二匹の蟻 その7 蟻柄の直垂と矢絣の直垂が重なり合うように脱ぎ捨てられている。常興はそれを目にして深い溜息をついた。矢絣の直垂だけを拾い上げて部屋の奥に目を向ける。悪食の主君は開け放たれた戸から庭を見ていた。
「何か言いたそうだな」
目玉だけがこちらを向く。常興は言いようのない不満を胸に収めて、畳からはみ出すように眠っている大男二人を見た。狭い畳から落ちぬようにしたためか、寄り添って眠る二人に、仲が良くてよろしいことだと渇いた笑みが浮かぶ。
「偽りのある世なりけり、だと思いまして」
「神無月には早かろう」
この世に神が居ろうが居るまいが、死んだ人間を現世に呼び戻して、二人に増やすなどという所業ができるものか。しかしそれ以上に、そんな二人と情を交わす主君に、常興はこれが偽りであればと思うのだ。
「本日の騎馬訓練で貞宗様に手本を示して頂く予定でしたが、代わりに私が致します」
「構わぬ。たとえ脚がもげていようが馬には乗る」
おかしなところで意地を張る。そして言った以上はたとえ無理をしてでもやってしまう人だった。常興は足元に落ちている、瘴奸か将監の小袖を蹴散らした。
「いい加減に起きぬか!」
常興の怒号に瘴奸と将監が揃って飛び起きた。まだ寝ぼけた顔を二つ並べている。それを見た貞宗が低く笑う声が静かに響いた。将監は気まずそうに小袖を引き寄せ、瘴奸は太々しく貞宗に視線を向けている。貞宗は余程可笑しかったのか、まだ笑いが途切れず、身を丸めていた。
「そんなに笑わずとも」
手早く直垂まで身に付けた将監が貞宗に寄る。貞宗は手を口に当てていた。
「大殿」
将監の声は真剣味を帯びていた。貞宗はさらに身を丸める。笑い声のように聞こえたのは、くぐもった咳き込みだった。貞宗は乾いた咳を何度も繰り返し、その度に身が揺た。
すぐに将監が貞宗の背をさすった。瘴奸は水差しを手に駆け寄る。常興は手にしていた貞宗の直垂を背にかけた。いつの間にか日が翳った庭に、ぽつりぽつりと雨粒が落ちている。
「大事ない」
乱れた息の合間に貞宗は言った。常興は貞宗の額に手をやる。手のひらに感じた熱に、昨年の情景がありありと浮かんだ。
すぐさま常興は貞宗を抱き上げると褥に運んだ。人を呼んで看病の指示を与える。その間に雨は本降りになり、雨音が館を包んでいた。土に染み入った雨の匂いが部屋にまで入り込んでくる。昨年の夏、貞宗が病に倒れたときも雨が降っていた。それが逃れられない影のように纏わりついている気がする。常興は忌々しく思いながら戸を閉めた。
それからの数年は梓川の清流の如き日々であった。その中で幾度かの戦と、貞宗の体調悪化があったものの、それは水の流れを遮る岩に過ぎず、やがて流れる先へと向かうことを止めはしなかった。貞宗が京へ向かうことが決まったことも、同じことだった。京へ向かう貞宗に随行することになったのは常興と瘴奸で、将監は自分も共に行きたいと言って揉めたが、最後は地頭として信濃に残ることになった。
貞和三年、五月。賑やかな京に春が訪れていた。物も人も溢れる街から常興は足早に屋敷へと戻る。
「貞宗様」
控えめな声で呼びかけて部屋の前で待つ。返事がないとわかると、常興は息を詰めて戸を開けた。畳に横たわる貞宗と、その傍らに座す瘴奸がいる。貞宗は目を閉じて寝息を立てており、瘴奸は常興を見ると小さく頷いた。
「先ほど眠られました」
抑えられた声に常興も頷く。懐に手を入れて、先ほど街で手に入れてきたものを取り出した。
「熱冷ましだ。今度は効くと良いのだが」
薬包紙に包まれたそれを瘴奸に渡す。瘴奸はそれを盆へと乗せた。春が終わる頃の長雨の季節になると貞宗は決まって体調を悪くさせた。気候の違う京であればまた違うかとも思ったが、まるで暦を読むかのように病は正確にやってきた。
それを見越したように、新三郎と将監から文が届いていた。貞宗はすでに嫡男である政長に守護職と所領を譲っており、新三郎と将監がその補佐に当たっている。文は所領の様子を知らせるためのものであったが、最後に貞宗の体調にはくれぐれも気を配ってほしいと記されてあった。誰に向かって言っているのかと常興は腹を立てたが、その文が届いた数日後から貞宗の咳がはじまった。
「もう休んでよいぞ、瘴奸。夜にまた頼む」
瘴奸は頭を下げると部屋を後にした。貞宗には常に瘴奸か常興のどちらかがついている。瘴奸がつくのは夜だった。
常興は眠る貞宗のそばで筆を取った。信濃への文に貞宗の現状を記す。離れた土地にいるのに病を知らせては心配させるだけかと思ったが、やはり知らせておくべきだと判断した。
常興は迷わずに筆を走らせる。事実のみを淡々と記しているつもりが、不意に涙が込み上げてきた。この時期の病はいつもの事だと思おうとしても、不安は膨れ上がるばかりであった。どれほど手を尽くしても、いつも秋がくる頃にならねば病は治らない。今年も秋までなんとか持ち堪えてほしい。そして無駄だとわかっていても、病を早く治す手立てを探していた。
その日の夜。貞宗を瘴奸に任せて常興は床に就いた。細かい雨が降る夜で、夏も近いというのにどこか薄寒い。常興はいつもであればすぐに寝付くはずが、いつまでたっても眠れなかった。灯りのない暗い部屋を雨の音が支配する。ついには胸騒ぎまで感じて、常興は起き上がった。
暗い廊下を灯りを手に歩く。蝋燭の灯りは吹き込む風に揺れていた。たまに突風が吹くのか、屋敷全体が軋んでいる。火が消えぬように常興は手庇をして風を遮った。
常興は戸を前に立ち止まる。すぐに声をかけなかったのは、何か違和感を覚えたからだ。以前にも同じようなことがあった気がする。だがその正体を探るよりも、常興は瘴奸の名を呼んだ。
「どうぞ」
常興は戸に手をかける。ひやりとした感触に眉を顰めた。不思議に思いながらも戸を開ける。そこで見えた光景に、常興は顔を強張らせた。
貞宗の枕元に瘴奸が二人座っていた。思わず後退ってから、その片方が将監であると気付く。だが将監は信濃にいるはずだった。
「先ほどこちらに着いたのです」
弁明するように将監が言った。しかし常興が信濃に文を出したのは昼である。文はまだ信濃に着いてもいないはずだ。
「信濃で何かあったのか」
「いえ」
将監はそこで言葉を切ると貞宗に目を向けた。枕元には燭台があるが、短くなって消えそうな蝋が二人を照らしている。そうやって並ぶと見分けがつかないほどだった。
常興は部屋に入ると戸を閉めた。冷たい床は常興が歩く度に軋んだ音を立てる。
貞宗は眠っていた。表情に苦しそうなところは見当たらないので、熱は下がったのかもしれない。
「常興殿こそ、どうされたのですか」
それを言ったのが瘴奸なのか将監なのかわからなかった。その不気味さに常興は視線を逸らせる。
「貞宗様のことが気になって」
だが思い過ごしのようだった。病状は落ち着いているように見える。
常興が手に持った蝋燭が揺れた。その灯りが二人をあやしく照らす。常興は部屋に戻ろうと踵を返した。
「教えてあげましょう」
瘴奸が言った。いや、将監かもしれない。常興は二人を見るが、どちらも似たような感情の読めない顔をしていた。
「教えるとは、何をだ」
「常興殿が眠れずにこの部屋へ来た理由ですよ」
「それは眠れなくて」
「虫の知らせ、というやつです。これが案外馬鹿にできない。常興殿はおそらく、見届けるために呼ばれたのです」
「呼ばれたとは、誰にだ」
言ってから常興は貞宗を見た。穏やかな寝顔であるのに、急に背筋が寒くなる。常興は急いで貞宗の頬に触れた。温かい。唇に顔を寄せるが、吐息が感じられた。常興はどっと汗が吹き出して二人を睨め付けた。
「脅かすな」
「まだ、というだけです」
「放言も大概にしろ」
すると二人のうちの一人、瘴奸か将監がこちらを指差した。それは常興が持つ蝋燭に向けられている。
「常興殿の持つ蝋燭は長い。それに対してこちらは」
次に指が向けられたのは貞宗の枕元に置かれた蝋燭だった。短くなるあまり、形はくずれている。
「あと少しで燃え尽きてしまいます」
「新しいものに火を移せばよかろう」
何を言いたいのか分からなかった。だが、膝に置く手が震えている。風に揺られた戸がかたかたと音を立てていた。
「人の寿命というのは決まっているそうで」
低い声は冷たく響いた。大きな声ではないのに、不思議と耳にこだまする。
「宿命とも言いますが、どちらにせよ、定まっているからには覆せないのです」
「さっきから何の話をしている」
「寿命の話です。常興殿、あなたは長く生きる。しかし貞宗様はここまでです」
抑揚のない声で行われた死の宣告に、一瞬で頭が真っ白になった。しかしすぐに反発する気持ちが生まれる。
「なぜ貴様に寿命がわかるというのだ」
常興の荒げた声は闇に吸われるように消えていった。瘴奸と将監は表情を変えずに言った。
「それは我々が死だからです」
「何を訳の分からぬことを」
「我々も、先ほどようやく己の使命を思い出したのです。我々は死そのもの。冥府より貞宗様をお迎えに来たのです」
それではまるで死神ではないか。そう思った途端、常興の体は震えた。瘴奸と将監が現れたのは、あの大徳王寺で貞宗が病に臥せったときだ。あのとき確かに、まるで貞宗を迎えに来たようだと思ったのだ。
「馬鹿な。だったらなぜ今になって」
あの時の貞宗の命は風前の灯だった。しかし二人が現れて、死ぬどころか急に体調は回復した。そして今日まで、将監も瘴奸も、貞宗と一緒に生きることを喜んでいたではないか。
「我々は大殿をお連れするはずが、共に生きたいと思ってしまいました。その思いに神力が肉体を与えてくれたのかもしれません」
「我々は本来の目的を忘れ、貞宗様と生きてしまったのです」
交互に喋る将監と瘴奸は以前のような雰囲気ではなかった。まるで知らない者のように思える。表情のせいか、纏う気配のせいか、薄気味悪く感じられた。
燃え尽きようとする蝋燭の炎が揺た。勢いはなく、今にも消えそうになっている。二人の話は到底信じられない。しかし一方で、これが真実であるならば、ずっと不可解であった瘴奸と将監の正体に結論がつく。だがそれが真であるならば、なんとしてでも止めねばならなかった。
「だったらお前たちが消えろ。貞宗様を連れていくな」
「それはできません。寿命なのです」
その声に感情はない。まるで命のない物と話しているようだった。或いは暴風や荒波といったものの類だ。こちらの言葉が通じる相手でないと感じる。到底敵わない相手と対峙したときの恐怖が胸中に広がった。何か手立てはないのかと拳を握りしめる。
そして気付いた。常興は二人のうちのどちらかの腕を掴んでいた。
「だったら、俺の寿命を貞宗様に渡してくれないか。俺のは長く残っているのだろう!」
「それはできません。貞宗様が望まれない」
「そんなこと知ったことか。貞宗様が望まずともやれ!」
「できないのですよ。常興殿、時間がありません。大殿にお伝えしたいことがあるなら、今しかありません」
その言葉に貞宗を見る。貞宗は眠っているように見えた。息はしているが、意識はない。常興は貞宗の手を握った。その手は握り返してこない。急激に突きつけられた冷たい現実に、常興は恐慌状態に陥った。
「貞宗様……嘘だ、嘘だと言ってください」
声に出しても耳に返るのは己の震える声だけだった。何か言葉を返してくれるのではないかと貞宗の顔を覗き込む。しかし閉じられた瞼は微動だにしなかった。頭の中で何かが崩れる音がする。
残された時間がないのだとしたら、もっと他に伝えたいことがあったはずだ。しかし混乱と恐怖に支配された頭では何も思い出せない。思い出そうとすればするほど、記憶はこぼれ落ちていくようだった。
「貞宗様……!」
常興は貞宗の手を抱き抱えるようにして慟哭した。引き止めたくて、縋るように肩を震わせる。
「せめてもう一度だけ目を開けてください!」
一度溢れた感情は止まらなかった。耳鳴りがして、己の声すら聞こえなくなる。声をあげて泣く常興に、瘴奸と将監が目を合わせた。
「少しだけ、我々に残った力を使ってみます」
しかしその声も常興には聞こえていなかった。やがて蝋燭は消えて、瘴奸と将監もその姿を消した。
泣き疲れた常興はいつの間にか眠りについていた。瞼を開けると明るさを感じて、瞬きを繰り返す。頭が重く、瞼は腫れぼったかった。すると、手の中にあった温かいものが動くのを感じた。
「常興」
その声に常興は昨夜のことを思い出して身を起こした。明るい室内に、朝になったのだと知る。
顔を上げれば貞宗がこちらを見ていた。
「貞宗……様……?」
「今朝は晴れたようだな」
貞宗は庭のほうに視線を向けた。それよりも常興は部屋を見渡す。瘴奸も将監もいなかった。
「おかしな夢を見たぞ」
貞宗は笑みを浮かべていた。その姿に、昨夜の出来事は夢だったのかと思いそうになる。しかし、あの生々しい恐怖が夢の中のものとは思えなかった。
「瘴奸が生きておる夢だ」
「え?」
常興は思わず貞宗を見つめる。貞宗は冗談や嘘を言っている様子ではなかった。まるで懐かしさでも感じているように、目を細めて穏やかな顔をしている。
「不思議だろう。しかも二人も瘴奸がおるのだ。そうしたら一人の瘴奸が本名を名乗ってな。そう……確か将監だ」
「貞宗様、何を」
この数年をすっかり忘れてしまったのか。常興は訝しみながら貞宗に目を向ける。しかし、これまでのことが全て夢だとしても、貞宗がいま生きていることのほうが大事であった。
「戸を開けてくれんか常興」
「はい」
常興は軋む体で立ち上がった。ふと枕元の蝋燭が目に入る。それは短くなって燃え尽きていた。
戸を開けると外は晴れていた。庭にいくつも水溜りができているが、穏やかな風が吹いている。
すると貞宗は驚いたようにこちらを見ていた。だが視線の先にいるのは常興ではない。貞宗の目は庭に向けられていた。
「夢の続きか。それとも迎えに来よったのか」
貞宗の言葉に常興は庭を振り返る。しかしそこには誰もいなかった。だがそこに知った者の気配があるような気がして、常興は貞宗に駆け寄った。
「貞宗様、行っては駄目です」
「何をそんなに怖がっておる。今日が逝く日だったというだけではないか」
貞宗は目を閉じようとしていた。常興ははっとする。貞宗にもう一度だけ目を開けてほしいと願ったのは常興だ。まだ何も伝えられていない。悲しみに押し潰されそうになる心を奮い立たさせた。
常興は貞宗の横に手をつくと、背筋を伸ばして頭を下げた。
「貞宗様、お仕えできて嬉しゅうございました」
矜持を保ったまま見送らねばならない。常興は唇を噛み締めた。その常興の肩に貞宗の手が乗せられる。
「儂もだ常興。そちがそばにおってくれてよかった」
貞宗は庭に目を向けた。雲の切れ間から陽射しが降り注いでいる。
「先にいく。そちは急いでこちらへ来るなよ」
常興は貞宗に向かって頭を下げ続けた。これまで起こった様々なことが思い出され、次々と消えていく。すると心地の良い風が部屋に吹き込んできた。
どれほど時間が経ったのか、常興が頭を上げると貞宗は目を閉じていた。思わず触れた手はまだ温かい。しかし吐息は止まっていた。あの二人が連れていってしまったのだろう。やはりあの二人が憎らしい。だが最後に貞宗と話させてくれたこと感謝した。
常興は立ち上がると庭に出た。空を仰ぐ。まだそこにいるような気がして、その姿を探すように天を見つめた。
今思えば、あの男は賊としての死、そして武士としての死を経験した。それ故に二人になって現れたのだろうか。だがそれは考えてもわからぬことだった。なんにせよ、貞宗はもうこの世にはいない。
雨上がりの空気はこの京の平地を囲む山々を色濃く見せていた。穏やかな陽射しが濡れた木々を輝かせている。常興はゆっくりと息を吸った。そして同じように吐き出す。緩やかな風が吹き、頬を撫でていった。ほつれた髪が風に揺られる。
貞宗はいないというのに、この世界はまだ眩しく光って見えた。