きっかけなんていうのは、後から思い返せば些細なものだ。雨彦でいえば、単独のロケで普段より会えない期間が長かった、だとか、その間に少し厄介な掃除をした、だとか、そんなところだ。
掃除をすると思い知る。自分が何者であるかも、人の執着が行き着く果ても。そして最後には恋人のことを思い出して、彼を想い恋人の座に収まり続けている自分に迷った。
「雨彦!」
雨彦の姿を見つけたクリスの表情が、ぱっと華やぐのを見るのが好きだった。
久しぶりに会う恋人は、寒い中随分と早く待ち合わせ場所に着いたのか、鼻先が少し赤い。笑顔で雨彦に駆け寄ってくる姿を見ていると、会えなかった期間分の愛おしさが湧き上がってきて、先程まで渦巻いていたはずの迷いが塗り潰されていく。
これまで雨彦はいろいろなものを諦めて、手放してきた。でもやはりクリスだけは誰にも、何にも譲れない。きっとこの先何があったとしても、手放してやることなんてできないと、改めて痛感する。
そして一度そう思ってしまったら、もう止まらなかった。
「古論」
「雨彦……?」
クリスの腕を引いて、そのまま細い身体を抱き寄せる。抱きしめたことなんて何度もあるのに、力の加減がわからない。戸惑うように声を上げるクリスを気にする余裕もない。
「古論、愛してる」
発した言葉はいつになくストレートだった。取り繕うこともできないまま、剥き出しの言葉が口をついて出る。
「俺が側にいることで、俺が想うことで、お前さんをつらい目に遭わせることだってあるかもしれない。それがわかっていても、俺はお前さんを手放したくないんだ」
「雨彦……」
「だから俺を選んで、これから先もずっと側にいてほしい」
想いを告げるには随分とみっともない、懇願するような声だった。
こんな風になりふり構わず自分の想いを伝えたことなど、これまでの人生で一度もない。堰を切った感情は思うようにコントロールできなくて、そんなものをそのままクリスにぶつけてしまったことに、後悔がじわじわとせり上がってくる。
「雨彦」
名前を呼ぶ声は穏やかだ。それでも雨彦はクリスの顔を見ることができない。
「雨彦」
クリスの両手が雨彦の頬を包み、クリスは雨彦の顔を覗き込んでくる。その表情は優しく、そして嬉しそうだった。
「雨彦、航海には時に危険も伴います」
「……ああ、そうだな」
「ですが、そんなことは最初から承知の上なんです。大切なのは、そんな旅路を誰と共に行くのか、なのだと私は思います」
クリスが少し背伸びをして、ちょんと触れるだけのキスをする。柔らかく微笑むその表情から、目を離せなくなる。
「私は他の誰でもなく貴方が良い。貴方じゃないと駄目なんです、雨彦」
背中にクリスの腕が回って、ぎゅっと抱きしめ返された。
「そんな顔をしないで。貴方にそう言ってもらえることが、そう想ってもらえることが嬉しいんです。貴方の側に、居させてください」
クリスの言葉に、雨彦の心に熱いものがこみ上げてくる。今日の雨彦は完全にブレーキが壊れてしまったようだ。
「古論」
「はい」
「好きだ」
「ふふ、私もです」
「俺はそうと決めたら離してやる気がないが、後悔しないかい?」
「私だって、雨彦を離すつもりはありませんよ」
短い言葉を交わして、二人は顔を見合わせて笑う。これで良いと思えるようになったのも、クリスと過ごしてきた時間のおかげなのだろう。
迷いの消えた心は軽く、晴れやかだった。