蟻の恩返し 豊松丸はじっと地面を見つめておりました。そこは小笠原館の薪小屋の前の、日陰も無い場所です。
豊松丸が熱心に見つめていたのは地面を這う蟻でした。無数に蠢く黒々とした蟻を、豊松丸は大きな目でじっと見ているのです。蟻たちは死んだ虫に集って、巣との往復を繰り返していました。蟻は規則的に動くこともあれば、急に動きを止めてみたり、数が多くなれば出会い頭にぶつかることもありましたから、そんな蟻たちの動きを豊松丸は飽きることなく見ていました。
すると行列から外れたところいる蟻に気付きました。その蟻は一匹で、あまり動こうとしません。豊松丸はその蟻の前まで移動すると、目を見開きました。どうやら蟻は弱っているようです。
「餌ならあっちだぞ」
すぐ近くに死んだ虫があります。この弱った蟻も、その虫を食べれば元気が出るのではないかと思いました。ところが豊松丸が何を言っても、弱った蟻は列から背を向けて離れていくばかりです。
そこで豊松丸は厨にいって、こっそりと桃をとってきました。桃は熟れて甘い匂いをさせています。豊松丸は桃を小さく齧ってその果肉を弱った蟻の前に置いてやりました。
「はようお食べ」
豊松丸はじっと蟻を見つめます。蟻の触角がぴくぴくと動き、桃のほうに向かいます。豊松丸も桃を齧りながら、蟻が桃を食べる様子を見ていました。
すると遠くから豊松丸を呼ぶ声がしました。父の郎党で豊松丸に弓を教えている男です。弓の稽古の時間になったので呼びにきたのでしょう。
「ここにおられましたか」
男は豊松丸に近付いてきました。もちろんそこに蟻がいるなんて考えもしません。
「だめ!」
男の足が弱った蟻を踏みそうになって、豊松丸は思わず蟻を守るように両手で囲みました。男の足が豊松丸の小さな手を踏みつけてしまいます。大人の大きな足の重さに豊松丸はわっと声を上げました。しかし手の下にいる蟻を潰さないようにと、必死で守りました。
男は慌てて足を退けました。豊松丸の手に怪我をさせては殿に大目玉をくらうと、大汗をかきながら豊松丸を母屋へと連れていき手当をしました。
豊松丸が急いで戻ったとき、落とした桃に蟻が群がっていました。豊松丸は這いつくばってあの弱った蟻を探しましたが、ついぞ見当たりませんでした。
その日の夜。豊松丸は眠れないで天井を見上げていました。その手には包帯が巻かれています。父には弓の練習のときに転んだと嘘をつきました。手はまだ痛み、そのせいで眠れないでいます。
すると誰かの足音が聞こえてきました。その足音はゆっくりと豊松丸のいる部屋に近付いてきます。豊松丸は息をひそめてその音を聞いていました。やがて足音は豊松丸の部屋の前でぴたりと止まったのです。
豊松丸は飛び起きると短刀を手にしました。刀を握ると手が痛みます。すると戸が小さく叩かれました。
「もし、豊松丸様」
豊松丸はほっとしました。家中の者だと思ったからです。
豊松丸が入るように言うと、戸が開いて大男が入ってきました。身の丈は六尺を優に超えています。頭は丸めて、あちこちに傷跡があります。こんな男は家中にはいませんでした。
豊松丸は大声をあげようとしましたが、男の手に塞がれていました。
「お静かに豊松丸様。私はあなた様に助けていただいた蟻でございます」
豊松丸は大きな目玉をさらに丸めました。大男はさらに続けて言います。
「あなた様に桃を頂き、そのお手で守っていただいた蟻でございます」
そのことを知っているのは豊松丸とあの弱った蟻だけでした。豊松丸は手を踏んだ男には蟻を守ったことは言わなかったからです。
蟻はそっと豊松丸の口を覆っていた手を下ろしました。豊松丸はさきほどまで恐ろしく思っていたこの男を、もう怖いとは思いませんでした。
「助けていただき、ありがとうございます。ご恩返しに参りました」
蟻は豊松丸の手にそっと触れました。不思議と手の痛みが引いていくようでした。
「ご恩返しとは、何をするのか」
豊松丸がたずねます。
「御命令を頂ければ、なんなりと」
「では、私の郎党になれと言えばなるのか?」
豊松丸はずっと自分の郎党が欲しいと思っていました。館にいるのは全て父の郎党です。ですから、自分だけの郎党が欲しかったのです。
「わかりました。この蟻めは豊松丸様の郎党になりましょう。ですが」
蟻は豊松丸の手を離し、そっと身を引きました。そして深々と首を垂れます。
「いずれ豊松丸様が小笠原家の家督を継ぎましたら、そのときに馳せ参じます」
豊松丸は蟻と硬い約束を交わしました。
やがて月日が流れて、豊松丸は小笠原家の家督を継ぎ、貞宗と名乗っていました。
貞宗はあの夜のことを忘れていません。ですが、あれが夢だったのではないかと思ったことは一度や二度ではありませんでした。貞宗が家督を継いでから暫く経っても蟻が姿を見せなかったからです。蟻の恩返しなんて、いかにも童の夢のようだと貞宗は不貞腐れました。
ですが、あの夜のことは夢ではありませんでした。
貞宗は外廊下に腰掛けながら庭を眺めていました。庭には蟻の巣があり、そこから列をなして歩いていく蟻が見えます。
「大殿」
大男が貞宗の横に腰を下ろしました。身の丈が優に六尺を超え、仏門に入って頭を丸めています。その傷だらけの姿は彼が生きてきた道の悲惨さを物語っていました。
蟻は恩返しにやってきました。豊松丸という名が貞宗へと変わっても、蟻は貞宗を見つけたのです。
二人に多くの言葉は必要ありませんでした。貞宗にとっては、かつて救った小さな命が傍にいることが嬉しかったからです。
蟻は手に持っていた桃を貞宗に差し出しました。
「領民から頂いたものです」
貞宗は蟻の手に手を添えて、桃の香りを嗅ぎました。ほのかな甘い香りに貞宗の頬に笑みが浮かびます。
「良い香りだな」
二人は桃を分け合って食べました。それから貞宗と蟻はいつまでも幸せに暮らしました。