ふゆとら今から帰ると電話で言われて、一虎はとりあえずベッドルームの暖房をつけた。それから風呂に湯を張り、電気ポットに水を入れてスイッチをオンにする。
「千冬が帰ってくる…!」
ペケJにブラシをかけて綺麗にしてやって、それからなんとなく自分の髪にもブラシをかけた。そわそわと落ち着かない。電車で30分、駅から8分。もうきっと帰ってくる。迷った末に結局、玄関に立って待つことにした。この家で一番最初に見るものは自分の顔であって欲しいなんて、妙な感傷。
マンションの外廊下を歩いてくる革靴の音。ガチャっと開いたドア。冷たい夜の空気が吹き込んでくる。
「あ、やっぱり!こら、ダメじゃないですか」
「ちふゆ」
「危ないでしょ、鍵ちゃんとかけ、な、いと…え、かずとら、くん?」
「千冬、おかえり」
目の前に立っていた一虎に驚き、固まっていた千冬が蕩けるようにふにゃりと微笑み、目元がふっと和む。
一虎はこの瞬間のために自分は生かされているのだといつも思う。
「ただいま、です。待っててくれたんですか?」
「ん。ペケもいるぞ」
しゃがみこんで足元で丸くなっていたペケJを撫でる。一緒に千冬を見上げて、傾げた首の角度まで同じだった。
「ふふ…ああ、もう!かわいいなあ」
千冬が仕事用の書類鞄を放り出し両腕を広げる。慌てて立ち上がった一虎は躊躇わずに千冬の腕の中に飛び込んだ。
「一虎くん、留守番ありがとうございます」
「ありがとうとか、いらねえし。留守番っていうか、ここは俺の家でもあるじゃん」
「そうですね。…好きですよ、一虎くん」
「…ん、おれも」
おかえりとただいまのキスを交わす。深さと角度を変えながら満足いくまで互いを貪った。
一虎は、口付けの合間に指先で触れた千冬の耳は冷たくてとにかく早く温めてやりたいと思った。冷え切って痛そうなほど真っ赤だ。すりすりと撫でるとくすぐったそうに首を竦める。
「ははっ、たった一週間離れてただけなのに。俺、信じらんねえぐらいアンタが恋しくなりました」
「ふ、ふーん?そう?千冬ってガキだし寂しがりだもんな」
千冬のこのストレートな愛情表現に一虎は戸惑ってばかりで、いつまでも慣れない。親から愛情を与えられなかった一虎に生まれて初めて包み込むような特大の愛を教えてくれたのはバジだが、千冬の愛はそれに匹敵するほど大きくて、重い。モロにくらうと一虎はすぐにノックダウンされてしまう。
「一虎くんは?俺に会いたいなって少しは思いました?」
「…知らね。お湯沸かしたからお茶飲むか?」
素っ気なく答えてそそくさとリビングへ向かう。だが、千冬は赤くなった頸を見逃さなかった。
「ふは!…ありがとうございます。一虎くん」
暖かいリビングのソファに座って、千冬は見慣れた我が家を見渡した。意外に几帳面に片付ける一虎のおかげで綺麗に整えられているが生活感があって、やはりホテルの部屋とは違う。ほっと落ち着く。
「千冬、夜だからコーヒーじゃない方がいいか?」
「ああ、なんでも大丈夫です」
「ん。じゃあ、俺と一緒のお茶な」
カチャカチャと食器の音がして、一虎はキッチンからコーヒーカップを二つトレーに乗せて運んできた。
「これ、千冬の」
ライトブルーとネイビーで色違いのカップは千冬が以前、出張先で買って来たお土産のペアカップだった。一虎のお気に入りだ。都内に3店舗を構えるペットショップのオーナー社長となった千冬はなかなかに忙しく、毎月のように全国の取引先に出かけていく。それでも一週間も家を空けたのは同棲を始めて以来のことだった。
「あったかい。ありがとうございます。いい香りですね。カモミールですか?」
「うん。眠れない時に飲むやつ。バイトの子がくれた。気に入ったか?」
一虎はちらちらと千冬の様子をうかがいながらハーブティを啜った。
「…あのね、一虎くん。俺めちゃくちゃ疲れてて」
千冬が隣に腰掛けた一虎との距離を詰め、膝と膝が触れ合うと一虎はビクッと肩を震わせた。
「う、うん。そーみたいだな…大丈夫か?」
「一虎くん」
「なんだよ」
「こっち見て」
「っ…なに?」
千冬にぎゅっと手を握られる。真剣な千冬の目が真っ直ぐに一虎を捉えていた。久しぶりに見る大好きな顔に一虎の胸は高鳴って、両膝をモジっと擦り合わせてしまう。恥ずかしさのあまり、つい目を逸らしそうになりながら、見ろと言われて必死に千冬を見つめ返す。
「一虎くん」
「だから、なんだよ?ちふゆ」
「いつもの、お願いしたくて」
「え…またアレするのか?」
「ダメですか?」
甘ったるい声で強請られると一虎は千冬のどんなお願いにも逆らえないし、結局はオーケーするとお互いにもうわかっている。それでも一虎は無駄な悪足掻きをした。
「先月もしたし、もうよくないか?」
「お願いです、一虎くん!俺の至福なんですよ!仕事も頑張って来ましたし、ね?ご褒美ください」
「でも、俺さ?手をかけてもらっても、そんな、変わんねえし…あ、ちふ、ゆ」
千冬の顔が近づいてきて一虎は反射的に目を閉じた。唇にやわらかい感触。ちゅっとリップ音をたてて、触れるだけのキス。
「すげえ好きっす、一虎くん」
「ちふゆ」
キスだけでのぞせそうなほど頭の芯がくらくらする。一週間離れていたせいで耐性が落ちたのかもしれなかった。
(うう…ちふゆ、すき。すげえ好き)
すっと細めた千冬の目は一虎の潤んだ瞳や上気した頬に勝利を確信していた。
「…いいですか?」
「う、うう〜」
唸った後に、数十秒の沈黙があって一虎はついにコクリと頷く。ぱあっと輝く千冬の笑顔はでもやっぱり疲れていて、目の下にくっきりとクマがある。
「で、でもさ、千冬?今日は先に寝たほーがよくね?」
「いいえ!こっちが先です!」
千冬の勢いに気圧されて思わず固まった隙に、腕を握られる。
「来てください」
「え、あ」
ぎゅっと手首を掴まれて引っ張られるままに立ち上がる。この感じだと、きっとバスルームにいくつもりだ。
「ちふ、ゆ?風呂か?お湯は溜めといたけど。おれ、着替え持ってくっから、待って」
「もう観念してくださいよ…俺に大事にされてくださいね、今夜は」
痛いほど手首を握り締められて焦る。
(え、なんで急に…怒ってんの?)
せっかく久しぶりに帰ってきた千冬と過ごせるのに、喧嘩だけはしたくなかった。
「あっ…わかったって。大人しくすっから」
潤んだ目で必死に千冬を見つめる。
(喧嘩すんのやだ)
「…ん、いい子ですね」
千冬が両手で頬を包んでもされるがままだ。
「ああ、やっぱり顔がいいな…やりがいある。一虎くん、俺が目いっぱい甘やかして、大事にして、ツヤツヤにしてあげます」
「…う、ん」
「じゃ、まずはお風呂しましょう!バンザイして?」
一虎は言われた通りに両腕を挙げた。もうこうなったら千冬に従うしかない。
「いい子!一虎くん、可愛いですね」
「うう〜」
千冬が満足するまでの辛抱だ。
風呂椅子に座らされて、丁寧に髪を洗われる。
「やっぱり値段だけあって泡立ちいいな」
「ちふゆ…気持ちいい」
「んふふ、眠そうですね」
「千冬のが疲れてんのに…」
千冬は一虎の頭皮をマッサージしてやって一度濯ぎ、今度はトリートメント。マグノリアの香り。さらにヘアパックと続く。
「ん!よし!髪はこんな感じっすね。次は身体です」
「…身体はいいよ。自分でする」
「一虎くん!」
ムッとした千冬に頬を鷲掴みにされてしまった。一虎にだってわかっている。睨み合っててもどうせ無駄だ。千冬は疲れていて…だから一虎は羞恥心を捨ててやらねば。でも、だけど、わかっていても恥ずかしいものは恥ずかしいし、抵抗感が消えない。
(千冬がこれで楽しいなら、癒されるって言うなら…でも俺だって千冬の髪洗ったりしてやりてえのに。本当にこれでいいのか?わかんねえよ…教えてくれ、バジ)
考えて、考えて…一虎は千冬に掴まれたまま、結局はもごもごと口を動かした。
「…ちふゆ、あらって」
「へへ!…はい、もちろんです!」
「ん」
シュガースクラブで優しく肌を撫でられて、また甘い香りがした。ボディーソープを泡出てて、撫でるように全身を洗われる。
「ちふ、くすぐって」
「我慢してください」
性的な匂いがなく、まるでペットの犬でも洗うような千冬の手つきだ。
——千冬は俺をペットにしたいんかな?
「千冬、今日ってスる?」
「しないです」
「え…そっか」
少しだけ期待していた。一週間ぶりだし、千冬だって溜まってるんじゃないかと。
「あー、もう!そんな顔されたら無茶苦茶にしたくなっちまいますよ」
「はぁ?」
「俺、男だし」
——俺も男だけど?
「でもしません。抜くだけね」
「な、何でだよ!」
「やったら艶々の肌に絶対、跡つけちまうし。噛み跡とか」
「つけろよ」
「それじゃダメなんすよ、今夜は」
裸の千冬に抱き締められて、肌と肌がぴったりあって、これで抱かないなんてどうなってるんだ。
「…何がダメなんだ」
「俺はあんたを大事にしたい。傷つけたくねえんだ。甘やかして真綿に包んで痛みなんてこれっぽっちも感じてほしくないの」
「わかんねえよ、千冬。俺は千冬とセックスしてえ…」
「かずとらくん」
——大事にするってなに?俺には難しい。セックスするのは好き同士だからって千冬が言ったんじゃん。好き同士じゃなくなっちまったのか?
「…ごめんな、ちふゆ。きっとバジだったらお前の考えてること、全部わかるんだろ。でも俺にはわかんねえ」
もっと、バジみたいな大きな心で包んでやれたら。もっと、もっと、優しくなれたら。頼れなんて言えないけど、たまに寄りかかって貰えるようになりたい。
「ごめんな、ちふゆ。ごめん、こんなの」
こういう時に泣くのは卑怯なんだ。わかってるのに止められない。
「なんで、あんたが謝んすか?」
「え?」
「謝るのは俺でしょ?こんな身勝手なこと押し付けて」
千冬に抱きしめられて、一虎は身を固くした。