20グラムの甘さに託して 目の前にあるのは美味しそうなケーキ。高さは5cmぐらい、だいたい手を広げたより少し小さいぐらいのそれは、やわらかそうで艶々したチョコに覆われている。その上にちょこんと載せられた甘くない生クリームとラズベリー。こういうおしゃれな洋菓子についてくる時はフランボワーズと呼ぶ方が一般的らしい。チョコレートもケーキも英語読みなのにどうしてなんだろう。ガトーショコラはフランス語だけど。ちりばめられた銀色の小さな粒は、アラザンというそうだ。うちの家族ではせいぜい次兄ぐらいしか知らなさそうな気がする単語が、この一皿の上でいくつも踊っている。薄く繊細に削られて曲線を描くチョコが少し鰹節みたいだと思ってしまって、よくわからない敗北感を味わった。強いチョコの匂いに、ほのかに甘酸っぱさを感じる。
「食わねーの?」
「いえ、綺麗なので、折角だから食べる前にじっくり眺めていました」
ストレートに褒めれば、一見不遜、自信過剰にすら見えることのある笑みが満面に広がる。
「そーだろそーだろ! この俺が作ったんだからな!」
ドヤ顔で反り返る先生は、一見すると破天荒で大雑把そうなイメージとは違って、案外器用にいろんなことをこなす。料理が得意なことは初めて出会ったときから知っていたが、お菓子作りに至っては見た目までプロ級に仕上げる腕前なのはさすがに驚いた。
美味しいに決まっているそれに、5時間の授業を終えて来たお腹は鳴り、唾が口の中をどんどん満たしていく。カップの中で牛乳は、湯気を立てながらどんどん冷めていく。なのにフォークを出しあぐねている理由は、それだけではない。
この時期しかなかなか見かけない、逆にこの時期だとコンビニスイーツでも見かけるその形。心臓が元のはずなのに、やたらとかわいい記号。そのケーキはハートの形をしていた。
特に深い意図はないことを、残念ながら僕は知っている。これはバレンタインで本命のチョコがもらえなかった(と思い込んでいる)先生が、半ば八つ当たりのようにして作ったケーキのおこぼれであるからだ。好きでたまらない片想いの相手からいただくものとしては、なんだか色々な意味で残酷な代物すぎる。脈がないにも程があると思いながら、心臓を図案化したそれを、敢えて真ん中から真っ二つに切り離した。外側からは見えなかったしっとりしたスポンジ、その上にはふわふわのムースが層になっている。さらにその上に入っていた赤いソースが、切り口から流れ落ちて、甘酸っぱい香りを漂わせた。
できるだけ層のバランスを保ちながらフォークに載せて、口に運ぶ。舌に触れた途端、なめらかなチョコレートが柔らかく溶け出して、口いっぱいに広がる濃厚な甘さ。それが重たくならないうちに、ラズベリーのソースの酸味がほどよく和らげる。強い甘さと酸味の後に、最後に残るのは、ふわふわした見た目や舌触りの軽さから想像していたよりも、案外苦味を感じるムース。それも、苦いと知覚した瞬間にはもう溶けている。
「どーだ?」
いつのまにかすぐそばに来ていた先生が、こちらを覗き込んでいる。褒めてもらえることを確信している犬みたいだと思った。
「……おいしいです、とても」
「だろ?」
得意満面。もう一口、その次と口に運ぶうちに、主にこの形状やケーキを作るに至る経緯を考えてしまってはもやもやしていた感情よりも、もっと食べたいが先に立つようになって、フォークを動かす手が止まらなくなった。おいしい。
この様子を嬉しそうに見ていた先生は、鼻歌を歌いながら自分の分のケーキを食べ始める。ほっぺたをとろかしておいしいと子どものように笑う顔が愛おしい。脂肪と筋肉のどちらもまったくついていない、痩せっぽちの大人にしては、頬のラインは柔らかいなと思った。
ふと、違和感をおぼえた。ハート型のチョコレートケーキ。上に散りばめられた、銀色の粒とラズベリー。同じもの、のはずなのに。じっと見ていると、やらねーぞ、と言ってさっと皿を手で遮った。先生の骨張った手で、ケーキは見えなくなって、
「あ」
「ん?」
先生の手が止まる。わかった。違和感のかたちが。
既に8割ぐらいは食べてしまった自分の分のケーキと見比べる。少し遠いせいかと思っていたけど、やっぱり、高さが1cmは違う。
手元を見る。先生のものよりも、ふた回り大きいケーキ。
ほとんど確信だ。だけど、つい、聞いてしまう。先生の口から、先生の声で、聞きたくて。
「先生の、小さくないです? 食欲ないんですか?」
ああ、どうしてこんな可愛げのない聞き方をしてしまうんだろう。嬉しい返事を期待しているし、多分その期待は叶うのに。もうひとつの切実な希望は叶わなくても。
「あ? 俺のが一般的なサイズだよ。クロのがでっけーの」
ごく当たり前に言われたその言葉に、ほとんどわかってはいても心臓が跳ねた。
これは、僕のために作られたものだ。
バレンタインだからといって、そっちのほうの好意が込められてるなんて期待はしていない。それでも、単なる余り物でも、他の人に食べさせるためでもない、たったひとり、僕に食べさせるためだけに。
そういうところが好きなんですよ、先生。言えないけれど。
「……美味しいです。ありがとうございます」
声が震えないように、喜びが乗りすぎないように、それだけ絞り出す。おう、と一言、返事があった。
先生が食べ終わるのを待ち、片付けを手伝っていると、洗い物中の先生の唇から頬の端にかけて、黒いものが残っているのに気づいた。
「先生、チョコ、口についてますよ」
「え、マジ?」
「マジです。もうすぐ予約入ってますので、ちゃんと拭いてください」
「おー」
指で拭おうとして、動きが止まる。洗剤が手についていて躊躇ったのだろう。このまま皿洗いを継続して後から拭くか、中断して指を洗い流して拭こうか考えているのだろうか。
下心が、首を擡げた。
「……みっともないですよ」
先生のほうへ距離を詰める。こちらを見て首を傾げた。僕が何をしようとしてるのかなんて、考えてもみないのだろう。手を上に伸ばして、先生の唇に触れた。かさついた手触りからの、沈み込んでいくような感触。先生の身体の入り口。先生の声が、言葉が、出てくる場所。呼吸をする場所。そんな大切なところを触られているのに、一瞬くすぐったそうにしただけ。危害を加えてくるかもしれないなんて、思ってもみないだろう。同じ部位で触れ合ってみたいと思ってるなんて、想定したこともないはずだ。指先を右へ向かって擦りつけるように滑らせていく。そのまま唇の端を拭った。先生から僕の指先へと移動したチョコレートを見つめて、さらに余計な下心が湧いて出て、躊躇った。それは流石に、いくらなんでも。もし逆の立場だったら、先生は普通に舐めてしまいそうな気がしたけれど、それは僕のような不純な動機を抱えていないからで、下心があったからしてしまった行動の続きが、下心があるからできない。むしろそんなことを思いついてしまった自分が変態っぽくて嫌だ。
「さんきゅー…………?」
自分の指を凝視して止まってしまった僕に気づいたのか、先生から思案するような声が聞こえて。
「もっと食いてーの? ケーキはもうねーけど、トリュフだったらまだあるぞ」
違う、そうじゃない。これ以上食ったらニキビ出るぞ、と言いながらも差し出された白くコーティングされたハート型のチョコレートに、がっかりと安堵の混じったため息が出そうになるのをなんとか飲み込んだ。やっぱり文句のつけようがないおいしさだった。
他院から紹介の新患の診察が終わるのと入れ替わりに、入り口の陰で待ってたらしき琴さんがいそいそと入ってきた。検診でもないのにやってきた琴さんが持ってきたのは、お母さんに手伝ってもらって頑張って作ったという、チョコクッキーだった。それを先生は、心から嬉しそうに食べていた。琴たちが仲良くやっててよかったよ、と。
どうして気がつかないんだ。あれだけあっという間にその人の感情や、家族間のパワーバランスでさえ把握してしまうほど、異常に人間観察力に長けた人が、琴さんの顔に浮かんだ「違う、そこじゃない」と言いたげな表情に。
とにかく、自分に向けられる感情には、疎い人なのかもしれない。そこにいるのに、やりとりは自分をすり抜けていく。嵐のような人なのかもしれない。どんなに強く吹いていたって、風に触ることはできない。
「先生」
「お?」
「ちょっと、台所使ってもいいですか? あと、牛乳少しください」
「いいよ」
書きかけのカルテから顔も上げずに応える。普段ならそろそろ夕食を作り始める頃合いだ。そんなに忙しいのにお菓子を作ってる時間はあったのか、と思うけれど、ちらっと見えたのは先ほどの新患のもので、どうやら僕が考えていたのよりずっと大変な症例であるようだ。膨大な量の書き込みをしながら、机には何冊も資料が積まれている。
鞄から、帰り道にコンビニに寄って買ったものを出す。本当はちょっとおやつに、という名目で渡そうかと思っていた少し良いチョコは、自分で食べることにしたので鞄に戻す。同じく取り出した小さめのパッケージのミルクココアを、先生と僕のマグに大さじ2ずつ入れて、温めた牛乳で溶いた。元から砂糖とかと混ぜてあるものだし、箱に書いてある通りに作れば、まず失敗することはないだろう。
「先生、どうぞ」
マグを倒してしまわないように、先生の手が届かない隅に置いてから声をかける。
「お、さんきゅー。あれ、ココア残ってたか? さっきので使い切ったと思ったんだけど」
「ちょっと前にコンビニで安くなってて買ったのが鞄に入ってたんです。………………なんですか、その顔は」
先生の表情が、僕とふたりきりのときのそれではなく、診察中によく見るものに変わる。すべてを見透かすような笑み。
「ふーん、ちょっと前に、ねえ?」
こんな時期に、と続いた言葉に、しまった、と気づくも遅い。15日以降ならまだしも、その直前に、ココアやチョコが安くなるわけない。
こうなってしまったらもうすっとぼけることはできない。素直に照れ隠しだと認めて普段のお礼だと言うか、きっとしてくるであろうウザ絡みに対する反撃のていで肘鉄を食らわせて有耶無耶にするかのどちらかだ。これをとっかかりに本命なのだと伝えてしまうのはまだ無理だ。勝てる気がしない。
「せっ……先生が、誰にももらえないって言ってたから…………」
誰からも本命を受け取ったと思っていないなら、まだ自分にもチャンスはあるんじゃないかなんて、思ってしまうから。
流石にそれだけは言えないけれど。
もう、なるようになれだ。
「せめて僕だけでも普段のお礼にと」
「同情と感謝のどっちだよ⁉︎」
言葉選びを間違えた。というか、いらないこと言った。
「…………感謝です」
初めからそう言っておけばよかった。誰からも貰えないって言ってたから僕だけでも、までが完全に墓穴だ。
ああもう、絶対にからかわれる。ウザ絡みされる。そう覚悟したのに。
「ありがとな、クロ」
そんな嬉しそうな顔で、軽くぽんと頭を撫でられてなんてしまったら、どんな顔をしていいのかわからなくなる。
そんな僕の性格ぐらい、先生はよくわかってくれている。だから、ココアを軽く息で冷ましながら飲むのを見ながら、僕はただ黙っていた。
恋心は、叶わないなら伝わらなくてもいい。でも、先生が僕にしてくれるなにもかもへの、先生がここにいてくれることへの感謝とか、幸せだとか、そういったものは、ちゃんと先生の心に届いていて欲しいと思った。
この気持ちは、世界でたったひとり、先生に受け取ってもらうためだけのものなのだと、わかってほしかった。
こんな気持ちを込めるには、吹けば飛びそうなほど軽いココアでは、荷が重いかもしれないけれど。箸で雑にかき混ぜた自分の分のココアが、だまになって牛乳に沈んでいった。