ナイトメアトラベラーズ『今夜暇?会える?』
『いつでも、渋谷駅でいい?』
簡単なメッセージのやり取りが夜の始まりの合図だった。そして、夜は二人の時間だった。
<午後11時50分 渋谷駅前>
リンドウの方が遠くに住んでいることもあり、駅前に着くといつも相手は先に待っていた。人が掃けて広々とした駅前広場で、忠犬の像に寄りかかりつまらなさそうにスマートフォンを弄っている。明かりを落とした広場は鮮やかさを失い、木々の影が歩道のタイルに落ちて白黒の模様をつけている。
「おーす」
「おっすー」
軽く手をあげて声をかけると相手はすぐに気が付き、嬉しそうに手を振り返した。袖が長めのシャツはリンドウが今まで見たことのないもので、まだ解れていない印象を受ける。真昼の渋谷を駆け回っていた頃よりは少しだけ暑さが落ち着いており、夜風の芯にはほんの僅かだけ涼しいものがあった。
「また服買ったのか?」
「だね、せっかくのデートだし?」
「デートねえ」
リンドウは肩を竦める。フレットが服飾品を好むのは以前から知っていたが、RGに戻って以降は特に頻繁に服装を変えているように思えた。もっとも、リンドウ自身も本やアプリのアイテムを買うのにあまり躊躇わなくなっている自分に気づいていた。金銭感覚が少しフラフラしている。下らない漫画に目を泳がせ、チョコボやモーグリと遊んでいる間はあまり余計なことを考えずに済んだ。平穏な一日を勝ち取るために吐き気がするような違和感と闘っている現実に比べれば、オカネを払っただけ簡単に強くなれるゲームの世界は簡単で単純で救いがあった。フレットも同じかもしれない、と彼は思う。取っ替え引っ替え被服を変えて着せ替え人形のふりをしていれば、少なくとも纏う雰囲気だけはすぐに変えられる。
彼が理解できる気がした。何よりUGに居れば金策など考える必要がなかった。
「デートつうよりは非行じゃん?」
「誘ったのはリンちゃんだけどね?」
図星を突かれリンドウは言葉に詰まる。その様子を見たフレットは、まあ俺も誘おうと思ってたけど、と手を差し出す。
「行こっか」
「行くか」
そうして二人はいつものようにセンター街方面へ歩き出した。
放課後まで彼らは別々の海を泳いでいた。リンドウは窓際で本を読み、気が向けば前後のクラスメイトと言葉を交わした。フレットは教室の中央に陣取って、友人の輪の中で朗らかに笑っていた。体育や課外学習で同じ組みにならない限り特段に連むことをしなかった。午前8時から午後5時までの約9時間は彼らにとって一種の「リハビリテーション」だった。時に辛く息詰まりであるものの、後遺症を治すには必要なプロセスである。ピリピリとした肩の重みがない温い環境、消滅の予感を感じずに済む穏やかな環境を何とか肌に馴染ませる必要があった。それから、「リラクゼーション」の時間も必要だった。近くで日常の違和感を誰かと分かち合う時間を取らないと、どんどん自分と現実の間の溝が広くなってしまいそうだ。
「リラクゼーション」---二人の時間は夕暮れからだった。
授業が終わる。真っ直ぐだった日の光が傾いて差し込み、真昼の暑さが去ってゆく。部活動や帰路に向かう友人たちを大方見送ってから、二人はおはよう、と最初の挨拶をした。それから居残りの教室で、夜中までのメッセージのやり取りで、不在を埋めるように話を続けた。
物足りないと感じれば、こうして真夜中に待ち合わせて渋谷の街を出歩いた。大概はただ肩を並べて歩き回り、センター街を抜けスペイン坂を登り降り、道玄坂の向こうの細い路地を歩き……気が向けば明治神宮や代々木公園の前まで足を伸ばすこともある。疲れたら奥渋のカフェで夜明け前まで時間を潰すか、深夜営業のファミレスでテキストを開くこともあった。その時々の気分で密会はナイトウォークにも男子会にもお勉強タイムにもなった。
季節が晩夏に移り変わる頃には、深夜徘徊がすっかり板についてしまった。
<午前0時 センター街>
ネクタイを緩め肩を組んだサラリーマンの二人組、半ば眠りこけそうな女性の手を引いて煩く騒ぐ男子学生たち、通りの真ん中で黙って立っている外国風の男。人、人、人。この時間でもセンター街にはまだ多くの人がいる。彼らの顔は大概紅潮し、明日も知らぬような空元気の声で談笑している。時間の吹き溜りにたむろする人々の顔を、常夜灯と飲食店の看板の光が照らし出している。
そんな眩しい光の底の方、目の前を黒い影が二つスイと通り過ぎて行った。
「あ、ネズミ」
リンドウがあそこ、と指で差し示す。黒い影は道端のゴミ箱の影に消えていく。
「ネズミってあんなデカかったっけ?」
「種類によるよ」
訝しむフレットを横目にリンドウはスマートフォンを取り出した。写真を表示して、二人で見えるように画面を持ち上げる。
「えっと……ドブネズミはあんな感じだって。ほら」
液晶に映されたネズミはゴミ箱からこぼれた白い紙を鼻先で突いていた。抜け目なく、ずる賢そうな顔立ちに見える。
「へー、あんまり可愛くないね」
「可愛いやつはハツカネズミ」
画面を操作して別の鼠の写真を見つける。白くて綺麗な、可愛らしいケージの中のネズミの写真。ドブネズミと比べると柔らかくて手触りが良さそうだった。フレットが目を細める。
「ほんとだかわいー、リンドウ博識だね」
渋谷にいるのは鼠や野良猫やアライグマだ。熊や狼や象ではない。
「死神ゲーム」において、嫌なことは全て白日の下で起こった。故に今でも昼間に出歩くのが少し怖い。喧騒を裂き牙を剥いて踊りかかってくる猛獣の幻覚に身がすくみ、思わずその場に立ち止まってしまうことが何度かあった。身を裂かれる痛みの予感、立ち上る炎に身が焦げる匂いがフラッシュバックする。脳の作り出す偽りだと頭では理解していても、無いはずの痛みはどうしようもなくリアルに感情を苛んだ。ゲームを脱出して緊張状態が解け、頭のネジが少し緩んでいるのかもしれない。
安心して過ごせる時間は日が落ちた後だった。 それでも眠りが二人を悩ませた。悪夢に襲われるのだ。それで、眠りたくないと思えばこうして街に繰り出し夜をやり過ごす。足りない睡眠は翌日の授業中に補えばよかった。
「俺、お前に襲われる夢見ることがある」
スペイン坂の上のとこでさ、ノイズのせいでおかしくなっちゃってて俺ら戦うんだ。リンドウは軽い口調で説明する。冗談にしてしまいたかったが、フレットの反応は意外なものだった。
「分かるかも。多分俺もその夢見てる」
リンドウの方が驚いてしまった。
「嘘。それ、俺しか見てないはずなんだけど」
「なんかね、デジャブ?みたいに浮かんでくるの。ナギセンをうまく説得できなかった夢とか、ススキっちがめっちゃ怒ってくる夢とか。そんな感じで、リンドウ襲ってるのが浮かぶんだわ」
ぽつぽつと喋り出したが、言葉は熱に浮かされたようにだんだんと加速していった。
「リンドウがカノンさん殺しちゃうんじゃないかって急に怖くなって、守らなきゃ!って思ってさ。あの時持ってたバッジ、セイバーだったっけ?すごく嫌だった。リンドウの腕、切っちゃった感じがグシャってして、それでも攻撃されるんじゃないか、って怖くて……」
とめどなく溢れる声の中に震えが混じっていった。急いでリンドウが押し留める。
「フレット、もういいよやめろよ」
ハッとして急に押し黙る。十分な沈黙が流れる。
「……ごめん、リンドウ」
「いいよ。ってかただの夢だって」
「夢か。……そーかもね」
二人は顔を見合わせて寂しい笑みを浮かべる。
「……夢で良かったわ、ホント」
フレットは時折、とても暗い目をしていることがある。
あまりにも突然に正しい位相に帰ってきた。正し過ぎて自分たちに合っていない気がした。互いに傷つけ合う夢の光景自体はそれなりに納得できるのに、それを経てしまってから仲良く日常生活を送るというのは不気味に感じられた。このまま教科書通りの日々を過ごしたら、まるでUGも死神もミッションも消滅もなかったことになって、自分たちがずっとみんな一緒の大通りを辿ってきたと勘違いしそうだった。その想像には何となく胸がむかついた。
RGへ帰って以来、爪先立ちの危ういステップでなんとか日常生活を渡り歩いている。
一日目などは全く勝手が分からず、文字通り手を繋いで渋谷を歩く羽目になった。なにせ自動車に轢かれれば本当に死んでしまうし、道を歩けば人にぶつかる。死んでしまったらやり直しが効かないし、「寄るな」と念じることもできない。当たり前の現象が二人を戸惑わせた。何かが壊れてしまっていた。
"予行演習"ができていないぶん、現実への適応が遅いのはフレットの方だった。何度か間違って道路に歩み出しそうになるたび、リンドウは青い顔で彼の手を掴んだ。それからはお互いの汗ばんだ手を固く握りしめ、おずおずと道を歩いた。他人の考えを読むことも思考誘導することもできないし、念能力とバッジの力で炎やら水流やら氷柱やらを出すこともできない。サイキッカーであることに慣れすぎて、ひととしての振る舞いを半ば忘れかけていた。
どこまで行っても道を塞ぐ有刺鉄線やパーカーの死神が見当たらない代わりに、道路を渡ろうとするたびに横断歩道を探し信号待ちをしなければならない。
実に不便である。
<午前0時10分 スペイン坂>
「こう、この時間に出歩いてると本当に非行って感じがするよね」
センター街から一本入ると途端に、電灯も人通りも少なくなる。二人は歓楽街の谷間のような道をゆっくりと歩く。昼間は談笑する人波で賑わうスペイン坂の谷も、この時間は流れが枯れて淡い月光に満たされている。
「別に……出歩いてるだけだし良いだろ、カイエさんには後押しもらってるし」
「辛くないことをしていい、ってやつだっけ」
RGに帰って間もない頃は今よりも現実に対してグロッキーになっており、適応の為にもがく中で二人はスペイン坂の占い師を訪れた。小径の行き当たり、パルコへと上る階段のちょうど手前に細長い二階建ての雑居店が構えている。その2階がカイエのショップだった。
* * *
階上の玄関の前には怪しげなインド象やら幾何学模様の石板やらが置かれていたが、ドアを開けた先の部屋にあるのは暗闇、そして何台ものサーバーとモニターだった。落差がありすぎる。
部屋の主……頭をすっかり覆う帽子を被り、目の下に隈を作った風変わりな大男が緩慢な動作で振り向いた。挨拶はなく、代わりに肩を縮めてうさぎカバーのスマートフォンを取り出し文字を打ち込む。
『こんにちは〜』
「こんにちは、お邪魔します」
占い師の大男 ---カイエは決して対面で話すことなく、スマホのアプリ越しで話をする。故に彼との会話にはいつも独特のリズムが生まれていた。但し人の抱える心の淀みを見極める実力は、声を伴わずとも十分に発揮されていた。
『久しぶり…と言うほどでもないか。随分、うなされてるみたいだね』
「分かるんですか……!?占いって凄いんですね」
『占いじゃないし、解析するまでもないよ!』
「そうなんすか?」
『短い間に痩せちゃってる』
ぎょっとしてお互いの腹の辺りに目をやる。リンドウは常に重ね着をしているし、フレットは元から身体が薄いので分かりにくい。しかしRGに戻って以来、食べる量が少し減ってしまったのは事実だった。
『きっと、心がまだ死神ゲームを抜け出せていないんだね』
「それはそうかもしれない」
『後遺症みたいなものだよ』『辛いことがあったら話してみて』
お代は今回はいいよ、とメッセージが続く。有り難かった。二人の特殊な事情を踏まえて相談に乗ってくれる人間など現世にはいない。それでも、どこかに吐き出してしまわなければ胸の奥が悪夢で濁っていきそうだった。
「たまに、この世界が全部嘘で、誰も居なかったらどうしようって思うんです」
空虚な渋谷の記憶はなかなか彼を去らなかった。そこではフレットが失われていた。学校生活は彼なしでは上手く回らない。友人に上手く話しかけることも、持て余した時間を適当に潰して教室の中に居場所を確保するのも失敗した。アプリの画面を開いて、『うまくいかないよ』と打ち明けられれば楽になったかもしれない。しかし"スワロウさん"も失われていた。アプリゲームは気晴らしの助けにはならず、立ち上げるたびに気分が乗らない自分に失望した。そのまま画面を暗転させる。ログイン画面、こちらを見上げる馴染みの白豚のマスコットがなんだか寂しげに見えた。
世界は彼と全く繋がらないまま勝手に回っていた。何度も何度も何度も自分の意思で時間を遡り、その果てにあったのは掴み所のない他人事の世界だった。
『そうだね、リンドウ君はいろいろなものを見たから』
カイエはフレットに向き直る。
『お友達は混乱してる。彼を助けてあげてね』
「勿論です。……そもそもは、俺が死神バッジ渡したのが始まりだし」
その声には微かな自責が読み取れた。
彼から感じられる気遣いも責任感の裏返しなのかもしれない。時折、息が苦しくて酸素が足りなくて、ぐらりと目の前が揺らぐことがある。二人でいる時は必ず気がついてゆっくり呼吸を数えて落ち着かせてくれていた。昼間にそれが起これば自分で息を止めて対処していたが、そんな時でも目線を上げるとフレットが遠くから見つめていることがあった。直接助けはしないものの、その視線は痛々しいほど優しかった。
「俺がうだうだ言って丸投げして足引っ張らなかったら、もっとマシだったかもしれないし」
「フレット、いいってば」
自嘲して唇を噛み締めるフレットの言葉を遮る。後を追ってカイエのメッセージが届いた。
『二人とも落ち着くまでは無理せず、辛くないことをすると吉』
「辛くないこと……ですか」
『何でもいいんだよ』『美味しいご飯食べるとか、寝るとか、家族と話すとか』『単純なことがいい』
どれも少し空々しく浮ついていた。「単純なこと」を楽しめるまで、もう1段階乗り越える必要がありそうだった。それでも、間も無く礼を言ってカイエの店を後にした。
* * *
以降、「辛くないこと」を免罪符にして夜をうろついている。
<午前0時25分 千鳥足会館前>
深夜を渡る二人は、東海岸風の一戸建てのレストランを通り過ぎる。賑やかで雑多なこのストリートの中で、建物とその周りの小さな前庭、ささやかな低木が植わったその領域だけが静かな雰囲気を確かに守っている。リンドウには内装のイメージが湧かないほど敷居の高い店に思えた。いつか大切な想い人を連れて来るなら相応しいかもしれない、と未来を思い描く。
フレットなら使うかも、とリンドウは思う。彼の目から見ると友人は自分より少しだけ華麗な世界に生きていた。フレットの泳ぐ世界の中に、この店は十分含まれるような気がする。リンドウは語りかける。
「お前すぐ彼女作って遊びそうだよな」
「かもだけど俺意外と一途よ?素敵なヒト見つけて告って、ずっと大切にする。んで大学出たらケッコンすんの」
「意外とか自分で言うなよ」
気障な台詞と共に銀の指輪を差し出すフレットを想像する。それは全く違和感がなかったし、その舞台として一軒建てのこのレストランは相応しいように思われた。
界隈はセンター街に直通しており、人通りは決して少なくない。しかし町外れに差し掛かっており、街灯の間隔が空いて道の陰がすこし濃くなっている。
深夜の渋谷は100%安全な場所ではなかったが、暗い夜道は不思議と昼間よりも気が楽だった。3週間にわたる存在賭けのゲームの中で、自分に向いた敵意を素早く察知することが上手くなっていた。それでも2・3回、本物の不良らしきグループや明らかに酒が過ぎた大学生たちに絡まれそうになり背筋を寒くしたこともある。あるのだが、何故か彼らはつかつかと近づいてくる途中で、急に足を止めてしまう。彼らは"万引きした一番高い金額"とか"金曜提出のレポートの文字数不足"とか唐突な話題を互いに持ち出して、そのままプイとどこかへ行ってしまった。
<午前0時45分 宇田川町>
「夜パフェ、何時までやってんのかな」
二人は奥まった界隈に流れ着いていた。ここから先は繁華街を抜け、徐々に住宅地に入り込んでいく。その仕切りとなるスロープの壁に直角に突き当たるまで登り坂が続き、坂の脇には飲食店や専門店が軒を連ねていた。その一つ、既に明かりを落とした専門店の前で二人は足を止め、店の前のリーフレットを覗き込む。
「11時半までだ」
「頑張れば来れる?」
リーフレットには新商品の梨パフェが大きくプリントされていた。以前訪れたときは3段重ねの生桃を宣伝していたが、旬が過ぎたらしい。
「ちょっと時間早いけど次きてみよっか」
「それはあり」
「んじゃ今回はアイス買わね?コンビニ」
「行くか」
ふんわりと温い夜の大気の中を歩き回り、少し身体が火照っていた。二人は緑と白のラインが鮮やかな看板を探し出し、安全地帯のような白い光の中に吸い込まれていく。
入り口のチャイム音が二人を出迎えた。店員たちはいつも虚な、疲れたような目で受け入れるともなく受け入れてくれた。こんなことをしていると本当に自分たちが非行少年になってしまったような気分になる。空腹を感じた時もコンビニで軽食を買って済ませていた。今回はストロベリー・バーとコーン入りのラクトアイスをそれぞれ買い、店を後にする。
24時間営業の居酒屋の吊り看板が白い光で辺りを照らしていた。まだ飲み交わしているのだろう声が二階から漏れている。その光の下、配電盤に並んで寄りかかり包装紙を破いた。さくりと齧り付く。口の中がひやりとして気持ちがいい。
半分ほど食べ進んだところでフレットが提案する。
「リンちゃん、一口交換しない」
「いいけど」
手に持った棒アイスを無造作に差し出し、同じく差し出されたコーンアイスと持ち変える。フレットはそのまま、ガブリと大きく齧り取って半円型の跡を残した。負けじと精一杯口を開けてミルクアイスとコーンを削り取る。交換したことにしてこのまま全部食ってやろうかと思ったが、相手は気にする様子もなく「さんきゅー」と棒アイスを返却した。しぶしぶ交換に応じる。
「食いたきゃお前もイチゴにすればよかったじゃん」
「リンちゃんが食べてるとなんか美味しそうに見える」
「はぁ……」
ご機嫌な様子で言われると返す言葉もなかった。再び無言になり、アイスの冷たさを楽しむだけの時間とその余韻を過ごす。リンドウは次回の訪問に心を馳せる。午後11時前、二次会にやってきた賑やかなグループたちに混じって、雰囲気の良い店内に席を取り、それぞれの注文を楽しみに待っている。やがて運ばれてくるパフェを少し食べて一口ずつ交換する。フレットは躊躇うことなく期間限定の新メニューを注文しておいて、リンドウが頼んだ定番メニューを頬張って「やっぱこれもうまいわ」と口元を緩める。リンドウも差し出された梨パフェを精一杯大きく削りとり、一気に口に含む。シャリシャリとした食感と爽やかな甘味が舌の上を涼しくする。
<午前1時20分 千鳥足会館前>
「えっと……あったあった」
掲示板の張り紙を一枚ずつ調べ、黒と赤で数字が書かれた一枚を探す。
今回は図書館の読み聞かせ会イベントの告知用紙の上に「それ」はあった。ターゲットに選ばれるのはいつもやや古めの、公共施設の広告だった。頻繁にはメンテナンスがなされず、3日程度なら平気で書き込みが放置されている。前回は植物園のチラシだった。その前は児童施設の月報。標的にされる方こそ可哀想である。
ささやかなイベントの説明に大きな字で上書きされている。
"tan1は有理数か? "
片隅に小さく数字が書かれている。汚い字だが、暗い中目を凝らすとなんとか「2×10^-21」と読み取れる。
「今回は証明かぁ」
分かりそうで分からない。直感的には把握できるが答え方が分からない。……掴みどころが、無い。問題に性格というものがあるとしたら、不親切でぶっきらぼうな印象を受ける。
「分かる?フレット」
「いやぁわーからん」
そう言いながらもタブレットを手に取り、考えつくままに三角関数を操作してみる。二人はたまに、自身でも信じられないほどの明快さで正解までの道筋を描くことがある。霊感とでも言うべきだろうか、頭の中にヒントが急に思い浮かぶのだ。但し残念ながら、今回はリンドウもフレットも完全にお手上げだった。
「書けるとこまで書くか…」
もう1問。
「あ、こっちは昨日習ったやつ」
7×7の格子状の図形に、黒い点が2つ穿たれていた。
「ゴールまでの行き方求めろってやつだよね」
「確か。C使って解くやつ」
タブレットに入れた教材を頼りに油性ペンで答えを書き足していく。
「……これでいいかな」
これもルーティーンの一つだった。張り出されている問題を解く。夜遊びを始めた最初の日に偶然見つけた。たまたま授業の進度と合っていたから答えを書き足したら、次の回には赤ペン先生と次の問題が書き足されていた。それ以来、紙が尽きるまで同じチラシで問題と解答と赤ペンのやり取りを続けていた。紙が尽きると新しい問題は新しい紙に追加される。それを解くのはちょっとしたゲーム兼予復習になっていた。戻ってきてから日中をぼんやり過ごしている割に、数学の教師からだけは覚えが良かった。
「インテリ非行少年だ」
フレットは器用に油性ペンをくるりと回す。
「インテリだろうが非行はホドウだよ」
「ほんとはいい子なんですけどね」
「この時間に出歩いてちゃ言い訳効かないだろな」
実際に"ホドウ"に遭いそうになれば二人は電話ボックスの影に、電信柱の後ろに、ビルとビルの隙間に隠れ、時に走って逃げた。逃げるのが上手くなっていた。人間はノイズよりずっとのろまである。
<午前2時50分 首都高高架下>
おそらくこの時間には大抵の人間は眠っている。高校生も大学生も社会人も、鳩もカラスもペットの犬もみんな東京の空の下で眠っている。
ネズミたちと猫たちと、夜更かしする大人は起きている。
二人も起きている。起きて高架下を歩き、上下を行き交う車の音を聞いている。車の音に混じって、遅起きの鳥がピイピイギッ、と鳴き声を上げるのが聞こえる。
「この時間でも鳴くんだな」
「俺、鳥あんまり好きじゃなくなった」
「分かる。カラスとか嫌い」
「俺は孔雀とか嫌い」
ゲームの中で鳥にいい思い出はなかった。自分のエゴで世界を巻き戻す選択をするたび、リンドウは小さな黒い鳥を夕空に見送った。それは彼自身の業に他ならなかった。やがて増殖した業は歪みとなり、渦を巻き、渋谷を飲み込む巨鳥として自分たちに立ちはだかった。そう言えば「参加者バッジ」も、もとの凝ったドクロ柄から翼を振り上げる鳥に似たデザインにどんどん変わっていった。
円を描いてカーブする歩道橋の反対側に辿り着く。テラス部分が終わり、歩道はエスカレーターを降りた向こうの1階に続いている。歩道の脇には近年整備された渋谷川 - 渋谷ストリームがある。その光景は、かつて同じ場所で引き起こされたぶつかり合いを二人に思い出させた。苦みを含んだ声で、リンドウが呟く。
「……モトイさん」
決戦の相手にして、リンドウを欺きながらも導いていた男、穴沢基威--- Anotherは現世でもきちんと死んでいた。スマートフォンでAnotherの消息を追ったところ、SNSの更新は彼の言った通り1年前で終わっていた。彼を扱ったネット辞書サイトの末尾には、訃報ニュースのリンクが小さく載せられていた。「バッジ」の力で不正にゲームに参加した二人とは違って、Anotherはしっかりと健全に事故死していた。それを見てリンドウは奇妙な安心感を覚えた。
釣られるように、フレットも呟く。
「カノンさんのお墓、どこにあんのかな」
確かめようがなかったが、おそらくカノンやフウヤもきっと正しく死んでいるのだろう。死んだということは、ひとときこの世に確かに在ったということだ。存在すらなかったことにされるのとは全く違う。
「お参りくらいできればいいけどさー......俺ちゃんと生きてますよ、マジメにやってますよって報告したい」
「そだな。俺もモトイさんに挨拶したい」
「リンちゃんは懲りないね」
リンドウはムッとした表情になり、口を尖らせる。
「お前だってカノンさんカノンさんって、変わんないだろ」
「変わりますー」
フレットは揶揄うように舌を突き出した。
「俺はちゃんとカノンさんを評価して、信頼できるって思ったから協力したんですー」
「それが変わんないって言うんだよ」
変わる変わらない、と二人はしばらく言い合っていた。その下で渋谷川の細い流れが、明かりの残ったオフィスビルのオレンジの光を反射し、キラキラ瞬く。
<午前3時20分 宮下公園>
「あったあった」
「意外と放置されてるもんだな」
二人はベンチの下から遊戯用のボードを引っ張り出す。手持ちのモバイルバッテリーを繋いで電源ボタンを押すと、ピロリン、という軽快な起動音の後に低い電子の唸り声が続いた。
「バッジも……よし」
ほつれたポーチに入れて無造作にしまっておいた大量のバッジも特に手をつけられていない。この二つさえあればゲームの準備は整っていた。
マーブルスラッシュ --- 通称マブスラ。3年ほど前に流行っていたゲームだが遊んでみると意外と奥が深かった。滑らかな盤面の下にファンが格納されており、上にバッジを置いてレバーで振動を送ると風力で盤上を滑った。設置されたギミックを活用しながら相手を盤外に押し出せば勝利、要はバッジを使った押し相撲である。
大量のバッジをジャラジャラとかき分けて、リンドウはマッチ箱の上に乗ったネズミの柄のバッジを、フレットは牙を向く大蛇のバッジをそれぞれ選び出した。盤上に載せ、スラッシュイン、と掛け声をかけて二人はレバーを握る。エアホッケーと同じ容量でバッジを滑らし、相手の駒にぶつけ、攻撃を躱す。時折フィールドにギミックが働くが、二人は慣れた手つきで障害物を避けては再び睨み合った。
やがて大蛇のバッジが小鼠に噛みつき、しなやかな尻尾の一撃で盤外に弾き出した。リンドウは黙ってバッジを盤上に戻す。第二戦、第三戦。無言の時間が続く。
勝負は3-2で決まった。重量のある蛇のバッジが有利だった。
「あー、相性悪かったわ……」
リンドウがぼやく。2連敗だった。このゲームはバッジ自体の重さや大きさが影響しやすい。リンドウは1つのバッジを使い込むことを好んだが、今回フレットが選んだものに対しては明らかに力負けしていた。
「これで俺の7戦4勝」
「次はティガパンにでもするかな……」
「バッジじゃなくて実力の問題じゃん?」
「相性だろ、ネクさんじゃあるまいし」
伝説のプレイヤーの名を出すと、親愛を纏った空気が二人の間に漂う。
「ネクさん、懐かしいな」
そもそもマブスラを教えてくれたのはネクだった。ゲームショップの裏にたまたま廃盤が捨てられていて、それを見たネクが懐かしげに目を細めていた。ミッションに空き時間があったのでそのまま電源を入れずにバッジを滑らせておはじき遊びをしただけだったが、それでもネクはずいぶん強かった。いくらバッジを変更しようと、それどころか二人がかりで挑みかかっても結果は同じで、最後まで盤上に残っているのはいつもネクのバッジだった。また会ったら遊べるように、とこっそりボードを宮下公園まで持ってきていたが、あれ以降ネクとは連絡が取れていない。
「強かったよなー」
「マブスラも伝説級だったな」
これはちょっと自信があるんだ、とネクは微笑んだ。マブスラだったらコンポーザーにだって負けない、と。渋谷の支配者と3年前のネクが膝を付き合ってバッジを滑らせあう光景は、想像するだに大変不似合いで愉快である。当たり前だが、コンポーザーにも得手不得手があるのだろう。
さらに2戦ほど矛を交えた後、元通りにボードとバッジをベンチ下にしまった。そのままベンチに腰掛け、それぞれにスマートフォンを操作する。
リンドウは馴染みのゲーム画面を立ち上げ、周囲のモンスター情報をチェックした。目ぼしいキャラクターが出現していないことを確認し、フレンド画面へと移る。長年のフレンドだった"スワロウさん"は1ヶ月以上ログイン履歴がない。所在なくスマートフォンをポケットにしまい直した。
ニャオン、とすぐ側から声がする。黒猫が一匹、物欲しそうな目でリンドウを見上げていた。人馴れした様子で足元に擦り寄ってくるが、生憎餌になるようなものを持っていなかった。身を屈めてその猫の目の前に指を差し出してやる。猫はフンフン、と鼻をひくつかせたが、お目当てのものがもらえないと分かると失望したようにひらりと向きを変え歩き去っていった。
RGに戻って以来何度か黒い猫を見かけているが、仲良くなれたことはなかった。
小さくため息をついてフレットの方を見やる。彼の手元のスマートフォンは、爽やかに白い歯を見せる男性のイラストを映し出していた。
「ミナミモトさんだ」
「トモナミ様、ね」
フレットが嬉しげに訂正する。死神ゲームの終盤にナギに紹介されて以降、フレットは律儀に「エレガント・ストラテジー(通称レガスト)」を続けていた。聞けば、耳にタコができるほど聞いた「新章」……の前の前の前の章ほどまで進めたのだという。ストーリーポイント溜めるのに結構時間かかんだよね、と彼は言う。
「ナギセンは一瞬で新章クリアしちゃってたしなー」
「ナギさんらしいな」
死神ゲームの間中、彼女はとめどなく「レガスト新章」を夢見ていた。「生き返ること」自体を目的としていた二人と異なり、ナギには生き返った先に「やりたいこと」があった。目的が何であれ、明確で強い欲望を持つナギを時に羨ましく思っていた。
念願叶って新章に打ち込む、トモナミ様との蜜月の日々は幸せだっただろう。しかし、それが終わった今、ナギもまた死神ゲームを振り返っているのではないだろうか。……今の自分たちのように。
「今は?何してるって」
「過去ログでトモナミ様を推しながら次の章を待ちます、って言ってた。あと俺に逐一指南してくれんの」
おかげでトモナミ様だけ育っちゃった、とフレットは再び画面を見せた。浅黒い肌のキャラクターのレベルだけが異様に高い。
「お前めっちゃトモナミ様推しじゃん」
「俺もイベント行ってトモナミ様のグッズ集めようかな〜」
「推しじゃん!」
ナギと共に限定カフェに赴き、ドリンクやらパンケーキを口に運ぶフレットを思い浮かべる。想像の中、ぬいぐるみやら缶バッジやらで武装した女性に混じってグッズの列に並ぶ、身綺麗な男子高校生一匹。
「……ぜってー浮くだろ」
「まぁナギセンに付き合ってもらえば」
「可哀想だから俺も付いてってやる」
「マジ!?リンドウもレガストやろ」
友人の唐突な誘いを「やりませんが」といなしながら、イベントに赴く自分の姿を思い描いた。武装女性に混じって男子高校生が二匹。やはりどうやっても浮いてしまう。やがて商品棚に辿り着き、不敵な笑みを浮かべて剣を構える男の缶バッジを手に取る。会計し、ナギと合流し、じゃん、とグッズを見せ合う。
リンドウとフレット、そしてナギ。凸凹の3人組を、鋭い眼光と犬歯を持つキャラクターが結び付けている。
「渋谷の魅力ってなんだと思う」
あの日以来リンドウはその問いを忘れられずにいた。
丸の内とも中野とも表参道とも違う。東京タワーもスカイツリーも動物園もない。それなのに、この街にはあまりにいろいろなものがありすぎた。
それぞれに人生の一部が、強烈にこの街に縫い付けられてしまったように感じていた。そのままいくつもの夜を渋谷を離れずにぶらついている。
「なんだろーね」
色々な人がいてざわめき合っているカラフルな賑やかさだろうか?常に移り変わり、少し移動するだけで全く違う景色を見せる懐の深さだろうか?言葉にしてしまえばどれもありきたりなものに思える。ただ、二人はずっと渋谷を生きて、渋谷で人と出会い、渋谷を歩いてきた。色々な人がいて、その気にさえなれば色々な人と向き合い、話ができる。そうして自分とは違う何かを見つけ出して世界を広げ、改めて自分を見つめ直すこともできた。
二人にとって渋谷は空気でもあり、絶対的な他者でもあった。魅力、という言葉がふさわしいかは分からなかったが、そんなところが好きだった。
午前4時20分の宮下公園は、お互いの呼吸が聞こえそうなほど静かだった。あまりに静かで、これから騒がしい日常が始まるとはまだ信じられないほどだった。
全部夢で嘘で、明日になったらまた新しいミッションが配信されて来るような気がした。
隣にいる友人は儚い陽炎に過ぎず、本物はどこか遠く決して手が届かない場所にいるような気がした。
この世界は正しい線上になくて、また過去を辿ってやり直す必要があるような気がした。
昼間の賑やかな光の中ではそんな違和感を拭うのが難しかった。だから夜を歩き、歩調と言葉を合わせて相手の存在を確かめ合う。二人でいる時だけは、あの時在った全てのことが嘘でないと確信していられた。
全てを終えてせっかく望み通りの世界に渡り着いたのに、まだ足元がぐらつき、終着点はいまだに見えていない。渋谷を賑やかす10月末までには、或いは電光が街を彩る12月までには、しっかりとここに腰を落ち着けることが出来るだろうか。
もとの日常に辿り着けるだろうか。
「なんかもう涼しくなった」
「一週間前までは夏だったのにな」
新しい季節がやってくるのが少し怖かった。
<午前4時45分 渋谷駅前>
始発で家に帰ろうとすると、大体4時45分頃には渋谷駅に戻ってお別れする必要がある。二人はTSUTAYAの上階の大きなスクリーンを見上げる。この時間は広告を打っておらず、画面は穏やかに暗いままだった。フレットが肺の底から絞ったような声で戯ける。
「ゴ、キ、ゲン、ヨウ」
リンドウが口を歪めて続ける。
「シブヤの民よ」
夜明け前、スクランブルに帰り着く度にこんなやり取りをするのが癖になっていた。二人は間違いなく「渋谷の民」だった。昔も今も。
この時間になっても駅前からは完全に人が居なくなるわけではない。渋谷は終わりなき祝祭の街である。UGにいれば、近くで体温を感じようとしてもそっと口づけをしても、チームメンバーを除けば周囲の目を気にする必要はなかった。RGでは全て勝手が違ってしまう。それでも構わないと思えればよいのだが、リンドウの気恥ずかしさがそれに邪魔をした。
代わりに二人はお別れの儀式を作っていた。
「……ん」
手を差し出す。握りしめる。しっかりと握手をして、夜通し歩いて少し上がった互いの体温を感じる。
「じゃまた」
「じゃね〜」
スクランブル交差点、ハチ公前。まだ明るくならず温度も上がりきらない中、手を離し、振って、別れる。9月の朝が少しずつ光を帯びていく。二人の時間が終わっていく。新しい日が始まる気配に、リンドウはくぁ、と欠伸を噛み殺す。新しい、真っ白な一日。8時から5時までの間、足りない睡眠を補い、可能な範囲で友達と談笑し、授業に耳を傾け、窓際で文字を追う。日が落ちるまではそれぞれに一人の時間を過ごす。
彷徨う日々は夏の日が落ちるようにゆっくり、ゆっくりと傷を埋めていった。
二人はそうしていくつもの長い夜を、悪夢から逃れて過ごした。