【マイファーストフレンド】 無尽蔵に沸き上がる灼熱が窓ガラス越し、夕焼けのように赤々と焼き付いている。
長い廊下の突き当たり。見慣れた光景。見慣れた扉。フェンリッヒは足を止め、目を閉じる。そして良く見知ったドアの向こう側へと耳を澄ました。
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人間との約束を守り、種としての生命線である吸血行為さえも己に禁じた我が主。驚くべきことに血を断ってから既に四百年以上もの月日が流れている。
オレは主のため心を鬼にして皮肉を放つ。イワシにしつこく血を仕込む。意志を曲げられないというのなら、気付かぬうちに血を口にして仕舞えるように。あなた様に本来の力を取り戻していただけるように。わたくしフェンリッヒが誠心誠意お手伝い致します。……ヴァル様は仕込みに気付く度、この狼めを叱責なさいますがどうかお分かりいただきたい。これは従者なりの心配りに他ならないのですから。
我が主、ヴァルバトーゼ様の約束を絶対とする旧き悪魔観。現代魔界においてそういった精神はとても希少で高潔なものだ。オレはかつてこの人の放つ強烈な光に魅せられた。それは傭兵として魔界を彷徨い歩いていた根無草にとってある種の救いだった。この人であればこそオレの野望は叶えられると直感した。暴君ヴァルバトーゼの暗殺未遂を経て、オレはヴァル様のシモベに、ヴァル様はオレの主となった。
そして間も無くして、我が主はあの忌々しい「約束」を結ぶこととなる。人間界の戦争を理由として約束を果たせなくなった主は魔力を保つ術を失い──結果、オレたちは根城としていた魔界上層区を追われ、中層区、下層区、更にはその下へと堕ちていった。
数多の追っ手から逃れ、遂には魔界のどん底と称されるこの地獄にまで辿り着いた。いや、辿り着いたなどと響きの良い逃走劇ではなかった。這いずり堕ちた、というのが正確な表現だろう。あれだけの暴を誇った吸血鬼は力を喪い、姿かたちまでも変貌を遂げた。けれどそんな状態にあってなお、主が交わした約束が軽んじられることは一度たりともありはしなかった。オレの必死の説得にも首を横に振り、主は約束を守り続け……今となってはイワシでの栄養補給という摩訶不思議な活路まで見出した。魔力を失い魔界の辺境まで堕ちたとしてもその崇高な精神まで落ちぶれることはなかった。
ヴァルバトーゼ様は強い人だった。それこそがかつて魅せられた輝きだった。オレの望んだ「主」そのものだった。はずだったのに
その完璧なまでの強さが少し、寂しかった。
悪魔として己が内面を隠すのはいたく当然のことである。心を見透かされること、それは即ち相手への隷属を意味する。故に格の高い悪魔であればこそ、窮地に陥ろうが気丈に振る舞うものである。我が主もその例に漏れない存在ではあった。それでも、ヴァル様の心の中にもきっとある、柔らかなところにオレはずっと触れてみたかったのだ。
遠い過去を想う。地獄への道中、背中こそ貸したものの主は弱音のひとつ吐かなかった。オレは、一言、苦しいと言って欲しかった。それは主の弱みを握ろうなどという姑息な叛心から来るものでは決してない。
ただ、在りし日にヴァル様がオレを友と呼んでくださったこと。それがずっと心に残り忘れられなかった。オレは友として心根を聞かせてほしいと願ってしまっている。そう、今もまだ。
ドアの向こうからは物音ひとつ聞こえてこない。もしや眠っておられるのだろうか。
そんな憶測が胸を過ぎるもすぐに思い直す。就寝には早過ぎる。いつもの主ならば棺桶入りはもう一時間は後だ。
オレはシモベとしてヴァル様への接し方は十二分に心得ているつもりだ。しかし友としての接し方となると、途端にどうしたら良いのか分からなくなってしまう。いつもより親しげに呼ばれる己の名にとくとくと脈拍が上がり、顔が熱くなり、なんとも形容し難い、むず痒い気持ちになった。
一方で我が友はといえば、こちらの気も知らず好き勝手に「友」として振る舞うのである。……こんなのは不公平だ、オレばかりが意識をして……この人の胸の内を、それこそ弱いところでも暴かなければおいそれと隣に並び立つことも出来やしない。
「……そこにいるな、フェンリッヒ」
突然、扉越しに良く知った声が響いて肩が跳ねた。声の近さから主が扉のすぐ内側に構えているのだと悟る。ドアにぴたり付けていた耳を離し、平然とした声色で反応した。
「閣下。お呼びでしょうか」
「お呼びでしょうか、ではない。扉の前に張り付いて一体ご主人様の何を盗み聞きしようというのだ?」
お見事、とつい口角が上がる。気配は完全に遮断していたつもりだったが、主にはお見通しだったらしい。
今打つべき最善の一手は謝罪、そして迅速にこの場を去ることだろう。しかしそう判断する脳とは裏腹に別の言葉が口を突いて出る。
「シモベが懇願しているというのに血を飲んでくださらないものですから……いつか魔力を切らし倒れてしまうのではないかと心配でならないのです。聞き耳ぐらい大目に見てくださいませ」
恨み節のような言い分をすらすらと舌が紡ぎ出す。皮肉混じりの言い訳に呆れのニュアンスを含んだ重たいため息が聞こえたような気がした。
「……毎晩勝手に部屋に忍び込んでおいて良く言う」
「おや、気付いていらっしゃったのですね」
「あれだけ凝視されれば嫌でも気付く! いつ棺桶に穴が開くか、気が気でならん」
主の安眠を守るのもシモベの役目。寝込みを襲う不届者がいないか、棺で眠る主人に異常はないか、この部屋を来訪するのが日課となっていたのだが、既に毎夜の不法侵入に気付いていたとはさすがは我が主、安心致しました。しかし、わたくしにも乙女心ならぬシモベ心がございます。……大層気恥ずかしいのでもう少し早く指摘するなり、咎めるなりしていただきたかった。
扉越しにひとり照れていると、あまり関わりたく無さそうな声色の主に問いかけられる。
「で、何か言うことは?」
「ああ、そうでした。今宵も我が主の安眠のためのルーチンを執り行いたく……」
「それならいつも通り一時間後、黙って部屋に入ってくれば良かっただろう。何か用があって来たのではないのか? まさか聞き耳を立てに来ただけではあるまい」
いつも相手を言いくるめる己の口が、珍しく閉じる。そうだ、オレは今日、此処に何をしに来た? 自分が今、なすべきことは。
ごくり、喉を鳴らしてドアノブに手を掛ける。このドアはいつもこんなに重たかっただろうか。控え目に押し開けると、やはりすぐそこにいた主人と目が合う。待っていましたと言わんばかり、赤い瞳がこちらを見上げていた。
「Let me in. ……でしたか?」
「いつの間にお前は吸血鬼になったのだ?」
目の前の人が屈託なく笑う。
この顔をもう少し見ていたくて、だから、となけなしの勇気を振り絞る。いつも平然と入り込むこの部屋にわざわざ許可を取って立ち入ろうとする理由はもう自分で分かっていた。
「ヴァルバトーゼ様のことはこのフェンリッヒ、良く良く存じ上げているつもりです。けれど……オレは友としてのあなたのことを、まだ何も知らない」
つまりはあなたのことを知りたいと、暗に白状すれば胸の辺りが熱くなった。汗ばみ、グローブが微かに湿る。吸血鬼は何のことかときょとんとした顔を見せ、けれど数刻後、少し照れ臭そうに、真っ直ぐにこちらを見据えるものだから気恥ずかしさが伝播する。「ヴァルバトーゼ」という悪魔。この瞳に、かつてオレは代え難い輝きを見出したことを思い出す。
「フフ、突然どうしたと言うのだ。歓迎しよう、我が友よ。……夜は長い、俺より先に寝てくれるなよ?」
手始めに枕投げでもしてみるか? 何処からかイワシの抱き枕を取り出し、からかって目尻を上げる目の前の人。彼は友の顔となってオレの腕を掴み、扉の内側へと招き入れた。