かなわぬもの 心の通い路は、何度歩めどわからない。近づいては霞のように消え、掴んでいたはずの裾は揺れる柳の影となる。それでも求めるのは、いつか触れたい、互いに心を交わしたいという飢えがあるためだ。いかにもそれらしく勿体ぶるならば、人は一人では生きられないが故とでも言ってみよう。根源的な欲求である。
伊藤博文は、己の中に深く根差す理想と欲望とをよくよく承知していた。時に利害が一致せぬ時には折り合う術も心得ているし、当たって砕けるだけの度胸と行動力もある。ただ、指をくわえているだけでは何も変わらず、かなうものなどありはしない。自分に然程の天運が降り注ぐとは考えにくかった。強いて言うならば、躊躇わずに運を掴み取って来た人間だと自負している。
故に、何度遊女の手を握っても懲りず、茶屋でぼうっとなるのをやめない。ふぐのためにはこと命を懸けて勝負にも出るし、必要とあらば焼き討ちもするのだ。やりたいことが、なすべきことと合致しているのだから仕方がない。割り切ることも肝心だ。
「あなたをお慕いしています。いえ、はっきりと言いましょう。好きです、俺と付き合ってください」
今日も、伊藤は茶店で勝負に出た。長らく悩み続け、自分の希望はそもなんぞと折り合いをつけるに至極もどかしい時間を過ごしたものだが、とうとう腹を括ったのである。向き合う相手は隠し刀、どこをどうとっても偉丈夫に相応しい男である。好漢という奴さ、と伊藤の兄貴分である高杉晋作は評する。腕も立てば心も海のように広い。胸板の厚さと広さにくらめいて、根っからの女好きである伊藤をたぶらかす程に良い漢だった。
そう、男なのである。共に女遊びを楽しんだ仲であるため、二人の間に深い友情が芽生えているものの、他の道に転じる可能性は不確かだった。第一、相手だって自分がいつの間にか遊女でなしに男の顔に見とれていたとはつゆとも思うまい。
うんと頷いてくれる瞬間を思い描いては消し、すげなく断られた上に冷たいまなざしを向けられる情景を想像してはぞっとする。全く心は落ち着かず、自分の気持ちはもはや誤魔化しようもないほどに膨れ上がっていた。断られたらば笑い話にしよう。そうしてまた友人に戻れば良い。逃げ道を確保した上で思い切りぶつかると、伊藤は恐る恐る相手の目を見つめた。
隠し刀はほんの少しだけ目を大きく開くも、太い眉を動かすことなく穏やかさを保っている。同性からの愛の告白くらいでは動じないのだ、ひょっとすると告白されることに慣れているのかもしれない。否、もう特別な相手がいるのではなかろうか。自分が知っている相手だとしたらば――嫌な予感が湧き起こるのをせっせと打ち払っていると、ぽそりと声が虚空を切り裂いた。
「わかった」
「わかった?ええと、その、嬉しい……いや、待てよ、待ってください」
余りにもあっさりとした返答に、嬉しさよりも戸惑いが勝った。耳心地の良い言葉でさらりとかわされ続けた、歴戦の猛者としての経験が、石橋は叩いて渡れと警鐘を鳴らしている。また明日来ておくんなし、という別れの挨拶は何度味わっても飽きが来ない。しかし今は、今だけは絶対に聞きたくなかった。優しい嘘で夢を見るくらいならば、辛い現実に頬を張られた方が良い時もある。
「うん、待とう」
伊藤が言うなら、と隠し刀が更に甘い言葉を浴びせかける。全く油断も隙も無い。何かの罠かもしれないな、と伊藤はそっと周囲の様子を伺った。自分のために誰かが労を取ってくれた可能性はありはすまいか。右を見て、左を見る。不審なのは、汁粉を寸胴一杯頼んで食べるやたらと綺麗な顔をした青年くらいなもので、建物の陰に誰ぞが隠れている風もない。
「付き合うって言うのは、俺と恋仲になってほしいという意味ですよ。わかってるんですか?」
「わかってるさ。……伊藤」
「はい」
瞬間、ふわりと男の目に優しさが滲んだ。潤んだ瞳は艶めいて、伊藤は思わずごくりと喉を鳴らした。ゆっくりと男の腕が肩に回り、身を寄せられる。良い匂いだな、と熱に煽られた香りが鼻をくすぐった。
「どこまで行きたい?」
「さ」
「さ?」
「最後まで、行きたいです」
地獄か極楽か、その先は皆目見当がつかないが、相手にしがみつきたいという強烈な思いに駆られていた。触れ合う相手の膝をぎゅうと強く掴むと、情熱的だね、と男が笑う。からかっているのだろうか、と思うも、肩を撫でる手つきはこれまでよりもずっと湿り気を帯びた動きだ。もう友人には戻れまい。戻るまい。
「良いよ。どこまでも行こう」
男の声に、じん、と頭がしびれる。どんな花魁にも感じたことのない未知の迷路に連れ込まれ、伊藤は天にも昇る心地だった。
と、いうのがつい一か月ほど前の出来事である。憂いは晴れて心は万事穏やかに、隠し刀と目が合うだけで胸が温かくなる。心が通い合うとは本当に素晴らしい、と浮かれていられたのは精々十日ほどのことだった。熱に浮かれた鉄も、いつかは冷めるということであるかも知れない。あるいは、ようやく現実が追いついてきたとでも言うべきか。
流行りの小料理屋に兄貴分である高杉を誘うと、伊藤は鮎の塩焼き片手に徐々に本題に入った。旬の魚の旨さがチラとも分からぬのは、何も過ぎた酒だけではない。問題は隠し刀と自分との関係である。
「何もないんですよ」
「へえ。あいつがなあ」
明らかに面白がる高杉を軽くにらむと、伊藤は他の誰にも吐露できぬ心の内をぐちぐちと垂れ流した。何しろ、この恋心に蹴りをつけるために相談した相手は兄貴分一人きりだったのである。他に行き場などありはしないし、仲の良い山縣有朋は恋愛沙汰に振り回されるのは勘弁だ、とすぐさま突っぱねるに決まっていた。散々遊女とのやり取りに巻き込んだつけが回っただけなのだが、伊藤としては少々冷たくはないかと拗ねたくなってしまう。
「奥手だとは知らなかったが」
「俺だって知りませんでしたよ。だって、」
何せ一緒に女遊びをしていたのだから、相手がどう楽しんでいたかくらいは凡そ承知している。隠し刀は子供ではない。耽溺せずとも男女の交わりを理解し、付き合っていた風の人間もちらほら居たことがあった。過去のあれこれを繋ぎ合わせて、伊藤は何度も想像を巡らせたものである。
例えば道を並んで歩いている時に、暗がりに行ったらばどうだろう、とか、長屋を訪問した時に犬を撫でている自分を撫でてくれはしないか、とか、もっと直接的に誘われたり良い雰囲気になったらばどんな気分を味わえるのかと、思うだけでうっとりしてしまうのだから始末に負えない。高杉には話さなかったが、一人遊びの供にも何度かさせてもらっていた。立派な操立てである。
無論待つばかりではなく、伊藤は自分でそちらの方へ持っていこうとする努力は重ねていた。口づけだって試みたし(これは数度成功したが、ほんの少し触れたくらいのものだった)、手も握れば大胆に抱き着いたこともある。抱きたいと思って寝かせようとし、相手の力強さで子供のような寝かしつけをされた時には泣きながら寝た。絶対に相手に意図は通じている。
自分たちは心を通わせたのではなかったのか。段々と伊藤は自信を失いつつあった。こんな落ち着かない、心もとない気分にさせられたのは幼い時分以来である。隠し刀は口では好意を告げてくれるし、親密さは友情の度を越えている。もし同じ触れ方を他人にしていたらば、伊藤は決して許しはしなかっただろう。如才ない男は、怒る隙さえ与えてくれないのだ。
「……俺はあの人に抱かれたって良いのに」
「本気か、伊藤?お前、どんなことがあっても寝子だけは嫌だと豪語していただろう」
「あの人なら何だって良いんですよ」
矜持の一つや二つくらいくれてやる所存なのだ。これほど潔い決意はそうあるまい。誰にも許したことのない領域深くまで踏み込まれても良い、寧ろ彼であればこそ踏み込んで欲しいと思う。
「ははあ、こいつは大した惚れこみようだ。感心したぜ」
「笑わないでくださいよお」
「笑いやしないさ。お前の心意気、受け取ってやるよ。俺に任せておけ」
「高杉さん、何をする気なんです?」
「可愛い弟分の顔を立てるくらいしなけりゃ、兄貴分を名乗れないだろう。どーんと構えてろ」
お前は笑っている方が良い、と高杉はからからと笑う。全く他人事だと思って楽しんでいることが透けて見え、伊藤は軽くため息を吐いた。何やかや面倒見が良い兄貴分のことは信頼しているものの、何をしでかすかはとんと見当もつかない。
自分は運を掴んだろうか、掴めたろうか。鮎を食べ尽くして眺めても、そこには何も見えなかった。
小さく脆く、儚く、可愛い。化け物じみた道具になるべく育ちあがった人間に適わない、柔らかいものたち。隠し刀は、一歩間違えれば簡単に壊せてしまうモノ全般に対して、いつからかもやりとした生暖かい感情を育んでいた。片割れに言わせれば、この気持ちの日向に出せる部分は、愛情と呼ぶらしい。対象を大切にし、守りたいという愛情、なるほどそれはさぞかし良いものであるように聞こえる。
では、その一方で壊しそうなほどに全力をぶつけたいという欲求は何と呼ぼうか。壊しかねないと知りつつ、加減をせずに触れるなど狂気の沙汰である。獣じみた、独りよがりな感情であり、どれほど聞こえの良い言葉で覆ったとて、恐らく誰にも受け入れられはすまい。
人間たちと暮らして、一丁前に人間らしいふりが上手くなった隠し刀は、己の異様さを気持ち悪くも愛しく感じていた。誰に理解されるでなし、結局自分は孤独なのだろうという悲しい予感があった。平気で人を殺す化け物に、その荒々しさをぶつけたいと希われて受け入れられる人間がいるだろうか?生きたいと願う気持ちは真っ当な本分だ。拒絶するのは道理である。自分の愛は、何か良からぬものを引きずっているのだ。
ずっと独りでいることへの恐怖心はなく、そんなものだろうという悟りに近い境地に至っていた隠し刀にとって、伊藤は雛のようにぴいちく話してついて回る可愛い存在だった。何やら良い気持ちを抱かれていると察しているものの、なるほどこれが友情かと悦に入っていたほどである。友情くらいであれば加減は可能だ、とたかを括ってさえいた。本当に人間の真似が上手くなった!これならば、矛盾した感情を土の下まで持って行っても太平楽でいられよう。
伊藤が懸命に訴えかけたのが愛でなければ、きっとそのままでいられたはずだ。愛などよく分からないと格好つけて、安全圏で構えていられただろう。それを打ち破ったのは大切にされるべき相手の伊藤本人である。『好きです、俺と付き合ってください』など真摯に訴えられれば、余りの眩しさによろめいてしまう。一度くらい、一度くらいはどうだろう?心の奥底にしまい込んでいた欲望が、つるりと口からこぼれ出てしまった。
「わかった」
引き下がるべきだ、と理性が唸る。自分の手に負えやしない。冗談だと誤魔化せるのは今しかなかったと言うのに、気づけばどんどん綻びが広がっていった。
「良いよ。どこまでも行こう」
行きたかった。つい零してしまった獣欲のまま、伊藤に応じてしまった己に隠し刀は慄いていた。どこまでも?一体どこへ行くのだろう。行き場なんかありやしないのに。伊藤がごくごく真っ当な神経の持ち主で、女たちと付き合ってきたことは承知済みである。彼が自分と繋がろうとする形は容易に想像された。できることならば流されてやりたいほどに嬉しく、温かく、可愛らしい。
目的のためにつながるのではなく、つながりたいためにつながるのでは、まるで意味が異なる。口づけ一つだって加減できない。だからどうにか自分を抑えに抑え、伊藤がどうにもたまらない様子を見せている時だけに軽くするに留めているし、肌の触れ合いは最小限度にするよう努めていた。相手の期待に十分応えられていないことは痛いほどにわかっていた――期待と落胆を繰り返す情人の姿は見るに堪えない。
どうすれば良いのだろう?言葉を積み重ねても、所詮は上っ面をかくようなもので、隠し刀の本心を晒すわけにはいかなかった。自分に本当の意味での人との心のつながりなど到底無理なのだ、と諦めたくもなる。あっさり放り出せば、伊藤は最後には許してくれるだろう。手放さないのは偏に優柔不断さと甘えに過ぎない。
「面を貸せ」
「お、晋作だ。物騒だな」
長州藩邸に着くなり首根っこを掴まれ、隠し刀はとうとう来たかと心の中で舌打ちした。高杉の顔はいつになくきりりとし、初対面で警戒されていた頃よりも冷たい。大方伊藤から相談を受けたか、見るに見かねたかしたのだろう。面倒見が良い男なのだ。ただ優しくしようとする人もどきとは話が違う。
連れて行かれた先は庭の端に設けられた東屋である。ほどほどに人目がある場所を選んだのは、万が一を想定してのことかもしれない。周到な相手が何を考えているのか推し量ろうとし、隠し刀はすぐさま取りやめた。腹の探り合いをしたところで時間の無駄である。腹芸を無理やり割かれるくらいであれば、進んで晒した方が気分は良い。そんなことをつらつらと考えながら庭を眺めていると、高杉は静かに言葉を紡いだ。
「あんた、伊藤をどうするつもりだ。からかって遊ぶつもりなら、それ相応の落とし前をつけさせてもらおう」
「どう、というか」
叶うならば愛したいのだ、と隠し刀は潔く割腹した。驚く相手の前に、心の奥底から醜くとぐろを巻いた欲望を掴んで引きずり出す。
「人の言うところの『愛』かどうかは、正直なところわからない。ただ、私が思うままにしたらば、きっとあいつを壊してしまうだろう」
「は、情けない言葉だな。壊すだ?あいつがそんな軟な奴じゃないことくらい、わかっているだろう」
「お前は私が壊したことを知らないから言えるんだ!」
混ぜっ返すような気休めの言葉に、カッと全身が熱くなる。大声を放ったのは随分久しぶりのことで、きょとんとした高杉の顔が新鮮だった。遠くに見えた人影がこちらを見たような気がする。ああ、そうだ。人間が理解できるはずなどないのだ。自分が大事にしたかったモノ達が、見るも無残に壊れて二度と戻ってこぬあの喪失感なぞ、
「ああ。知らないね」
ほうら、わかりはしない。こんな形で最後通牒を受け取る羽目になるとは余りにもお粗末な幕切れで、渇いた笑いが浮かぶ。高杉には悪いが、せめて別れの一言は自分からきちんと告げるとしよう。それが自分たちのありえなかった関係への餞だ。
「だが、あんただって知っちゃいないだろう。伊藤が本当に壊れるかどうか、あいつがどんな覚悟で居るかをな」
「伊藤の覚悟」
一体何の話だろうか。訝しんでいると、すぐ傍の塀からひらりと人影が飛び越えてきた。
「さっきから聞いていれば、なんなんですか」
意気地なし、と叫んだのは伊藤博文、本人だった。思いもよらぬ登場に隠し刀は自然と口が開きそうになり、慌てて閉じる。塀の向こうに気が回らなかったのは完全な失態だった。ずっと聞いていたのだろうか?思い出くらいは綺麗なままで居させて欲しい。一縷の望みをかけてみるも、いきり立った伊藤は両手を腰に当ててむん、と荒く鼻を鳴らした。
「あんた、俺を好きなんでしょう」
「う」
「だったら愛してくださいよ!あんたの方法がどうとかそんなこと、間違ってたら一緒にどうにかすれば良いでしょう。どうにかする権利くらい、俺にはあります」
ついでに力も、と伊藤がふんぞり返る姿は真に逞しい。ひゅう、と高杉が口笛を吹いた。
「俺は愛される覚悟ができてます。あんたも、腹を括って最後まで一緒に行ってください。……返事は?」
「……わかった」
今度こそ、隠し刀はよくよく呻吟してから応えた。わかった。少なくとも、伊藤の愛とやらの重さと、真剣さと、逃げ場などどこにもないということだけは明白だ。東屋から飛び出して、伊藤の傍に近寄る。憤りでぷうと膨れ上がった頬の愛しさに、隠し刀はちょんと指先で突いた。
「全力でお前を愛そう、伊藤」
「その言葉、忘れないでくださいね。高杉さんが証人です」
「おうよ。ちゃんと聞き届けたぜ」
確かに高杉は策士だった。長州の絆と底力に舌を巻くと、隠し刀は大人しく脱帽した。ぎゅうと伊藤を抱きしめると、痛い、と小さく悲鳴が上がったので力を緩める。少し潰してしまっただろうか?確かめるように撫でれば、今度は艶めいた声が耳を打つ。思わず身を引くと、ぐいと腕が回って逃げ場を失った。
「逃げないでくださいよ」
「逃げやしないさ」
ほんの少し、怖くなってしまっただけだ。情けない真情に、伊藤は仕方ないなあと言いながらぐいぐい締め上げてくる。それが痛いほどに嬉しくて、隠し刀はもう一度伊藤を抱きしめた。
適わない夢は叶わない。そう思っていたものを越えてくる相手に、敵う者などあるはずはなかった。
〆.