2025-05-13
占領された街に侵入して、市長代行を助け出せ。まあ無理難題を押し付けてくるもんだ。テレーズ市長代行をタイラギが助け出したという物語が大切な事は理解する。だが実際に敵地で動くのはあの子たちじゃなくて、今手慣れた様子で荷づくりをするこいつだ。
明日の朝には城を出て、しばらくは帰ってこない。帰ってくるかも分からない。
思えば、生死も分からない状態で離れるのは本当に久しぶりだ。それこそ、解放戦争の時ぐらいじゃないか。
自分のベッドに座り込んで、荷づくりを進める背中を見つめる自分の顔が不機嫌にゆがんでいるなんて分かっていた。仕方のない事だってのは分かっている。タイラギたちを守れて、敵地で単独で動ける人間なんて俺かこいつぐらい。目立たない、まで条件を絞れば、シュウがこいつを指名する理由だって納得が出来る。
嫌なだけだ。危険だとかそういう話じゃない。
「まったく不機嫌な顔をして」
小さく纏めた荷物を机に置きながら、振り向きもせずに言われた。そのまま隣の戸棚に手を伸ばし、俺の酒とグラスを二つ、手に取った。
「だぁってよ」
「広間でもちょっと顔に出てたぞ」
「……それはよくねえな」
皆の前では頼れるビクトールさんでいなければならないというのに。不機嫌に固まりそうな自分の顔面をペタペタともみほぐしている間に、フリックは俺の隣に座りこんだ。ほら、とグラスを渡され、受け取ればそのままワインが注がれる。適当に買ってきた安酒だ。濃いアルコールの匂いが広くもない部屋に広がった。
もう一つの方にも手酌で注いだフリックは、舐めるようにグラスを傾ける。そのまま眉が寄った。
「もうちょっといい奴買えよ」
「勝手に飲んどいてお前」
軽口の応酬もしばらくお預けだ。嫌だな。
グラスで塞がっていない方の手を伸ばして引き寄せる。そのまま肩口に顔を埋めれば、背中を優しく撫でられた。まったく子供みたいだ。
「行くなよ」
まったく端的で、わがままなお願いだ。かなえられることがないなんて分かっている。手に届かないところにやるのが嫌なだけだ。手を離すのが怖いだけだ。
仕事だから仕方がない。これからこういう事も増えてくるだろう。
全部、ぜんぶ分かっているのだ。
だからフリックは半分笑ったような声で言う。
「すぐ帰ってくるから」
笑い飛ばして、これが普通だと思って、帰ってくることを当然だと受け止めろ。離れてもまともでいなければならない。自分はそれを選んだからだ。
全部承知のうえで、それでも今は不機嫌な子供のように目の前の体に縋りつく。少し体温が低くて、骨が細くて体が薄い。自分とは全然違う、別の生き物が爪を立てることを許してくれている。
それがうれしくて、甘えるのが情けない。喉の奥でうなるが、力を緩めようなど髪の毛ほども考えられない。
俺に抱き寄せられたまま、フリックはグラスのワインをなめている。戯れに、空いた手が髪をなでた。整った爪の先が髪を割って、そのままつかんで緩める。何度も繰り返されるその動きに、瞼がゆっくりと重くなるのを感じた。
眠ることもしばらくは手間のかかることになる。嫌だ、行くな。俺のためにここに居ろよ。バカみたいな望みを、言い募って全部流され、仕方のない奴だなと笑われる。
お前は帰ってこないことがあると思い知っているだろう、とは、お互いがお互いのために言わないことだ。