進捗。「ななみぃ。僕、ラブホに行ってみたい」
「はぁ……」
「なんだよ。もっと乗ってこいよ」
七海の家でリビングのソファーに座る五条は恋人のつれない態度に口を尖らせる。と言ってもそれはほとんどポーズだ。五条の後輩で同僚で恋人の七海は五条の為にわざわざ菓子類を家に常備したり、五条用のシャンプーを買って五条の頭を洗う位五条の事が大好きなくせにそっけない態度を取ったりする。
成程。これがツンデレってやつか。世の中が可愛い可愛いと騒ぐ理由が分かる。五条が見当外れの納得をして一人で頷いていると雨が窓を叩く音が聞こえた。七海の部屋を訪れた頃には小雨だったが、雨は勢いを増して風も吹いて嵐となっているらしい。だが、そんな事は関係ない。嵐も喧騒も呪いも呪霊もこの部屋には届かない。この部屋はいつだって五条を温かく、そして柔らかく迎え入れてくれる。そして部屋の主も同様に五条を受け入れてくれる。その証拠に今日は冷えるからと五条の肩にカーディガンを掛けてくれた。ちょっと袖の丈が足りない所が五条のお気に入りだ。
そんな部屋の主は五条の隣に座り五条の右手を左手で優しき手つきで掴み熱心に五条の右手の爪にやすりをかけている。余りにも熱心にやすりを掛けていて五条の顔など見ない。それが少し面白くなくて五条は声に不満を滲ませて七海に話しかける。
「他人の爪なんか整えて面白い?」
七海は手を止めずに答える。
「面白いですよ。目に見えて成果が出ますし、あなたは爪も綺麗な桜貝色なのでとても美しいです」
七海は時折手を止めて角度を変えて五条の爪を見たり指でさわって仕上がりを確認している。指で爪の形をなぞられると背筋がゾクゾクとするのは気のせいとしておく。それから自分の容姿が優れている事は十分に理解しているので他人に称賛されようと今更なんとも思わないが七海に褒められると嬉しいようなそわそわと落ち着かないようなむず痒い気分になるのが五条には不思議だった。
「それに、」
七海の話に続きがあったらしく五条は七海の顔を見る。七海は任務の時より真剣な顔で五条の薬指にやすりをかけている。
「シャワーを浴びる時に結構沁みるんですよ。背中が」
それと爪を整えるのになんの関係があるんだと五条は首を傾げるが傷を作る原因に思い至って五条は一気に顔が熱くなった。七海の顔が見れなくなって俯く。やすりが小指に移動するのを五条は黙って見ていた。
「それで? どうして急にラブホテルに行きたいと思ったんですか」
話題が戻った。七海の手が五条の爪にやすりをかけるために動くのをじっと見つめながら五条は答える。
「昔、傑が面白いから行ってみなよって。回転するベッドがあるんだろ?」
「いつの時代の話ですか。今時そんなものありませんよ。……というより貴方、結構気軽に話すんですね。夏油さんの事」
七海の視線を感じた為五条は顔を上げる。顔を上げた先の七海の緑の目は驚いたようなそれでいて少し困ったような感じで珍しくゆらゆら揺れて五条を見ていた。七海の手は止まっている。
「……? 友達の話くらい気軽にするでしょ?」
「そうか……そうですね」
そう言って七海は目を閉じて穏やかに笑った。それから目を開けてやすりを操る手の動きを再開させる。何かおかしな事を言っただろうか。五条は再び首を傾げる。七海の表情から何かわかるだろうかとよく観察する。七海の呪力は凪いで安定していて、どこにもおかしな所はない。そうやって七海をまじまじと見ている内に小指の爪は白い部分を少し残す位の長さに整えられていた。七海は五条の爪にやすりをかけていた方の手を自身の顔の高さまで持ち上げて左右から出来上がりを確認して一つ頷いた。
どうやら終わったらしい。じっとしているのに飽きてきたから丁度よかった。ソファーから立ちあがろうとした時、七海に手を引かれて止められた。
「こら。まだ左手が終わってません。それにオイルを塗ってません」
七海に止められたので思いっきり顰めっ面を作って文句を言う。
「ええー。僕、喉渇いた」
「終わったらカルピス作りますから」
「濃いめじゃないと許さないからな」
「はいはい」
七海は今度は五条の左手を手に取り親指からやすりをかけていく。
ラブホテルの話はうやむやになってしまったが五条もちょっと興味がある程度だったので気にしなかった。七海の作るカルピスの方が五条にとっては大事だった。