傷 野伏が穀物庫を襲っているとの報告があったのは、秋の収穫が済み、雪が降る前の頃だった。そのような野伏が起こす強奪は珍しくはないが、領地を守るために見逃すわけにはいかなかった。
貞宗は野伏の討伐を瘴奸に任せた。その実力を信用してのことだが、賊であった瘴奸であれば野伏のやり方も熟知しているからだ。それでも充分な軍勢で挑むようにと、貞宗は瘴奸に兵を欲しいだけ連れていくように言った。しかし瘴奸は配下の五十名がいれば充分であると、その日の夕刻には郎党を連れて山へと向かった。
しかし、討伐に出た瘴奸は帰って来なかった。
彼の配下の話によれば、野伏を追い詰めたまではよかったが、その野伏は突如として戦のやり方を変えてきたという。それは武士の戦い方であり、その武士たちには上方の訛りがあった。混戦のうちに、いつのまにか瘴奸の姿は見えなくなっていたという。あれは悪党だと配下の者は口を揃えていた。
貞宗は兵を引き連れてその山へと向かった。小笠原の旗を掲げて山を登れば、山の中腹で武士が待ち構えていた。
「小笠原貞宗殿とお見受けする」
発せられた声に貞宗は答えなかった。武士たちは薄暗い木立に身を隠しながらこちらを伺っている。生い茂る草木に身を潜める武士たちの中に、貞宗は瘴奸の姿を探していた。
すると、木立の中から大柄な入道が姿を表した。大鎧には赤丸に心の文字が描かれている。歳は貞宗より一回りほど上であろうが、その眼には貪欲な輝きがあった。立ち居振る舞いには圧倒的な凄みがあり、近付いて来るごとに空気が張り詰めていく。この男が統領であることは誰の目にも明らかだった。
その男は貞宗から三間ほどの距離で立ち止まった。男が合図をすると、瘴奸が連れてこられる。瘴奸は後ろ手に縛られ、耳のあたりから血を流していた。瘴奸は男の傍に膝をつかされる。
貞宗は黙したまま矢をつがえた。それと同時に男は脇差を抜くと瘴奸の首へと当てがった。
「敵意はない。弓を下げてくれぬか」
男の低い声が山中に響く。貞宗は構わず弓を引き絞って男の眉間に狙いを定めた。男の口が弧を描く。
「古馴染みに会いに来ただけのこと。儂は兵を引く」
男は瘴奸の首から脇差を退けた。男の合図で周りにいた武士たちが山中へと後退していく。その場には男と瘴奸だけが残っていた。
貞宗の弓は男を狙ったままであったが、男は一瞬たりとも怯む素振りを見せなかった。荒々しい風が吹き抜けていく。木々が揺れてぶつかり合い、獣の唸り声のように響いた。
「ところで、小笠原殿はこいつが何者か理解して傍に置いておられるのか?」
男は言いながら脇差の先で瘴奸を指し示した。瘴奸の表情が引き攣る。貞宗は男の問いかけに初めて口を開いた。
「何者であろうと、今は儂の郎党ぞ」
狙いの先で、男の表情が変わるのが見えた。気迫は衰えないまま、一瞬だけ笑みを浮かべる。
「達者でな、将監」
男の手が瘴奸の頭を撫でるように触れていった。瘴奸の肩が震えたことを貞宗の目は見逃さなかった。
男はそのまま山中へと消えていった。
貞宗は兵に連中を追わないように下知を飛ばすと、未だに膝をついたままの瘴奸へと寄る。瘴奸は貞宗に向かって頭を下げた。
「此度の不始末、申し訳ございません」
縛られた瘴奸の手はきつく握り込まれていた。貞宗は動かないように言ってから、太刀を抜いてその縄を切る。それでも瘴奸は顔を上げなかった。
「あれは知り合いか?」
「昔に関わりのあった悪党にございます」
「顔を上げよ。大事ないか」
瘴奸はゆっくりと顔を上げた。その表情に怯えの色が残っている。
「あれは何者だ?」
「播磨の悪党、赤松円心にございます。今は播磨守護に任じられたと聞いておりましたが」
赤松円心といえば護良親王の令旨を受けて挙兵した武士である。それ故に戦功に対して不遇であり、与えられた守護職も没収されたと聞いた。
「播磨の者が信濃に来たのは、そちに会うためか?」
「どこかで私の噂を聞いたらしく……私は死んだことになっておりましたので、確かめにきたと申しておりました」
貞宗は息をつくと撤退の号令を発した。まだ立ち上がらない瘴奸の腕を取って立ち上がらせる。
「また顔に傷が増えたな」
貞宗は瘴奸の顔に手を伸ばした。耳から眉尻にかけての切傷はすでに血が止まっている。瘴奸の顔にはいくつもの古い傷痕があるが、この傷も跡が残りそうだった。
しかし瘴奸は体を強張らせると、貞宗の手を避けた。無意識の行動だったのか、瘴奸自身が気不味い顔をしている。
「……手が汚れてしまいます。お気遣いなく」
瘴奸は貞宗から眼を逸らすと、傷を手で覆い隠した。
今から十数年前。まだ瘴奸が平野将監と名乗っていた頃のこと。
家を飛び出した将監が賊に落ち、辿り着いたのが播磨の地だった。六波羅探題が厳しく目を光らせている地ではあったが、将監はその地で同じような境遇の者を集め、征蟻党を作り上げていた。
しかし、その地には既に力のある悪党がいた。それが赤松円心だった。円心は己の土地を荒らす者に容赦はなく、将監はすぐに目をつけられ、捕えられた。
「名はなんてぇんだ?」
円心は将監の父ほどの齢に見えたが、その獰猛さを隠しもしなかった。後ろ手に縛られた将監は奥歯を噛み締めて首を垂れている。髷を落としたざんばら髪が頬に掛かっていた。
口をきかない将監に、円心が近付いてくる。円心の足がすぐそばで止まった途端、将監は髪を掴まれ、顔を上げさせられた。
「名は?」
円心は将監の髪を掴んだまま、顔を覗き込んでくる。
「っ……平野、将監」
「摂津か河内にそんな名があったな。家出か?このくそガキ」
将監は父を思い出して苛立ちが込み上げ、その姿が目の前に立つ円心と重なった。将監は円心に向かって唾を吐きかける。それは円心の直垂を汚した。将監はいい気味だと歪んだ笑みを浮かべる。
すると円心は脇差を抜くと将監の鼻に当てた。刃が皮膚を切り、鏡のように将監の目を映した。
「お前の鼻を削いで床間に飾るってのはどうだ」
脇差がゆっくりと引かれた。鼻に食い込んでいく刃に、将監は恐怖が堪えきれず声が漏れ出る。その様子が円心の嗜虐心を余計に刺激した。
「おい、さっきの威勢はどうした」
脇差が引かれ、視界から消える。将監は息をついたが、次の瞬間、ぶつりと頭で音がした。支えがなくなって将監は前のめりに倒れる。土埃が舞い、打ちつけた頬の痛みに顔を顰めた。その将監の目前に切られた髪がぱらぱらと落ちてくる。円心は掴んでいた将監の髪を脇差で切ったらしい。
将監は頭を上げようとしたが、逆に押さえつけられた。うなじに冷たい刃が当てられる。円心の低い声が耳元に響いた。
「じっとしておけよ」
「ふざけるなっ……やめろ!」
円心はそのまま脇差で将監の髪を切り落としていった。短く切るだけでは飽き足らず、円心はそのまま脇差で髪を剃り上げていく。全てが終わる頃には将監の頭は幾つもの切り傷が出来上がっていた。
「これに懲りたらこの播磨で悪さをするんじゃねえぞ」
円心が解放した頃には、将監はすっかり気概を挫かれていた。
貞宗は瘴奸の館をそっと覗く。あの一件以来、瘴奸は館へ引きこもっていた。貞宗は庭にいる郎党たちの中に見知った顔を見つけ、呼びつけた。
「そち、確か死蝋といったか」
頭の両脇を刈り込んだ若い男は、ぎこちなく貞宗に頭を下げた。征蟻党の幹部で、瘴奸が拾って育てたという青年だった。
「頭ァ!!」
死蝋は館を振り返って大きな声をかける。しかし返事はなく、瘴奸は姿を見せなかった。貞宗は手で死蝋を制す。
「構わぬ。それで、瘴奸はどうしておる」
「頭ですか……あぁ、まあ」
死蝋は館へと目をやって言葉を濁す。
「そのうち元に戻るんで、大丈夫だとは思うんですが」
「そちもあの男を知っておるか? あの播磨の」
「赤松円心ですか。そりゃあ、ええ。まだ頭に拾われたばっかで、ガキでしたけど。あれは忘れられねえっていうか」
死蝋はその時のことを貞宗に話した。瘴奸が赤松円心に捕えられ、頭を丸められて、顔や頭に傷を作って帰ってきたことだ。
「あの円心って親父は頭の頭に傷を増やすのが趣味のイカれたやつでして。会うたびに脇差を振り回して頭を追いかけ回してくるんですよ。頭は赤坂の城で死んだってことになってるんですが、頭が生きてるって聞きつてわざわざ播磨から頭の耳を剃り落としに来たんだとか」
「なぜ耳を」
「床間に飾るとかって」
貞宗は一瞬だけ床間に置かれた耳を想像した。想像した上で意味がわからなかった。上方にはそのようなけじめの付け方でもあるのだろうか。
「頭はあの親父を見るとブルっちまって使いもんにならねえんですよ。散々脅されても播磨で掠奪を繰り返してた頭も頭ですけど」
死蝋はそこで一度言葉を切ると、笑いを堪えるように口に手を当てた。
「そんで、頭はあの親父に髪を剃られたのがよっぽど辛かったのか、それから頭の毛が生えなくなっちまって」
死蝋は恬淡と言ってのけるが、貞宗は同情の念を抱かずにはおれなかった。瘴奸の気持ちを慮れば笑い話ではないが、死蝋は堪えきれなかったのか肩を震わせていた。
「笑ってやるな」
「まあまあ、そういうわけなんで、放っておいて大丈夫ですよ。冬眠みたいなものなんで」
死蝋の言葉通り、数日すれば瘴奸は姿を見せた。新しい傷は瘡蓋になっている。貞宗はあえて赤松円心のことは口には出さなかった。放った偵察によれば、赤松円心は大人しく播磨へと戻っていったという。
貞宗の視線は自然と瘴奸の傷へと向いた。そのひとつひとつに、自分の知り得ない過去があるのだろう。
「……やはりあの時に射殺しておくべきだったか」
貞宗は誰に聞かせるわけでもなく呟いていた。