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    kuonao

    今は五七の文字書きをしています

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    kuonao

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    記憶ありで転生してきた七海が最強として呪術界に幽閉されているところに、最強でなくなった五条が迎えにくる話

    #五七
    Gonana

    昨日の逆夢 明日の正夢 七海はカミサマとやらの声を聞いたことがあった。まだ、この世に産まれ出るよりも前のことだ。
     すでに痛みも意識すら曖昧な中、ツギハギの呪霊の手が胸に触れた。そして、ぼこり、と上半身が波打った瞬間、その声が聞こえた。
    【汝、次の世で何を望む?】
     脳内で反響したその音が、本当に神様かどうかだなんてわからない。死に際に見た幻覚だと言われれば、そうだとも思う。
     ただ、消えゆく意識の中で、たった一人の親友だった男と恋人の安寧を願ったことだけを覚えていた。



     生まれた時から、七海は違う人生の記憶を持っていた。まるで古いアルバムのような、色褪せた記憶。その中で、七海は親友に恵まれ、愛した人と恋人となり、そして戦いの中で死んだ。
     確かに一度、七海建人はその生を終えた。そして、また新たな生を受けて誕生した。今度もまた、七海建人として。
     過去を見るのは、七海にとって写真を眺めているのと同じだった。たとえ壮絶な過去を見ても実感が伴うことはない。終えたはずの一生を思い出すたびに、独り善がりだな、と傍観者として感想を抱く程度だった。

     記憶があることは、七海にとって取るに足らないことであった。けれど、弊害もある。生まれたばかりの赤子だった七海に、かつて一級術師として生きた経験が残っていたのだ。目を開いた瞬間から、目の前の全てに十分割の線分が見えた。
     意識だけは大人だった。その線分に何の意味があるのかも理解していた。けれど、理性のない赤子の身体のコントロールはできなかった。
     羊水に浮かんでいた頃は、刺激など何もなかった。静穏だけがあった。けれど、その外側はあまりに刺激に満ちていた。光、音、摩擦。何もかもが不愉快。理性のない身体は自然と、不快という負の感情を廻らせ、呪力を作り出す。そして、それを爆発させたとき。抱きしめてくれていた看護師に足がぶつかった。結果、生まれたばかりの七海は優しく笑ってくれた善良な看護師を傷つけた。
     思い出したくもない。抱きしめてくれる、拾い上げてくれる、優しいばかりの人たちを傷つけていくのだ。小さな体が泣き疲れて眠るまで、ずっと。それは、新しい七海に鮮明に焼き付いた、後悔そのものだった。

     産まれたばかりで、感情の制御が利かない七海は不快感を抱くだけで全てを壊していった。触れるもの全てを崩壊させる。物も、人も、関係も。何もかもを。望まないにも関わらず、ただ壊すことしかできない己を憎みさえした。
     幸いだけを望まれて生まれてきたはずの己が父母たちを歪めていく。そこにあった幸いを、優しい人たちが壊れていくのを見ているしかできない。無力な己を憎み、その感情が七海を強くする。悪循環を繰り返し続けた。
     そんな七海たちに手を差し伸べたのが、呪術界だった。
     破壊神である己を引き取りたいのだと言う存在は疲れ果てた両親にとって天恵だったに違いない。そして、泣くこともなく、笑うこともない、ひどく赤子らしからぬ不気味な存在を、今世の両親は喜んで手放した。
     簡単に七海を捨てた、一度たりとも振り返らなかった両親を怨んだことはない。むしろ、あるべき場所に戻してくれたことに感謝すらした。
     そう在るべくしてこうなったのだ。なにせ、今の七海はあまりに歪すぎる。
     産まれたばかりで物事の道理を理解できないはずの乳飲み子が、爆発させるだけとはいえ、呪力を使うことができる。さらに術式の保有が確定していること。それがどれだけ異質であるのか七海は自覚していた。それも、遡っても何一つ術師家系の血の入らない、純粋な一般家系出身。そこまで揃えば、異質というより異端ですらある。
     この世の歪を詰め込んだ七海建人という入れ物を、ただの人間でしかない両親が背負えるはずもなかった。ただ、それだけの話だった。



     そうして足を踏み入れた呪術界でも、七海という赤子は持て余された。なにせ、触れるだけで全てを壊す。赤子だからこそ制御のきかない、ただの強大な力は人を遠ざけるには充分すぎた。

     かつて、線分は一つの対象に一本しか見えなかった。けれど、今は格子のように縦横無尽に線分があるのが見える。その上、十分割の一をさらに細かく、際限なく十分割に割ることができた。見えるもの全てを永遠と細かく分割していくことで、任意の場所を強制的に弱点にしてしまう。それが今の七海の術式だった。
     かつては、十分割の中の一点という縛りがあった。けれど、今。触れる場所全てが勝手にクリティカルヒットにとなる。つまり、形があるもの全てを壊す力を得てしまった。
     あの時の五条には届かないかもしれない。あの人はあまりに論外すぎた。けれど、今世の七海もまた、人間には不必要なほどの力を持っている。あの時の五条の見える世界を誰しもが理解できなかったのと同じように、おそらく、今の七海に見える世界を誰も理解できない。生まれながらに、その極致に至っていた。

     五歳になった時、七海は幽閉を言い渡された。その日から七海の世界は、地下深くに作られた、必要最小限のものだけが揃った小さな部屋になった。
     小さな部屋で、独りきり。それを寂しいと思ったことはない。この運命こそが、強大な力を得るための代償なのだろう。
     時々、祓徐のために地上に上がるよう命令が届く。それ以外は地下深くで生活するのが当たり前になった七海は、祓徐のときだけ空を見ることができた。青空でも雨空でもいい。ただ、どこまでも続く空だけが、この世界の本当の広さを教えてくれる。この空の下で生きている灰原と五条を思えば、己にも生きることに価値があるのだと信じられた。今度こそ、あの二人が健やかに生きていく世界を守るのだと、頑ななまでに信じていた。

     七海は神様の存在を信じたことはない。神様とやらを見つけたら真っ先に殴りかかる自信もある。七海の大切な人たちにとって、あまりに運命は残酷すぎる。
     それでも、人は無力を痛感すると祈らずにはいられない。
     どれだけ強大な力を得たとしても、七海もまた、ただの無力でしかない人間でしかなかった。助けられない誰かが居た夜、救えたはずの命を見捨てた夜。そんな哀しみを抱いて眠る夜は、決まって思い出の中に居る灰原と五条に、どうか幸いであれと目蓋の裏で祈っていた。

     強大な力の入れ物である七海に許されたのは、この狭い世界で誰と関わることなく生きること、それから人の手には余る呪霊を祓うことだけ。
     それでよかった。それがよかった。七海がここに囚われている間、世界は最強を探さない。それは五条が孤独を知らずに生きていることと同義だった。
     何を対価にしても、あの人たちの幸いを。命の最期にそう望んだのは、己自身なのだから。
     今の七海にとって、大切なものは記憶の中で笑う灰原と五条だけだった。その二人が、今もこの世界のどこかで、何も知らずに健やかに笑っていること。それだけが、七海が生きる全てだった。



     誰かと関わることなく生きているせいで、誰からも害されることがない。ある意味で、平穏な日々が過ぎていった。
     あまりに果てがないことに意味を見出せなくて、時を数えるのは途中で止めた。そのせいで、自分の年齢ですら分からない。ただ、地上に顔を出すたびに色を変える景色に季節の移り変わりだけを感じていた。

     その年は、不自然なほど呪霊が湧いた。いつもなら、一季節に一度、地上に呼ばれる程度だったのに、夏を目前に、既に三度、七海は呼ばれた。
     人の声をかき消すほど蝉の鳴き声が騒がしく響く夕刻。七海は四度目の呼び出しを受けた。
     階段を上がった先で、見慣れた黒いスーツを身に纏う補助監督が車の前で待っていた。促されるままに車に乗り込む。見上げると、空に入道雲が浮かんでいた。
     小さい頃は、あの雲が綿菓子でできてるんだって信じてたんだ。
     今は居ない親友の朗らかな声が耳の奥を掠めていく。七海の記憶の中でしか生きらえない灰原は、いつだって屈託なく笑っていた。
     高専に入らない七海は、二度と灰原と出逢うことはない。けれど、この広い空の下で、同じ雲を見上げて、同じように笑っていたらいい。そう祈りながら、目を閉じた。

    「今回はN県Y集落に発生した産土神に祓徐の依頼が入りました。
     すでに高専所属、灰原雄二級術師より二級呪霊から一級呪霊に変容したとの報告を受けてます。地元民への被害も見られるので迅速に対応せよ、との命令です」

     揺れる車の中で聞かされた報告と懐かしい名前に背筋にぞわりと悪寒が走った。
     その名前。その任務。その土地。目の前が真っ赤に染まる。
     何もかもを忘れたことはなかった。忘れられるはずがなかった。全ての始まりになった、あの日。あの日以上に、己の不甲斐なさを恨んだことはない。
     脳裏を過去が駆け抜ける。刹那、胃の奥が痙攣した。
     親友の笑顔、笑い声、うだるような熱、握りしめた鉈の重さ、抱き寄せた身体の軽さ、噎せ返るほどの血の匂い、紅に染まった指先、背中に貼りつく血液の温かさ、温度が消えていく体、触れた顔の冷たさ、小さな箱に収められた真っ白な骨、消えた笑顔、後は任せたと鮮やかに笑った、その顔。笑っていた親友が、腕の中でどんどん軽くなっていく現実。
     絶望、焦燥、空虚、恐怖、罪悪感、諦観、憎悪、自責、失望、憤慨、悲観。
     ありとあらゆる負の感情が心を焼き尽くす。
     七海の孤独と引き換えに安寧が与えられたはずの灰原に、なぜまたあの任務が言い渡されているのだ。望んだものに見合うだけの対価は払ったはずだ。孤独に心を凍らせてでも、人との繋がりを捨てた。それは、灰原たちが笑って生きているからだと信じていたのに。

     憤怒で真っ白になった視界の中で、七海の呪力は綺麗だね、と甘く笑んだ恋人の声が響いた。何度も繰り返し、笑うほど聞いた言葉が真っ黒に塗りつぶされていく。
     あの人に今の七海を見せたら何を言うのだろう。歌うように七海の呪力を綺麗だと褒めてくれたあの人は、今の七海を見たら、どんな顔をするのだろう。
     けれど、そんなことはどうでもいい。
     どれだけ醜くても、どれだけ穢れようとも、あの人に嫌われたとしても。あの日、あの時、あの瞬間。救えなかった親友を今度こそ、この手で救う。それ以外に望むものなど、あるはずがない。

     飛ぶように流れていく車窓の向こうで、狂うほど思い出した地名が見えた。ここからは、車で赴くには不自由すぎる獣道のような山道が続く。それなら、走った方が早い。
     くるり、と手首を回す。あの時と違って、鍛えていないせいで細くて頼りない腕だ。けれど、負ける気はしない。
     鉈から呪符を外し、拳に巻き付ける。端を固く結び、手を開く。動きに支障はない。目を細めると、世界中の弱点が見える。
     今の七海に壊せないものなど、何もない。

     七海は法定速度を守ってゆっくりと走る車の窓に触れた。ほんの僅か。笑ってしまうほど微弱な呪力を流すだけで、それはティッシュペーパーよりも簡単に破れていく。
     耳元で風がうねる。逆流する空気は全ての音をかき消した。遠くで監視役に選ばれた補助監督が何かを叫んでいる。けれど、それは七海には届かない。
     届かないものは、存在しないと同じだ。誰にも届かない場所であげた七海の心があげた悲鳴がなかったことにされたように。
     何の感慨もなく、壊れた窓から身を投げ出した。
     あの人のように、空を飛ぶ力はない。瞬間移動することもできない。呪力を見ることもできない。今でも七海にはできないことばかりだ。けれど、二回分の人生で積み重ねた経験は生きている。それだけが、頼りだった。
     山の向こうで、懐かしい呪力が破裂する。それだけ解れば、十分だ。

     本能のままに車から飛び出したものの、受け身を取り損ねた七海は地面に頬を擦り付けた。痛みはない。流れる血が億劫だ。袖で乱雑に拭って、目の前を睨みつける。
     この痛みこそが、過去ばかりしか持たない七海に生を実感させる。

     訓練と称して、大人げない先輩たちに投げ飛ばされては骨を折っていたあの頃。骨折、打ち身、捻挫、擦過傷。ありとあらゆる怪我をしながら、あの頃の自分たちは生きていた。人を守るために、何かを護るために。必死に生を駆け抜けた。
     七海にとっては遠い過去になってしまった、愛おしい日常を、けれどそこで今世の灰原もまた、あの頃のように真っ直ぐに生きているのだろう。きっと、今の守りたいものをふたつきりだと諦めた自分よりずっと真っ直ぐに、懸命に、生きている。
     そんな灰原を、こんな場所で喪いたくない。
     それだけが、七海の痛みに震える足を前に進ませる。

     あの時より軽い身体は簡単に吹き飛ばされる。足りない筋力で地を蹴ることもうまくできない。
     今の肉体を知っているはずなのに、記憶との齟齬でうまく体を扱えない。守るのだという決意とは裏腹に、日の届かない場所で生きるこの肉体は脆弱すぎる。
     けれどそれは、諦めていい理由にならない。あの頃と違って、今の七海に灰原を捨ててでも守りたいものはないのだから。
     たとえそれで、己自身を滅ぼすことになったとしても。

     吹けば飛ぶような体で駆ける。ただひたすらに、一心に、前だけを見据えて。そこで戦う灰原だけを見つめて駆ける。
     けれど、間に合わない。
     こんなに足は遅かっただろうか。もっとちゃんと鍛えておけばよかった。でも、諦める前にはまだ早すぎる。
     再度、呪力が爆発した。その先で、灰原が戦っている。
     直線距離で、数百メートル。けれどそこは七海の範疇内だ。この手が届く場所。今度こそ、守り切れる場所。
     地面に触れる。足元が崩れた。それでも、前だけを見ていた。
     7対3。その点を繋げて、線にする。強制的に作り出された弱点の上に呪力を走らせる。体よりも早く。光の速さで。それを追いかけるように、地面が割れていく。そして、山半分が崩壊していくのを、七海はじっと見つめていた。

     数百メートルを更地にした七海が目にしたのは、血まみれで、埃まみれで、けれど生きている灰原だった。
     相変わらず、仔犬のような顔をしている。丸く見開かれた目には愛嬌しかない。思い出より、少しだけ精悍になったようにも見えた。あまりの懐かしさと慕わしさに自然と頬が緩む。
     汚泥のような液体をまき散らして死んでいく産土神の向こう。太腿を削る深手を負いながらも、確かにその足で真っ直ぐ立つ灰原が生きていた。
     ああ、間に合ったんだ。
     目の奥が熱い。感情なんて、とうの昔に失くしたはずだったのに。目の奥から溢れる涙が止まらない。滲む視界の向こうで、灰原も泣いている。
     止まれよ、なぁ、止まれ。やっと。やっと、会えたんだ。あの時死んだはずの親友が、目の前に居るんだ。もう二度と会えないんだ。だから、ちゃんとこの目に焼き付かせてくれよ。

    「ななみ……?」
    「生きていて、よかった。さよなら、灰原。ありがとう。
     ずっと、それを言いたかったんだ」
    「どういうこと……?
     七海はどこに居たの?僕たちずっと探してたんだよ!
     ねぇ、僕と帰ろうよ! 五条さんも、夏油さんも、家入さんも、みんな待ってるんだよ」

     泣きながら手を伸ばしてくる灰原にひとつ、笑顔を残す。
     本当は、記憶がないのなら、その方がよかった。七海のことを忘れて、笑顔で生きていてくれるなら、その方がずっといい。二回目の人生だなんて重たいものなど、背負う必要はない。
     それでも、灰原がかつての記憶を忘れられないというのなら。どうか、どうか。君の思い出に残るなら笑顔がいい。七海の中で笑う灰原が、ずっと支えになったように。残した笑顔を頼りに健やかに生きてくれたら、それでいい。
     直線距離、300メートル。走れば10秒。けれど、そこが断絶だった。足に深手を抱える灰原は動けないし、七海もそちらに行くつもりはない。
     だからここで、お別れだ。もう二度と、会うこともないだろう。会いたくもない。最強だと囚われる七海が呼ばれときには、いつも誰かの命に危機が訪れている時なのだから。

    「さよなら、灰原。みんなにも、どうかお幸せに、と伝えてくれ」
    「イヤだよ。自分で言ってよ。誰も納得なんてしないから。
     七海が居ないのに、七海が笑えないのに、幸せになんてなれるはずないじゃないか」
    「今だって笑ってるじゃないですか」
    「僕の知ってる七海はもっと綺麗に笑ってるよ」
    「そうか…… まぁ、初めて笑ったし、仕方ないんじゃないか?」

     嫌だよ、と泣きじゃくる灰原の声を背中に、七海は踵を返す。もう七海の帰る場所は灰原の横じゃない。もう二度と並んで高専に帰ることもない。そこに寂しさがないとは言えない。けれど、在るべきものは在るべき場所に。それが自然の摂理なのらから仕方ない。
     そうやって諦めながら、七海は今世を生きている。

     壊した車の前まで戻ると、そこには携帯端末を片手に不機嫌そうに佇む補助監督が居た。

    「すみませんでした」
    「君には怒っていませんよ。反抗期にしては遅すぎるくらいです。
     私は立場上、君に感情移入することはありませんが。文句も言わずに仕事をする君には好意を抱いています。君がかつて何をしてあそこに幽閉されているのか知りませんが、どこぞのクソガキ特級術師共より君の方がずっとマシです」

     心底ウンザリした顔を隠さない補助監督に、思わず笑いが零れた。どうやらあの破天荒な先輩たちは、今世も元気にやっているらしい。
     おとなになってからは、七海の前でいい恋人をしていた五条だったが、学生時代は破天荒の一言に尽きた。目を剥くような破天荒を見せつけられたし、巻き込まれては迷惑ばかりで、いつも怒ってばかりだった記憶がある。財力も実力もあるだけに文句しか言えないのが悔しかった。
     あの人の無茶ぶりに振り回されたのは1回や2回ではない。数えきれないくらいウンザリした。きっと、今世でも元気に誰かを振り回しているのだろう。
     思い出すだけでも懐かしい。振り回される側からすれば、耐え難いだろうけれど。少し離れた場所で思い出すくらいが丁度いい。
     初めて動かした表情筋が悲鳴をあげる。それでも、七海は笑いを止められない。

     君、もっと笑った方がいいですよ。せっかく綺麗な顔をしてるんですから。そんな冗談を言った補助監督が七海を壊れえた車に押し込めてエンジンをいれた。
     ずっと言いたかったことを伝えられたせいかもしれないし、懐かしい級友に会えたせいかもしれない。灰原の無事を確かめられたおかげで、向こうに全員揃って生きていることを知れたおかげで。行きとは違って、七海の心はずいぶんと軽い。
     顔を打つ柔らかな風に目を細める。見上げると、そこにはどこまでも広く、どこまでも高く澄んだ、ペンキをぶちまけたような青色が広がっている。この下で、七海の大切な人が生きている。
     七海が望んだままの世界が、ここにはあった。
     幸せだ。しあわせなのに。初めて笑えたくらい、幸せで。
     だから、目蓋から落ちる涙なんて、気のせいに違いない。

     流れゆく青々と茂る木々。どこまでも続く道路。命を謳歌する蝉の鳴き声。汗ばむ肌。影をなくすほど耀く太陽。
     あの時途切れた、生命が輝く夏が、もうすぐやって来る。
     ずっと夢見た世界が、七海を置き去りにして始まる。



     灰原を見た日から、また幾日か過ぎた頃。静寂に満ちた世界に異音が響いた。
     悲鳴、怒号、爆発音、破裂音。平穏から程遠い音に顔を上げる。
     いったい、何があったのだろう。七海の記憶が正しければ、しばらくは平穏が続くはずだ。後10年と少しの間、七海が生きていた年まで、呪術界は何事もなかったかのように回り続けるはずだ。
     それなのに、なぜ。七海が幽閉されている最深部まで、戦争のような音が届くのだろう。

     この暗くて狭い部屋に閉じこもっていると、外の世界で何が起きているのか分からない。七海が知らされるのは、いつだって任務の概略だけだった。そのせいで、今が過去と同じ道を歩いているのか確信が持てない。
     もしかして、七海の知っている過去と違う今になってしまったのだろうか。定められていた道筋を外れたのだろうか。
     心当たりはある。というより、心当たりしかない。
     灰原の生存。今が七海が経験した過去をなぞっているのなら、あの日、あの場所で灰原は死ななければならなかった。
     灰原が死ななければ、夏油を高専に繋ぎ止められてのかもしれない。夏油という特級術師が居ることで救える数えきれないほどの命を救うことができたかもしれない。そして特級呪詛師・夏油傑が居なければ、百鬼夜行は起こらなかったし、夏油が生きているのなら、その身体を媒体にして羂索が蘇ることはなかった。そして、羂索が居なければ、渋谷事変は始まらない。何より、五条があれほど心を痛めることもない。
     まさしく、運命の分岐点。それを、七海が私情ひとつで捻じ曲げた。
     人は対価なく、何かを受け取ることはできない。人は何も持たずに生まれてくる。生きている間に何かを得て、何かを喪い、そして死ぬときはゼロに戻る。そうして廻りめぐりながら人は生きている。
     それなら、七海が望んだ世界のために支払った対価はいったい何なのだろう。肉体も精神も健全なまま、ここにある。何かを喪った実感はない。
     ああ、運命が七海を奪いにきたのか。
     運命を変えるだなんて大層なことをしでかした報いが、この騒音だというのなら。その結果、何が齎されるとしても。七海は黙って受け入れるしかない。

     地響きと音が徐々に近付いてくる。
     銃声、誰かの叫び声、駆ける足音、何かを制止する声。近付く音は、どんどんと鮮明になっていく。
     皮肉なことに、七海の狭くも穏やかな世界を崩す音こそが、外の世界を連れてくる。そして、一際大きく響いた爆発音と共に、目の前の檻が瓦解した。

    「よぉ、囚われの七海姫、今度こそ一緒に帰ろう」

     崩壊した檻の向こうから光を背負った男が歩いてくる。
     持て余すほど長い脚、全てが黄金律でつくられた美貌、無邪気に跳ねる白銀色の髪。何より目を奪うのは、蒼穹よりも複雑な青色でできた、この世にひとつしかない至宝の瞳。
     壊れた部屋の中で異質な存在感を放つ、この世の美を詰め込んだような男は、ただひたすらに七海だけを見ている。

     耳の奥で、世界がひっくり返る音がする。
     昔から、七海の世界を壊せるのは、無邪気な顔をしたこの人だけだった。

    「ごじょうさん……」

     久しぶりに、今世では初めて、舌に乗せた音にひどい違和感を覚えた。縺れた舌は掠れた音しか生み出さない。けれど、違和感ばかりの声を拾った五条は、はなやかな美貌をさらに華やげて笑った。
     それは無邪気な子どものようにも見えたし、清純な乙女のようにも見え、けれど悪魔が人を堕落させる瞬間に見せる顔のようにも見えた。

    「アナタ、どうしてここに……」
    「ずっと探してたからだけど?
     なにここ。呪符だらけじゃん。ウケんね。たったこれだけで僕を欺くつもりだったんだ」
    「どうして、ここに……」
    「ん? 灰原がオマエを見つけたって言ったからだけど」
    「……探してほしいなんて、一度も言ったことありませんよ」
    「馬鹿だな。それが探さない理由になるかよ」

     呆然と五条を見上げるしかできない七海の手を五条は掴んだ。
     片手で手首を掴んでも指が余る。確かに七海よりずっと大きい人ではあるが、ここまでの体格差があったことはない。
     直接触れて、ようやく気付いてしまった。この人は、七海が探していた五条と同じ魂を持つひとだ。けれど、今の七海はこの人が探していた七海建人とは違う。
     たとえ魂が同じでも、容れ物が違えば、それは別人なのだ。今さら、そんな当たり前のことに気付く。
     今の七海は、今の五条が何を考えているのか分からないし、どんな生き方を送ってきたのかわからない。
     五条もまた、今の七海の人生など、何も知らないだろう。どれだけ空虚な人生だったのか、絶対に気付かれたくない。

     ああ、だからこの人に見つかりたくなかったのだ。会いたくなかった。
     この人には、満たされていた七海建人だけを覚えていてほしかった。愛を与えることを躊躇わない、そんな満たされた強さを持っていた七海だけを覚えていてほしかった。
     どうして、見つかってしまったのだろう。どうして、そっとしておいてくれなかったんだろう。
     もう一度、出逢わなければ。心穏やかに今世を終えることだってできたはずなのに。この人だって、違う幸せを見つけられたかもしれないのに。どうして、五条悟は七海建人を諦めてくれなかったのだろう。

     前世との違いに驚いたのは七海だけではなかった。目の前で、五条が大きな目をこぼれそうなほど丸く見開いて、掴んだ手のひらを凝視していた。

     反射的に五条の手を振り払った七海は勢いよく立ち上がる。
     狭いせまい部屋の中、五条から逃げられるはずもない。それでも、どうしても、今の貧相な自分を、あの美しい瞳の前に曝け出していることが耐えられなかった。
     振り上げた脚を、そのまま真下に叩きつける。呪力が脚を伝って、部屋一面に拡散していく。呪力が走った部分から全てが崩れていく。
     十劃呪法、瓦落瓦落。術式は魂に根付いているのか、初めて使うはずの拡張術式を難なく使うことができた。

     初めから、この人から逃げられるなんて思っていない。けれど、瓦礫の下敷きになれば。この人の瞳にこれ以上、映ることもない。ただその一心だった。
     七海の役割は終わったのだ。それなら、生き恥を晒す必要もない。
     この人にも、今の七海を知らない仲間たちにも。あの頃の、逞しく生きた七海だけを覚えていてほしい。
     ただそれだけを願って叩きつけたはずの呪力は、なぜか途中で霧散した。まるで、始めからそこになかったかのように。五条に届く寸前にかき消される。

    「オマエ、ちょっと見ないうちにずいぶん馬鹿になったもんだね。人と関わらないんだから成長しないのも当たり前か」
    「どういうことです?」
    「僕の術式、覚えてる?」
    「無下限は人の呪力に干渉できるものではなかったと記憶してますが」
    「まぁ、無下限はね。これは反転術式の応用。
     僕は六眼で呪力の流れが見えるから、見えない肉体を修復するより呪力に干渉する方がずっと楽だったみたい。
     いちおう、これができるようになったのは今世になってからなんだけどね。僕には人生2回分、術式を研鑽できる時間があったから」
    「いくら時間があるとはいえ、相変わらずバケモノじみてますね」
    「そんくらいで僕が怒ると思ったの? 残念でした。まだちゃーんと冷静だよ」

     傷つけるためにわざと言った言葉に、目の前の美貌は軽薄にわらった。
     うそつきなひと。
     七海はずっとこの人を見ていた。怒るところも、哀しみを湛えるところも、笑うところも、照れるところだって見た。前世では一番、この人の感情に触れてきた自負がある。そんな七海でも、この人がこんなにも温度なく静かに怒っているところを初めて見た。この人が、誰かに本気の怒りを剥き出しにするところをはじめて見た。
     目の前で、神様が丹精込めて作り出した秀麗な顔が大きく歪んだ。けれど、その歪みこそが美しさに彩りを添える。そんな完璧な美を持つ人が、冷徹な瞳で七海を射抜く。
     ぞわりと背筋を走ったのが悪寒か興奮か分からない。けれど、目の前の生き物に全身の産毛すら逆立ったのがわかる。

     本能で、察してしまう。
     七海は、この人から逃れられない。

    「帰るよ、七海。僕らの生きる世界に」

     瓦礫に成り果てた、七海の狭い世界の入り口で。五条が大きく腕を差しだしてくる。その手のひらを、ただじっと見つめるしかできなかった。
     その手を取れば。どんな世界が待っているのだろう。かつて、七海が生きた世界と同じものが広がっているのだろうか。灰原が笑って、この人が居て、夏油が生きて、疲れた顔をしていない家入が居る。そんな、幾度となく夢見た世界が広がっているのだろうか。

     本当は、ずっと七海だってそれを見てみたかった。その中で生きてみたかった。
     けれど。
     ここから逃げた先に、どんな未来があるのだろう。七海という救世主を失った呪術界は、いったい誰を次の人身御供に選ぶのだろう。

     七海は今世で、あまりにも呪術界の深部に触れすぎた。【最強】という立場の重さと責任と裏側にある闇を知った。
     血筋も立場もない、ただの一級術師として政治に関わることなく安穏と生きたあの頃は知らなかった。かつて【最強】の名を欲しいままにしていたこの人が、こんなに重たいものを背負って生きていることを。
     呪術界の最強という存在が、四肢を捥ぎ取るほど強い呪いであることに、あの頃の七海は気付かなかった。あんまりにもこの人が屈託なく笑ってたから。最強の意味を深く考えたこともなかった。
     あの人は、自由一つないほど呪術界に雁字搦めでなりながら、七海たったひとりを一途にあいしてくれていた。その強さを、思う。それはきっと、途方もない強さで、優しさで、誠実さだった。

     人ではないモノとして生きる痛みを、今の七海は知っている。ふとした瞬間に、凍ったはずの心がひび割れるとき。人であるくせに、人在らざるモノとして生きたこの人の人生を思い返さずにはいられなかった。強くなれないと思いながら、けれどこの人のようになりたいと願った。
     結局、七海が目指した背中はこの人だけなのだ。
     けれど、そこまで強く在れなかった。
     何も知らずに幸せそうに笑う人の中で生きる自信がなかった。
     優しい人たちに、七海の抱えているものを悟らせずにいる自信がなかった。
     理不尽な痛みを見せずに笑う自信がなかった。
     七海は、強く在れなかった。この人のように、全てを笑って背負えるほど、強くなれなかった。きっと今でも、七海よりずっと強いこの人のように在れなかった。
     だから、ひとりを選んだ。
     独りなら、生まれたときに優しいだけの人を傷つけてしまったように、不用意に誰かを傷つけることもない。何も知らない大切な人から遠ざけられるかもしれないと、常に首にナイフを突き立てられたまま生きる必要もない。強く在れない七海にとって、独りで居ることはひどく気楽だった。
     本物の強者であるこの人は、そんな七海の弱さを理解などできないのだろう。だから、そんな顔で独りを止めようと言えるのだ。

    「今さら、どこに帰ると言うんですか」
    「僕のとこ。みんな待ってるんだよ」
    「今の私とかつての私は別人ですよ」
    「……オマエにさ、僕の絶望がわかる?
     最強でなかった僕は、自由だったよ。何でもできたし、何にでもなれた。それでも、またオマエと会いたくて、みんなに会いたくて、呪術師になった。
     結局、僕は呪術師にしかなれないんだ。
     高専には傑が居て、硝子が居て、灰原が入ってきて、伊地知もきた。みんな、記憶があったんだ。それでも全部を水に流して、今を生きていこうって笑ってた。
     それなのに、オマエだけが居ない。
     もちろん、五条家の力を総動員して探したよ。その力を得るために、前より早く当主になった。けど、見つかったのは生まれてから7日目の朝までの足取りだけだった。降霊までして、やっとオマエが生きてることを確信した。でも、それだけだった。
     僕はさ、今世では救えなかったものをぜんぶ救おうと思ったんだ。そのために記憶が残ったんだって信じてた。それなのに、一番後悔したオマエだけが見つからない。探してもさがしても欠片たりとも見つからない。
     その絶望がさ、オマエにわかる?」

     感情のない、ひどく静かな顔で。プリズムのような、さまざまな色合いを持つ至宝の瞳で。五条は貫くような七海をじっと見つめていた。そんな五条の顔を見ているだけで、胸の奥がひどく痛む。
     慰めなければ。自然と胸の奥から湧き上がるそれは、使命感にも似ていたし、責任感にも、独占欲にも似ていた。

     無を表情にのせた秀麗な顔の向こうで、泣いているこの人が重なって見える。
     昔からこの人は、声にも顔にも出さずに泣く。泣いているのだという自覚すらない。そんな泣き方をする人だった。
     そして、そんな五条に泣き方を教えたのはかつての七海だった。七海だけが、この人を抱きしめることを許されていた。

     さみしいひとだ。たったひとりの親友を喪ったこの人は、ほんとうに孤独の中で生きていた。
     だからこそ、たくさんの人の中で生きていてほしいと望んだ。

     最強でなくなったこの人は、いったいどんな人生を歩んできたのだろう。きちんと涙を流して泣くことを知っただろうか。七海の居ない世界で、誰かがさみしいを教えてくれただろうか。
     どうか。あの時より幸せであればいい。寂しさから遠い場所に居たらいい。そう願って手を離したはずだった。
     けれど、それは。本当にこの人にとっての幸いだったのだろうか。

     思わず、手が伸びていた。五条が差し出す手のひらを越えて、頬にぺとりと触れる。少しだけ乾燥した指先と、触れたしっとりとした肌の間そこには、越えられない断絶があった。
     生きている。そんな、当たり前のことを考える。
     思い出の五条には温度がなかった。どれだけ手を伸ばしても触れることのできない人は、いつも指先が触れる瞬間に幻のように消えてしまう。
     けれど。目の前の五条には、触れることができる。霧のように霧散することも、無限に阻まれることもない。ありのままの五条悟という人間が、ここに居る。

     指先の向こうの白い膚は、火傷しそうなほど熱い。今の七海が触れたことのないはずの、生きている人間の温度だった。それが指の先でひとつに解け合っていく。
     その温度を、七海は知っていた。懐かしさすら覚えるのは、前の世で飽きるほど、無限の向こうに居るこの人に触れてたからだろうか。
     乾いた目尻を爪先でなぞってみた。まったく力を込めていないにも関わらず、爪先が柔らかな肌に沈む。かつては、もう少しだけ固かったように思う。少なくとも、触れるだけで壊してしまいそうな繊細さとは程遠いひとだった。

     七海にとって、今の五条は初対面の存在なのだ。
     そんな当たり前のことに、触れて初めて、思い至った。

     七海たちは、違う器を持つ、全くの別人なのだ。七海と五条も別人ならば、かつての七海と五条と今の2人が重なることもない。
     七海は七海建人という器を出ることはできないし、五条は五条悟という器から飛び出てくることもない。どこまで生を伸ばしても、2人がひとつになることはない。

     別人なのだ、と気付いてはじめて、七海は目の前の五条と向き合った。
     埃と瓦礫が舞い散る空間の真ん中。ひとつの傷も汚れもなく、まっすぐと立つこの人は、不自然なほど清廉だった。まるで、神さまのような、人が及ばぬ範疇外に立つ存在のようにも見えた。姿形の美しさだけでなく、その在り方が。人の枠を越えていた。
     記憶の中の五条は、とても人間じみていた。楽しければ笑い、嫌いなものは思い切り嫌う。そんな人だった。人から外れて生きてきたひとだったけれど、人間を謳歌しているように見えた。
     目の前の、この人は。いったいどんな顔で笑うのだろう。どんな顔で怒るのだろう。哀しむのだろう。何を見て、何を想うのだろう。

     今世でも呪術界の至宝を填めた眼窩のすぐ外側をなぞる。ひどく薄い皮膚の下。触れた骨のは、七海のそれを同じ硬さをしている。
     瞬きするたびに、指の下の皮膚が引き攣れるように痙攣する。それが、何故かとても不思議だった。
     瞬きするだけの五条の瞳を見つめていると、じわじわと目尻が桃色に染まっていく。指先も、ほんの少しだけあつくなる。まるで絵具を水に落としたかのように、色味のない頬から耳朶、首元まで。じんわりと赤色に染まっていく。
     人間らしさの薄い、ただ綺麗なだけの顔に桃色の射し色が入る。まるで人形に息を吹き込んだかのように、目の前の男が人間になる。それは、薄闇に朝焼けが滲むような鮮やかさだった。

     心から。この人のことを知りたいと思った。かつての五条と地続きのこの人ではなく。目の前に居る、くすぐったそうに身を捩る、たったひとりの五条のことを知りたくなった。

    「私は、アナタの七海ではありませんよ」
    「知ってる」
    「いいえ。アナタは何も知りません。だって私、本当は呪詛師なんですよ?」
    「どういうこと?」
    「意図的ではありませんが、呪力で人を傷つけましたから。それでも、アナタは私をここから連れ出す気ですか?」
    「もちろん。だって僕、憂太と悠仁の死刑を覆した男だよ? 生まれたときの癇癪くらい揉み消すなんて朝飯前なんだけど」
    「それでも人を傷つけた事実は変わりません。私がそれに耐えられないと言っても?」
    「それでも連れて行くにきまってんじゃん。やっと見つけたんだから」
    「私、ここで本当に満足してたんですけど。だってここなら、誰かを傷つける心配がないんですから」
    「誰かを傷つけるのが怖いの?」
    「当たり前です。無力に苦しんだ過去はありますけど、こんな人の範疇外の力なんて、どうすればいいんですか」
    「僕がどうにかしてあげる」
    「どういうことです?」
    「それ、天与呪縛だよ。前世から続く呪い。オマエが望んだ結果。
     オマエの肉体を引き換えに、術式と呪力の底上げをしてる。で、代わりに灰原に肉体を与えて術式を奪ってんの。それを解く。僕ならそれができる」
    「……まぁ、アナタならできるんでしょうね」
    「できなくても守るよ。オマエが傷つけたくないもの全部。
     それに、呪いを解いたらオマエがここに閉じ籠る必要がなくなる。だって、最強じゃなくなるんだから」
    「そうしたら、次の最強はアナタですよ。こんな孤独に居るアナタなんて、もう二度と見たくありません」
    「大丈夫だよ。だって僕にはオマエが居るんだから。
     最強なんてオマエが背負う必要はないんだ。だってそれは、本当なら僕のものなんだから。
     オマエに孤独な最強は似合わないよ。オマエには僕を支えるくらいが丁度いいんじゃない?」
    「私、またアナタと生きるんですか?」
    「うん。僕と一緒に生きて。オマエが僕の七海じゃないって言うんなら、それでいいから。
     僕のために、一緒に行くって言って」

     目の前で五条が微笑んだ。わらうのがひどく下手くそだったこの人の微笑みは、左右で少しだけ歪んでいた。けれど、零れるように落ちるその微笑みを、七海は愛していた。否、今でも愛している。その顔で言われた我儘なら、どんなことでも叶えたいと願うくらいには。今でも五条悟を愛していた。

     今の五条のことを、七海はほとんど知らない。
     知っているのは、かつての記憶があること、相変わらず傍若無人なこと、物理的にも精神的にも強いこと、友達と後輩に恵まれていること、前より少しだけ満たされた生活をしてきたこと。それくらいだ。
     たったそれだけしか知らないけれど。それでも、また愛せると思った。
     光を背負った五条が七海だけに差し出した手のひらを、今度こそ掴む。重ねた手のひらは、やっぱり思い出のものと違うけれど。それでも、この人の根本には七海の知る五条悟が居るのだ。

     もう一度、この人に恋をしたい。
     そう思うのは、この人の影に七海が愛した五条悟を見つけるからだ。
     今度は、違う愛し方ができるかもしれない。
     そう思うのは、この人が七海の知らない優しさを見せるからだ。

     七海が七海建人である以上、五条悟を好きにならずにはいられない。恋しないはずがない。愛さずにはいられない。
     けれど。記憶があったとしても、魂が同じだとしても、肩書が一緒になったとしても、今の七海はたった一人で、今の五条もたった一人の存在なのだ。
     そのたった一人の存在同士で、新しい道に踏み出すのも悪くない未来だと思った。この人が言う、あのとき守れなかったもの全てを守り抜くことができたなら。それはとても幸せに満たされた世界になるに違いないのだから。
     
     五条に手を引かれて、ぐんと空に浮かび上がる。そこには、あれだけ焦がれた空が近くにあった。そこまでも続く、広くて高い空の下。そんな空を閉じ込めたみたいな瞳をした人が、銀色の髪に光を反射させて笑った。この人の、そんな無邪気な顔が太陽よりなにより、いちばん眩しかった。
     広い空の下に、たくさんの家が見えた。その家一つひとつに人が生きている。七海が五条を愛したように。五条が七海を大切にしてくれたように。そこに生きる人は、誰かにとっての特別なひとり。そんなひとりが、目の前にたくさん並んでいる。

    「こんなにも、世界には人が溢れてたんですね」
    「これ、みんなオマエが守った世界だよ」
    「いいですね、それ。無敵になったみたいだ」
    「そりゃ、今の最強はオマエだもん」
    「もうすぐアナタが最強になるんでしょう?」
    「そしたら新旧の最強一緒に任務に行こ。最強二人なんだから、できないことって何もないじゃん
     傑も灰原も伊地知も硝子も、みんな揃って、あの時できなかったことを全部しよう」

     五条が軽やかな声で語る未来を夢想する。
     呪術界は変わらない。深淵を見てきた七海はそれを嫌というほど知っている。御三家という闇を煮詰めたような家に生まれたこの人ならなおさらだろう。
     人は醜い。人間の営みにはいつだって負の感情がつきまとう。それと向き合わなければならないのだから、外の世界も楽しいばかりではないだろう。
     それでも。みんなが居る場所は他のどこよりも暖かく、満ちた世界になるのだろう。

     その中で、きっと七海はまた。
     この人に、恋をする。
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