぁ…。」
「そう…ですね。えぇ、七海さんは七海さんです。それに…」
「それに?」
「五条さんが保護したあの時に比べて、最近は感情が豊かになってきた気がします。」
その言葉を聞いてなんだか嬉しくて、柄にもなく泣きそうになって、
「そーなんだよ~!僕のお陰だね!」
「はい。ありがとうございます。」
茶化す様に笑ったら本当に嬉しそうに笑うから毒気抜かれちゃった。
「……なんだよ、素直でつまんない。」
「ははっ、すみません。」
「もーいーや。僕少し寝るから着いたら起こして。」
「はい。おやすみなさい。」
別に眠くないけど話しかけられたくなくてそう言って目を閉じる。
そう、七海を保護したばっかの時はそれはもう酷い有り様だった。
ずっと寝てなかったみたいで目の下にはくっきりと隈が出来てたし、抱き締めた体は筋肉がついて締まってはいるものの見た目の割りに軽かった。筋肉の付きやすい体に勝手についただけの見せかけの筋肉って感じ。顔色なんてホント最悪で、ただでさえ白い肌が最早青かったのを覚えてる。
「(いや、まぁ…あんな事があったんだから顔色が悪いのは当たり前なんだけど。)」
何より酷かったのは表情だ。僕が見た数年ぶりに見た七海の顔は泣くでも絶望でも怒るでもなく、全て抜け落ちて無表情だった。
翠色の美しい瞳は焦点が合わず、ただ僕が映ってるだけのガラス玉の様で。表情は能面みたいに無で。力無く項垂れて床に座る七海は端正な顔のせいで余計に人形みたいだった。僕はあのいつも顰めっ面で無愛想で、滅茶苦茶負けず嫌いで生意気でとってもかわいい七海が好きだったのに。好きだから、大事だから、手放したのに。
『神なんていませんよ。』
「(ホントだよ。神なんて、蓋を開ければ災いを恐れた人間達から生まれたただの呪いだ。)」
再開した七海は壊れていた。でも、それでも。七海がまた傍に居てくれるなら、って思ったんだ。もう二度と離してやるもんか、って。壊れてしまった七海を拾い上げて、硝子の元へ飛んで、治療して貰って、硝子に殴られて、伊地知を呼んで、駆け付けた伊地知に泣かれて、色々改ざんして貰って、共犯になって皆で七海を隠した。ずっと、って訳にはいかないから七海を説得してちゃんと戦えるように鍛えた。上の連中は僕が黙らせた。アイツらのせいで七海は何度も危ない目にあったし、その度に上層部は入れ替わった。それでも腐ったミカンからの嫌がらせは続いた。懲りないよねぇ。
「(保護当時2級相当だった七海が今じゃ1級だもんなー。頑張ったよねぇ…アイツも…)」
硝子と伊地知、あと夜蛾セン以外からは勿論滅茶苦茶警戒されてたけど、元々の面倒見の良さや優しさ、クソが着く程の真面目な性格に基本は常識人って事もあって七海の株は鰻登り。今じゃあんなにモテモテ。まったく、妬けちゃうよね。お前は僕のモノなのにさ。
「(でもホント、最近少し雰囲気が柔らかくなったんだよなー。相変わらず笑わないし、何しても怒らないし、されるがままだけど…さっきみたいに意思表示する様になってきた。)」
咎める様な言い方や、揺れる翠色を思い出す。
「(人が好きな七海は人に壊されちゃったけど……人と一緒じゃないと七海は癒されない…僕だけじゃ…きっとアイツは人形のままだった。)」
僕は、人の心がわからない、みたいだから。
「(僕のお陰じゃなくてお前達のお陰だよ…)」
あぁ、寒い。早く七海のビーフシチューが飲みたいな…
「あ!ナナミンだ!ナナミーン!」
任務を終えて帰ってきたら見知った後ろ姿を見つけて声をかけた。ナナミンは振り向いて立ち止まってくれた。手にはコートと鞄を持っている。
「こんばんは、虎杖くん。」
「こんばんは!ナナミン今日は仕事終わったの?」
「えぇ。珍しく定時に帰れそうです。」
「あ!じゃあさ!今から皆でラーメン行くんだけどナナミンも行かない!?」
「いえ、せっかくですが私はこの後やる事があるので。」
「そっかぁ…」
ナナミンとメシ行きたかったなぁ…とションボリしたその時だった。
「あ!いたいた!虎杖くん!」
突然補助監督の田口さんに呼ばれてしまった。
「はーい?」
「あ、七海さん!お話し中すみません!」
「いえ、大丈夫です。では虎杖くん、また明日。」
「うん!ナナミンまたね!」
手を振ればナナミンも片手を上げて帰っていった。
「ごめんね…急に任務が入っちゃって…」
「え!?今から!?」
「そうなんだ。ごめんよ…」
先日入ってきたばかりの田口さんは良い人だ。いつも率先して皆が嫌がる仕事をしてる。今もめっちゃ申し訳なさそうに眉を下げて謝ってくる。
「いんや、大丈夫!ただ腹減ったから途中でコンビニ寄ってもらえる?」
「あぁ、それぐらいなら大丈夫!お安い御用だよ!」
「あんがと!じゃあ行こう!」
「えっ!?俺1人なの!?」
「え?あっ!ごめん!言ってなかった!?」
車に乗った俺は、そのまま出発した事にビックリする。
「そうなんだよ…今回は3級相当だから君1人で十分だって言われて…」
「そっかぁ…俺はてっきり1年全員で行くのかと思ってた…」
「ごめんね…」
「いんや大丈夫!でもそれなら伏黒達に連絡入れねーと…」
スマホを取り出して連絡を入れる。
「場所は××病院で今は廃墟となってます。等級は3級相当の呪霊が複数体との事で…」
ピロンッ
『うわ、ドンマイ!』
ピロンッ
『気を付けろよ』
伏黒と釘崎からの返事に『応!』と返して、俺はコンビニで買ったおにぎりを食べる。
ピロンッ
スマホが鳴る。なんだろう?と通知を見れば…
「あれ?ナナミン…?」
『今どちらに居ますか』
どしたんだろ?
不思議に思いながらも返事を打つ。
『今××病院に向かってる!』
『××病院?』
『おひとりですか?』
『そう!』
『今行きます』
「へ?」
呆然としてメッセージを見つめる。
すると電話が掛かってきた。
『虎杖くん』
「は、はい…?」
『××病院ですね?』
「うん…そうみたい…」
『今すぐそちらに向かいます。』
「いや、なんで?」
『30分程で着くかと。虎杖くんは待機を。』
「ナナミン?」
珍しく話を聞かないナナミンに不安が過ぎる。急いでるのかバタバタしてるみたいだし…
『一人で行っては駄目です。危険過ぎる。』
危険…?3級が?……あぁ、成程。ナナミンは俺を子供扱いしてんのか。
「大丈夫だよ!」
『駄目です。』
「ナナミンは心配性だなぁ。」
『虎杖くん。』
ナナミンは走っているのか、風を切る音が聞こえる。
「到着しました。」
「あ、りょーかいでーす!ごめんナナミン、着いたから切るね!」
『虎杖くん、待ちなさい。虎杖くん。』
「また後でね!」
『虎杖く、』
ピッ
ナナミンはまだ喋ってたけど埒が明かないし、申し訳ないけど電話を切った。すぐにまた掛かってきたけどそれには出ない。
「七海さんだよね?なんだって?」
「んー?なんでもない!大丈夫!」
「そう…?その割にはずっと鳴ってるけど…」
「まー大丈夫っしょ!」
「そう…?」
「うん。じゃ、行ってくんね!」
「はい。よろしくお願いします。…ご武運を」
帳が下りた。
「虎杖くん。虎杖くん?……クソッ…」
途中で途切れた通話に直ぐにかけ直すも虚しくコール音が響くだけ。
××病院に1年生がひとり?そんな馬鹿な事があるか。呪霊が病院から離れるタイプで無かった為に後回しにされているだけで、彼処の呪霊は低くて準1級…いや、成長した1級がいる筈だ。補助監督がそれを知らない筈が無い。間違いなく、これは罠だ。
車に乗り込みアクセルを踏む。五条さんに電話をかけるが電源が入っていない。
「(まだ会合中か…)」
ならば、と伊地知くんに電話をかける。数コールした後、伊地知くんは電話に出た。
『はい、伊地知です。』
「伊地知くん。五条さんはまだかかりそうですか」
『え?あぁ…はい…。まだまだかかりそうですね……如何しましたか?』
「虎杖くんが××病院に単身で任務に向かった様です。」
『えっ!?××病院に!?』
「はい。待機を命じたのですが…恐らくもう中に入ってしまったかと。」
『そんな……現場の補助監督には連絡しましたか?』
「いえ。名前も連絡先もわからなかったので、君に。」
『名前を知らない…?』
「えぇ。しかし虎杖くんとは仲が良い男性の方でした。」
『仲が……まさか田口さん!?』
「田口…」
『つい先日配属されたばかりの新人です。七海さんはその前日から出張でいらっしゃいませんでした…』
私が出張から帰ってきたのは一昨日。昨日は休み。
あぁ…急いでいる様だったので名前を聞かなかった私のミスだ。
「その田口が共犯者の可能性は。」
『低いかと。配属されて直ぐ身辺調査は徹底しましたが、何も不審な点はありませんでした。』
「と、なると…」
『えぇ、上層部に利用されたと考えるのが妥当かと。』
本当に、呪術師はクソだ。
「……あと15分…いや、10分で現場に到着します。伊地知くんは田口さんに連絡を。飛ばします。」
『わかりました。お気を付けて。』
「な、七海さん!」
現場に到着して直ぐに先程の男性が近付いてきた。
「田口さんですね。」
「は、はい…!あの、すみません!俺何も知らなくて…!」
「話は後で。虎杖くんが入ってどれくらい経過しましたか。」
「26分です…」
26分…無事ならいいが…
「わかりました。引き続き待機を。」
「あの!」
「はい。」
顔を向けた先には、酷く苦しそうな顔。
「虎杖くんを…お願いします…!」
「…えぇ、全力を尽くします。」
「(嵌められた…!)」
院内に入って直ぐに滅茶苦茶デカい呪霊に襲われた。デカい癖にすげー素早いし、一撃が重い。3級相当なんて嘘。こんなん絶対それ以上。
『ケヒヒ、小僧。お前まんまと嵌められたなぁ?』
「うるせぇ!黙ってろ!」
宿儺が嘲笑いながら俺を煽る。
『あの男の言う事を聞いていればこんな事にはならなかったのにな?』
そうだ…ナナミン……止めてくれたのに、俺は…
『いや、彼奴もグルだったのかもな?』
「は…?」
『あの男は小僧を煽ったのかもしれないぞ?』
「何言ってんだ。ナナミンがそんな事する訳ないだろ。」
『小僧、正気か?あの男は呪術師じゃない。じゅ、』
バチン!
黙らせようと頬を叩く。だが宿儺は嘲笑いながら、俺の手に現れて続ける。
『呪詛師だ。人殺しだ。』
「うるせぇ!黙ってろよ!!!」
『ケヒッ。精々足掻けよ、死なない様にな。』
ナナミンが呪詛師。知ってる。知ってんだよ。そんな事。でも、ナナミンは、めっちゃ優しくて、頼りになるんだ。凄く誠実な人なんだ。他人の死に本気で怒れる人なんだ。だから…
「絶対ェ死んでやんねぇかんな!!!!!」
ナナミンは来てくれるって言ってた。30分で着くって。
次々と襲い来る触手を避けて避けて、叩き落としては逃げ回る。俺じゃあ弾力の強い触手を引きちぎれ無かった。本体を殴ろうにも触手が多過ぎて近寄れない。厄介なのは形を変えてくる事だ。尖って襲ってきたり、刃物みたく切れ味抜群だったり、お陰で壁も床もボロボロだ。いつ崩壊しても可笑しくないかもしれない。
「うわっ!?」
言ってるそばから蹴った壁が崩壊する。上手く勢いが付かなかった体は床に転がり落ちる。受け身を取ったから怪我は無いものの…
「(囲まれた…!)」
360度全方面から尖った触手が襲い掛かる。ここまでか。
「ごめん、ナナミン。」
「伏せて。」
「!ぐぇっ!?」
声が聞こえて反射的に伏せる。右側の触手がちぎれて吹っ飛んだと思ったら襟首を掴まれて引っ張られる。次々と床に刺さる触手をギリギリで躱しながら崩壊した壁から部屋を飛び出し廊下に出たナナミンは俺を廊下に転がして後ろからの触手を叩き落としていく。
「走って。此処では不利です。外へ。」
ある程度叩き落としては走るを繰り返す。俺が外に出たのを確認したナナミンは右腕を思いっきり振り上げ、壁に叩き付けた。壁に呪力が走り、崩壊していく。
「『十劃呪法・瓦落瓦落』」
「す、すげぇ…」
「止まらない。走って。」
「え、でも…」
「まだ倒せていない。撤退します。」
『ピギャァァァァアアァアア!!!!!!!!!』
後方で聞いた事の無い耳障りな鳴き声が聞こえた。…鳴き声?引きちぎられても、ナナミンの攻撃を喰らっても、断末魔を上げなかった、あの呪霊が?
ナナミンも気付いたみたいで後ろを振り向く。
「「!?」」
先程までとは比べ物にならない速さで無数の触手が口を大きく開けながら向かってくる。
「はぁ!?口ぃ!?!?!?速ッ…!」
逃げなければ、と前を向いた瞬間、目の前に口があった。
「ッ…!」
反射的に目を瞑る。生暖かい何かが顔に付着した。
「うぉっ!?」
瞬間、体が帳に向かって吹き飛んだ。宙に浮きながら後ろを見れば…
「ぐ……っ…」
「!ナナミン!!!」
無数の触手に噛まれているナナミンが。
その後ろからは、あの尖った触手達。
「逃げ、なさい…」
「でも!」
「いいから逃げろ!」
怒鳴ったナナミンに弾かれた様に走った。
「がっ、…!」
帳を出る瞬間、聞こえたナナミンの声に再度振り向く。
そこで見えたのは…
「ナナミンッ!!!!!」
細く尖った触手達がナナミンの身体を貫いてるところだった。
引き返そうとするも勢いがつき過ぎて止まらない。止まれない。
俺の体はそのまま帳の外へ転がり出た。
「虎杖くん!」
田口さんが駆け寄ってくる。
「田口さん!ナナミンが!戻らなきゃ!ナナミンが!」
直ぐに立ち上がろうとするも田口さんに押さえ込まれる。
「駄目だ!虎杖くんまで巻き込まれる!」
「でも俺のせいだ!」
「君のせいじゃない!」
「でも!でも俺が…!」
言う事を、聞かなかったから。
「あっれ〜?悠仁元気そうじゃーん!」
「「!」」
空から声が聞こえた。
「はー、終わった終わった。まったく、年寄りは無駄に話が長くてやんなっちゃう。」
しかも全部嫌味と小言。暇人かよ。あーあー、やだやだ。早く帰って七海とビーフシチュー飲もー。
「五条さん!」
ロビーに出た瞬間、酷く緊迫した伊地知が駆け寄ってくる。
「うわ、何よ。そんな慌てて。」
「今すぐ××病院へ向かって下さい!」
「はぁ?××病院?やだよ、僕はもう帰るんだから。」
××病院なんてわざわざ僕が行く様な等級じゃない筈だ。
「虎杖くんと七海さんが出て来ないんです!」
「…は?」
悠仁と、七海…?
急に捩じ込まれた会合。悠仁と七海。
その2つのキーワードで導き出される答えなんて、分かりきってた。
「……あの腐ったミカン共…」
「既に虎杖くんが突入して1時間、七海さんが突入して34分が経過しています。××病院の呪霊は七海さんには不利だと判断し、明後日日下部さんが任務に当たる予定でした。」
「もういい。飛ぶから。お前は硝子に連絡して直ぐ処置出来るようにしといて。」
「わかりました。…五条さん。」
「何。」
「お気を付けて。」
「…伊地知あとでマジビンタ。」
「ヒェ」
そーんなやり取りをして飛んでみたら…悠仁は帳の外にいてナナミンがー!って騒いでる。七海はまだ中にいる。戦ってる様子は…無い。でも祓えてない。つまり、そういうこと。
「五条先生!ナナミンが!」
「うんうん、大丈夫!まだ死んでないみたいだから。」
泣きそうな悠仁の頭を撫でる。
「だーいじょうぶ!僕を誰だと思ってんの?GTGよ?」
「うん…」
「じゃ、行ってくるね。僕らはこのまま病院に飛ぶから、先に帰ってな。」
ひらりと手を振って、そのまま帳に入る。酷く澱んだ空気。纏わり着く死の匂い。
サングラスを外して七海を探す。
「……彼処か。」
半壊した棟のさらに奥に呪霊と七海を確認する。向こうも侵入者に気付いたのか、警戒してるみたい。まぁ、警戒しようが僕には関係ないんだけど。
「僕の七海、返して貰うから。」
一瞬で目の前に現れた僕に呪霊は反応出来ずに蹴っ飛ばされる。土煙の中から直ぐに触手が奇声を上げながら襲ってくるけど、無下限の前では無意味だ。触手を掴んで引っ張るも、触手は伸びるし弾力が凄い。成程?七海の術式ととことん相性悪いな…。つーかこれ、1級は1級でも限りなく特級に近いやつだな…?しかも相性最悪ときたら…あの七海がやられるわけだ。
「まぁ、僕には関係ないんだけど。」
触手に埋もれてる七海を庇うように立ち、術式を発動する。
「術式反転『赫』」
呪霊は声も無く消し飛ぶ。
「七海、お疲れ様。帰ろう。」
抱き締めるも意識の無い身体は重く、手足はだらんと垂れている。顔を覗き込むが薄く開いた瞳は何も捉えずに映すだけ。顔色も出血が酷いからか真っ青で…
「七海、僕は、許さないからな。」
強く抱き締めて初めて僅かに聞こえる程度の弱々しい心音に心が乱される。
七海が死ぬかもしれない?また居なくなる?今度は永遠に?許さない。そんなのは許さない。二度と離れないように縛るか?いや、駄目だ、違う。今は集中しろ。硝子の元へ直ぐに飛ぶんだ。早く、早く…
「……ょ…」
「!七海?」
ぐるぐると回る思考が止まる。
七海が何か言ってる?
聞き逃すまいと口元に耳を近付ける。
「ご……じょ……さ……」
呼んでる?僕の名を?
でも、意識は無いみたいだった。
「…ははっ、可愛い奴。」
さっきまでの動揺が嘘みたいに静まった。集中して病院で待機している硝子の元へ飛ぶ。
「お待たせ。」
「遅い!そこに寝かせろ。寝かせたら出てけ。」
「え、酷。」
「酷いのはお前の顔だ。そんな顔で生徒の前に出るなよ。」
「えぇ?そんな顔してる?」
「してる。お前もちゃんと人間だな、五条。」
「は…?」
「出てけ。邪魔だ。」
押し出され閉まったドア。
呆然と見つめていると中で硝子が動き回る音がする。
俺が…人間…?いや、人間だけどさ…
「………はー……着替えよ…」
きっと長くなる。ここに突っ立ってても仕方ない。七海の血を落として、着替えて…あぁ、そうだ。あの補助監督を問い詰めないとな。いや、もう伊地知がやってるか?悠仁からも話聞かないと…
七海の治療は朝方まで掛かった。
骨に達する程に牙を立てられ、細長い杭の様な触手に串刺しにされた七海の身体は穴だらけだ。
「あと1センチズレてたら心臓だった。」
手術室から出てきた硝子が開口一番そう言った。
「内蔵も奇跡的に致命傷は免れたって感じ。」
「そ。はい、これ。」
「どーも。で、犯人は見つかったのか?」
硝子は僕の正面に立って受け取ったコーヒーを啜る。
「んー…まぁ、いつも通りだよ。今回は悠仁がターゲットだったみたいだけど。あわよくば七海も…って感じだったんだろうね。」
「七海も?」
「そ。あの田口って補助監督が言うには、七海と悠仁がまだ玄関にいるから急いで頼んで来てくれ~って頼まれたんだって。」
「ふーん。懲りないな、上も。」
「ホントにねー。あーもうマジで全員ぶっ殺しちゃおっかなー」
「聞かなかった事にしといてやるからさっさと行け。」
硝子は心底嫌そうに顔を顰めるとシッシッと手を振る。
「硝子。」
「うん?」
「ありがとう。」
「ん。」
素っ気ない返事。でも、何かあったら直ぐに呼べ。今度は動揺するんじゃないぞ。と、その目が雄弁に語っている。
見抜かれてた事に苦笑して七海の眠る病室に向かった。
ベッドに横たわった七海は包帯とガーゼとチューブだらけで痛々しかった。
口には酸素マスク。こんなんじゃキスも出来ない。
力無く投げ出された手を握り、擦る。
「(眠ってるお姫様を起こすのは真実の愛だ、なんて笑っちゃうよね。)」
愛ほど歪んだ呪いは無いのに。
どれ程時間が経っただろう?
朝方とはいえまだ薄暗かった部屋は完全に明るくなった。看護師達は廊下をひっきりなしに歩いているし、他の病室からも話し声がする。
時折看護師達が様子を見には来るが、七海は目を覚まさなかった。
流石に任務に行かなくちゃならなくて、後ろ髪を引かれる思いで任務に赴く。
悠仁や拓真、伊地知なんかもお見舞いに行ったりして…3日も経った。
酸素マスクも外れたし、点滴も減ったけれど…七海はまだ、眠ったままだ。
「はは、寝溜めでもしてんの?」
あの日、七海が呪詛師に堕ちた日から、七海は眠れないのだと言っていた。
声が聴こえるのだと、何かがベッドの下に居るのだと、酷く怯えていた。
でも、僕の眼には何も見えなかった。
つまり呪いや怨霊なんかじゃない。
きっとソレは、七海の罪悪感。
壊れてしまったのに、今尚脅かされ蝕まれてる七海の心。
「眉間寄ってんぞー」
眠ってんのに苦しそうに寄る眉間をぐりぐりと押してやる。
そうだ。七海はいつも眉間を寄せてて、感情がすぐに出てわかりやすくて…そんでもって、眉間の緩んだ寝顔が幼くて可愛い奴だった。
なのに、今じゃ寝てる時しか眉間は寄らないし、起きている時は無表情。
それでも…
「早く起きてよ…七海…」
お前が隣りに居ないと、寒いんだ。
七海のカサついてしまった唇にキスを落とす。
そういや、七海が倒れるまで毎朝おはようのキス、してたのにな…なんて考えてた、その時だった。
「………ん…」
「!…七海?」
瞼が震え、ゆっくりと、愛おしい翠色が顔を覗かせる。
「………」
「おはよ。」
「………ち…かぃ…」
「あは、ちょっと、第一声がそれ?」
「……ぉ、はよ…ござ……っげほ…」
「あーあー、大丈夫?声ガサガサだね?水飲む?」
頷く七海のベッドヘッドを少し上げてやる。
そんで常温の水を口移しで飲ませてやる。
余程喉が乾いていたのか、夢中になってごくごく飲んでる。可愛い。
「おい馬鹿。いちゃついてないで起きたなら直ぐに呼べ。」
「あで!」
丁度検診に来た硝子にカルテで殴られた頭を擦る。
「というか3日も昏睡していた奴にいきなりそんなに水を飲ますな殺すぞ。」
あ、やば。マジなやつだ。目が笑ってない。
「ご、ごめんなさい…」
「はーーー……。七海、おはよう。」
「……おはようございます…」
「調子はどうだ?」
「大丈夫です。」
「痛む所は?」
「大丈夫です。」
「成程?大丈夫って事は痛む所があるんだな?何処だ?」
「大丈「七海」……」
七海は顔を背ける。
「七海、良い子だから。」
「………」
言い聞かせる様な硝子の声に七海は僕を見上げる。
何も言わずにっこり笑ってやれば七海は諦めた様に口を開いた。
「……て…」
「手?」
「点滴……が…」
「点滴?見せてみろ。」
硝子が腕を取り見るも、なんとも無さそうだ。
「漏れてはないな……痛むか?」
「……いえ…」
腕を軽く押したりするも痛くないと言う。
でも七海の視線は点滴に釘付けだ。
「七海、ちゃんと言わなきゃわからないよ?」
僕は七海の顔を覗き込む。
目が合った七海は少し目を泳がせ、再び口を開く。
「…………点滴が……刺さっている…ところが…」
「……は…?」
そりゃお前、針が刺さってれば痛いよ?
「あー…角度が悪いのか?……いや、ちゃんと落ちてるな…」
「………」
七海がまた目を逸らす。
え、もしかして…
「………七海…お前もしかして……注射嫌いなのか?」
硝子の言葉に七海は黙ってほんのちょっとだけ頷く。
僕達は思わず顔を見合わせる。
「「………」」
「…………」
「……あっはははは!」
先に笑ったのは硝子だった。
ツボに入ったのか爆笑してる。
「そーかそーか、だからいつも黙ってガン見してたんだな?」
「え、そーなの?」
「そーそー。昔から採血の時も、点滴の時も、抜くまでずーっと見てんの。」
硝子はひーひー言いながら七海の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「七海ぃ、お前本当に可愛い奴だなぁ」
「………やめてください…」
むっとしたのか、僅かに眉間が寄る。
その顔は、昔の七海のまんまで…
「ちょっと、五条さんまで…」
嬉しくなって、僕も一緒になって頭を撫でた。
「禿げたらどうするんですか…」
「お前が禿げても愛する自信あるよ、僕。」
「私は禿げるの嫌です…」
「でも、そっか~…七海は注射嫌いだったのかー」
「……好きな人なんていないでしょう…」
「あー、笑った笑った。点滴は今入れてるの終わったら抜いていいよ。あと…15分ぐらいかな。それまで我慢してくれ。」
「わかりました。」
「ん、良い子だ。じゃあ私は行くよ。」
「はい。ありがとうございました。」
「何かあったらすぐ言うんだぞ?」
「……はい。」
「ありがとね。」
「高いの期待してる。」
硝子はそう言って部屋を出て行った。
部屋はまた、静かになる。
「………五条さん。」
静寂を破ったのは七海だった。
「なぁに?」
「おかえりなさい。」
「うん。ただいま。」
「ビーフシチュー、作れなくてすみませんでした。」
「え?ビーフシチュー?」
「寒いって、聞こえました。」
僕はその言葉に目を丸くする。
口に、出したっけ…?
「帰ったら、すぐに作ります。」
「…うん。楽しみにしてる。」
「五条さん。」
「うん?」
七海が目を伏せる。
「私は呪詛師です。」
「……うん。」
「死ぬのは怖くないですし、人を殺しておいて自分は死にたくないとも思いません。」
「うん。」
「ましてや楽に死ねるだなんて思ってない。」
「うん。」
「上の人間は、私が目障りで仕方ないでしょう。」
「……」
「だからと言って、簡単に死んでやるつもりはありません。」
「七海…?」
「私は死ぬのは怖くないけれど、」
いつも虚ろな瞳が、ハッキリと僕を捉える。
「貴方を独りにして死ぬのが怖い。」
強い光を宿したその瞳を、僕は…俺は、知っている。
愛おしくて、嬉しくて、逃がすまいと強く抱き締める。
「じゃあ…死んでも一緒にいてよ。」
「いいですよ。」
「本当に?」
「えぇ。貴方が望むなら。」
「七海。」
「はい。」
「愛してる。」
いつも受け身の七海が、僕に腕を回す。
「私も、愛してます。」
そう囁いて眠った七海はまた元に戻ってしまったけれども、僕はもう寒さを感じなかった。