もみづる色 情人と添い遂げた後の朝とは、一体どんなものだろうか。遥か昔の後朝の文に遡らなくとも、それは特別なひとときに違いない。理性の人である福沢諭吉も同様で、好きになってしまった人と付き合うようになってからというもの、あれやこれやと幾度となく想像を巡らせてきた。寄り添い合うようにして行儀良く寝たまま起きて笑い合うだろうか?それとも、決して隙を見せることのない隠し刀のあどけない寝顔を見ることが叶うだろうか。貪られるのか貪るのか、彼我の境目を失うように溶け合ったとしたらば離れがたく寂しいものかもしれない。
では現実はどうであったかというと、諭吉は窮屈な体をうんと伸ばしてゆるゆると目を覚ました。はたと瞳を開き、光を捉えた瞬間頭をよぎったのは、すわ寝坊したろうかという不吉な予感だった。味噌汁のふわりとした香りが空きっ腹をくすぐる。見覚えのない部屋だ。己の身を確認すれば、シャツと下穿きだけという半端な格好である。普段は米国で入手した寝巻を身につけているのだが、よそ行きのままということは、ここは出先なのだろう。それにしたって中途半端だ――
瞬間走馬灯のように記憶が蘇り、諭吉は昨晩何が起きたかを正確に思い出すに至った。隠し刀の長屋に押しかけ、半ば強引に添い寝をしたのである。服装が半端だったのは、寝苦しくない程度に身軽にしようという配慮と、まだ肌を合わせない状況から来る気恥ずかしさによるものだった。シャツを着たままというのはどうにも肩が窮屈で、結局体が痛くなったことには苦笑を禁じ得ない。
人の気配に聡いはずの自分の横からは、もうずいぶん前から主が消え失せていたらしく、暗闇で感じた温もりはひんやりとしていた。寝入るまでのふざけ合うような、甘やかな空間は霧散している。ひょっとすると、自分は眠っている間にはしたない真似でもしただろうか?自分の記憶になくとも、無意識下で失態を犯した可能性は重々ある。泥酔した際の様子は大層よろしくないとは同輩たちの言で、実はまだ隠し刀の前では見せていなかった。
もし、彼が自分に幻滅して去ってしまったならばどうしよう。否、そんな薄情な真似をする男ではない。だが、初めて添い寝をした朝にしては随分あっさりとして寂しいではないか。打開策を考えようと思索を巡らすも、昨晩以来の空腹が頭の回転を鈍くしていた。隣家からなのか、この朝食らしき香りが疎ましい!布団から起き上がったままの体勢でうんうん唸っていると、背後からくすくすという押し殺した笑い声が耳に届いた。
「おはよう、諭吉。よく眠れたか」
「……おはようございます」
相変わらず気配が掴みにくい隠し刀は、何やらいくつか皿を手にしていた。布団を抜け出してあわあわと服を身につけて観察してみればなんということもない、朝食は全て情人が用意してくれていたのだった。軽く水で流したのか、昨晩はあちこち煤けていた体がこざっぱりとしている。彼ばかりが整っていて気恥ずかしい。顔を洗ってくるといい、と水壺のある場所を示され、諭吉はお言葉に甘えることにした。
「起こしてくれても構わなかったんですよ」
一応身だしなみを整えたものの、口を突いて出るのは拗ねた台詞ばかりで諭吉は心中密かに天を仰いだ。恋愛巧者とは言わないまでも、自分はもう少しまともな口をきける人間のはずだったが、一体どうしたことだろう?羞恥と後悔とで眉間に皺を寄せていると、隠し刀は膳を整えて座るよう促した。
「お前の寝顔が見ていたくて、起こせなかったんだ」
「な」
「諭吉はなかなか隙を見せてくれないからな」
飄々と言ってのける男は、痛快なほどに気風が良い。独寝で寂しいかと思えば、実際は布団よりもずっと厚く包まれていたのだと知ると、じわじわと満たされたような心地になる。炊き立ての米の匂いに釣られたふりをして膳の前で手を合わせると、隠し刀も神妙な面持ちで手を合わせた。礼儀作法はよく知らないものだから、といつぞや西洋式の礼法を教えたことを思い出す。もとより身体の使い道を知る人間であるためか、惚れ惚れするほど綺麗な動きをするようになるまでは然程時間がかからなかった。
「いただきます」
「いただきます」
玄米が混じった米の硬さは程よく、味噌汁はやや甘め、具は蕪らしい。男が趣味も兼ねて作った鯵の干物は、炙り具合が絶妙で、噛むごとに甘さが口の中に広がる。複数種類の漬物に、ひじきの煮付けやら芋の煮っ転がしやら、なかなかどうして独り身の男にしては内容が豪華だ。裕福な家柄でも朝はさっと済ませることが多い。陽の傾きからまだまだ出勤する刻限まで余裕があると知りつつも、諭吉は優雅さにくらりとした。
「裏の長屋に惣菜屋があってな、夜に残りを分けてもらうんだ。いちいち買い物に出かける暇があまりないものだから助かっている」
お前がいる時に揃っていて良かった、と男は上機嫌の声を出す。詳しい事情を紐解いていけば、つけを踏み倒そうとする輩をとっちめたことで縁づいたそうだ。漬物もお裾分けでもらったもので、時折こうして膳が豊かになるのだと隠し刀は続ける。美味の合間に苦さが走った。自分の知らない彼の生活について、あまり想像を巡らせなかったが、薄暗いものばかりではないのだという事実が妙に悔しい。
二人は別々の人間だ。一人前に動くことのできる自由な立場で、年がら年中くっつている必要もなければ、くっついていたいわけでもない。しかしながら、こうして彼の口から自分と共にある以外の事物を語られると、全てを恣にしたいというみっともない欲が湧き出てしまう。惚れた腫れたの都々逸を、鼻で笑っていた自分が懐かしかった。
どうやら情人の機嫌が暗雲垂れ込めている。気配で察することはできても、人の情に疎い隠し刀はきゅるりと瞳を回した。悩む諭吉の姿は愛らしいのだが、憂は晴らしてやりたいと思う。さて、一体何が原因だろうか?気合を入れて準備をした食事の評判は良いようなので、まずここは問題ない。何しろ今朝は常より早くに目が覚めた。狸寝入りで始まった夜はひどく浅く、寝返りを打てば触れられるほどに近くで眠る諭吉を意識して体が暴走しかけていた。
念のためにここで説明するならば、隠し刀が始終獣欲に塗れているわけではない。寧ろ自分自身淡白だと考えていた口である。何かと入り浸ってつるんでいる長州藩の面々が、宴席の延長線で遊郭で遊ぼうと誘いをかけても、面倒にならない程度しかこなさないので高杉晋作辺りには随分揶揄われたものだ。
「あんたのそれは、殆ど仕事だな。一体何なら溺れることがあるんだか」
「溺れたら困る」
泳ぎ方は全て故郷で仕込まれた。相手に対してどうすれば良いのか、冷静に目的を遂行させるために尽くすべき手腕の全ては十二分に備わっている。実際女も男もそれなりに満足させることはできたように思うし、初めて出かけた遊郭での評判は上出来だった。晋作は遊び上手という手合いで、今は隠し刀の人間味を探る遊びに耽っているらしい。自分があてがわれた女性を後日呼んで、話を引き出したことには流石にゾッとしてしまった。楽しみ方は人それぞれである。
さておき、舞い戻って諭吉のことだ。彼に対して、隠し刀は初めて耽溺するとは何を意味するかを体得した。何ではなしに会いたく、離れていればふと想いを馳せ、そば近くで眠れば自分を律することが困難になる。長らく口付けやら悪戯めいた触れ合い程度で済ませていたのは、皮肉にも『仕事』ではない証左になるだろう。ほんの少しの間違いが、人と人との仲を拗れさせる。撚り糸がぐちゃぐちゃになればなるほど元のように戻るのは絶望的だ。
故郷を出て世界は何倍にも広がり、因縁を結び続けてきたものの、いつまでも変わらずに大切にしたいという願望が生まれたのは片割れ以来ついぞない。否、片割れはそう生まれついてしまったという運命であって、敢えて選んだ間柄ではない。互いに抱くのは、人間の持ちうる感情とは別次元の想いだ。ならば、諭吉に対して自分が選び取った因縁は、きっと極めて人間的なものだろう――晋作には絶対に知られるつもりはない。
陽が朝を囁き始めたあたりで耐え難くなって、布団をそうっと抜け出した。諭吉の寝顔を眺めて、寝息に耳を傾ける喜びを引き剥がすのは身を切られるような思いだった。とは言え自分の浅ましさを知られるわけにはいかない。水行よろしく井戸水を浴びたのはそんな健気な事情に基づく。どういうわけだか同情した惣菜屋にあれこれお裾分けをしてもらったのは僥倖だった。
自分のしでかしたことが知られたはずはない。戻った際にも諭吉は深く寝入っていたし(眉間の皺が取れてすっかり丸くなっていた)、できるだけ平常心を保ちながら朝の準備を整えた。起き抜けで頭がぼうっとしているのか、うんうん唸る諭吉があんまりにも可愛いものだから、またぞろあらぬ妄想が走りそうになるのを止めるのは大変だった。自分は精一杯努力をした。手落ちはどこにもないはずだ。一体どうして諭吉の機嫌は傾いたのだろう?
「私は朝湯に行こうと思うが、諭吉はどうする?」
黙っていても答えは出まい。当てずっぽうに失敗した末、隠し刀は前に進むことを選んだ。今日は朝湯に行き、全身を清め、目標のためにあらゆる準備をするつもりだった。諭吉の仕事上がりに合流して、そのまま店に向かうというのが一番間違いがないだろう。長屋は自分が野放図であったために人も猫も好き勝手入り乱れて、落ち落ち睦み合うことも難しい。思えば夜から朝までを諭吉と二人きりで過ごすことができたのは、半ば奇跡のようなものだった。
「湯屋……そうですね、まだ時間に余裕がありますし、僕も行きましょう」
「えっ」
「何ですか、その顔は。僕だって湯屋くらい行きますよ」
諭吉の発言は至極もっともである。彼は衛生観念が高く、医師としての心得を持つ人間にふさわしい清潔感を伴っている。手袋を脱いだ手に触れた時、隠し刀は自分が触れたところから諭吉を汚してしまうのではないかと妙な胸騒ぎを覚えたものだ。もちろんそんなはずはないのだが、理性が否定しても燃えたぎる情欲の発露を見るたびに慄いてしまう。大切にしたいと、そう思っているのだが――
「横浜に来てから、街中の湯屋に足を運んだことがなかったんです。市中の生活環境を知るためにも、意義深くはありませんか?」
「諭吉」
「はい、何でしょう」
自分を試さないでほしい。昨晩の生殺しも随分なものだったが、目も当てられない惨事を生み出しそうで恐ろしかった。流暢に口が聞けたならば、隠し刀はそう切々と訴えたことだろう。だが、情人のあまりに真っ直ぐなきらきらしい瞳を見ても尚、この汚れ切った気持ちを吐露することは厳しい。先ほどまでの憂いは何処へやら、いいことを思いついたとばかりに上向く機嫌を崩したくないと思えば尚更である。
「……わかった、共に行こう。ただ、その服装だと面倒だろうから、私の着流しを着てほしい」
「あなたの」
今度は諭吉が口ごもる番だった。彼は服装にこだわりがある人間故、自分のような何でも着られれば良いと適当に着てしまう人物の衣装に不満があるのかもしれない。着物の良いところは、余程大幅に体格が異ならない限り他の人間も纏うことができる点である。幸い諭吉と自分は同程度だ。そうと決まれば善は急げ、隠し刀は手早く下膳すると行李やら長持やらを漁って諭吉に似合いそうなものを見繕った。
「これはどうだろう?」
「おや、綺麗な楓柄ですね」
選んだのは、川の流れに楓が散る着物である。季節外れであるものの、趣味は悪くないはずだ。諭吉の口から直接聞いたわけではないが、装束や小物に散りばめられた葉から、彼が好んでいることはよくわかる。この着物は珍しく隠し刀が自分で選んで買った一着だった。
「店先で目に止めた折に、お前の顔が浮かんで買ったんだ。気に入ってくれたか?」
「あなたはすぐにそう云うことを軽々しく……ええ、良い着物です。気に入りました」
「良かった」
本当に良かった。好いた人が、自分の想う着物を着ると云うのは気分が良い。着替え出す諭吉に背を向けて、隠し刀は根本的な問題解決はしていないと低く唸った。湯屋に、行く。風呂嫌いの龍馬を連れて行くのとは訳が違う。多分に純粋な実地調査の気分で湯屋に向かう諭吉に、いかに自分が格好つけられるのかという地獄行きだ。
『明日、しましょう』。昨晩、諭吉はかけがえのない明日を指差した。それが今日だ。願望を実現するために、隠し刀は決意を新たにするのだった。
湯屋は娯楽の坩堝だ。ただ湯に入るだけでもさっぱりして大変気持ちが良い、だけでなく、男女混浴で入ることも多いためか乱れた風俗を目の当たりにする場所でもある。幕府がたびたび禁令を発するのは、何も大衆の娯楽を取り上げようという意地悪ではないのだ。まともに入浴だけを目的にする人間は多いが、湯上がりの遊びに夢中になる人間もまた多かった。
幕府の中で着実に自分の地位を固めてゆく過程で、諭吉は長らく街中の湯屋から足が遠ざかっていた。貧乏下役人ならばいさ知らず、支給された宿舎で食事も湯も事足りていたのである。故に、ここが一体どんな場所であるのかという事実をスコンと頭から落としたまま、半ば挑むような気持ちで隠し刀に同道を申し出たのだが――あまりに大胆すぎる物言いだったと頭を抱えるに至った。
ようようとしらみゆく街を、情人が自分を思って選んでくれた着物を纏って歩くのは気分が良い。自分の趣味ではないのだが、だからこそ持ち主を皆察するが良い、と誇らしげな気持ちさえあった。どんなに隠し刀が八方美人のきらいがあろうとも(無自覚だろうと、拒まないことが全てだ)、着物を着てほしいと頼まれたのはきっと自分だけである。贈り物であれば尚のこと良かった、と思うのは欲張りだろうか。
着てほしいと頼まれた時の恥ずかしさはどこへやら、正気に戻ったのは湯屋にたどり着いた時である。『陸奥』と威勢の良い字が書かれた看板を掲げる湯屋に入ると、隠し刀は下足番に下駄と大小を渡して木札を受け取る。慣れた仕草で、言葉を交わさずとも二人は分かり合っているらしかった。ついでちら、と下足番がこちらに流し目をくれる。途端に隠し刀が間にするりと滑り込んだ。
「この人と一緒に入るんだ。荷物を預かってくれ。しゃぼんも欲しい」
「へえ。三助はご不要ですかい?」
「今日はいらない」
「次郎左が悲しがりまさぁ。また来てくださいよ」
他にも客が来たのか、下足番が入り口に向かって声をかける。話は終いということらしい。隠し刀も気にせず、諭吉についてくるよう促すと、男女に分かれた脱衣所へと案内した。一番風呂らしいこともあって、こざっぱりとした収まりの良い湯屋である。
「ここは磯子の油屋が出入りしていて、開発中のしゃぼんを使わせてくれるんだ。しゃぼんは……ああ、諭吉は米国に詳しいから、私よりもよく知っているか」
「貴重品ですから、そう自由には使えませんがね。しゃぼんの国内製造を志す人がいるとは初耳です。将来、衛生環境がより改善される一歩ですね」
口はまともな応答を紡ぎつつも、帯を解く手はもたもたしている。常連連中が気軽に隠し刀に声をかけ、ぴしゃぴしゃとあらわになった背中を叩くことが気に食わない。昨晩の着替え然り、普段は体を洗う手伝いをしてくれる三助を頼んでいるらしいこと然り、この男は自分の体に無頓着で困ってしまう。誰も彼もが夢中になるとは言わずとも、あまり見ないで欲しいという了見の狭い思いが頭をよぎってどうしようもなかった。
有耶無耶のままになんとか衣類を脱ぐと、手拭いで前を隠して洗い場に向かう。湯屋は裸になる場所だ、当たり前で何もやましいことはしていないというのに、諭吉の羞恥心は既に頂点に達しようとしていた。隠し刀はどう思っているだろう。今日こそ関係を深めようと覚悟を決めているものの、それよりも前にこんな風に肌をあらわにしてしまったら、再び出会うまで正気を保っていられないように思う。
自分ばかりが浮き足立っているのならば悔しい。堂々とした面持ちで体を洗い始める男を睨むと、諭吉はぶちんと頭の中で理性が千切れる音を聞いた。
「背中を流しましょう。三助の役目は務まらなくても、なかなか上手い方だと思います」
「……待ってくれ」
「待ちません。終わったら僕の背中もお願いします」
待て、と蚊の鳴くような声が聞こえたが知ったことではない。強引にしゃぼんの泡がついた手拭いを奪うと、諭吉は男の真後ろに陣取った。手拭いを奪うついでに前面を見なかったのは、温情というよりも理性の最後の一滴を保とうという悪あがきだ。覚悟が決まっていないとも言う。
「泡立ちが良いですね。痒いところがあれば言ってください」
「うん」
ひどく低い呻き声だった。強ち意識されていないわけではなかったらしい。引き締まった背中を泡でなぞり、傷だらけの荒地を埋めてゆく。ちらほらと垣間見たことはあっても、こうして全てを目の当たりにするのは初めてだった。骨の形を探るように手拭いを滑らせると、また男の口から呻き声が漏れる。自分が為す一つ一つが如実に形を作ってゆくのは痛快で、今の彼には自分だけだという事実に気持ちが満たされてゆく。
だが、楽しい時間は僅かなものだ。限りある背中を泡だらけにし終え、諭吉は腕も流してやろうかと思案した。ごくごく単純な好奇心だけで相手に触れられる機会はそうあるまい。湯桶を掴み丁寧に背中を湯で流してやり、腕に触れる。さてどう声をかけようか。
「このまま、っ」
「他の部分はいらない」
世界が流れた、と思うと諭吉と男の立ち位置が入れ替わっていた。床板についた膝が痛まなかったのは、相手が自分を思い遣ってくれたからだろう。気が緩んでいたからとは言え、窮地に陥ったことには変わりない。そっと耳元に寄せられた男の唇から放たれた熱に、諭吉は思わずぎゅっと目を瞑った。
「今日、絶対になさなければならない事はあるか?」
「特別な用事はありません」
日常的な問いかけに、目を白黒させてしまう。仕事に関して言えば、今日は出席を求められる会議や会見の類はない。意見書の取りまとめと翻訳を提出するにしても締め切りにはまだ間がある。つらつらと事実を並べると、男がにいっと笑ったような気配を感じ取った。
「なら、良い」
何が良いと言うのか?問い返そうと振り返るも、背中を這う男の手の動きに意識は腰砕けになってゆく。ただ洗っているだけだと言うのに、按摩のように丁寧で心地が良い。今まで湯屋でこんな気持ちになったことは一度としてなく、背中が終わったと言われてもしばし呆然としていた。手拭いを太ももに置かれて我に帰るも、気持ちのどこかが遊びに出かけたようでふわふわとしたままだった。
男のからかいまじりの声に従いながら、自分を叱咤して体を洗う。途中まではうまくいっていたはずだが、大敗北を喫してしまった。本当にこれでは――今日の自分は使い物にならなくなる。否、もう使い物にならない。ざぶりと湯で顔を洗うと、また男の笑い声がしたような気がした。
危ないところだった。湯屋の二階で団扇を扇ぎつつ、隠し刀は紅葉のように真っ赤になって寝転ぶ諭吉の顔を観察した。湯あたりを起こしているのは明白で、しゃんとするまでは長い時間を要するだろう。やりすぎた己がいけないことを男は自覚していた。回復した相手に叱責されること必至である。とはいえ、他に方法がなかったのだから仕方がない。限界をギリギリのところで保っていたと言うのに、予想外にも挑み掛かられて全力を出さざるを得なくなってしまったのだ。
裸体を見ないよう意識の外に置いて集中しようとした矢先、背中を洗おうと申し出られた際には度肝を抜いた。面白がっているのは声の調子から明らかで、悪意がないことだけが救いである。全くこちらがどれ程堪えているのかわかっているのだろうか?馴染みの客が笑うのを睨み返すも、体は極めて微妙な状態に陥っていた。
湯屋は情報交換の場である。諭吉と自分がただならぬ仲であることは早晩馴染み連中に知られてしまうに違いない。知らぬは諭吉ばかりだ。背中を滑る手に別の何かを重ねかけた時には、脳裏に研師を蘇らせて現実にしがみついた。湯を流されてどれほどほっとしたことか!さらに調子に乗ろうとした諭吉の可愛さと無邪気さには天に感謝しながら唾した。自分の家に湯殿を設えたいと思ったのは生まれて初めてのことである。
これ以上の狼藉を止めるためには、全技術を駆使して諭吉の意識を途絶えさせる必要があった。それも、公衆の面前で問題のない形に収めるという極めて困難な課題である。背中に通う神経の一つ一つをほぐし、和らげ、古今東西の知識と技の冴えで隠し刀は諭吉の背中を流してやった。ぐだぐだに崩れた彼の呆然とした顔は昇天の一歩手前といったところである。
誰にも食べられないうちに回収したものの、諭吉は仕上がりすぎてこの惨状だ。惚れてなければ降って湧いた幸いとばかりに平らげるところだが、今はただ生殺しに耐えるより他にない。
「特別な用事はないんだからな」
下足番を呼んで使いをさせると、乱れた諭吉の前髪を撫で付けた。普段きっちりと整えられたものが少しでも崩れると、えも言われぬ艶っぽさとあどけなさを産むので困ってしまう。どうせならば、髪の毛も洗って仕舞えば良かった。当初は仕事に送る予定であったため、あからさまに朝帰りを匂わせてはいけないと配慮した末だが、もはや自分は完全に舵を切ってしまっている。ならば趣向を変えて、ことを成した後にもう一度入るというのはどうだろう?
今日はこれから、楽しむ時間はたっぷりある。彼が目覚める頃には、米国領事からの野暮用で今日明日は出勤不要との報を受けるだろう。湯屋の二階は逢瀬にうってつけだ。諭吉は隠し刀のことを、お人よしだとまま詰る。男に言わせれば見当違いも甚だしい。本当にお人よしであれば、こんな風に方々に手を尽くして返報を迫るような真似はすまい。存外自分は人でなしなのだ。
隠し刀は微笑むと、心を込めて色づく楓に風を送った。
〆.