2.さいごにみる夢「そうだ、渡すものがあるんだった。パーティーが始まったら、主役には近づけないだろうからな」
広い広い控え室には、大きなピアノが得意げに座っている。当然、今日のために特別に置かせたものだ。
ぴかぴかに磨かれた一面の黒を眺めつつ布張りの椅子から立ち上がると、意図を察したのか「もうあなたにはこんな盛大なパーティーを開いていただいたのですから……」と、相変わらず欲のない押し殺した声が耳をくすぐった。
とはいえ、実際のところ興味はあるのだろう。なにせ部屋の隅にしゃがんで隠していた袋の中身を漁っている間じゅう、控えめな盗み見の視線に後頭部を貫かれっぱなしだったのだから。
「ああ、あった。探すの、結構苦労したんだぞ」
「……これは――、」
目当ての首を掴んで見上げると、いつの間にかすぐそばまで来てこちらを覗き込んでいたかたちのいいまるい頭の輪郭が、シャンデリアの逆光に縁どられてきらきらと輝いている。
腹心の発する次の言葉を待って、凄絶なまでに美しい面に嵌まった宝石のような瞳が、さざなみのようにさやさやと震えて揺れている。
期待に信頼。言葉にしたらきっと、このような。フ、と唇に笑みが乗る。
「前に話していただろう? お前の生まれた歳のワインだ。ルドンゲンのワイナリーで絞ったら、先のマフィア狩りで結構潰されていて……」
深い夜の色をしたボトルには、金の箔押しで、彼の好みそうな繊細かつ大胆な図柄が踊っていた。
……けれど、残念ながらそれくらいではプラスにはできなかったようだ。ゆっくり立ち上がって再び視線を合わせると、うら若きボスのご機嫌はすっかり下り坂になってしまっていた。
「……酒の味は嫌いだと言ったでしょう」
予想通りの返答に、はははと笑う。じとりと睨め付ける視線を受け流しながら、慣れた手つきでコルクを抜いて、グラスへと注いでいく。
とぷり。透明の中で揺れるのは、血より濃い赤。
「エゴだとは分かっているさ。それでも、お前が大人になったのを祝いたいんだ。区切りとして」
「…………」
ゆっくりと差し出せば、すみれの目は探るように見つめ返して、しばしの後に根負けしたのか、ため息とともに手が伸びてきた。
「……息子さんの『その日』を、見ることは叶いませんでしたものねェ」
「それは関係ない。エドワード・ウィリアムズはもう故人だ。『幻影』が忠誠を誓うボスは、この世にただ一人だけなのだから――」
自分の分も同じだけ注いで、脚を持つ手を軽く持ち上げながら耳心地のいいことを言うと、天井からの光で落ちたまつ毛の影を揺らしながら、チェズレイはしばし真顔で固まって……、
「……。それはそれは……、」
目の奥の剣呑な光が、またひとつ緩むのを見た。だけど発した声の甘ったれた響きに気づいたのか我に返ったように背骨に芯が戻って、瞬きの内に出会った頃の硬質な雰囲気をも取り返して、声もすっかりその色通りに塗り替えて、
「……飲みません。アルコールの味が嫌いなのは本当ですし……、そもそもそう強くもない。せっかくあなたの開いてくださったパーティーで、酔って醜態を晒すわけにはいかない」
「……そうか。さすがボス、しっかりしているな」
誘惑を振り払うみたいな、言い聞かせるような響きだった。そこには気付かぬふりで賛辞を贈ると、柳眉はたちまち逆立って、「子ども扱いしないでください」と憮然とした声が聞こえた。
「はは。すまない。――そうだな、今日からもう、お前も本当に大人だもんな」
「ええ。ですから……、これを飲むのはその後に、二人だけで。いいですね?」
「わかったよ。なにしろ今日は、お前が主役だからな。頼みを断れるわけがない」
パンパン、と手を叩くとすぐにグラスもボトルも下げられた。チェズレイは最後に冷徹の仮面を被って、テキパキと部下に指示を出していく。
その背を眩しげに見つめて、幻想の男は呟く。
「――だが、残念なことだ」
「? そんなに今飲みたかったのですか?」
「ああ――、そうだな」
平坦に頷く。
……ああ、まったくもって、残念だ。
『おとなになったら、二人でお酒を飲もう!』
その約束は、今度も叶えられそうにない。
(それに……)
酔っていたらきっともう少し楽に逝けたのに、とは、さすがにいま口にできるわけもなく――、頭の中だけで、淡雪のように溶けて消えた。
おしまい