痕を残して「よう、薄情じゃねえのカーミラ嬢」
咄嗟に電話を切ろうとした井浦だが後が面倒だと舌打ちで済ませた。どこの誰から情報が漏れたのか、考えたくもなかった。どうせ決まってる。分析していたデータを次々と保存していきながら据え置いたスマートフォンに吐き捨てる。
「変態に教える話じゃないからな」
作業用の背景音楽を止める。生憎この男──冴木の相手は片手間ではできなかった。そうやって生じた静けささえ冴木にとっては面白いようで無線イヤホン越しにくつくつと笑う音が聞こえた。どのような体勢で笑っているのか井浦にはさまざまと思い起こせてまた舌打ちしそうになる。
「正人の自慢話に付き合ってやってるんだぞ、こっちは」
「お前が聞き出してるの間違いだろ。ストーカーで神畑に言いつけてやろうか」
「英峰はなあ。口が固いんだよなどいつもこいつも……言わねえし、言ってこねえし」
神畑にここで頼ることの意味を冴木に先回りされては、井浦は口を噤むしかなかった。分かっていると言わんばかりに冴木は自分の話を始めた。
「で、写真は?」
「お前に見せるものはないね」
「正人も気が利かねえよな。なんでツーショットで送ってきやがる」
「ランブロは採用してないからな。チェキ一枚百円からだ」
「つまり百円からで?」
「……お前とは撮らん」
つれないと嘲りの失笑が聞こえてきて井浦は眉をひそめるしかなかった。どうしてこの男と付き合い続けているのか自分でも理解しきれなかった。誘われたからといってそれに応え続けているのは自分の判断だ。それこそ、血迷っていると評して差し支えないだろう。
そう井浦は冴木が気に食わなかった。それでも冴木にそれを揶揄されるのもまた気に食わなかった。
「じゃあデートのお誘いはほかの娘にするわ」
「……勝手に決めればいいだろ」
楽しそうに笑う声を聞いて、井浦はものの散らかった部屋に倒れ込むほかなかった。
迷った末にカーディガンを羽織っていくことにする。可愛いのにと王城が残念そうに伝えてくるので、編み込みを仕上げると井浦はそっぽを向いてやった。
「いいんだよ、これで」
「もったいないなあ……。晩ご飯、どうする?」
「母親か、お前は」
「友達でしょ」
王城は畦道と、よその部の二年生と釣り道具を見に行くらしい。そういえば釣り仲間だったなと、井浦はこのアウトドア愛好者には見えない男を見た。神隠しに遭って山から出てきたばかりの子供のほうがよほど似合う──もっとも子供と称するにはトウの立つ年頃なのだが。お互い様なのでそれは口にしない。それより部活も学年も違うのに趣味の合う者を見つけてくるスキルの高さに感心するばかりだ。
「本番は来月のオフだったっけ。財布持ったか? 中身あるか?」
「お母さんじゃないんだから」
「親友だろ」
ズルイと頬を膨らませる王城をケラケラと笑ってやり、駅で別れる。
十分前には着いていて、近くで時間を潰すのが井浦の待ち方だった。遅刻はしたくないが気が急いていたとも思われたくない。今日もそうするつもりで、カーディガンを羽織った分汗をかいた気がして手洗いに入る。出るとちょうど見知った顔と目が合ってしまった。
「リップでも直してた?」
「それを訊く奴に答えてやるような質問じゃねえな」
冴木は肩を竦めるだけでそれがまた腹立たしい。咄嗟に改札へ逆戻ししてしまおうとするのだがその手を掴まれる。
「今日はこっちよ。現地集合で悪いねえ」
愉快そうに歩き出す男を見上げて、ため息をつくと井浦は大人しく連れ立って歩くことにする。ただ手だけは振り払ってやる。再び伸びてきた手が腰を掴もうとするので無言で鞄の肩紐を押し付ける。ハーネスかよと冴木が笑うので井浦は喧しいと言ってやった。
「フルハーネスはほしい。宵越に着けて遊ぶ」
「犬の散歩でもしてる?」
「冬にさえなれば……酒入りのチョコぐらいいくらでも手に入るし……」
「シラフの時に着けさせられねえのなら諦めろよ」
パンプスの音が高くなっても冴木はのんびりとついて来る。こればかりは振り払えないし、そもそも鞄のを掴ませたままだったので、道の分岐をいいことに井浦は歩くペースを戻した。
「どっちだよ」
「科学館。それともなんか気になる店でもある?」
興味があるなら一人で来ると嘯いて先に歩き出す。それでも当然冴木は振り払えなかった。
小さな企画展を見て周る。
「オンライン対戦やってるとやっぱNPCにも癖があるように見えるんだよな……」
「造りによるだろ。解析と分岐判断と……レベル調整ぐらいしか普通はやらないだろうが、勝手に作り込むとか……っていうか、麻雀だよな?」
「鳴く牌とかレーティングとかデチューンするんだけど絶対にすぐ和了するNPCがいてね」
「世界一要らない情報」
「絶対に配牌で負け確のお嬢さんが何言ってもよ」
静かな館内で靴音を荒立てるのは避けたかった。ジロリと睨みつけてやるが冴木はどこ吹く風と暢気に展示内容を眺めてはああだこうだとひそひそと囁いてくる。本当は身を引きたいところだが、声を大きくされるのも困るので、井浦は鞄が揺れない程度の距離を残しながらも歩み寄る。内容そのものは興味があったので結局時間をかけてしまう。企画展を見終わるとちょうど昼時で、レストランも混んでしまっているので流れで常設展にまで足を踏み入れる。こちらはさほど興味がなかったのだが暗い室内を進むうちにシアタールームへ出る。図られたと気づいた時には遅く九十分の指定座席に押し込まれている。
「何がしたい」
睨みつけてやっても冴木はにやにやと笑っている。
「いやあ、カップルシートって良いねえ」
「断る。何が悲しくてお前とひっついてなきゃならないんだ」
「指定席よ。ほれ、始まるから」
ソファの座り心地はよく、角度も悪くなくて、放映内容も星座より宇宙物理学に近く面白そうだというのに井浦はまったく集中できない。冴木はいやに大人しい。始まった途端静かに聞き入りだしたようで、一、二度手を振り払ってやるとともう鞄の紐で諦めたらしく、代わりに肩を寄せてくるだけで手を出してこない。ようやく気が落ち着いたと評して差し支えないはずだ。だが井浦はどうにも落ち着かなかった。ちらりと視線を向けてみる。冴木は真面目に聞いているのかそれともぼんやりしているのか、目が合うことはなかった。横顔ばかり見るのもおかしな話だと井浦は天井に視線を戻す。何をどう話しているのかあまりよく分からなかった。
そういえばこの男に好物を知らせた覚えはなかった。王城の前と冴木の前とで自分が取り繕う必要があるものの重みがまったく違う。井浦はドリアを掬いながらジェノベーゼを啜る冴木を見る。
「……顔についてる?」
「もとが小汚いからわからん」
「俺ほど清潔さに気を遣ってる男はそういないぜ?」
「お前に清潔感はない」
そりゃ残念とさほど気にしたようでもない冴木に井浦は思わず眉間の皺を深くする。暑いのかと揶揄う冴木が不愉快で、髭を剃れと忠告してやる。
「剃刀負けするのよ」
「正人だって嫌がらずにやってるぞ」
「何でお前が知ってるんだよ」
「負けたらクリーム塗ってやらないと痛々しいんだよ。あいつ放置するし」
「だから、なんでお前がそこまで知ってるんだよ……」
面白くなさそうな冴木。だが井浦に面白い話でもなかった、なにせ当たり前の話である。
「彼氏差し置いて寝起きを覗いてんじゃないよ、慶ちゃんや」
「覗いてねえしお前には無関係だろ。じゃなきゃ誰が正人起こすんだ」
「自力で起きさせろよ……」
つまらなさそうに吐き捨てる冴木だがどうしてか不機嫌ではないらしく、食事の後の話に流れていく。
「そう、遠いんだよな、微妙に……。あっちの技巧展は来月からだっけ?」
「つーか今は閉館期間だったはず。……本屋でも行くか?」
井浦に冴木と買い物に繰り出す理由はなかった。だが冴木は展示内容から派生した話を振ってきて、つい受け答えしてしまえば井浦もいつの間にか都心行きの電車に乗り込んでいる。走行音の大きさが難儀ではあるが細々とした会話は途切れることがなかなかどうしてない。こういう器用さが苦手なのだと井浦は改めて認識する。それに気づいたのだろう、冴木はにやりと笑い、車内アナウンスにかこつけて井浦の耳元に口を寄せた。
「プラネタリウムの話は全然聞いてなかったみたいね?」
そのまま手を取られてどうすることもできないまま駅ビルに流れる。書店でもと目指すがテナント配置の関係で他の店を通り過ぎて行くことになる。
「暑そうだけど服みる?」
「今日はいい。むしろあれみたい、雑貨」
「いいけど。何みるのよ」
「韓国系のお菓子。クラスメイトと交換してるんだけど、量販店とは品揃えがまた違ってだな……」
輸入菓子からパーティーグッズまでみて精算を済ませるとふと冴木が井浦の顔へ手を伸ばした。手の甲が顎の下へ入り、身を固くする井浦だが冴木は気にせず呟く。
「コーヒーでも飲むか」
熱いのだろうと知れた。井浦はフロア違いのコーヒーチェーンを教えてやる。エスカレーターを探せばいいと考えていたが階段の方がと冴木は手を引いて歩きだしてしまう。井浦はついて行くしかない。
「階段といえば。ここの二つ上のフロアがケーキ屋で、よく下まで並んでるんだよ。廊下に並びきらなくて」
「あ、マジで? 階段で並び待ちしてる感じ?」
「そうだけど……。お前的に雑居ビルの階段は長居したくない空間なのかよ?」
冴木が答えるより先に階段へ出てしまう。手前のエレベーターホールも、メイン稼働でないらしく無人だ。階段に並び待ちの行列もない。つい見上げてみると人がいないことはなく、単に時間帯の問題なのだと知れた。
「居座るなら、どうせ──」
肩を押され壁に当てられる。押し返すより先に手を突かれ、脚を踏み出そうとした時にはもう遅く冴木の脚が割り込んできていた。
それでいての無言である。井浦はじろりと見上げるが、冴木の白々とした視線に心当たりはない。ラヴェンダーの香りと識りつつ肺に力を込めて言い放つ。
「何の真似だ」
冴木は無言で井浦の胸元に手を伸ばした。止める暇もなくカーディガンのボタンが外され、井浦は思わず息を吐く。それが答えだと冴木が目を細めた。
「可愛い服着てるじゃねえの。彼氏に見せてくれよ?」
「……お前のための服じゃない」
蝙蝠を象った襟を指先が撫でる。過日はこれにハーフコートと、裾を同じく蝙蝠の羽根様に切ったスカートを合わせていた。ハーフコートは持ち主へ返却されたが生地を裁断したブラウスとスカートだけは井浦の手元に残っている。ワンピースにすれば良かったのにと王城が宣ったのは夏休みが始まる前の話だ。トランシーバーや手帳を持ち運ぶのにスカートの方が便利だからと釈明した記憶が蘇る。だが結局、こうやって半端に使い回せるからという利点の方が大きかった。
「詰め襟じゃないのね」
「……首筋に針二つ」
「客の女の子たちにそうしたのか」
「まさか」
肝試しの幽霊屋敷、ましてやフロア統括をしていた井浦にそんな暇はなかった。せいぜい知り合いが来た時に戯れて首元へ指を立ててやった程度である。
「だからお前にもしてやらない」
「俺ぁ……可憐な美少女じゃないからね」
分別あるところを見せると冴木は井浦の手を取る。薬草の香りを気にすることなく井浦は冴木を見上げた。
「揃いのスカートがあったろ。あれは、どうした」
「確かめたいのか。あんな、コスプレを?」
王城の帰りが遅いのは確かめてある。忠実なる下僕たちには夜以外許していない。今から雪崩れ込めば間に合うだろうという確信があった。
だが冴木は、はたと思い付いたように零す。
「脱がしたら変わらねえか」
階段を上がると王城は目を丸くする。それでもすぐ、ため息を吐くと、廊下の残りを進んで隣に立ってやった。射した影に井浦がふり仰ぐ。キーケースを探しながら王城は訊いてやる。
「デートじゃなかったの」
井浦は頬を膨らませたままそっぽを向いた。
「手が痛い。アイシング、貸して」
「慶の部屋にもあるでしょ……」
口で嗜めつつも王城は井浦を部屋に上げてやった。勝手知ったると言わんばかりに井浦は冷蔵庫から保冷剤を引き出すと両手に挟む。座り込む彼女をどうにか流しの前まで動かして王城は肉や魚から冷蔵庫へ詰め込み出す。
「なんて言われたの」
「……別に」
「別にじゃないでしょ。もう」
朝着ていたカーディガンは鞄から顔を覗かせている。編み込みは綺麗なままだ。仰臥することはなかったらしいと結論づけ、王城はまたため息を吐いた。手のかかる幼馴染みなのだ。
「褒めてほしいならそう言えば良かったのに」
言うともなしに呟けば井浦の白い目が向けられる。
「誰が言うかよ。そんなこと」
「言ってほしかったんでしょ。わかんないよ、言ってあげなきゃ」
「……正人は何も言わなくても言ってくれるし」
不貞腐れる幼馴染みに王城は天を仰ぐほかなかった。自分の責任らしい。なるほど身に覚えがある。もっともワンピース姿の自分へ井浦はその倍は可愛いと言ってきたはずだ。
「あたしが言うのはいいんだよ」
「冴木に可愛いところってあるの?」
「ない」
「……そっか」
邪魔だてをする気はない。だが可愛い親友を取られて楽しいはずもなく、失言の重みぐらいよく理解してもらわなくては困ると王城は苦笑した。
「晩御飯、何にする?」
「うっかりキスしたら火傷するぐらい辛いやつ」
「僕が食べられないからだめです。そぼろ煮ね」