Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    🌸🌸🌸

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 31

    🌸🌸🌸

    ☆quiet follow

    ドッペルゲンガーだった鶴丸と、一振り目の大倶利伽羅の話

    #くりつる
    reduceTheNumberOfArrows
    ##ドッペルゲンガー、恋を知る。

    ドッペルゲンガー、恋を知る。第二話 朝日が目に痛い。

     これは肉体を得る前にはなかった感覚で、鶴丸は自分の目を手で覆った。それでも隙間から容赦なく光は入ってくるもので、仕方がなく諦めて布団から起き上がる。
     ふあ、と欠伸をしながら布団を畳み、戸を開ける。そうすると今度は完全に朝日が差し込むものだから、思わず呻いてしまった。
    「ああ、鶴丸さま。おはようございます」
     山ほどの洗濯物を持った平野が、部屋から出てきた鶴丸に気がつき挨拶をする。もはや前など見えなそうではあるが、気配を察したらしい。おはよう、と挨拶を返しつつ、鶴丸は平野が抱えていた荷物を半分持ってやった。
    「平野は働き者だ」
    「そんなことはありませんよ。これだって、僕たち粟田口部屋のものですからね」
     本丸には大型の洗濯機が複数あるが、顕現している刀が多いのでどうしても朝は混み合ってしまうものらしい。洗うのにも干すのにも時間がかかるため、こうやってみんなが起き出す前に洗濯機を回し、朝餉を食べ終えたらみんなで干すそうだ。
    「鶴丸さまは、よく眠れましたか」
     平野の問いに、うん、と鶴丸は頷く。平野は、じっと鶴丸を見上げ、そうですか、と短く返した。
    「なにかありましたら、声を掛けてくださいね。一振り目の鶴丸さまも、二振り目の鶴丸さまも、僕らにとっては大切な仲間ですから」
    「優しいなあ」
    「優しいというより、世話好きなのは僕たち短刀の性分なのかもしれませんね」
     では、太刀である鶴丸の性分とはどんなものだろう。ううん、と首を傾げて考える。戦好き、とするにはそうでない刀もいる。人間でいう、血液型占いみたいな当てにならないものではなかろうか。
    「今日の朝餉はなんだろうな」
    「鶴丸さまの分は、そろそろちゃんとした食事に変更するそうですよ」
    「それは嬉しい」
     鶴丸は少し前まで特殊な状態でいたため、固形物をまともに受け付けることができなかった。どろどろとした、あまり美味しくはない食事を長いこと取っていたため、いい加減飽き飽きしていたのだ。
    「伽羅坊にも教えてやろう。きっと喜ぶぞ」
     に、と鶴丸が笑えば、平野も笑みを返してくれた。
     平野が洗濯機にタオルなどを詰め込んでいる間、鶴丸は長廊下に設置されている蛇口で顔を洗った。容赦ない水の冷たさに、一気に目が覚める。顔を拭いながら目の前に設置された鏡をまじまじと見つめていると、朝餉の時間が近づいたからか同じように顔を洗いにきた刀がいた。
    「やあ、おはよう、伽羅坊」
    「……おはよう」
     大倶利伽羅は無愛想ではあるが、無礼な男ではない。素直に挨拶を返してくれるのが嬉しくなって、思わず口元が緩んでしまう。
     大倶利伽羅が顔を洗っている最中、鶴丸は再度、鏡を覗き込んだ。
    「どうかしたのか」
     タオルで顔を拭いながら大倶利伽羅が問うので、いや、と鶴丸は首を横に振った。
    「睫毛が目に入ったんだが、ご覧のように真っ白だからな。全然、どこにあるのかわからん」
    「見せてみろ」
    「ああ、うん。……大丈夫だ。もう一度顔を洗ってみる」
     もう一度冷たい水を浴びるのは勘弁したいところだが、背に腹は代えられない。ばしゃばしゃと何度も顔を洗っていると、髪の毛まで濡れてしまう。呆れた様子の大倶利伽羅が鶴丸の頭にタオルを被せてくれたので、ありがたくがしがしと髪を拭いた。優しい男だ。
     ほっと鶴丸は胸を撫で下ろす。
     平野は気がついたようだったが、どうやら大倶利伽羅の方は誤魔化せたらしい。平野も、おそらく言いふらすようなことはしないだろう。もしかしたら兄弟に相談くらいはするかもしれないが。
    「なあ、伽羅坊。俺たち、そろそろ普通の食事が取れるみたいだぜ。良かったな」
    「そうか」
     短い返事ではあったが、大倶利伽羅もあの食事には辟易していたことはよく知っている。なまじ普通の食事をしたことがある分、鶴丸よりも堪えたかもしれない。
     行こうぜ、と鶴丸は大倶利伽羅の手を引いた。おい、と振り払うような仕草をするが、構わず廊下を突き進む。そうするとやがて諦めが勝ったのか、引きずられるようにしながら大倶利伽羅は大人しく鶴丸の後ろを歩いた。

     鶴丸は、この本丸にとって二振り目の鶴丸国永である。
     そして大倶利伽羅は、この本丸にとって一振り目の大倶利伽羅である。

     それがなぜこうして一緒に行動するかといえば、今ふたりは揃って半分病人みたいな存在だからだ。鶴丸は中途半端な顕現をしてしまったせいで肉体を得て三日ほど眠り続け、大倶利伽羅は長いこと霊力切れのため人の身を失っていて再顕現されたばかりなのである。そのせいで出陣も内番もまともにできていないどころか、食事だって療養食のようなものを食べさせられているのだ。
    「伽羅坊は、どんな食事が好きなんだい」
    「別に。食べられればなんでも構わない」
    「つまらんやつ。少しくらいなんかあるだろ。俺なんてまだまともになにか食べたことないんだぜ」
     ふたり揃って特別食のため、食事を取る際にはふたり並んで座ることにしている。なれあわない、と豪語している大倶利伽羅ではあったが、流石に周り全員が美味しそうな食事をしている中ひとりだけ療養食を食べるのは堪えるに違いない。
    「……光忠の作る飯は、美味い」
    「ほう」
     燭台切光忠は、伊達の刀だ。鶴丸とはあの地にいた時期こそ重ならなかったが、燭台切の噂はあの地にいたころよく聞いていた。こうして大倶利伽羅が懐いているのだから悪い刀ではないことはわかっている。
     噂をすればなんとやらで、鶴丸たちが食事を取りに行くより前に、彼がお盆に丼をふたつ持ってこちらへと歩いてやってくるところだった。
    「おはよう、ふたりとも」
    「ああ、おはよう。すまないな、気を遣わせて」
    「まあ、混み合うより先にさっさとふたり分のを用意してしまった方が楽だからね。今日はおじやだよ」
     なんだ、まだ普通の食事ではないのかと肩を落とした鶴丸に、燭台切が苦笑する。
    「昨日まではお粥だったでしょ。おじやとは別。具を入れて煮込んでいるから、きっと美味しいよ。これで大丈夫なようなら、今日の夕餉からはみんなと一緒のご飯にしようね」
     確かに燭台切の持つお盆からは美味しそうな匂いがする。出汁の匂い、というものらしい。湯気の立つそれを、息を吹きかけて冷ましながら口へと運ぶ。じんわりと口の中に広がる優しい味に、ほう、と鶴丸は息を吐いた。
    「おいしい」
     今までの食事の中で、一番美味しいと感じた。素直にそう告げると、よかったと燭台切が破顔する。
    「せっかく肉体を得たんだもの。ちゃんと美味しいものが食べたいよね。胃、大丈夫かな。吐きそうになったら教えてね」
    「多分、大丈夫だと思うぜ」
    「伽羅ちゃんの方はどうかな」
     大倶利伽羅は鶴丸よりも一口が大きいようだった。舌が火傷しないだろうかと鶴丸が心配になってしまうくらいには、食べるのも速い。こら、と光忠が窘める。
    「急いで食べたら胃によくないでしょ」
    「……美味いから」
    「誤魔化されないから。伽羅ちゃんも早く普通の食事にしたいでしょ」
     呆れながらも燭台切は嬉しそうだ。
     それはそうだろう。折れたと思っていた仲間が戻ってきたのだ。感動の再会、というやつは残念ながら鶴丸が寝込んでいる間に既に済ませているようではあったが、さぞや見物だっただろうと思う。
     鶴丸が誰にも触れられないドッペルゲンガーだったころよりも、本丸の空気はかなり明るい。
     一振り目の鶴丸国永を無事に回収できたこと、かつていなくなってしまった大倶利伽羅も帰還できたこと。春の訪れとともに、本丸には暖かな喜びが舞い込んできた。
     広間を見渡すと、奥の方で一振り目の鶴丸と二振り目の大倶利伽羅が並んで食事を取っているのが見える。あのふたりの関係は一見変わらないように見えるが、実際のところどうなのだろう。
     本当に色々なことがあったが、あのふたりが今一緒にいられることに鶴丸はほっとしている。この光景を見るために、自分は今ここにいるのだと思える程度には。
     あれほどの大怪我を負った一振り目の鶴丸も、手入れ部屋へ入ってからはすっかり元気に動き回っているようで、まだ満足に食事もできない二振り目の鶴丸である自分よりもよほど自由だ。
    「羨ましいな」
     思わず零れた言葉に、横にいる大倶利伽羅が僅かに顔を上げて反応した。
    「いや、なに。あっちの鶴丸国永は、美味いもんが食えて出陣もできて、羨ましいなと思ったんだ」
    「食事なら今夜にでもほかの連中と同じものが食べられる」
    「でも出陣は、どうだろうな。俺はともかくとして、きみは本調子だったころの感覚を覚えているんだろ。今、歯痒く思っているんじゃないか」
     大倶利伽羅にもまだ、出陣や遠征の許可は下りていない。ふたりは揃って無理をしない程度に本丸での雑務に関わっている。買い出し、掃除をはじめ、近侍や内番の手伝いなど。鶴丸にとってはどれも新鮮で楽しいと思えるが、きっと大倶利伽羅にとってはそうではない。出陣する仲間たちを見送るその瞳に悔しさが滲んでいることを、鶴丸は知っていた。
    「歯痒く思うだけなら簡単だ。行動しなければ意味がない。たとえ今、出陣しろと命じられても自分が役に立たないことくらい自分が一番よくわかっている」
    「……そうだな」
     きっと今の鶴丸たちは、通常通り顕現したばかりの刀剣男士よりも無力だ。実力を伴わない行動は仲間を危険に晒す。今の鶴丸たちができることといえば、ひたすらに鍛錬、鍛錬、鍛錬のみで、しかしこれには食事すら満足にできないうちにやったところで無意味である。
    「焦らないことだよ」
     小さな音を立てて、燭台切が小鉢を置く。彼の穏やかな笑みは、見ている方の心も落ち着かせてくれる。
    「焦る気持ちも、わかるけれどね。ひとまず、鶴さんは本丸に慣れるのが先。まだみんなの顔と名前、覚えていないでしょう」
     ああ、と鶴丸は頷く。鶴丸国永はあちこち転々としてきた刀ではあるが、だからといって顔見知りが多いわけでもない。昔にいけばいくほど記憶も朧気で、自分に近しいと思った三日月はなんとなくわかったものの、ほかの三条については紹介されるまでわからなかった。出陣や遠征で長く不在にしている刀剣男士も多く、おそらく鶴丸はいまだこの本丸にいるすべての刀剣男士と会話できてはいないだろう。
    「伽羅ちゃんがいなくなってから顕現した仲間も多いからね。あのときから色々と本丸内も増改築で変わったし。だからふたりでまず、今の本丸を知っていって。僕が教えられる範囲なら、なんだって教えてあげるから」
     燭台切も、この本丸に顕現してからは長い。一振り目の大倶利伽羅よりは後だが、一振り目の鶴丸よりも先に顕現した刀剣男士だった。
     おそらく、燭台切は大倶利伽羅の空白の数年を気にしている。今や二振り目の大倶利伽羅の方が、一振り目の大倶利伽羅よりも練度が高く、戦場慣れしている。ふたりの戦力差は簡単に埋まることはないだろう。鶴丸の目からも、大倶利伽羅がすっかり二振り目の方に自分の本来の居場所を明け渡しているように見えるのは、その戦力差を大倶利伽羅が痛感しているせいかもしれない。
    「……なあ、光坊」
     空気を誤魔化すように、鶴丸は燭台切が持ってきたばかりの小鉢に触れた。硝子でできているそれは、少しひんやりとしている。
    「これはいったいなんだい?」
     黄色い、柔らかそうな食べ物だ。一部分だけが茶色になっている。
    「これはね、プリンっていうお菓子。卵と砂糖と牛乳で作ったんだよ。ふたりに、特別にデザート」
    「へええ。砂糖っていうことは、甘いのか?」
    「それは食べてみてからのお楽しみかな。はい、スプーン」
     燭台切から受け取ったそれで、黄色の物体を掬う。ぷるぷるとしていて、滑り落ちないか不安になるが、なんとか無事に口元へと運んだ。
    「美味しい!」
     口に冷たさと、甘さが広がる。
    「いいな、これは。気に入った」
     するすると食べられるし、見た目も可愛らしい。喜ぶ鶴丸に、燭台切も嬉しそうに笑った。
    「初めて食べるものをそういう風に楽しんでもらえて嬉しいよ。元気が出たでしょう」
    「光坊は本当に料理がうまいんだなあ」
    「これくらい、鶴さんにもできるよ。包丁も必要ないし。今日、一緒に作ろう。伽羅ちゃんも。今度はみんなの分をね。これも大事なお仕事だよ」
     ああ、と鶴丸は頷く。光忠は人をその気にさせるのがうまい。今、鶴丸たちは無力感に打ち拉がれていて、どうにも気持ち的にうまくない。直接的に戦場へ立つことができずとも、本丸を支える仕事はあるのだと光忠は教えてくれている。今はまだこれくらいしかできなくとも、元気になることをこうして鶴丸は身をもって知っている。
     すごいなあ、と鶴丸は素直に思う。
    「きみがいて、なんだか救われた気分だよ、俺は」
    「なあに、それ」
     燭台切は苦笑した。

     肉体を得てからの本丸は、ただのドッペルゲンガーだったときとはやはり違う。あのときには話をできる者は多くなかったが、今は廊下ですれ違えば挨拶もできる。顕現したばかりの鶴丸をなにかと気に掛けてくれていると感じるのは、鶴丸が随分と中途半端な顕現をしたせいもあるだろう。一振り目が無事な中で顕現した二振り目の立場は、ほかの二振り目に比べると気が楽な方かもしれない。
    「光坊はさ、『大倶利伽羅』が二振りいること、どう思っているんだ」
     洗い物をしながら、鶴丸は燭台切に問う。作ったばかりのプリンは、今は冷蔵庫で冷やしていた。
    「どうって」
    「きみ、伽羅坊が折れたと思っていたんだろ。で、戻ってきた。そういう諸々のことで戸惑ったりしないもんかね、と」
     その大倶利伽羅は、畑当番から収穫したばかりの野菜を受け取りに行っている。洗い物が終われば、今度は大量の皮剥き作業だ。黙々と作業するのは、性に合っているとはいえないが、終わりが見える作業はありがたくもある。
    「戸惑い、ね。そりゃあ、あるさ。僕ってどちらにも平等に接することができているのかなってね」
    「平等?」
    「二振り目の伽羅ちゃんは、やっぱり状況が状況だったからみんなと距離を置いていたでしょ。僕は普通に接しようとしていたけれど、伽羅ちゃんだってそれをわかっていたから、正直あんまり喜んでいるようには見えなかった。で、一振り目の伽羅ちゃんが戻ってきたから、これで普通の距離感で接することができると思ったんだよね。実際、二振り目の伽羅ちゃんは前よりもこの本丸に溶け込んでいるように見える。けど……」
     燭台切はそこで、戸惑うように言葉を切った。
    「けど、今度は一振り目の伽羅坊の方がみんなと距離を置いているように見えるって?」
     うん、と頷く姿に、だよなあと鶴丸は同意する。そう思っているのは鶴丸だけではなかったのだ。一振り目の大倶利伽羅にも、二振り目の大倶利伽羅にも、悪気はない。いや、どうだろう。自然と本丸にいるみんなと距離を一定に保とうとする一振り目の大倶利伽羅に二振り目の大倶利伽羅が気まずい思いをしているように見えるから、タチが悪いのは一振り目の大倶利伽羅だ。
    「なんというか、一振り目の伽羅坊はすっかり自分の居場所を二振り目に譲ったように見えちまうようなあ」
     二振り目の方が、今やすっかり一振り目の大倶利伽羅がいた時間よりも長い。一振り目の大倶利伽羅がいたことを知っていても、会ったことがない者がほとんどなのだ。燭台切だって、一振り目と会話がしたことはあっても、二振り目と過ごした時間の方が長いので余計戸惑いを覚えてしまう。
    「あれは、よくないな。一振り目の伽羅坊は、二振り目の伽羅坊がどれだけ長いことこの本丸で気まずい思いをしていたかを知らないからなんだろうが」
     そういう鶴丸だって、ドッペルゲンガーだったときの僅かな間の出来事でしか雰囲気を知らないのだが。あのとき居たたまれない思いをしていた二振り目の大倶利伽羅は、今は別の方向で居たたまれない思いをしている。
     一振り目の大倶利伽羅が帰ってきて、それですべて解決したように思えたのだが、どうやら甘い考えだったらしい。
    「伽羅ちゃんは、ええと、一振り目の伽羅ちゃんはさ。あまり、気にしていないよね」
    「そうだなあ」
     一振り目の大倶利伽羅が気にしているのは、今自分が戦力として役に立っていないことであって、二振り目との間に存在している数年間の時間差についてはなにも感じていないようだった。自分がいなくなっている数年の間に顕現した刀剣男士との関係に生じるズレのようなものも、意に介していない。図太いのか、なんなのか。
     鶴丸は、一振り目の大倶利伽羅についてまだ多くを知らない。大倶利伽羅は大倶利伽羅で間違いなく、根は一緒なのだろうが、二振り目の方があれこれ気を遣って周りと距離を取っていたのとは反対に、一振り目の方が気にしなすぎて逆に距離を生んでいる。こうしてみてみると、まるでタイプが正反対だ。気にしすぎな分、二振り目の方が若干可哀想に思えてくる。
    「俺と一振り目の俺も、違いってあるのかね」
    「二振り目の鶴さんのほうが、なんか、容赦がないというか」
    「なんだい、それ」
     褒めているんだよ、と燭台切が苦笑する。
    「それで僕は……随分救われているよ」
     水の音にかき消されそうなくらいに小さな声だった。どう返したらいいものだろうか、と鶴丸は悩んでしまう。手を止めて燭台切を見上げる鶴丸の視線に燭台切は気がついているはずなのに、鶴丸の方を見ようとはしなかった。
    「鶴さんはさ。今までこの本丸にあった色々なことを、軽くしか知らないでしょ。だから平気で一振り目の伽羅ちゃんの手を引っ張ってみんなの中に連れてきてくれる。きっと、帰ってきたのが伽羅ちゃんだけだったら、うまくいかなかったと思うんだよね。あなたは今まで本丸の中で絡み合っていた複雑なものを、全部解いて、まったく別のものにしてくれるように僕には思えたんだ」
    「そんな大仰な」
    「伽羅ちゃんには、内緒だよ。どっちの伽羅ちゃんにもね。自分が無力で、本当に嫌になる」
     最後は、吐き捨てるようだった。
     燭台切が望むことは、一振り目の鶴丸が自分の折れたあとに鶴丸へ望んでいたことに近い、気がする。自分が折れたあとに、二振り目である鶴丸が二振り目の大倶利伽羅へ居場所を作ることを望んだ。それと似たようなものなのに不快感がなかったのは、単純に大倶利伽羅のことが気に入っているから鶴丸が好き勝手しているのであって、そこに義務的なものを感じていないからだ。自分が好き勝手やったこと。傷の舐め合いと思われてしまうかもしれない。同じような拷問食を共にしていたから、一振り目の大倶利伽羅に親近感が湧いているのは否定できない。
     ううん、と鶴丸は悩みつつ、手を伸ばし燭台切の頭を乱暴に撫でた。わ、と燭台切が悲鳴を上げる。
     難しく考えすぎだ。
    「きみは、良い子だな。俺たちの方が、きみに救われているよ。こうして、まだまともに戦力にならない俺たちにもできることがあるときみが教えてくれるから、この本丸に居場所はあるのだと思える。平等だとか、そんなこと、考えなくっていいさ。一振り目の伽羅坊と、二振り目の伽羅坊はそれぞれ個別の存在だから、同じ秤になんか載せる必要などないんだ」
     な、と微笑めば、そうだねと燭台切は苦笑した。
    「鶴さん。手、濡れてる」
    「我慢しろ、我慢」
     そうやってふたりで笑っているうちに、大倶利伽羅が戻ってくる。籠を抱えた大倶利伽羅は、なにをやっているんだと呆れた顔で鶴丸たちを見た。
    「おかえり、伽羅坊」
    「ただいま」
     大倶利伽羅が持ってきた籠を置くと、重い音がする。このほかに、蔵にある野菜も取りに行く必要があった。燭台切は調理方面でみんなから頼りにされているが、食糧管理はまた別に担当がいる。管理簿は顕現したばかりの鶴丸から見てみるとさっぱりな内容ではあったが、いずれは覚える必要がある、のかもしれない。兵糧の管理は大事なことくらい、鶴丸にもわかっている。
    「そろそろプリン、冷えたかな。休憩がてらに僕らだけ先に食べようか」
     冷蔵庫を開けながら燭台切が提案する。その様子からは、先ほどの会話で見せたような雰囲気は感じられなかった。鶴丸や大倶利伽羅に心配させまいと自分の気持ちを飲み込む姿は立派だが、あまり苦労はさせたくはないなと思う。
     一振り目の大倶利伽羅も、二振り目の大倶利伽羅も、どちらも好きだ。以前のように表立った不穏な空気はなくとも、少しばかりのズレが、落ち着かない気持ちになってしまう。
     悪いやつではないんだがな、と鶴丸はスプーンでプリンを掬う大倶利伽羅を眺める。悪気がないからこそ、だ。自分がなにかできるとも思えないが、時間が解決してくれるようなことなのだろうか。
    「鶴さん、食欲ない?」
     手が進まない鶴丸に、燭台切が心配そうな声を掛けてくる。いや、と慌てて首を横に振った。
    「まだあまり、食べるのに慣れてないのかもしれないな。美味しいには、美味しいよ。伽羅坊はどうだい」
     尋ねると、どうやらとうに食べ終えているようだった。意外にも食が早い。動いた分、腹が減っているのかもしれない。
    「食べられそうなら、俺の分も食べてくれ」
     大倶利伽羅は、じっと鶴丸の顔を見る。その視線から逃れるように、鶴丸は席を立って自分の分のスプーンを洗った。その手が僅かに震えていることに気づき、小さく息を吐く。
     さて、時間が解決してくれる問題だとして、自分にその時間が残されているだろうか。

     鶴丸には今、出陣の仕事も内番の仕事も与えられてはいない。あくまで今鶴丸に与えられているのは「お手伝い」で、それも仕方がないことだと思う。効率性を重視し不安要素を排除すればこうなることは理解できるし、本丸での生活になれていけば直に仕事を任せてもらえるとは事前に聞いていた。
     ただ、少々退屈ではある。「お手伝い」はしていても、やはりまだ本調子とはいえない鶴丸や大倶利伽羅のことをみんなが気にして、早々に仕事を切り上げてしまうからだ。どちらかといえば、退屈な生活のほうが身体に障る気がするんだがなあ、と鶴丸は掲示板を見に行った。
     今日の出陣や内番の予定は、広間の前の掲示板で告知されている。もちろん前々から予定を組んではいるが、急な任務などが入れば予定が変わることも当然あるそうで、最新情報はひとまずこちらに掲示されるようだ。
    「二振り目の伽羅坊は、今日は水やりか」
     ちょうどいい。手伝おうと庭へ移動する。水やりくらいならば、鶴丸にだってできる。多分。どれくらい水をやればいいのかは、流石に聞かないとわからないが。
     二振り目の大倶利伽羅の部屋と、今鶴丸が過ごしている部屋は離れているから、最近はあまり接する機会が多くはなかった。二振り目の大倶利伽羅は以前よりも随分と本丸のみんなと関わり合いが増えているようで、邪魔するのも悪い。
     鼻歌を歌いながら庭を散策して大倶利伽羅を探していると、遠く、目的の人影が見えて鶴丸は手を振った。
    「おおい、伽羅坊」
     すると、二振り目の大倶利伽羅は口元に人差し指を当てる。静かにしろ、とのことらしい。視線を動かした大倶利伽羅に釣られ、鶴丸もそちらを見た。
     庭にはいくつか長椅子が置かれている。そのうちのひとつに、一振り目の鶴丸と、一振り目の大倶利伽羅が並んで座っていた。一振り目の鶴丸が一方的になにかを話しているのを、大倶利伽羅は聞いているようである。時折、笑い声がこちらまで届いてきた。
    「話しかけなくていいのかい。どちらかに用事があるんじゃ」
    「いや、構わない」
     大倶利伽羅は首を横に振る。
    「ふうん……?」
     本当に、いいのだろうか。
     大倶利伽羅は眩しいものを見るように、目を細めている。
    「あいつは、ずっと後悔していたからな。あの日、一振り目の俺と話ができていないままだったことを。だから今、ああいう風に話ができているのを、良かったと思っている」
     本心なのだろう。ぶっきらぼうでありながら、声には優しさが含まれている。
     鶴丸は再度、ふたりの姿を見た。一方的に一振り目の鶴丸の方が話しかけているようであったが、大倶利伽羅は席を立つ様子もなく、鶴丸の話に聞き入っている。関係性は、悪くないように思えた。
     そうだな、と鶴丸も小さく笑った。
     後悔を解消できる機会など、本当はそう多くはない。あの日一振り目の鶴丸は戦場で折れていたかもしれないし、そうしたら一振り目の大倶利伽羅が帰ってくることもなかったかもしれない。こんな風景は、あり得なかったかもしれない。
     だから、この光景が大切なもので、邪魔をしたくないという気持ちは、鶴丸にもよくわかった。
    「それより、お前こそどちらかに用があったんじゃないのか」
    「ああ、いや。俺はきみを手伝おうと思ってな。知っているとは思うが、俺は仕事がなくて暇だったし。でも、今ここで水やりをしてもふたりの邪魔になるだろ。ちょうどいい。もともと、きみには聞きたいことがあったんだ。時間をもらえるだろうか」
     ここではちょっと、と納屋の方を指差せば、大倶利伽羅はちらりと再度ふたりの方を見てから小さく頷いた。
     鶴丸も、まだ話しているふたりを見る。
     あのふたりが今こうして一緒にいることが奇跡であるというなら、それ以上を望むのは、贅沢すぎる話なのだろう。
    「聞きたいこととはなんだ」
     一応、ちゃんと話を聞いてくれる気はあるようだ。
     納屋の中に入り、ふたりで壁に寄りかかる。外よりは日が当たらない分、涼しく、同時に先ほど見た光景と比べて少しばかり陰鬱な気分にさせられる。
    「きみ、顕現したばかりのころ、どうだった?」
    「どう、とは」
     大倶利伽羅は訝しげに首を傾げる。
    「青江や三日月よりも、きみがいいと思った。きみと俺は同じような立場だから」
     この大倶利伽羅も、鶴丸と同様、一振り目が健在な状態で顕現した二振り目だ。青江や三日月とも顕現してから親しく話す機会は多かったが、最初に大倶利伽羅に話を聞きたかった。
    「うまく眠れない。食欲も湧かない。……どうにも、肉体の調子が悪い」
     食欲が湧かないのは、今はまだ肉体に慣れていないだけなのかもしれない。ただ、同じように療養中である一振り目の大倶利伽羅は徐々に食欲が戻ってきているようだから、どうしたってその差は気になった。
     鶴丸は自分の手を開いたり、閉じたりを繰り返した。少しだけ震えている。うまく力が入らないのだ。
    「きみは俺と『近い』だろ。きみは、顕現した当初どうだったんだい」
    「俺とお前とでは違う。お前は蔵の中で倒れていたところを一振り目の俺が見つけてきた。いつの間にか顕現していたことは同じだが、数日目覚めないということは俺にはなかった。ほかの二振り目の連中も同じのはずだ」
     確か、と大倶利伽羅が記憶を掘り返しつつ話す。
     この大倶利伽羅は「一例目」だ。すべてのドッペルゲンガーの事例を見てきたから、間違いはないのだろう。
     鶴丸は息を吐き、自分の手を見下ろした。
    「そうであるとするなら、やはり俺個人の問題のようだ。顕現時に不具合があったんじゃないかと思うんだ。力が入らない。眠れない。それが二振り目特有のものかとも考えていたんだが、どうやら違うようだ」
     このままでは、辛うじて与えられた仕事であっても全うできない。
     唇を噛む鶴丸に対して、なにか妙なことを考えていないだろうなと大倶利伽羅が問う。その言葉に、鶴丸は思わず笑ってしまった。
    「きみが言ったんだろう。俺ときみとは『違う』。きみは――、きみは、一振り目がいなくなったあと、長く本丸で過ごしてきただろう。もちろん、一振り目の伽羅坊が生きていることなど、きみもほかのみんなも知らなかっただろうから、なんだが。きみはもうすっかり、この本丸の主戦力さ。俺とは、違う。俺はまだ顕現したばかりだ。こんなザマじゃあ、戦力にはなり得ない」
     下手に情が湧く前に、刀解するのがいいと思う。
     この本丸における次のいざこざの原因に、自分自身がなってしまうのは、耐えられない。
     鶴丸が笑って言うのに、大倶利伽羅は返す言葉を考えているようだった。大倶利伽羅自身がそのいざこざの原因としてかつて在った分、鶴丸をどう止めようか悩んでいるのだろう。優しい男だ。
    「なにか、手段があるかもしれないだろう」
    「きみ、わかっているのかい。一振り目の俺や、一振り目の伽羅坊が助かったのは、単純に運が良かっただけだ」
     二度目は、きっと起こらない。
    「またいつ、同じようなことが起こるかもわからない。そのとき、俺が二振り目としての役割を全うできないのは、俺が許せないんだ。きみは一振り目が帰ってきた今でもこの本丸の戦力として申し分ないが、俺に今後二振り目として全うできる可能性がないのであれば、やはり、鉄に戻すべきだ」
    「諦めるのか」
     煽るようなことを言うのは、鶴丸を激昂させて前言撤回させたいからなのだろう。
     どうにも、彼にとって厳しいことを話してしまった。けれどやはり、一番初めに話すのは彼でありたかったのだ。
    「諦めるというのとは、少し違う気がする。俺はな、伽羅坊。一番見たいものを見られたんだ。それで十分だと思った」
    「見たいもの?」
    「きみと一振り目の俺が、一緒にいるところさ」
     くすりと笑えば、大倶利伽羅は驚いたように目を見開く。
    「一振り目の俺はもう折れたと思っていたからな。目が覚めて、きみたちが一緒にいるところを見て、俺はこれ以上ないと思ったんだ。これ以上ない、いっとう美しいものを見ることができた。胸がいっぱいになる、というのはああいうことをいうんだろう。だから、俺はもう十分なんだ」
     そう、十分だった。
     顕現した鶴丸は残念ながらこの本丸の戦力になり得なかったが、しかし、時間をもらえた。あのまま消えていたのなら、決して見ることのできなかった光景を見ることができた。先ほど眩しそうにあのふたりを大倶利伽羅が眺めていた気持ちを、鶴丸だって抱いている。これ以上望むのは、贅沢というものだ。
     鶴丸がいなくなっても、一振り目の鶴丸がこの大倶利伽羅と一緒にいられるというのであれば、もうそれで十分だった。
    「俺は……」
    「きみは、なにも言わなくていいさ。一振り目の俺にもな。きみは、一振り目の俺と一緒にいてくれ。俺の望みというのはそれくらいさ」
     望むことといえば、本当にそれくらいだ。きっと、彼ならば叶えてくれるだろう。
     複雑な表情を浮かべる大倶利伽羅の顔を見ないように、乱暴に頭を撫でる。そうすれば嫌がるように身を捩ったので、鶴丸は笑った。
     かたん、と音がして、はっと鶴丸が音の方を見る。そこには一振り目の鶴丸が立っていた。
     話を聞かれていただろうかと背中に冷や汗が流れる。いずれは知られてしまうかもしれない内容なのだろうが、今は事を荒立てたくはない。しかししばらく身構えるも、話を聞かれた様子はないようだった。動かない一振り目を訝しんで、鶴丸は納屋の入り口へと近づく。
    「どうしたんだい」
    「ああ、うん、その、水やり当番なのに伽羅坊の姿が見えなかったから探しに来たんだ。いるなら、いい。うん、それだけだ」
     明らかに挙動がおかしい。若干、怒っているようにも感じる。どうしたのか聞こうにも、一振り目の鶴丸は足早に立ち去ってしまい、ふたりだけが残されてしまった。大倶利伽羅と顔を見合わせるが、どうにも彼にも一振り目の様子がおかしい理由に心当たりはなさそうだった。あんな風に感情をあらわにするようなタイプには見えなかったのだが。
     とにかく、話を聞かれた心配はなさそうでそこだけは胸を撫で下ろす。
     ひとまず、昼を食べ終えてからでも主のもとへ行こうと決めた。休憩時間であれば、近侍たちもそばにいないだろう。

    「はー、」
     若干痛む頬を押さえながら、鶴丸はひとり本丸を歩いていた。
     そろそろ夕餉の時間だ。燭台切の方を手伝おうかと思ったが、残念なことに厨を追い出されてしまった。鶴丸の様子がおかしいことを察したのだろう。余計なことはなにも言わず、ただ大倶利伽羅――この場合は一振り目の方の大倶利伽羅――を探してこいとだけ頼まれたのである。なんだか心配を掛けてしまったようで、申し訳がない。
     自室や道場などを見てみたが、どうやら建物内にはいないようだった。となると、外だろうか。万屋などには行っている気配がないから、どこかで散歩でもしているのかもしれない。鶴丸にとっては最近顕現したばかりの本丸でも、大倶利伽羅にとっては慣れた場所だ。自分よりもほかの者のほうが適任のようにも思えたが、燭台切の気遣いでもあるだろうし、鶴丸としてもこのまま本丸にいるのは気まずい。
     なんとなく、こちらかな、とぶらりと足を伸ばしてみる。ただのドッペルゲンガーだったときは、帰ってこられなくなったら流石に危ないなという危機感から遠出はできなかったし、肉体を得てからも万全の調子ではないのに道中で動けなくなってしまったら申し訳ないという思いから、あまり建物から遠く離れることはしなかった。今だってやはり本調子ではなかったが、少しくらいいいだろうという気持ちで歩いていく。大倶利伽羅を探すという目的もあったし、どうにも、この煮詰まってしまった気分が晴れる方法が見つからないかという思いもあった。
     そんな風にぶらりぶらりと歩いていたものだから、小高い丘を登ったときにまさか本当に大倶利伽羅がいるとは思わなかった。
     大倶利伽羅は素振りをしていたようで、今はジャージの上を脱いでいる。流れる汗を乱暴に拭っている大倶利伽羅に、鶴丸は声を掛けた。
    「精が出るなあ。でも、そのくらいにしておけ。夕餉の時間だぜ」
     大倶利伽羅は近づいてくる鶴丸の気配に最初から気がついていたのだろう。驚いた様子もなく鶴丸を見る。
    「その顔はどうした」
     ああ、うん、と鶴丸は苦笑する。日が暮れている中でも、腫れた鶴丸の頬はわかったらしい。まだ、若干痛む。顕現して最初の怪我がこの有様とは、情けない。
    「主に、ちょいと怒られてな」
     鶴丸の言葉に、大倶利伽羅は息を吐く。
    「あまり、主に苦労を掛けさせるな。俺のせいで、だいぶ辛い思いをさせてしまったようだからな」
     それは大倶利伽羅にもわかっていたのか。当たり前か。
     驚きにも似た気持ちを抱く鶴丸を尻目に、大倶利伽羅はその場に座った。息が上がっている。鶴丸も近づき、横に腰掛けた。
    「……どうにも、俺には欠陥がある。顕現時の不具合のようでな」
    「そうか」
    「眠れないし、力が入らない。食欲も湧かない。ないないづくしでお手上げだ」
     茶化すように、肩を竦める。
     ほかの二振り目と鶴丸の違いはなんだろうかと考えたとき、もしかしたらと思い至ったのは、二振り目の大倶利伽羅に引っ付いて一振り目の鶴丸を探しに行ったことだろうか。ほかの二振り目は、ドッペルゲンガーの状態で本丸の外へと出たことはなかった。不安定な状態でゲートを通った際に、もしかしたら霊体として大事な部分に損傷を負ったのかもしれない。けれどきっと、時を遡ったところで鶴丸は同じ行動を取っただろう。ならばこの結果は、動かしようがない。鶴丸が自分で選び、行動した結果が今のこの状態というわけだ。だから、鶴丸に後悔はない。
    「戦力にならないのであれば、情が湧く前に刀解しろと請うた」
    「それで」
    「この有様さ」
     笑いながら鶴丸は腫れた頬を見せる。主へ話を切り出してすぐに、近くにあった本を投げつけられ、部屋を追い出された。そのあとすぐに近侍が戻ってきたものだから再び話をすることは難しそうだったし、下手すれば近侍たちにも話が伝わっているかもしれない。反対されるかもしれないとは思ったが、あそこまで拒否反応を起こすとは思わなかった。
    「情が移るのが、早いな」
     呆れるほどに。その情は命取りになりやしないかと心配になる。
     鶴丸の行動は遅かったのだ。
    「……もうここでは、刀が何振りも折れている。その主に刀解を願うのは酷だ」
    「きみが、そっち側につくとはな。俺にも誇りというものがあるんだぜ」
     むしろ、それしかない。今の鶴丸だって、せめて矜持くらいは守りたかった。それすらできないというのなら、鶴丸がいる意味とはなんなのだろう。
     膝を抱える鶴丸に、大倶利伽羅が自分の刀を見せた。鞘から抜いた刀は既に手入れが済んでおり、傷ひとつない。龍が刻まれた、美しい刀だ。美しい、刀ではあったが――。
    「本気を出せないのは俺も同じだ。長い間、刀のままでいすぎた。お前に刀解の許可が下りるのなら、当然、俺も刀解してもらう必要がある」
     慌てて鶴丸は首を横に振った。
    「俺ときみは、違う」
    「なにが違う」
     大倶利伽羅の問いに鶴丸が目を逸らす。
     あまりにもまっすぐすぎるその瞳は、今の鶴丸には辛すぎた。
    「きみが戻ってきたとき、みんなが喜んだろう。きみはこの本丸の黎明期に顕現した刀だ。今はまだ戦力として本領を発揮できずとも、また戦える日が来るだろう」
     こうして、大倶利伽羅は諦めずに再び鍛錬している。きっと、いつか戦場に立てる日が来るだろう。しかし鶴丸は、自分にその日が来るとは思えないのだ。
    「俺はただ、主や光忠を無駄に悲しませるのを望まないだけだ。それは、俺自身の誇りよりも優先されるべき事柄だと判断した。今現在戦力にならないということで刀解を願ってもその結果が本丸全体の士気に関わるのであれば、それは俺の望みではない。俺はもう十分、この本丸に迷惑を掛けた。迷惑を掛けた以上、挽回の方法を考えていく必要がある」
     大倶利伽羅が刀を翳す。夕陽に照らされ、刀はより一層輝いて見えた。
     大倶利伽羅にだって、矜持はある。それでも自分が今現在戦力にならないという事実を受け止めながらこうしてひとり鍛錬をして、己の弱さを飲み込んで、戦っている。たとえここが戦場でなくとも、大倶利伽羅にとって今しているのは紛れもない戦いだ。
    「きみは、強いな」
     眩しい、と鶴丸は目を細めた。
    「俺は結局、戦力にならない自分が耐えられないというだけなのかもしれない。主が俺に情が移ってしまうのが早いんじゃなく、俺がまだ本丸に情が湧いていないだけなんだ。確かに俺の誇りが、拘りが、本丸の士気に悪影響を及ぼすのであれば、それは望まない。きみのは正論だ。個人の感情は、組織で優先されるべきではない。俺は道具で、戦う者だからだ。それを見失っていた。今、満足に戦えずとも、忘れるべきではなかった」
     わかっている。正しいのは、強いのは大倶利伽羅の方で、間違っているのは、弱いのは、鶴丸だということ。
     しかし、自分が辛いという感情を捨てきれない。ままならない。
    「俺もお前も、今はまだ半人前だが、急ぐ必要はない。戦力として役に立つ日は、この先必ず来る」
    「きみがそんな希望的なことを言うなんてな」
     鶴丸がからかうように笑ったが、大倶利伽羅は怒ることはない。鶴丸のとなりから、立ち上がることもない。
     大倶利伽羅にとっては、希望的観測ではないのだ。必ずその日が来ると、本気で信じている。自分自身のことだけではなく、鶴丸のことも。
     自分のこの先を信じられない鶴丸の代わりに、鶴丸を信じてくれている。
     だとしたら、自分にできるのはそれに応えることだろう。たったひとり、こんな自分であっても信じてくれる誰かがいるのなら、少しでも報いたい。
    「俺もここにきて、鍛錬してもいいかい」
    「勝手にしろ」
     つれない態度だが、鶴丸は嬉しくなった。拒否されないというのはありがたいことだ。
    「いつか、きみとともに戦場へ立ちたい」
     きみは、どんなふうに戦うのだろう。その太刀筋を、敵を睨みつけるその瞳を、そばで見てみたい。

     昼は暖かくなってきたといえど、夜は少し肌寒い。
     それでも気分は晴れるだろうと、鶴丸は縁側に座り、月を眺めていた。
     今の時間ならば寝ずの番の連中もここを通り掛かることはないだろう。寝られないのであればいっそ寝ずの番を担おうかとも思ったが、うまく眠れない鶴丸は集中力に欠いている。肝心なときに役に立たないのであれば、やはり意味はないだろう。
    「眠れないか」
     大倶利伽羅の部屋は、鶴丸のとなりだ。気配に気づいたのか、障子を開けた大倶利伽羅が声を掛けてくる。悪いことをしてしまったなと思いながら、大倶利伽羅に向き直った。
    「どうにもな。布団の中で眠れない夜を過ごしていると、気が滅入る。酒を飲んだりもしているが、あまり効果は無いな。主には薬を出そうかとも提案されたが、そう言われるとなんだか抵抗してみたくもなる気がして。負けず嫌いだからな、俺は」
     あまり重い雰囲気にならないよう、鶴丸は足を軽く揺らした。
     鶴丸がうまく眠れないことを、きっと大倶利伽羅も、平野も気がついていた。燭台切もかもしれない。それでも敢えて指摘することをしなかったのは、優しさだろう。今本丸の役に立っていないことに悩んでいた鶴丸に気を遣ってくれたのだ。眠れていないことを打ち明けた今は、胸のつかえが取れたようだった。
     俺のことは気にしないで、眠ってくれて構わない。そう告げようとした鶴丸に、大倶利伽羅は手を差し伸べた。きょとんとした顔で鶴丸は大倶利伽羅を見上げる。
    「来い」
     夕方は刀を握っていた手は、今、鶴丸に差し伸べられている。
     鶴丸はゆっくりその手を取った。
     一振り目の大倶利伽羅が使っていた元々の部屋は、現在二振り目が使っている。二振り目の大倶利伽羅が顕現した当初、一振り目が戻ってくるとは思われていなかったからだ。そこで一振り目の鶴丸と一緒に過ごしているため、一振り目の大倶利伽羅は新しい自室を得た。そういうわけで、鶴丸のとなりの部屋が今現在の大倶利伽羅の部屋なのである。
     荷物はまだあまり多くなく、殺風景。文机の上に日記が載っている。ああ、これはあのときの日記か、と少しだけ嬉しくなった。また、無事に使ってくれているようだ。
     鶴丸を部屋へと通したあと、大倶利伽羅はいずこかへと消えたため、鶴丸は手持ち無沙汰になってしまった。よくないとは思いつつも、部屋を見渡してしまう。
     ここにあるものは、ほとんど再顕現してから揃えたものだろう。どれもが真新しく、そうであることが少しだけ寂しい。一振り目の大倶利伽羅は、二振り目が今使っている自分の元々の自室を取り戻そうとはしなかった。そこに一振り目の鶴丸が一緒に過ごしているということもあるだろうし、二振り目の大倶利伽羅の方が長く部屋を使っているというのを知っているからもあるだろう。二振り目の生活感があった部屋と比べ、寂しいものを感じてしまう。
     確実に再顕現する前から大倶利伽羅が使っていたとわかるものは、この日記くらいしかない。正直あまり面白みのない、日記。まあ、本人も他人に読ませるために書いたわけではないから、そこに楽しみを見出すのもおかしな話ではある。
     ぼんやりと過ごしていると、大倶利伽羅が戻ってきた。手にはふたつ、マグカップがある。そのうちのひとつを、鶴丸に差し出す。
    「なんだい、これ」
    「牛乳に蜂蜜を混ぜたものだ。熱いから気をつけろ」
    「へえ」
     おそるおそる大倶利伽羅からマグカップを受け取る。夜風に冷えた身体に、マグカップは熱すぎた。
     息を吹きつつ、牛乳を冷ます。少しずつ、慎重に口へと運ぶ。
    「甘い」
     プリンとはまた違った甘さだ。砂糖ではなく蜂蜜を使っているからだろうか。
    「寝る前に酒を飲むのは、今のお前にとって変な習慣がつくとまずいから止めておいた方がいい。酒飲み連中に誘われることがあっても断っておけ」
    「わかった」
     身体を得てからの時間は、大倶利伽羅の方が長い。忠告を素直に受け入れて頷いた。
     熱い牛乳を、ちびちびと飲む。大倶利伽羅の方は熱い飲み物に慣れているのか鶴丸よりも随分早く飲み終わったが、鶴丸が飲み終えるのを急かすことはなかった。食べるのも飲むのも早いなあ、と少し感心してしまう。
     そうやってふたりともなにも言わずに長い間過ごしていたが、ようやく鶴丸が持っていたカップの中が空になる。それに気がついた大倶利伽羅が鶴丸からカップを取り上げ、再び部屋を出ていった。
     またしても手持ち無沙汰となった鶴丸は、こっそりと大倶利伽羅の日記を捲ってみた。
     日記には今日の鍛錬の記録と、まだ本調子でない旨が綴られている。日記の中では、偽る必要がないからだろう。部屋に戻ってきた大倶利伽羅が日記を読んでいた鶴丸を見て顔を顰めるので、鶴丸は詫びた。とはいっても、大倶利伽羅が気にしているのは鶴丸が日記を勝手に読んだことではないようだ。
    「痛感している自分の未熟さを知られるほど、恥ずかしいものはない」
    「でもきみは、俺のそういったことを知っている。お互い様さ」
     むしろ、知られすぎてしまっている。それが甘えに繋がってしまうから、申し訳なくもある。
    「なあ、きみ。きみは二振り目のきみのことをどう思っているんだい」
     こういうときにしか聞けないことを、直球で鶴丸は切り出した。周りに人がいては、聞けない。ましてや二振り目の耳に入るような場所では。今はまだ寝ずの番の連中が出歩く時間ではないし、耳を澄ませない限り会話が外へ漏れ出すことはないだろう。
     唐突な問いに、けれど真剣さを感じたのか、大倶利伽羅は少し考えてから口を開いた。
    「あのとき、無視して悪かったと思っている」
    「あのとき?」
    「俺がいなくなる前。俺も、あれの正体についてはよくわからなかったからな。ようやくなにが起こったのか全体を知ることができたのは、結局再び肉体を得てからだったし」
     ああ、なるほどと納得する。ドッペルゲンガーがなんなのか、それについてある程度の理解を深めたのは一振り目と二振り目のにっかり青江で、なにも知らないころの大倶利伽羅にとってまだ肉体を得ておらず自分以外誰にも見えていない二振り目の大倶利伽羅は「得体の知れないなにか」だったのだろう。
     ただ、その答えは鶴丸が欲していたものとはあまりにずれている。
    「二振り目の伽羅坊、気まずそうだぜ。きみの居場所を奪ってしまったんじゃないかってな」
    「そのことか」
    「気がついてんのかよ」
     気がついたうえで気にしていないのだから、大したタマだ。もちろん、褒めてなどいない。
    「奪ったわけではないが、今この本丸にとって戦力として存在するのはあの大倶利伽羅の方だろう。俺じゃない。この本丸に今いる連中にとって、大倶利伽羅はあいつの方だ。それが事実で、不服はない」
    「そりゃあ、そうかもしれないが」
     だからこそ、事態がややこしい。大倶利伽羅の力が落ちていなければ、あるいはここまで時間を掛けずに戻ってくることができたのなら、おそらく二振りの大倶利伽羅の立場は同等だった。二振り目の大倶利伽羅は一振り目の大倶利伽羅の居場所を奪ってしまったという自責の念があり、おかしいことに一振り目の大倶利伽羅が戻ってきてからもその問題は形を変えて存在している。この大倶利伽羅が自分の存在をあまりに自己主張しないせいもあった。同じく二振り健在している「鶴丸国永」はこんなことにはなっていないので、良くも悪くも人と積極的に馴れ合おうとしない大倶利伽羅の性格の問題が大きい。
    「では問うが。お前はどうして欲しいんだ、俺に」
    「ええー、うーん」
     聞かれるとは思わなかった。それは鶴丸の希望で決めていいものなのだろうか。そういうところが、駄目なんじゃないか。
    「なんというか、こう、仲良くというか。もうちょっとお互いに関わっていけば、あの子だってそう気にすることはないんじゃないか。俺と一振り目の俺はそのあたり、本の貸し借りをする程度には会話があるぞ」
     まあ、そもそもの始まりからして、鶴丸がドッペルゲンガーだったころは一振り目の鶴丸がこの現象をどういうものか理解していたから、そこでも決定的に差がある。青江はあの通りだったし、三日月も「引き継ぎ」はできていた。大倶利伽羅はどうしたって口数が多いわけではなく、交流に積極性を持たない。
    「きみはもっと、二振り目の気苦労を理解するべきだと思うぜ」
    「お前は二振り目としての気苦労をあまり感じてないようだがな」
    「俺は自由なのさ。今はこんな、足枷はあるがね」
    「……善処する。もうこれ以上本丸に迷惑は掛けたくないというのは紛れもない俺の本心だ」
     そうしてくれ、と鶴丸は笑った。
     さて、これからどうしようか。相変わらず眠気はあっても寝られそうにはないが、気分がすっかり明るくなったのは大倶利伽羅のおかげだ。
     そろそろ自室に帰ろうと腰を上げるが、そんな鶴丸に背を向けて大倶利伽羅は押し入れの中から布団を取りだし、敷いた。部屋の灯りを消してから掛け布団を捲り、横を叩く。どうやらとなりに来いとのことらしい。予想外の行動だ。
     なんだか人間の親子みたいだなと思いつつ、大倶利伽羅に導かれるまま鶴丸も布団へと潜り込んだ。
    「狭い」
    「我慢しろ」
     馴れ合わないが信条なのにこれは構わないのかと疑問を抱くが、敢えて聞かないことにする。
    「習慣を意識させる」
    「習慣?」
     暗闇の中では姿がはっきり見えるわけではないが、大倶利伽羅の声が近い。
    「あれを飲んだら眠れる、というのを身体に覚えさせる」
    「……眠れないんだが?」
    「一度覚えたら、なんとかなる。俺もお前も道具だ。条件を紐付ければどうにでもなる。お前が感じている体調不良のうち、いくつかは酷い寝不足から来ているものだ。おそらく、それを解消するだけで随分と変わる。……目を瞑れ」
     道具。条件。紐付け。なるほど、わかりやすいと思いつつ、鶴丸は目を瞑った。
     今まで、目を瞑ってもうまく眠れた気がしなかった。気がついたら朝になっていたが、身体は激しく動かしたわけでもないのに疲れは取れないままで、それが積み重なっていたものだから、刀剣男士といえど近いうちに限界は訪れていただろう。
    「きみは眠れないとき、なにを考えている?」
    「考えない。お前は極端だが、俺も以前はたまに眠れないときがあった。ほかの連中もそうだろう。そういうとき、対処の方法は各々違ってくるだろうが、俺は想像するようにしている」
    「想像?」
     しばらく、大倶利伽羅は沈黙した。考えない、とはいったがどう伝えればいいのか悩んでいるのだろう。
    「――揺れる、想像。波に揺蕩っている。流されるようで、留まっている」
    「波」
     鶴丸は当然、海で泳いだことがないので想像がしにくい。
    「では、人に運ばれているところは」
     それならば、と鶴丸は思う。
     かつて、ただの刀だったころ。もうすっかりと戦から遠くなり美術品としての面が強くなってはしまったが、ただの刀として存在していたころの自分。
     慌ただしく駆け回ったこともあったが、「主」という存在と共にあったころの記憶は、もうはるか遠くのことであっても、特別な心地だったことだけは思い出せる。
    「ああ、だから一緒に布団に入ったのか」
     自分以外の人の体温は、なるほど、かつての記憶を思い起こさせる。
     ああ、と短く答える大倶利伽羅の吐息が首筋に当たってくすぐったい。
    「そういえば、俺が肉体を得て初めて触れたのは、きみだったな……」
     目覚めたばかりの鶴丸に付き添ってくれていたのは、大倶利伽羅だった。
     自分だって刀から戻ったばかりで本調子ではなかっただろうに、優しいことだ。
     大倶利伽羅の体温は鶴丸のものよりもずっと高く、鶴丸は自分の身体が自覚していたよりも随分と冷え切っていたことを知った。
     長い間、夜風に当たりすぎたかもしれない。あるいは、体調不良の余波が現れているのか。
     鶴丸が体温を求めて大倶利伽羅に引っ付くと大倶利伽羅は邪魔だと文句を言ったが、鶴丸を布団から追い出す気配はない。
     揺れる、揺れる、揺れる。
     想像をする。
     顕現したばかりで蔵に倒れていた鶴丸を運んでくれたのは大倶利伽羅だったという。
     はたしてどんな風に運んだのかはわからないが、想像をしてみる。
     揺れている自分。優しく、揺れている。
     思い出せないのが、本当に悔やまれる。

     揺らされる。
     これは不愉快な揺れだと目を強く瞑った。
    「――鶴丸」
     穏やかな声だ。これは悪くはない。
     しかし揺らされるのは、嫌だ。
     溜め息ののち、部屋が明るくなる。鶴丸は呻いて布団を被ろうとするが、あっさりとそれは引き剥がされてしまった。
    「起きろ。朝だ」
     朝、という言葉に鶴丸は目を開ける。
    「朝だ」
     鸚鵡返ししたのを、我ながら間抜けだと思いつつゆっくりと鶴丸は上体を起こした。
    「そうだ。顔を洗いに行くぞ。そろそろ混み合う」
     まだぼんやりとしている鶴丸の腕を引き、立ち上がらせる。鶴丸がそのまま立っているうちに、大倶利伽羅が布団を畳む。
    「どうした」
    「いや、驚くほど眠れたなあ」
    「なら、良かったんじゃないか」
     大倶利伽羅は洗面用具を取り出したあと、窓を開ける。爽やかな春の風が部屋に流れ込んできた。こんなにも気分が明るい朝は初めてだ。
    「言っただろう。あとは何回か試して、うまく紐付けてやればいい。そのうちちゃんと眠れるようになる。お前の心配は杞憂だったという話だ。顕現の仕方が中途半端だっただけで、そのうちちゃんと人の身に慣れていく」
    「そんなものか」
     本当にそれだけだったのだろうか、と鶴丸は自分の手を見下ろした。意識が、しっかり晴れている部分と、まだぼんやりしている部分とが混ざり合って、変な感じだ。
    「少なくとも、今日は成功した。成功体験があれば、心の持ちようも違う。少しは気が楽になったんじゃないか」
     大倶利伽羅は朝に強いのだろう。鶴丸がただ突っ立っている間に、身支度をどんどん調えていく。はあ、と色々な意味で感嘆の息を吐いた。
    「うん。身体も、随分と軽い」
    「身体がちゃんと休まれば、食欲だって出るし、力が抜けるということもない。そのうち、出陣もできるようになる」
    「本当に?」
     鶴丸の問いにはまだ不安が滲む。それでも、ああ、と大倶利伽羅は頷いた。鶴丸が不安に思っても、その代わりに大倶利伽羅が鶴丸のことを信じてくれている。そのことに、ほっとする。
    「その前に、慎重に身体を慣らしていく必要はあるが」
    「鍛錬、ってやつだな。よし、伽羅坊。朝餉を終えたら、手合わせしようぜ」
     今度は鶴丸が大倶利伽羅の手を引き、廊下へと歩き出す。待て、と大倶利伽羅は慌てたように立ち止まった。
    「慎重にと言ったばかりだ。人の話くらい聞け」
     呆れた大倶利伽羅が鶴丸を落ち着かせようとするが、眠れた分、逸る気持ちを抑えきれない。なんだか、この大倶利伽羅を前にすると、自分が随分と子供っぽく我が儘になっていく気がしてくる。
    「俺を引き留めたのはきみさ。俺もきみも半人前で、けれどふたり足したところで一人前にはまだほど遠い。俺はきみと一緒に強くなりたい。――きみがいい」
     鶴丸の視線を受け止めた大倶利伽羅が息を吐く。
    「……朝餉を終えたら、あの場所で」
    「ああ!」
     鶴丸が破顔する。
     顕現してから一番、爽やかな朝だった。朝日に照らされた廊下を歩きながら、鶴丸はその景色を美しい、と思った。
     一番美しいものはもう見たと思っていたが、まだ、諦めないでいればもっと美しいものが見られるのかもしれない。できればそのとき、となりにいるのはこの大倶利伽羅がいい、と鶴丸は胸の中で思うのだった。

    「そういうわけで、もう少し頑張ってみようかと」
    「そうか」
     二振り目の大倶利伽羅はなにか書き物をしているようだった。一振り目の鶴丸は今出陣中のようで、部屋にはいない。
     色々と心配させてしまったから、この大倶利伽羅には話しておこうと思ったのだ。
    「悪かったな、振り回して」
     鶴丸が詫びると、そんなことはないと大倶利伽羅がペンを置いた。
    「俺たちの方も、お前を振り回したからな」
    「そりゃあそうだ」
     今は収まるところに収まっているからよかった。鶴丸にとって、やはりこのふたりにはいつまでも仲良くしていてもらいたい。
    「ちょうどよかった。これを、一振り目の俺に渡してくれ」
     言いつつ差し出してきたのは、一冊のノートのようだった。なんだこれ、と鶴丸は受け取ったそれのページをぺらぺらと捲る。
    「今、本丸にいる刀剣男士とどういう連携をしているのかをまとめた。どちらも『大倶利伽羅』だからな。基本的な戦い方は同じはずだ」
    「自分で渡せよ」
     嫌だ、と鶴丸は持っていたノートを返却する。そんな態度に、大倶利伽羅は若干顔を顰める。鶴丸が断ることなど、想定していなかったらしい。
     俺は、と小さく振り絞るような声で大倶利伽羅は言った。
    「俺はどうしても、あいつの居場所を奪ってしまったという感覚を、拭いきれない」
    「……そうかい」
    「だが、そのままではいけないということは、わかる。俺は随分と長い間、その立場のままで過ごしてしまった。これは俺のけじめだ。今の俺があいつよりも強いことを理解したうえで、こうする。もう、居場所を奪ったとは考えないようにする」
     まっすぐに訴えてくる大倶利伽羅の瞳を受け止め、そうかいと鶴丸は微笑んだ。どうやらこの大倶利伽羅の方が先に成長してしまったらしい。
    「だとしたら、やはりこれはきみが自分で手渡さないと駄目だな。きっと、あいつは喜ぶぜ。まあ、『大倶利伽羅』のことだ。顔には出ないんだろうけれどな」
     茶化しながら言えば、大倶利伽羅が複雑そうな顔をしたので、また笑ってしまった。
    「――伽羅坊。俺たちは、ちゃんと強くなるよ。それで、きみたちのように戦場に並び立てる関係になる」
     二振り目の大倶利伽羅と一振り目の大倶利伽羅は、これである種のけじめをつけられるだろう。もう、鶴丸がなにも言わなくとも、大倶利伽羅にはその選択を選べる強さがある。
     もう終わってもよかったと思っていた。けれどこうして、夢見たその続きにまだこんなふうにあたたかくなるものが残っているのなら、やはりまだ生きるという選択をしたのは正しかったのだろう。一振り目の鶴丸だけでなく、二振り目の鶴丸も、変なところで命を粗末にしてしまった。この大倶利伽羅がそれまで自分で選ばなかった新しい選択をするのであれば、鶴丸だって成長しなければならない。精神的にも、肉体的にも。
    「俺はもういかないと。夕餉の支度の前に部屋に戻ると思うから、そのころを見計らって部屋へ行くといい」
    「……わかった」
    「それじゃあ、またあとでな」
     手を振って、大倶利伽羅たちの部屋を出る。
     一振り目の大倶利伽羅の考え通り、睡眠不足が解消されただけでそれに付随していたのかほかの体調不良も随分と改善されたようだった。本当にただの寝不足だったのだろうかという疑問はあるも、こうして元気に毎日鍛錬できる程度になったのだから、よしとする。
     困ったのは、大倶利伽羅が設定した「眠るための条件」に知らず知らずのうち大倶利伽羅と一緒に眠るという行為が含まれてしまったことだ。あれから翌日、ひとり自室で同じことをしてもうまくいかず、結局は大倶利伽羅の布団に潜り込んでしまった。大倶利伽羅も、呆れたようだったが追い出すようなことをしなかったので、結局ずるずると夜は一緒に過ごしている。昼も一緒に鍛錬しているのだから、ほぼほぼ終日一緒にいるようなものだった。
    「まあ、いいか」
     楽しいし、あたたかいし。夏になったらどうしようかという不安はあったが、そのときになったら考えようと鶴丸は駆け出した。
     きっと、あの場所で大倶利伽羅が待っている。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ☺🙏👏💖💖💖💖💖😭💖💖👏👏👏👏👏
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works

    silver02cat

    DONEくりつる6日間チャレンジ2日目だよ〜〜〜〜〜!!
    ポイピク小説対応したの知らんかった〜〜〜〜〜!!
    切望傍らに膝をついた大倶利伽羅の指先が、鶴丸の髪の一房に触れた。

    「…………つる、」

    ほんの少し甘さを滲ませながら、呼ばれる名前。
    はつり、と瞬きをひとつ。 

    「…………ん、」

    静かに頷いた鶴丸を見て、大倶利伽羅は満足そうに薄く笑うと、背を向けて行ってしまった。じんわりと耳の縁が熱を持って、それから、きゅう、と、膝の上に置いたままの両手を握り締める。ああ、それならば、明日の午前の当番は誰かに代わってもらわなくては、と。鶴丸も立ち上がって、その場を後にする。

    髪を一房。それから、つる、と呼ぶ一声。
    それが、大倶利伽羅からの誘いの合図だった。

    あんまりにも直接的に、抱きたい、などとのたまう男に、もう少し風情がある誘い方はないのか、と、照れ隠し半分に反抗したのが最初のきっかけだった気がする。その日の夜、布団の上で向き合った大倶利伽羅が、髪の一房をとって、そこに口付けて、つる、と、随分とまあ切ない声で呼ぶものだから、完敗したのだ。まだまだ青さの滲むところは多くとも、その吸収率には目を見張るものがある。少なくとも、鶴丸は大倶利伽羅に対して、そんな印象を抱いていた。いやまさか、恋愛ごとに関してまで、そうだとは思ってもみなかったのだけれど。かわいいかわいい年下の男は、その日はもう本当に好き勝手にさせてやったものだから、味を占めたらしく。それから彼が誘いをかけてくるときは、必ずその合図を。まるで、儀式でもあるかのようにするようになった。
    1312

    Lemon

    DONE🎏お誕生日おめでとうございます。
    現パロ鯉月の小説。全年齢。

    初めて現パロを書きました。
    いとはじイベント参加記念の小説です。
    どうしても12月23日の早いうちにアップしたかった(🎏ちゃんの誕生日を当日に思いっきり祝いたい)のでイベント前ですがアップします。
    お誕生日おめでとう!!!
    あなたの恋人がSEX以外に考えているたくさんのこと。鯉登音之進さんと月島基さんとが恋人としてお付き合いを始めたのは、夏の終わりのことでした。
    一回りほどある年齢の差、鹿児島と新潟という出身地の違い、暮らしている地域も異なり、バイトをせずに親の仕送りで生活を送っている大学生と、配送業のドライバーで生活を立てている社会人の間に、出会う接点など一つもなさそうなものですが、鯉登さんは月島さんをどこかで見初めたらしく、朝一番の飲食店への配送を終え、トラックを戻して営業所から出てきた月島さんに向かって、こう言い放ちました。


    「好きだ、月島。私と付き合ってほしい。」


    初対面の人間に何を言ってるんだ、と、月島さんの口は呆れたように少し開きました。目の前に立つ青年は、すらりと背が高く、浅黒い肌が健康的で、つややかな黒髪が夏の高い空のてっぺんに昇ったお日様からの日差しを受けて輝いています。その豊かな黒髪がさらりと流れる前髪の下にはびっくりするくらいに美しく整った小さな顔があり、ただ立っているだけでーーたとえ排ガスで煤けた営業所の壁や運動靴とカートのタイヤの跡だらけの地面が背景であってもーーまるで美術館に飾られる一枚の絵のような気品に満ちておりました。姿形が美しいのはもちろん、意志の強そうな瞳が人目を惹きつけ、特徴的な眉毛ですら魅力に変えてしまう青年でした。
    17926