無価の瞳 小笠原貞宗という男。一目見たが瘴奸には特段価値のある武士とは思えなかった。足利が北条を滅ぼし、漁夫の利で領地を得た小狡い武士。それが瘴奸が受けた印象であった。
だがそんな武士だからこそ瘴奸は近付いた。この乱世での生き方を瘴奸は心得ている。掠奪をするにも、より良い環境というものがあった。まだ領地を得たばかりで力を持たない貞宗であれば、瘴奸の武力を渇求する。それゆえに掠奪などの瑣末なことには口出ししないと思ったからだ。
瘴奸は貞宗に呼ばれて信濃守護館へと参上した。広間に通されたが、そこには貞宗しかいなかった。いくらここが守護館で次の間には郎党が控えているからといっても無用心だ。それとも信頼している証だとでもいうのだろうか。
瘴奸は座して深々と頭を下げた。貞宗はすぐに頭を上げよと言った。
「よく参った。おぬしの部下のことだが」
貞宗は征蟻党の連中の素行の悪さを見咎めた。瘴奸は額を床板につくほどに下げる。
「賊として生きてまいりましたゆえ、礼儀を知らぬのです」
「知らぬならば学べばよい」
瘴奸は顔を上げぬまま、心の中で冷笑した。礼儀など腹の足しにもならない。貞宗はまるでこの乱世に正道が残っているとでも思っているのか。力ある者が奪い、弱き者はただ蹂躙される。それがこの世界のあり方ではないのか。そんな世界で礼儀が何になる。
だがここで反論することが無意味であることくらい瘴奸は心得ていた。
「承知仕った」
瘴奸は深々と頭を下げて言った。貞宗は「わかればよい」と鷹揚に答える。
そのとき、瘴奸の心の奥に冷たい企みが芽生えた。貞宗は礼儀を説くが、それは何かを恐れ、何を欲するためだ。その心の奥底に何かがある。貞宗が持つ脆弱さこそ、瘴奸が値踏みすべきものだった。
瘴奸は貞宗を見据えて己の胸に手を当てた。
「貞宗殿はこの身にいくらの値がつくと考えますかな」
人は他人に己の価値を見る。他人を低く見積もる人間こそ、価値は低い。
すると貞宗は考える間も無く答えた。
「一文の値段もつくまい」
「手厳しいですな」
「勘違いするな。おぬしだから値段がつかぬのではない。元来人に値段などつかぬ」
その言葉が当てつけなのかと思ったが、貞宗の目には嘲りの色はなかった。本心から思っているのなら、この信濃守護とやらはお人好しである。
これまで瘴奸は数え切れぬほどの人間に値段をつけてきた。人間の価値など、状況次第でいくらでも無価値になる。親が死んで手を引いてくれる者がいなくなれば、童はただの物になる。だが物には値段がつく。それゆえ、他者を物とみなすことに躊躇いはなかった。むしろそれが唯一、瘴奸の渇望を癒す手段であった。
貞宗が何と言おうと人間に銭を出す人間がいる。価値などいくらでも付けようがあるのだ。
貞宗はじっと瘴奸を見つめていた。瘴奸は僅かに居心地の悪さを感じる。これは値踏みされているのだと気付いた。
「だが儂の元にいればの百貫以上の価値となる」
「人に値段などつかぬのでは」
「値段と価値は違う。おぬしは己の価値をわかっておらぬ。人の価値とは銭では計れぬものだ。この乱世を超えた先に残るものこそ、真の価値があるものだ」
貞宗は話は終わりだとばかりに、瘴奸に下がるように言った。
瘴奸はゆっくりと立ち上がった。貞宗の視線は鋭く、瘴奸の動きを少しも見逃さないかのように追ってくる。まるで獲物に弓矢を向けて放つ機を見定めているかのようだ。瘴奸は喉の渇きを感じたが視線は外さなかった。二人の間には静寂が広がる。その場の空気は張り詰めていた。
瘴奸は人間に値段などつかぬと放言する男に値段をつけてみたかった。瘴奸は貞宗の零れ落ちそうな目玉をじっと見据える。指先でそっと掴めば簡単に抜き取ってしまえそうだ。榛摺とも伽羅色とも言えぬその不気味な輝きに、瘴奸の胸にぞくりとした衝動が走る。その目を売りに出せば、どんな物好きが手を伸ばすだろうか。そして、どれほど高値がつくのか。血に濡れたその目玉と引き換えに得た銭で飲む酒を思うと唾液がじわりと口の中に溢れた。
「この目玉が欲しいか」
貞宗の声に怒りは無かった。むしろそれは純粋な疑問のように聞こえる。
「頂けるのであれば。良い値がつくかと」
「ただの目玉に値がつくとは思えん」
「物好きとはどこにでもいるものです。高い値をつけてみせますよ」
人間の浅ましさは獣の比ではない。買い手があるから商品になるのだ。そして言葉ひとつで値は上がる。瘴奸は貞宗の目玉を高い値で売り飛ばす自信があった。
貞宗は考えるように顎鬚に手をやってから口を開いた。
「おぬしの働き次第では」
貞宗は一瞬、瘴奸の反応を伺うように間を置いた。
「この目玉をくれてやってもよいぞ」
瘴奸は笑いそうになるのを堪えた。そんな戯言は童でも信じないからだ。弓馬に長けた貞宗にとって目は他の人間と同じ価値ではない。貞宗がその目を差し出すわけがなかった。
そんな言葉で操れると思うほど侮られたのなら、瘴奸にも考えがあった。次の間に控える小笠原郎党が助けに入る間も無く貞宗の首をへし折ってやる。瘴奸は笑みを頬に張り付けた。
「恐れながら。出来もしない事は申されないほうが良いかと」
「出来ぬと思うか」
「その目は貞宗殿の宝。たとえ帝であっても渡しはせぬでしょう」
笑みを浮かべながらも、瘴奸の胸中で不安と得体の知れない感情がせめぎ合うのを感じていた。この乱世において、価値など一夜にして瓦解する。優れていた者が次の日には無価値となり、奪う者と奪われる者、その立場さえ逆転する。だが貞宗の目はまるで、そのような世界よりもっと遠くを見ているようだ。その瞳には瘴奸には理解できない不変のものがある。それが瘴奸の心の闇に波紋を与えた。
張り詰めた空気がわずかに揺れる。遠くの空から黒い雲がじわじわと覆い尽くしてきていた。まるで乱世の混沌が瘴奸を飲み込みにきたかのようだ。
瘴奸は薄く目を細めて貞宗を見つめた。貞宗の目は依然として澄んでいたが、その奥にあるものを瘴奸は計り知れない。
「おぬしの働きを楽しみにしておるぞ」
その言葉には圧力とは違う重みがあった。瘴奸は頭を下げてから広間を後にする。貞宗の視線が最後まで付き纏っているのを感じた。
瘴奸は舌先で唇を舐める。すると自然と笑みが浮かんだ。貞宗は本当に目玉をくれるだろうか。もし目玉をくり抜いたとして、その空洞に向かってたずねてみたい。目玉を失ったその身にどれほどの価値があるのかと。
瘴奸は冷たい笑みを浮かべて闇の中へ姿を消した。
***
長寿丸との戦いで瀕死となった瘴奸が館に運び込まれたのは明け方のことだった。そのまま気を失うように眠り、目が覚めたときには部屋に寝かせられていた。
瘴奸は鉛のように重いまぶたを開け、ぼんやりと天井を見つめた。全身に倦怠感が漂っている。寒気を感じるのも失血のせいだろう。体は重く、腕すら動きそうになかった。
この部屋は外廊下に面しているらしく明るい。聞こえてくる物音や話し声から、ここが貞宗の館であるとわかる。弓の鍛錬をしている音があるものの、野次や罵倒はない。あるいは下働きたちが機敏に働く音も聞こえるが、そこには急き立てられた苛立ちもない。この館の整然とした生活が伺える。それがこの館の主の気質が反映されたものであることは間違いないだろう。
瘴奸は聞こえる音に身を任せて天井を見ていた。風を通すためか、障子は僅かに開いている。そこから陽の光が差し込み、空中に舞う埃がきらめいて見えた。
朦朧とした記憶の中で、貞宗が瘴奸に領地を与えると言っていた気がする。処罰こそあれど領地を受ける理由などなかった。己の耳は都合の良いように言葉に捻じ曲げて聞いたのだろう。あるいは仏が生きた褒美として最後に長年望んだ言葉を聞かせてくれたのか。
瘴奸はあのまま死ぬはずだった。最後にようやく会えた仏を瞼に焼き付けていたのに、なぜ貞宗は死なせてくれなかったのか。それとも死という安らぎすら、貞宗は与えてくれないのか。瘴奸は胸が重苦しくなるのを感じた。
「生きておるか、瘴奸」
声をかけられてはじめて、そこに人がいると気付いた。声から察するに貞宗だろう。貞宗は外廊下に立ったまま動かない。どこか空気が張り詰めたように瘴奸は感じる。障子は少し開いていたが、貞宗は礼儀を重んじるためか、たとえ郎党相手でもいきなり部屋に入ることはしないらしい。
「どうぞ」
瘴奸はなんとか身を起こそうとするが、思うようにいかない。すると部屋に入ってきた貞宗が瘴奸の肩に手をやると体を押し戻した。
「そのままで構わん」
「ご無礼を」
「せっかく繋いだ命だ。暫く寝ておれ」
笑みを浮かべながら貞宗は瘴奸の枕元に腰を下ろす。その顔は穏やかで、瘴奸を害する気配が微塵もなかった。だが瘴奸はあれほどの失態を犯した。しかるべき咎を受けるだろう。
瘴奸は貞宗の言葉を待った。すると貞宗は瘴奸の視線に気付いて口の端を吊り上げて笑った。尖った犬歯がのぞく。
「これか」
そのときになって瘴奸は貞宗が皿を手にしていると気付いた。甘辛い匂いが漂っている。
「肝の煮付けだ。これで英気を養え」
肝は皿いっぱいに入っていた。これほど揃えるのは手間だっただろう。
「殿自らお持ちいただくなど、畏れ多い」
「そちには早う元気になって貰わぬと困るからな。この鳥は儂が仕留めてきたのだ」
まさか毒でも入っているのかと思ったが、瘴奸を罰するならそんな回りくどいことをする必要などなかった。それに貞宗からは瘴奸への悪意の類が見当たない。死にかけた瘴奸を連れて引き上げていた時こそ貞宗は怒りを露わにしていたが、今は朗らかに笑っていた。
「なぜ早く回復せねば困るのでしょう」
処罰は回復を待ってからかと瘴奸は思う。今は血が足りぬから、処罰に体が耐えられないということか。
「なぜだと。そちには領地を任せると言っただろう。早う元気なって地頭として赴けい」
まるで聞かん坊な稚児に叱るように貞宗は言う。貞宗は冗談を言ってるのでも、謀っているのでもない。だがなぜだ。瘴奸は激情に駆り立てられるように貞宗にたずねた。
「なぜ殿は私から奪わないのですか」
「うん?」
なぜ貞宗は与えようとするのかと瘴奸は思う。命を与え、領地を与え、武士としての生き方を障奸に与えようとする。
「私は与えられるはずのものを奪われました。それゆえに奪う立場に回ったのです。そして報いを受けるときがきた。違うのですか」
貞宗は何も言わずにじっと瘴奸を見つめた。その目に心の中まで見透かされる気がする。あの日、父にお前には領地はやれぬと言われたとき、父は瘴奸を見なかった。瘴奸は存在を否定されたように感じた。瘴奸が必死に培った武芸も、何もかも無意味だった。思えばあの瞬間から、瘴奸の闇が始まった。誰よりも武士としての生き方を望んでいた瘴奸は、兄の日陰で生きることなどできなかった。そこから進む道はどこまでも闇の中だった。ただ一時満たされるためだけに、無垢な命を自分と同じ奈落へ引き摺り込んだ。
「いずれ報いを受ける日もくるだろう。だが今ではない」
貞宗は瘴奸の手を取った。そして手の甲を撫でる。貞宗の瞳にあるのはただの同情ではない。単なる郎党としてではなく、一人の武士として瘴奸を認める確かな意思が映っていた。
「儂にはそちが必要だ」
貞宗の言葉に瘴奸の心は揺らいだ。何かが軋み、崩れ落ちていく。それは瘴奸が長年積み上げていた心を覆う壁だった。瘴奸は自分でも気付かぬうちに唇を噛み締めていた。貞宗は瘴奸が思っていたよりずっと己を強く持った武士だ。瘴奸は己の人を見る目の無さを恥いる。自分の目の濁りのままに人を見ていた。
「私にそれほどの価値など」
「無いとは言わせぬ。潔く儂のものになれ」
瘴奸は心の奥に長年押し込めていた何かが、突然溢れ出すのを感じた。それが思いもよらない熱量で胸中に広がっていく。過去に閉じ込めていた感情が、その勢いを失わないまま解き放たれた。瘴奸の頬に熱いものが伝い落ちていく。
「この将監、生涯あなたに仕えます」
障子から差し込んだ光が貞宗を照らした。その眩しさの将監は目を細める。光の中にいる貞宗は、あの夜に見た仏のように将監の目に映った。
光が生きろと将監に囁いている。将監が闇の中にいた日々が遠く霞んでいった。目の前の光がすべてを覆う。ここは光で満ちていた。
***
夏にはまだ早いというのに庭には濃い影が出来ていた。その影を作る大きな無花果の木の下で、将監は実を探していた。この木は地頭の館にずっと昔からあるらしく、太い幹は無数の嵐に耐えてきたかのように傷だらで、そのせいなのか一つも実がついていなかった。
将監は汗を拭って木を見上げる。重なり合った葉の影から夏の陽射しが小さな輝きを作っていた。その輝きの輪郭がぼやけて見える。将監は目を細めてそれらを見つめた。
「実はあったか?」
将監は声に目を向ける。馬を引いた貞宗がこちらへ歩いてきていた。
「大殿」
日陰を出ると陽射しに目が眩んだ。思わず手庇をする。貞宗の側には誰もおらず一人だった。まさか誰も連れずに来たのかとあたりを見渡す。
「息災か?」
貞宗の手から馬の手綱を預かる。貞宗の額には汗が浮かんでいた。
「まさかお一人で来られたのですか?」
「新三郎を連れて来たが、今ごろ息抜きしておる」
「大殿をお一人にするなんて」
「儂が行ってこいと言ったのだ。今日はそちとゆっくりと話がしたかったからな」
貞宗は頬に笑みを浮かべていた。将監は何やら胸が詰まったような苦しさを覚える。貞宗に会えて嬉しいはずだが、やましさに似た何かを感じて真っ直ぐに顔を見れなかった。
「それより、飯は食えているか? また腹がへこんだのではないか」
貞宗は将監の腹を確かめるように触れた。将監は曖昧に返事をして貞宗から目を逸らせる。貞宗の目に嘘はつけないが、かといって正直の話すことも憚られた。
「拙者に触れてはお手が汚れてしまいます」
貞宗の手をそっと遠ざける。将監は貞宗の先に立ち館の戸を開けた。
「どうぞ中へ。今日は夏のように暑いですな」
陽射しが遮られるだけで館の中は涼しく感じられた。ひんやりとした床板が足裏に心地よく、風が通れば汗ばんだ肌を冷やした。
「今日はどのようなご用向きで」
将監は貞宗を広間に通して向かい合って座った。障子は開け放っており、先ほどいた庭が見える。
「この土地の視察だ。そちの地頭としての仕事ぶりを見に来た」
「では領地をご案内いたします」
将監は頭を下げたが、貞宗は手を横に振った。
「それはこの館へ来る道々で済ませてきた」
こともなげに言ってのける貞宗に、将監は目を丸くする。すると貞宗は何かを面白がるような顔で将監を見つめた。
「人を見れば土地がわかる。そこに住む人々が生き生きとしていれば、田畑も実りが多い。この土地の様子を見てきたが、田も畑も荒れた様子がなく、手入れが行き届いていた。畑仕事をする領民の表情は明るい。新しい地頭様はお優しいと評判だったぞ」
貞宗はそのよく見える目で抜き打ちの視察に来たらしい。さらに貞宗は将監の姿に目を向けた。
「その汚れは田んぼに入って来たか?」
将監の衣服に飛んだ泥汚れを見つけて貞宗が言う。この人の前では丸裸にされたも同然だと将監は思った。
「田の雑草を抜いていました」
「それは地頭の仕事か?」
「この土地は肥沃とはいえません。ですから工夫で少しでも米の収穫量を増やせたらと。しかし拙者は田畑のことは何も知りません。ですので領民に手解きを受けながらまずは一緒に田に入り稲を植えるところから始めました」
すると貞宗は小さく頷いた。
「やはりそちを見込んだ儂の目に狂いはなかった。百姓の信頼を得るのは案外難しい。流石はあの荒くれ者たちを束ねているだけのことはある」
貞宗の言葉に将監は僅かに顔を強張らせた。突然に頬を打たれて、賊であった過去を眼前に突きつけられたような気がしたからだ。将監の表情が曇ったことを貞宗は見逃さなかった。
「どうした。暗い顔をしておるな」
貞宗の問いは優しく響いた。将監はすぐには答えられず言葉を探す。風が庭の木々を揺らし、貞宗は静かにそれを見つめた。
将監はこの煩悶を貞宗に告げるつもりはなかった。己の過去の始末は自分だけが負うべきだと思ったからだ。だが貞宗に隠し通せるほど将監は器用ではない。将監は言葉が喉元で詰まるのを感じながらも重い口を開いた。空に薄い雲が流れ込み日が翳っていく。
「拙者がこれまで何をしてきたか、聞いていただきたいのです」
声に出した瞬間、吐き出そうとした罪が膨れ上がって呑み込まれるような感覚に襲われた。過去が奈落から手を伸ばして将監を掴もうとする。それでも将監は賊として行ってきた残虐な行為について語った。貞宗は将監が賊であった事を知っている。多少は将監達が行っていた悪事も知っていただろう。だがそれを将監の口から語ったことはなかった。
貞宗は何も言わずにただ視線だけを将監に向けていた。その目に全てを見透かされるように感じて、その視線に耐えられなくなってくる。将監は袴を強く握りしめた。
将監がすべてを語り終えたとき、罪の重さが一層増したように感じられた。貞宗は僅かに表情を曇らせている。貞宗は失望しただろうか。だが将監はさらに罪を重ねるつもりで口を開いた。
「このあいだ、百姓の子がこの館へきました」
貞宗の目が細められた。胃が締め付けられる。迫り上がってくるものを感じて必死で堪えた。
「畑の柵を直してやった百姓の子です。お礼だと言って瓜漬をもってきてくれて」
将監は己にまとわりつく感覚に背筋が寒くなる。童が抵抗するために引っ掻いた小さな爪の感覚がまだ残っていた。その童にどんな無慈悲な言葉を吐いただろうか。将監はその時の童のように声を絞り出した。
「その子は拙者に懐いているのです。拙者が簡単に童の腕を折っていたとも知らずに」
光の中で過去の闇はいっそう濃く浮かび上がる。過去の罪は消えはしない。将監が過去から目を逸らすたびに、過去の罪はその姿を現し、心臓を食い破ろうとしてくる。どれほど多くの子供たちが、この手によって運命を狂わされたことだろう。その一人一人の顔すら将監は覚えていなかった。
「拙者はこれほどの罪を犯しながら、我が身の辛さばかりを感じています。端金で売った子たちの苦しみを我がことのようには感じていない。一度腐った性根は直らないのです」
将監は滲んだ脂汗を拭った。体が傾きそうになるのを堪える。
貞宗はじっと将監を見るとひとつ息をついた。将監の肩が揺れる。やはり貞宗は将監に失望したのだろう。将監の胸が重くなっていく。だがここで見捨てられても恨みはなかった。
「それで食事も喉を通らんか」
貞宗の言葉には失望も嫌悪もなかった。将監は訝しみながら頷く。無駄な肉は落ちたが、食べても嘔吐するせいで体が動かなくなってきていた。これでは貞宗に救われた命を役立てられないと思い、せめて何か食べられるものはないかと探していたところへ、貞宗がやってきたのだ。
「それで無花果か」
貞宗は気付いたように言う。将監は頷いた。無花果ならばと思い庭に出たが、無花果はまるで実をつけていなかった。将監は実をつけない木を見ながら、まるでこの木は己のようだと思った。
「実をつけないのなら切り倒してしまおうかと思っていたのです」
すると貞宗が立ち上がった。そのまま廊下へ出ると、足袋を脱ぎ始めた。
「大殿?」
何をするのかと思っていると、貞宗は裸足になって庭へと降りた。
「大殿、何を。足が汚れてしまいます。履物をお持ちしますので」
「いらん。裸足の方が登りやすい」
貞宗は言うと無花果の木に手をかけた。そのまま飛び上がって木を登りはじめる。
「大殿! 危ないです」
将監も庭に飛び出して木に駆け寄った。貞宗はもう将監の手の届かないあたりまで登っている。
「落ちたら大変です」
「落ちるものか。童の頃は毎日のように登ってはカブトムシを捕まえておったわ」
貞宗はあっという間に登っていく。その動きは危なげがないが、見ている将監は肝を冷やした。もし足を滑らせでもしたら大怪我では済まない。
「これは何年も実をつけていない木なのです」
だから登って探しても無駄だと将監は言ったが、貞宗は手を止めなかった。貞宗は登りながら言う。
「そちはその百姓の子が幸福であってほしいと思うか?」
貞宗の突然の問いに驚きながらも、将監は迷わず答えた。
「勿論です」
あの子に苦しみなど微塵も感じてほしくない。飢えずに育ってほしい。どのように生きるとしても、その道が穏やかであってほしい。心からそう願っていた。
「だったらそちも諦めるな。どんな木にも、見えないところに実がなるものだ」
「もうやめてください。大殿に何かあればこの命の御恩をどう返せば良いのですか」
すると貞宗は手をとめて振り返った。まっすぐに将監を見つめてくる。すると強い風が吹いた。思わず目を瞑るほどの風で、枝葉が大きく揺れる。将監は思わず幹を支えるように手をやるが、貞宗は涼しい顔をしていた。
「大殿!」
「そのときは恩など忘れて好きに生きよ」
将監は思わず息を呑んだ。その言葉の重さに、しばし時間が止まったように感じる。その間にも貞宗はさらに上へと登った。将監も枝に手をかけて登ろうとするが、下にいたほうが万が一落下したときに受け止められるかと迷った。
「お、あった」
貞宗が手を伸ばす。貞宗の足は細い枝の上にあった。枝は重みに耐えられぬようにたわむ。その不安定さに将監は見ていられなくなる。
「取れたぞ!」
満面の笑みを向ける貞宗に、将監は嬉しさよりも心配が勝っていた。貞宗の手には小さな無花果の実がある。貞宗はその実を将監に向けた。
「落とすから受け取れ」
言うなり貞宗の手から無花果が落ちる。ゆるく回転しながら落ちる無花果に、将監は慌てて手を伸ばした。まるで時間の流れが遅くなったかのようにゆっくり見える。無花果は将監の手のひらに触れて跳ね返るが、潰さぬように握りこんだ。
すると貞宗は軽い足取りで一番下の枝まで降りてきた。貞宗はじっと将監を見つめる。
「そちの苦しみは辛いだろうな」
貞宗が静かに言った。将監は呆気に取られてただ貞宗を見上げる。
「たとえ祈って御仏が許そうとも、人の恨みは消えぬ。その罪を償う方法はなく、それゆえに救いもない」
貞宗の言葉に将監の心が大きく揺れた。それは慰めでも叱咤でもない。罪は罪であり、苦しみは変わらず苦しみである。許しは与えられないが、誤魔化しもせずに、そこにあることを認められた気がした。ふと体が軽くなったように思える。
だが将監は己の罪を抱えたまま生きる方法がわからなかった。光の中で生きるには罪が大きすぎた。
将監は立ち尽くして貞宗を見上げる。貞宗とて楽な人生ではなかったはずだ。だが貞宗は揺るがない。何度苦汁を飲まされても、必ず立ち上がっている。その強さの根源がわからなかった。
「大殿は何を信じて生きておられるのですか」
溺れながら空へ手を伸ばしているような気がした。最後の足掻きだとしても、手を懸命に伸ばす。
「そうだな。我が目、と言いたいところだが、少し違う。儂が信じているのは」
貞宗はそこで言葉を切ると、手を上げて指差した。
「光だ」
将監もつられてその指の先にある太陽を見る。木の葉の隙間からでもその輝きは美しかった。
「光は捉えられぬ。それゆえに傷付かない。誰にも奪われない。ただ全てに与えるのみ。この乱世でこれほど確かなものがあるか」
貞宗の言葉に将監はあの夜に見た仏を思い出していた。あの姿から発せられた神々しい光は誰にも奪えない。将監は思わず背筋を伸ばした。
「拙者も、同じ思いです」
将監はかつてないほどの救いを感じた。生きるのは苦しい。だが、たとえどれほどの苦しみを感じようと、生きようと決意する。たとえ闇に呑まれようとも、失わない光を将監は見たのだから。
すると貞宗が突然に枝から飛び降りた。
「大殿!」
将監は咄嗟に手を伸ばす。無我夢中でその体を受け止めた。貞宗から太陽の匂いがする。
「おお、よく受け止めたな」
愉快そうに笑う貞宗に将監は今度こそ口が聞けなくなる。大声で叱りつけたいような、このまま抱き締めていたいような、言いようのない気持ちになった。
将監はそのまま貞宗を抱えて庭を歩き、縁側へと下ろした。
「足を洗うものを持ってきましょう」
言ってから、将監は己の手の中にあった無花果を見る。潰れずに済んだそれを将監は半分に割った。赤い果肉がのぞく。
「いただいてよろしいですか」
貞宗が頷く。将監は無花果に齧り付いた。甘くない。だが柔らかく、果肉が口の中で溶けていく。
「甘いか?」
貞宗は嬉々としてたずねたが、将監は苦笑いしながら正直に答えた。
「青臭いです」
それでも将監は夢中で無花果を食べた。初夏の陽射しは本来の柔らかさを取り戻して二人に降りそそぐ。将監の腹の音が鳴った。
***
蝋燭の小さな炎が部屋の隅で揺れている。貞宗は橙色の灯りに照らされ、壁に映された影が揺れていた。外からは風の微かな音が聞こえるだけで、あたりは静寂に包まれている。
この静けさに将監の胸はかえって騒めいた。まるでこの静寂が嵐の前触れであるかのように感じられる。だがそれも所詮は戦を前にした気の昂りに過ぎなかった。将監は胸の内で念仏を唱えて心を落ち着かせる。
将監は向かい合う貞宗へと目をやった。貞宗は端然と膝を揃えて座している。貞宗は寧ろいつもより落ち着いているように伺えた。
「本当に酒はいらんのか?」
卓に用意された酒には手をつけていなかった。将監は再び丁重に断る。将監は一年以上も酒を絶っていた。しかし勧める貞宗の杯の酒も減っていない。
「大殿こそ、よろしいのですか」
貞宗の手は酒杯の縁に軽く触れたが、持ち上げることはなかった。貞宗は少し間を置いて答える。
「二日酔いで馬に乗りとうはない。あれは……常興だったか新三郎だったか、飲み過ぎた翌日に馬に乗って大変な目に合っておったわ」
蝋燭に照らされた貞宗の横顔に笑い皺が浮かぶ。そんな僅かな表情の変化にさえ、将監は親愛の念を覚えた。郎党であれば主君を敬い慕う情を持つこともあるだろうが、将監は己が貞宗に向ける情がそこから逸脱している気がしてならなかった。
だが、将監の行動に迷いが生じることはなかった。策を求められれば智慧を出し、戦えと言われれば刀を抜く。貞宗への忠義はこの命が尽きるまで変わらないという固い意志があった。
そこへ足音が響く。空気が一瞬で張り詰めた。障子に影が映るが、その者が声をかけるより早く、貞宗が言った。
「常興か。入れ」
赤沢常興は短い返事の後に障子を開けて入ってくると、貞宗に折り畳まれた紙を渡した。待ちかねた偵察の報告だろう。常興はすぐに部屋を後にしたが、遠くに離れることなく、近くにその気配が留まっていた。
貞宗は手にした紙を広げて目を通すと、その紙を無言で将監へと手渡した。記されてあったのは諏訪の布陣で、それは予想と大差ない内容であった。将監は地図を指差す。
「まず保科が国司殿を狙うことはほぼ確実かと」
指を地図の上で滑らせる。その指を貞宗の眼が追った。
「大殿には、南からの援軍としてお向かい頂きます。それを諏訪本陣が追尾するは必定かと」
これは既に貞宗に提案していた策であったが、貞宗は手を軽く握りしめ、考え込んでいた。表情には深い懸念が浮かんでいる。
「いかがされましたか」
これまで貞宗が将監の策に異議を唱えたことはなかった。だが、今は眉間に皺を寄せている。貞宗は目を地図に落としつつ、静かに呟いた。
「そちの策に欠点はない、ただ」
「ただ?」
長い沈黙が続いた。将監は貞宗を見つめたまま言葉を待つ。どこからか入り込む隙間風が蝋燭の火を揺らした。初夏だというのに風は冷たい。
重い沈黙を破り、貞宗が深い溜息をつく。その後、低く言葉を放った。
「長寿丸の姿が見えぬ」
貞宗の声はどこか沈んだ響きを帯びていた。蝋燭の揺れる光の中で、貞宗の眼が暗く翳る。それは初めて見る貞宗の姿だった。将監は胸に騒めきが起こる。しかしそれを表には出さなかった。
「前回と同じく伝令なのでしょう」
長寿丸を戦場で最も効率よく使うなら伝令に配置するだろう。それに、貞宗が以前から疑っているように、もし長寿丸が北条やその家臣の子であるならば、わざわざ危険な任務は与えるはずがなかった。
それでも貞宗の表情は晴れなかった。貞宗の懸念を理解できぬわけではない。将監も長寿丸を軽んじる相手とは見ていなかった。長寿丸との戦いを一番間近で見たのは他でもない将監だ。いくら少年とはいえ、侮ってよい相手ではない。
「今回の策で長寿丸に動かれては面倒です。拙者の兵を割いて山へ配置しますか」
貞宗は少し考えてから首を横に振り、決然とした声で言った。
「いや、策はそのままに進めよ」
迷いを断ち切るように貞宗は眼を閉じた。将監は貞宗の頭を悩ませるものの正体がわからない。戦を前にした弱気であれば「我らには諏訪明神の威光がある」などと言って鼓舞するものだが、その戦の相手が諏訪明神である。現人神相手であれば貞宗をここまで悄然とさせるのか。
将監は貞宗の手に触れて心配は無用だと言いたかった。酒が進まぬなら、もっと心を慰めるものを用意したい。だが、何も浮かばなかった。これまで与えられるばかりの自分が、返せるものなどあるのか。将監にあるのはこの身一つだけだ。貞宗に差し出せるのは、ただ戦の知恵と剣技だけ。それが何の慰めになるというのか。そう思うと手に触れることすらためらわれた。
すると、貞宗は顔を上げて将監を見た。その瞳にいつもの力強さがない。
「すまんな。どうにも胸が騒いで落ち着かん」
「御心配には及びません。この策が敗れた場合にも考えが」
「心配なのは策ではない。そちだ」
将監は懐へ入れようとした手を止めた。
「拙者ですか」
思ってもみない言葉に将監は驚いて問い返す。貞宗は真剣な面持ちで頷いた。
「無茶をするでないぞ。戦は攻めよりも引き際が大事よ」
「心得ております。しかし大殿に御心配を頂くほどの命ではありませんので」
「何を馬鹿なことを」
貞宗は急に気色ばみ、大きな眼を吊り上げて将監を見据えた。
「そちは儂の大事な郎党よ。命を粗末にしたら許さぬ」
「大殿、しかし……」
将監は貞宗の怒りの理由がわからなかった。貞宗に救われたこの命を貞宗のために使うことの何が間違っているというのか。だが将監は頭を下げて貞宗に詫びた。
「申し訳ありません。御心配ありがたく存じます」
将監の懐には貞宗に宛てた手紙が入っている。もし将監が死んでも、貞宗に指示を伝えるためだ。将監とて最後まで貞宗に献策し、支えたい。だが何が起こるかわからないのが戦場である。
すると貞宗は口を曲げた。不満そうな表情に、取り繕う言葉もなく、将監は身を縮めた。貞宗は呆れたように息をひとつ吐いて、将監を手招きした。将監は少し躊躇いながら、貞宗と距離を詰める。さらに身を寄せてくる貞宗に、将監も体を傾けた。貞宗は口の横に手を当てて声を落として囁く。
「そちが頼重を討ち取ったら、どんな褒美がほしい」
その言葉に将監は訝しむ。褒美の話など戦の前には相応しくない。
「戦う前からそのようなこと」
貞宗の眼が悪戯な光を帯びる。貞宗は微かに笑みを浮かべて言った。
「そちが以前に申しておっただろう。儂の目玉が欲しいと」
将監は思わず顔を歪めた。それは貞宗と出会って間もない頃の将監の戯言である。
「覚えておられたのですか」
忘れてくれとは言えなかった。一度口から出た言葉は戻らない。すると貞宗は目を一層見開いてその瞳に将監を写した。蝋燭の炎が揺れる。炎と闇の影が貞宗の目玉の中で反射した。
「褒美に儂の目玉をくれてやろうか」
貞宗がくつくつと笑う。将監は一瞬でも想像してしまい瞑目する。たとえ冗談であっても口にして欲しくはない。だが元はといえば将監が言い出した事だ。将監は細く息を吸い、手を握りしめた。
「恐れながら。今は大殿の目玉を欲しいとは思っておりません」
沈黙が落ちた。蝋燭の燃える音すら消えたかのように、ただ互いの息遣いだけが響く。やがて貞宗が重く口を開いた。
「何故だ?」
貞宗の瞳が将監を射抜く。全てを曝け出したいという強い衝動が胸の内をかき乱した。貞宗を思うたび、将監の冷え切った胸に小さな火が灯る。最初はかすかな火花だったが、じわじわとその熱は体全体に広がり、底の無い闇から這い上がる手に力がこもるのだ。この身に収まりきらぬほどの思いを貞宗に受け取ってほしい。同じほどの熱で見つめ返してほしい。
だが将監はそれらを全てを胸中に押し込め、口元にわずかな笑みを浮かべた。震えそうになる唇を無理やり引き締める。
「大殿にはその眼で美しい陽光を見ていてほしいからです」
部屋がしんと静まり返る。貞宗は笑みを浮かべたまま小さく頷いた。
「……そうか」
遠くで風が鳴った。壁がかすかに震えて音を立てる。将監は懐へと手を入れた。
「こちらを」
将監は小さな巾着を取り出した。中には手紙が入っている。
「明朝、日が昇る前に我が伝令が来なければお開けください」
巾着を差し出すとき、将監の手は微かに震えていた。そこには将監のたった一つの願いが込められている。その一瞬だけは将監の秘めた思いが貞宗に届くことを願った。
貞宗は策を渡す意図を瞬時に察知して目を眇めた。貞宗の手は巾着を受け取らず、膝の上に置かれたまま動かない。
「そちこそ何を心配しておる。今の諏訪にそちを破るほどの武将などおらぬわ」
「もし万が一、挟み撃ちの策が失敗した場合の指示が書き記してあります」
将監はその言葉を淡々と告げた。将監は腰を上げて貞宗の手を取ると、その手に巾着を握らせた。
「では、先に出発致します」
山岳地帯を進むために将監たちは先に出立することになっていた。将監が立ち上がると貞宗ははっとしたように声を上げた。
「待て」
貞宗が将監の袖を掴んだ。蝋燭の炎がかすかに揺れ、消えかかる。将監は息を呑んだが、貞宗の手の力は次第に弱まっていく。ほんの一瞬、貞宗の目に見えたのは、確かに迷いだった。しかし、その迷いは瞬きの間に消えていく。
「……いや、なんでもない。この戦はそちの活躍にかかっている。励め」
貞宗の手が将監から離れた。将監は貞宗に向き直って答える。
「御意」
顔を上げて見つめたとき、貞宗はいつも通りの貞宗だった。これ以上は思いが残ると思って背を向ける。
部屋を出ると、待ち構えていたように赤沢常興が立っていた。そして入れ替わるように部屋へと入っていく。障子が音もなく閉められた。
将監は名残惜しい気持ちがして一度だけ部屋を振り返った。貞宗の影が動き、声が聞こえる。それを心へと焼き付けた。
貞宗はもし自分が先に死ねば、恩など忘れて好きに生きろと言った。だが将監は己の命が尽きたときに、貞宗に覚えていてほしかった。その記憶の片隅に、少しでも存在を残してほしい。
暗い夜空に細い月が浮かぶ。足元を照らすには頼りないが、将監には充分だった。どのような結果になろうとも、明日の太陽が貞宗を照らす。その光が優しいことを祈った。
***
初夏の陽射しが首筋を焼いている。身につけた鎧の下には熱がこもり、小袖が肌に張り付いていた。風がなく、空気は熱せられて澱んでいる。
貞宗は横たえられた亡骸を前にして立ち尽くしていた。額から汗が流れて頬に伝う。目の前にあるものは見えているのに、受け入れることを心が拒んでいた。
将監が死んだことは戦場で理解していた。本来であれば来るはずの伝令は来ず、前夜に渡された巾着には別れの手紙が入っていた。その時点で彼が戻らないことを悟ったはずなのに、今、目の前に横たわる亡骸を目にすると、その事実は到底受け入れ難いものになっていた。
横たえられた亡骸は布で覆われている。それは何枚もの直垂で、この亡骸を運んできた将監の郎党たちが着ていた物だろう。郎党たちは鎧も兵糧も失って、それでも頭と仰いだ人の亡骸をここまで運んできた。将監が慕われていたのだとわかる。郎党たちは将監の亡骸を囲むように項垂れていた。
貞宗は遺体の前に膝をついた。頭がない亡骸は随分と小さく見える。腐臭が鼻腔をかすめ、布を解くとその匂いはさらに濃くなり、喉の奥にまで絡みつくようだった。落とされた首の斬り口からは蛆虫がわいている。貞宗はそれを素手で払い落とし、体をくまなく確認した。首以外に傷はなく、一撃必殺で絶命したのだと伺える。
貞宗は天を仰いだ。今日は雲が見当たらない。流れ落ちる汗が不快で、喉が酷く渇いていた。失ったものの大きさが今になって込み上げてくる。途方もない無力感が貞宗を襲っていた。
誰が将監を討ったのか。考えても無意味であると承知しながらも考えは止まらない。将監ほどの者を討てる武将が諏訪にいたとは思えないが、報告では将監たちを襲った兵を率いていたのは時行だという。将監が討たれるその瞬間を見た者はいなかったが、やったのは時行だろう。
貞宗は見落としていた。長寿丸が北条の子であることも、その実力も、全て見誤っていた。その結果として将監が死んだ。それは貞宗が殺したのと同義であった。貞宗の判断の誤りが、将監を死地へと追い込んだ。貞宗の目が最も大事なものを見落としていたばっかりに。
「やはりこの目は無価値だった」
郎党一人も守れないで何が千里眼か。これほど役に立たない目玉ならば今すぐに抉り出して捨ててしまえばいい。だが貞宗は背負った郎党や領民の命を投げ出すことはできなかった。
貞宗は将監の手を掴んだ。命のない者の冷たい肌だった。もし、あの夜。将監の手を掴んで引き止め、飲み込んだ言葉を伝えていれば、将監は死なずにすんだのではないか。栓方ない思いばかりが駆け巡る。せめて苦しまずに逝けただろうかと貞宗は呟く。最後に一目顔を見たくても、そこには何もなく、だがそれは武士として死んだ証であった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。暑さと腐臭、そして自らの無力感が重なり、胃が締め付けられた。息をするたびに胸が苦しくなり、ついには堪えきれず、貞宗は顔を背けた。その瞬間、生温かい吐瀉物が喉を迫り上がり、地面に散った。体の中の力が失っていくようだった。
「貞宗様」
その声に、貞宗はわずかに顔を上げた。いつの間にか常興がすぐ後ろにいた。常興は無言のまま貞宗の背と腕を支える。貞宗は僅かに力を抜いた。
「丁重に葬ってやれ」
貞宗はなんとかその一言を絞り出した。貞宗は主君として将監を見送らねばならない。
常興は無言で深く頷き、部下たちに目線だけで合図を送った。部下たちはすぐさま動き、将監の亡骸を担いで運び去る。彼らの足音が徐々に遠ざかる中、常興は一度も言葉を発さず、ただ貞宗の横に佇んでいた。
貞宗は懐へと手を入れた。そこには将監からの手紙がある。多くを望まず、ただその存在を覚えていて欲しいと記されたそれを、貞宗は握りしめた。
完