「な……」
「お、おかえりチェズレイ~♪」
玄関から遠いこの部屋でも、訪れたひとの纏った冷たい外気はモクマの肌をひやりとくすぐった。
対してチェズレイは、耳と指先を赤くしながら、驚いた猫みたいに目をまんまるにしている。
おおきな仕事を終えて、しばらくの休暇となり。二人で旅立ってから一番の長い休みを過ごすのに、相棒が招いてくれたのは、ずいぶん前から所有しているという雪国にあるお屋敷であった。クラシカルで豪奢な調度品で揃えられたその内装は古いながらも手入れがゆき届いており、気にせずくつろいでくださいと言われたが昨日は借りた猫状態で、しかしこのままじゃ向こうにも気を遣わせてしまうと、チェズレイが買い物に出掛けた隙に自分の荷物をがさがさ漁っていたのだけれど……、
「さっきさ、こっち用に暖かい服に衣替えしたんだけど……、そのとき荷物ひっくり返してたら見つけてさ、しばらく滞在するし、ここは雪国だし、前にも話したしってんで……、」
二階のすみっこの、広い割に極端に物の少ない部屋。どこでも好きに使ってくださいと言われた中で、『それ』を置くならここが最適と思えた。
フローリングに敷かれた、繊細な織りの赤い絨毯。壁に沿って置かれた本棚には、所狭しと薄くて背の高い本が並べられているが、それだけ。
絨毯の上のぽっかり空いた空間に、折り畳みのちゃぶ台机を置いて。安っぽい合板の天板のふちから水のように溢れて床につくのは、使い古されたマイカの伝統柄の掛け布団。
「――どう? とっときのコタツだよ! お部屋も冬用に衣替え、みたいな……」
マイカでは冬にお馴染みの半纏を羽織って布団に脚をつっこんだモクマは、あたたかなヒーターの熱を感じながらごきげんに相棒をお出迎えした。
……のだけど。
「…………」
「えっ、あれ、チェズレイ!? どったの?」
相棒ときたら、驚いた顔のまま動かない。コタツの存在を知らないわけでもなし、ここまで驚かれるとは想像していなかった。
「え、あ、まさか、相談もなしに出しちまったのマズかった!? スマン、懐かしいもん見つけたもんだから、ちと浮かれちまって……昨日お前さんも寒いって言ってたろ? だからちょうどいいと思ったんだが……」
……羽織ったどてらは、昔主が着ていた着物の柄と似たものを見つけて、買ったきりしまい込んでいたもの。炬燵は、放浪先の寒い地方で教えられて、旅立つ時に持っていきなと折り畳み式の机を押し付けられて、これも捨てられずにずっと持っていたもの。
溜まりに溜まった忘れ物たちを、やっと腰を落ち着けて、直視して。ようやっと使う気になれたし、相棒にも教えたいと、そう思って……。
……思ったはいいが、思い付きに浮かれて、人様の家なのに好き勝手しすぎたかもしれない……、というか、この内装と合わなすぎるし……!!
「……お待ちを、モクマさん」
「! けど、」
あわてて立ち上がって片付けようと天板を持ち上げる手首を、チェズレイが掴んだ。冷たい指だった。振り向くと見つめる紫の目は、もう動揺をしまっていつもの真っ直ぐな光をたたえている。
「違うんです。いえ、驚きはしましたが……あんまりあなたの格好が所帯染みているというか、最早趣味の悪い合成画像みたいでしたので……、あと荷物が多いとは思っていましたがまさか机まで持ち込んでいると思わなかったのでそこには軽く目眩は覚えていますが……」
「ご、ごめんちゃい……」
始まった前置きがながいしちくちくしている。
へんにゃりしおれると、チェズレイは「ですが」と唇をゆがめて優しい声になった。
「好きに使ってくださいと言ったのは私です。構いませんよ。ですが、コタツ、とは家族の団欒の場として使うものでは? 一般的にリビングにあるものと認識していましたが」
「さすがの物知り! そりゃそうなんだが、あのぴかぴかのピアノのあるひろーいリビングに置く勇気はなかったよ……それこそ面白合成画像になっちゃう……」
「フフ……、ですが、あそこに置いたらコタツに入りながら私の演奏を肴に晩酌できますよ」
想像するだけで見苦しいにも程がある。この家は本当に広いのだ。どんどんしおれていく声に、反比例して聞こえる声は楽しそうになっていく。
それで続いた提案は、ちょっと魅力的な響きだった。
「……なるほど」
と、うっかり零してしまったら。未だ手を掴んだままのアメジストが、にっと猫のように細まった。
「決まりですね。それでは運んでください」
「……え、え!? いいの!?」
かくして広いリビングに、趣味の悪い合成写真は出来上がった。部屋の中央にちょんと所在なさげに座るモクマの姿がチェズレイはツボだったようで、さっきからひいひい笑われている。
「……あなたが、混ざると、ほんとう、ぜんぶ台無しですね……ククッ……」
「ひ、ひどい……反省してるってばあ……」
「フ……ああ、いえ、責めるつもりはなく……、」
勝手をしたのは謝るが、見世物にするなんてあんまりだ。
泣きまねをすると笑いすぎて本当に泣いてしまったらしいチェズレイが、目じりの涙を拭って首を振った。続くのは静かな声。
「……この家ね、内装も調度品も年代物が多いでしょう。昔住んでいた邸に似せているんです」
「邸っちゅうと、ヴィンウェイの……」
「ええ。父は金に物を言わせてアンティークの名品ばかりを選んだので、探せば同型のものも見つけられました。カーテンの色や素材までおなじにして、絨毯を引いて……。
モクマさんがいた部屋ね、実は母のピアノの演奏室だったんです。広いわりに物が少なかったでしょう。母のピアノは特注品で、どうしても手に入らなかったので、だから、あそこには置けなくて、それで、ここに」
「そ、それって……」
長い睫毛が追いかけるのは、大きなグランドピアノ。それを見て、さっと青くなる。
ようやっと、チェズレイがあんなにも驚いていた理由がわかった。
あのぽっかり空いた空間には、かつて彼の愛する母のピアノが置かれていたのだ。
そんな場所に、あんなもの置くなんて、とんだ思い出の冒涜だ。
だけどチェズレイは、微笑んだまま、ゆっくり首を振る。
「母がベランダから身を投げたあの日から、私には帰る家はなく、そしてこの十年、気を許せる仲間もいませんでした。だから、この家を作った。遠い日の記憶をそのまま切り取ったような場所でピアノを弾いているときは、少しだけ濁りが浄化される気がしたから」
「……そんな大切な場所に、俺を連れてきてくれたんだね。嬉しいよ、チェズレイ。だが……」
言いながら視線を下に。
どてら! ぼろぼろの布団! 折り畳みこたつ! 裸足!
……いいこと言ってもしまらない……、
「やっぱり片付けてくるね……コタツは畳の部屋に泊まるときに使おう……」
立ち上がって再び天板に手にかけるのを、
「いいえ、モクマさん」
やっぱり止めるのはチェズレイで、でも今度は手は出なかった。代わりにその場でランウェイの上のモデルのようにくるりと回って、着たままだった細身のコートがぱさりと床に落ちた。
それから膝をついて、まっすぐ目を見て、
「……私も、この家も、そろそろ、古い衣を脱ぎ捨てて、生まれ変わる時なのかもしれません」
きらりと、左眼をふちどるメイクがきらめく。
――蛇の脱皮のように、蝶の羽化のように。
続いた声は歌のよう。
「さながら、新生チェズレイ……といったところですかねェ」
このクラシックな背景が似合う間近の男は、台詞も、動きのひとつひとつも、やっぱりびっくりするくらいに綺麗で絵になっていた。
見惚れながら、モクマは返す。
「……それ、俺に前言ったやつだね」
「どうですか? それから、変われた?」
「んー、やっぱり、難しいけどさ……」
――すぐに新生モクマになれるわけではない。
鍾乳洞での騒動のあと。マイカの秘湯で、お互いにリハビリが必要だと話した、あの会話が蘇る。問われて、考える。
もう、四十がらみのおじさんになって、その内二十年は逃げ回ってて、そんな人間が、今更変わりたいと考えても、そう簡単なことではない。でも……、
目は逸らさない。見つめ返して。
「でもさ、あれから俺たち約束をしただろ? 死ぬまで有効の……、生涯の誓いって言ってもいいかもしれない」
「……ええ」
「それってさ、互いの命を負うってことだと思うんだ。俺の命の半分は、お前さんが握ってる。そんで、逆も。
……お前が半分も入ってたら、そりゃ、新しくもなるし前向きにもなれる、なれんとおかしい――、とかさ、最近思ったりしてるよ。まだ、言い聞かせてるのが近いかもだけど」
「……」
「な、なんてね……?」
旅立ってから、いや、指切りをした日から、ずっと、考えていたことだった。
だけど、口にするのは初めてだった。べらべらと語りきって、はたとチェズレイがすっかり静かになってしまったことに気付く。慌てて誤魔化そうと頭を掻くけど……、
「……ククク」
「あれ? なしてその顔!?」
「命を狙われてるとは思えない発言ですねェ……、……人を馬鹿にするにもほどがある」
次に見えたのは、舌の出たあの顔と低い笑い声。
だけど、慌てて問うた結果、聞こえて来た答えは……、ははあ。
これには、モクマは怯まなかった。どころかにやり、意地悪く口角が上がる。相棒にしか見せない、下衆の顔。
「だって俺、守り手だもん。相棒の命は守らないとで、それは俺がくたばってちゃ叶わないからね」
「……ぬけぬけと。その言葉、お忘れなきように」
「はいよ」
びりびり、ぴりぴり。
何も知らない人が見たら怯えてしまいそうな会話も、けれど片方がコタツにどてらじゃ締まらない。わかっているのだろう、チェズレイがはあ、と溜息をついて空気が緩む。
「しかし、あなたが私の中に半分、ですか……頭痛がしますね」
「そんなあ……下戸が治るかもよ?」
「二人して酔い潰れていたら世話ないでしょう。おことわりです。ですが……」
「ははは……って、え!?」
「うるさいですよ、耳元で騒がない」
つめたい声を出しながら、室内履きをそっと脱いで。
「だ、だって……」
シルクの靴下につつまれた、つま先まで完璧な造形のチェズレイの脚が、掛け布団を捲って、そんな動作すら妙に優雅で、それでそのまま、恐る恐るとその中に入ろうとするのを、モクマは信じられないものを見る目で眺めた。
正直、見せてやろうとは思ったが、こんな庶民的で共有的な得体の知れぬものの中に、そう簡単に入ってくれるとは思わなかった。コタツとは魔物なので、いちど入ったらこっちのもの、とかって下衆ごころはなくもなかったけど……、だから最初は彼の言うように『団欒』するような場所じゃないところに置くのも良しとしたのだ。
それなのに……。
まるで温泉に入るみたい、肩まで掛け布団を被ったチェズレイは、ふう、と長い息を吐いた。
「……あたたかいですね」
「で、でしょ……?」
……なんだか、懐かない猫に急に擦り寄られたような気分だ。感動はあるが下手なことを言って機嫌を損ねられたくない。覇気なく同意すると、
「……で?」
「で? とは……?」
まだ脚を伸ばしきるのには抵抗があるのだろう。正座で行儀よく座ったチェズレイが、天板の上でトントン、と指を鳴らすが心当たりがない。首を捻ると、また、はあ。
「ここはもう私たちの家なんです。その上で……『家族団欒』には、何をしたらいいんですか?
あなた前に言っていたでしょう、コタツのある家のお作法。折角この私が入って差し上げたのに、まさか潜ってお終いとは言いませんよねェ?」
「え、あ、あ~、じゃ、みかん食べよっか!」
なるほど。言わんとしていることはわかったし、かわいくない言い方だが歩み寄ってくれているのだろう。慌ててダイニングへ向かって、前の滞在地で貰ったものを手に取って返す。
橙色でまるい、シボ革のような模様の入った甘い香りの果物を手渡すと、あまり見覚えがないのかチェズレイはまじまじと睨んで……、
「……手で剥くんですか?」
「みかんってそんなもんだよ。皮やわらかいし、すぐ剥がれるから手のが剥きやすいの。ほら」
「……」
手本を見せてやると、一緒に持ってきたウェットティッシュで手を拭いてから、そのととのった爪さきが、皮の先っぽに切れ込みを入れて、力を込めると、べろりと剥けた中から瑞々しい果肉が露わになる。
「うまいうまい」
「……この、白いところは?」
「別に食べられるよ。舌触りが気になるなら取ってもいいけど」
「……」
とりとり。とりとり……。
ピシッと背筋を伸ばして、その長身が半分布団に埋もれ、慣れぬみかんと格闘する様は、どう贔屓目に見ても寛いではないし、団欒という雰囲気にもぜんぜん似つかわしくない。
……でも。
(新生チェズレイ、か……)
このクラシックな部屋は、彼の中の、止まった時計の象徴だった。
それが、今や、こんなありさま。いや、本当に、そんなつもりじゃなかったんだけど。
(壁を『ぶち破る』手伝いが、できたならいいんだが……)
真剣な横顔に、問うことはできない。ただ、願う。一蓮托生のこの下衆な半身が、おまえに貰ったように、何かを返せていたらいいと。
やっと剥きおわって、ふたたび丁寧に手を拭いて、いつの間にやら室内履きの横に、ゴミ箱まで置かれていた。そして背景には、グランドピアノとシャンデリア。
これは、モクマが昔お世話になった、大家族の冬の夜とは、まったくちがう景色だった。
でも、それでいいのだ。二人で生きるのだから、思い出の風景は、二人で作っていけばいい。
二人で死ぬまで一緒に生きる約束をして、寝ても覚めても、毎日一緒で。
それって確かに、『家族』なのかもしれない。
彼からは実に、いろんな関係のラベルをもらってしまっている。ひとつ手に入れるたびに欲張りになって、絶対手放せなくなる、そんな愛おしい宝物たちが。
甘いですねと呟きつつぺろりとみかんを丸ごと食べきって、冷えたのか、手が中に入ってきた。
狙いすまして、すかさず小指をつかみとる。と、うろんな目。
「なんです」
「へへへ。こうやって見えないところで触れ合うの、なんかドキドキするよね」
「……すけべ」
かわいく言ったのに、返ってきたのは敬語も取っ払われた、あまい罵倒。目が細まる。
そんな可愛くないことを言いながら、チェズレイもしっかり、おなじ指で握り返してくれた。
かくしてコタツは休暇の時間いっぱいこのリビングに鎮座し続け……、いつの間にかチェズレイはその長い脚を折りたたんで顔だけ出してまるまって寝るようになってしまって、そのあまったスペースでモクマが小さく三角座りするのがお馴染みの光景となってしまうのであった。
穏やかに眠る相棒の髪を払いながら、ついつい緩む頬っぺたを抑えもせずに、溢れる声はみかんの甘さ。
「……次はもうちょい、おっきいコタツ机買わんとだねえ」
脱皮して、蛇は身体をおおきくしていく。
芋虫は蛹になり、あらたな姿へ変貌する。
生まれ変わったばかりのふたりにも、幸いなことに……まだまだ衣替えのチャンスはありそうだ。
おしまい!