瞳に映すモノ ――目を奪われる。
フィクション、ノンフィクションを問わずにあらゆる創作物で一度は触れる典型的な表現であるが、現実世界では滅多に遭遇するシチュエーションではない。改め、現実世界で遭遇するシチュエーションではない筈だ。
目の前を通り過ぎた生徒に"目を奪われ"ながら、そんな事を生徒は考えるのであった。
場所は縄印学園の校門。部活の交流試合や文化祭といったイベントがない限り近寄らない、他校の目と鼻の先。待ち合わせた友人が約束の時間を過ぎても敷地内から出てこない状況の中で苛々が募り、生徒が手元のスマートフォンから目線を上に上げた瞬間である。
視界に映り込んできた横顔。
不自然さが一切なく、しかしマスカラを使用していないと主張されれば異議を唱えたくなるほどに長い睫。歩く振動と、微かに吹く晩春の風によってさらさらと揺れる漆黒の髪。睫と髪が一層映える頬は白色と表現出来るが、血色は良く、きめ細やかな肌であることが遠目でも把握出来る。
黒と白の中、僅かに斜め上方向にに向けられている灰色がかった瞳は陽の光の中で美しく輝いており、その瞳は何を映しているのだろうか――と生徒は無意識の内にその視線を追ってしまった。
最も、そこには"誰も"いないのであるが。
その直後、生徒は軽く肩を叩かれた。
生徒がしていたことは通行人の姿を見ていただけだ。それなのに、何か自分がとんでもなく"悪いこと"をしてしまったような気になってしまい、生徒はびくりと肩を大きく振るわせて背後を振り返る。
そこには、申し訳なさそうな顔で謝罪を繰り返す友人の姿があった。
待たされた苛々が既に霧散していた生徒は友人の謝罪を軽くいなし、視線を再び校門の方へと向ける。そこにはもう、黒髪の生徒の姿はなかった。
「彼のこと、気になる?」
「彼?」
「そう。うちの学園の有名人の一人」
――友人、曰く。
元から周囲の目を惹く容姿をしていたものの、ここ最近一層身綺麗になっているのだという。
「恋人が出来たんじゃないかって一部の生徒が絶望的な顔をしてたけど、私はモデルデビューするんじゃないかって思ってる」
根も葉もないだろう友人の噂に耳は傾けつつ、生徒は先ほど見てしまった風景を思い返していた。
誰もいない方向に向けられていた緑灰色の眼差しを。
「……恋人、なんじゃないか?」
「何か言った?」
「いや、何でも。それより、この後さ――」
己が感じていた"悪いこと"の原因に気づいた生徒はわざと話題を逸らし、友人の肩に腕を回しながら学園の前から去ることを選んだ。
生徒は確かに、黒髪の生徒の視線の先には誰も見なかった。間違いなく、そこには誰も居なかった。
けれども、あの柔らかな眼差しを自分は――彼の想い人ではない自分は、見てはいけなかったのだと。不思議な程にすんなりと受け止められたのである。
***
「少年、唇が乾燥している」
縄印学園学生寮の一室にて。
夜、ベッドに横たわりながら読書を楽しんでいた少年が一冊を読み終えたタイミングを見計らい、アオガミは声を掛けるのであった。そのままではいずれ、傷が出来てしまうと。
「え、そうかな?」
指先で己の唇に触れるが、少年の感触としては普段とあまり変わりが無いように思えた。だが、アオガミが指摘してくれたのだ。彼の気配りを受け取らないという選択肢は少年に存在しない。
「分かった。明日、薬局でリップクリームを買ってみるよ」
「……」
「……アオガミ?」
少年が素直に応じたというのに――否、素直に応じた内容に対してアオガミは何やら考え込む気配を見せた。彼の表情筋に動きは一切現れていない。しかし、少年には分かるのだ。半身が何かを考え込んでいると。
「アオガミ、言って」
本を枕元に置き、ベッドから起き上がった少年は半身へと両手を伸ばした。先ほどまでページを捲っていた指先でアオガミの両頬を挟めば、僅かに黄金の双眸を揺らした後、おずおずと彼は口を開くのであった。
「少年、先ほどの発言を踏まえると、君はスキンケアへの興味関心が薄いと考えられる」
「それは、そうだね」
「ならば、私に任せて貰えないだろうか?」
――君のケアをしたいと思う。
段々と小さくなっていく声音。併せて、黄金の視線を一瞬逸らされてしまう。アオガミが、少年が興味を抱かない事柄へ干渉したいと考えている自身に対して抱いている心情が赤裸々に現れており、即ち。
「ぜ」
「ぜ?」
「全然、良いよ!」
少年が拒否する選択肢も、最初から存在しなかったのであった。
***
「アオガミ?」
いつもと変わらない下校の風景。
だが、アオガミが珍しい事に僅かながら警戒心を見せている様子に気づいて少年は足を止めた。警戒心と謂えども、敵対する悪魔に向ける様子とは異なる。今まで少年が見たことのないアオガミの姿である。
「アオガミ、どうしたの?」
「……いや、何でも無い」
明らかに何かがあった様子で、少年はアオガミが警戒を向けていた方向を振り返る。そこにあるのは縄印学園の校門だ。縄印学園の生徒達に交じって他校の制服も垣間見えたが、至って普通の光景である。
「少年」
首を傾げる少年であったが、アオガミに呼ばれて即座に視線を彼へと向ける。
「……」
「……」
「……」
「……」
ふたりの間に沈黙が落ちた。
柔らかな風が吹き抜け、少年の前髪を揺らす。
アオガミとは異なり、適度な瞬きを繰り返す少年。瞼が閉じる瞬間、アオガミの姿が映る緑灰色の瞳は黒色の睫と白い肌に隠されてしまう。
その僅かな時間を勿体ないと考えてしまう己に気づき、息苦しさを覚えるアオガミであったが、彼の視線の先に立つ少年はしっかりとアオガミを見据えていた。
少年の唇にリップクリームを塗るのはアオガミの役目だ。
少年の髪から香るシャンプーの匂いを決めたのも、濡れた彼の髪をゆっくりと乾かすのも、風呂上がりの火照った体にクリームを塗るのもアオガミの役目だ。
少年の為に。少年がより健康に過ごせるように。少年を想って。
――その筈であったのに。
「アオガミ」
乾きの気配は消え、より艶やかになった薄桃色の唇。
アオガミが整えた口元をゆっくりと動かし、彼の名前を呼びながら少年は頬を緩ませるのであった。
「ありがとう」
アオガミが抱いている感情を理解しつつ、だがその名を呼ばず、少年は半身が抱く心を受け止めた。
「ここが寮なら良かったのに」
――寮だったら、キスが出来たのにね。
唇の先を僅かに尖らせながら、少年の指先がアオガミの指先を絡める。
「……そうか」
理解しきれない、己の感情。
その在り方が正しいのかどうかも分からないまま、だが少年が否定しない処か受け止めている様子に戸惑いを覚えつつ、アオガミも少年の指先を握り返すのであった。
「少年」
「ん、何?」
「今度はヘアオイルも試してみたいと思うのだが、どうだろうか?」
感謝を告げるべきだと、アオガミは考えていた。
だが、それ以上に感謝を告げるのは早いとアオガミは判断していた。
少年に「ありがとう」を伝えるのは、己が抱く感情の正体を見極め、受け止めてからではないといけないと。
「そろそろ、俺のケア用品専用の棚を用意しないとね」
「そちらも手配済みだ」
「流石はアオガミ。やり手だね」
くすくすと楽しそうに笑う少年と連れ立って、アオガミは坂を下る。
晩春の、ある日の出来事であった。