春によるさざなみ(雷コウ) まるで合成写真のようだと、ノラはメニュー表で顔を隠しながら笑いをこらえる。笑っているのがばれてしまえば悪いこの男の機嫌がさらに降下することは間違いない。拗ねて、帰る、と言われては元も子もない。
淡いアイボリーを基調とした可愛らしい内装に、壁際に伸びているタワー。あちこちに散らばった玩具と駆け回りながら自由に過ごすネコたちがいるノラのお気に入りのネコカフェ。そんな空間に押し込められて居心地が悪そうに身を小さくしている我らがヘッドは滅多にみられるものではない。
ただ居心地が悪かったのは雷我だけではないと見える。雷獣大将と呼ばれる威圧感は、どうやらもう一回り体の大きなネコ科の獣にも似ているのだろう。いつもは人懐こく駆け寄ってくるはずのネコですら遠巻きにこちらをうかがっている。自由の象徴のような彼らも委縮することだってあるのだ。
そんなノラにとって超絶面白状況に持ち込めたのは、雷我が急ぎの仕事をノラに無理矢理に振ってきたからである。どうにも自分が忘れていた案件だったらしく、珍しくばつが悪そうに頼んできたものだからここぞとばかりに我儘を言った。本当は雷我の頼みならなんの利益がなくたって断ることはないのだけれど。
仕事をする代わりに今度ネコカフェに付き合ってもらうこと、それが条件だった。まぁ実際はネコカフェに付き合え、ではなくお気に入りのカフェに付き合ってケーキと飲み物を奢ることと伝えたのだけれどもそこは確認しなかった雷我が悪い。
高校を卒業して半年。夜鳴の活動でたびたび会っているとはいえ、一緒に過ごす機会は格段に減っていた。べったりとした関係を好むわけではない、けれど会うたびに感じる些細な変化が少し寂しい。
その時間が貴重であったと知るのはいつだってそれが過ぎ去った後だ。
高校二年生から三年生に上がった時もそうだった。授業中に前方の席豪快な護の後ろ姿も、振り向けばいつも窓の外を見ていた雷我の姿も、そんな日常の何気ない風景も気に入っていたのだと穏人が一言「寂しいね」と呟いた瞬間に気が付いた。
クラスが離れただけでもそうだったのだ。学校なんて退屈なだけだと思っていたはずなのに、こうやって高校を卒業して進む道がばらばらになった今ふとした瞬間にあの頃を思い出しては皆の姿を探してしまう。
所属は夜鳴のまま、定期的に集まっては活動してはいるのだけれど、毎日のように顔を合わせていた昔と比べればやはり少ない。らいがくんまた少し大人っぽくなりましたかねぇ、なんて三日前に顔を合わせたはずなのに思ってみたりする。「男子、三日会わざれば刮目して見よ」というのだから案外そうなのかもしれない。
「ケーキは紫芋のタルトにするとして、飲み物はどうしましょうかねぇ」
自分は早々メニューを決めてしまったらしい雷我はそろそろ落ち着いたのか懐から端末を取り出してはゲームを始めている。最近夜鳴のみんなでよくやっているオンラインゲームのオープニングミュージックが流れ出し、慌てたように雷我は音量を下げた。
「紅茶って色々種類あるけどいっつもよくわかんないんですよね、ミルクティーが飲みたいんですけど」
「ミルクティーならアッサムだろ」
「え?」
耳慣れない単語を口にしそうにない男の口から聞いた。確かにその名前はメニューの中に合った。それがメニュー表を見ながらでもない、ゲームに夢中な男から発せられたのだ。思わずメニュー表から顔を上げる。それを口にした男はなんでもないような顔でゲームを続けている。
それはあまりにも馴染んだ知識だった。当たり前のように口にした言葉は本当に雷我の中で当たり前になっているものだ。そんなものどこで知った、どこで学んだ、どこで実践してきたのだ。
そんなぐるぐるした嫉妬にも似た重たい思考の末、ふと脳裏に浮かんだのはミルクティーの色をした髪の毛を持った優しい「せんせい」の姿。
『藻津君はミルクティーが好きだったね、アッサムでいいかな?』
忘れていたはずの昔の記憶が蘇る。一つクエストが終わって、返事がなくなったノラを訝しむように雷我が顔を上げる。まっすぐこちらに正面から向き合ってくれる瞳が、現実と過去、二人分重なった。
仲が悪いなんて思ってましたし、付き合ってるって冗談くらいには思ってたんですけど、なんだかんだうまくやってるみたいですね。
遠巻きに見ていた猫が一匹ようやくこちらに近づいてくる。五十センチほどの距離に来て雷我を見つめている猫はこのカフェでも一番気難しい子である。おいで、とでも言うかのように差し出された雷我のデッドしている方の手を猫がぺろぺろと舐め上げる。
「傷、治りにくいんですから引っかかれないように気を付けてくださいよ」
自分用に頼んでいた猫用の餌を雷我の目の前に差し出してやる。
「いいのか?」
「どーぞ、あげちゃってください」
一粒餌を握って差し出してやる。猫は一瞬だけ警戒を見せたものの雷我の手から餌をもらって美味しそうに食べていく。
「らいがくんって、面倒な子に好かれるの上手ですよね」
「あ?それおめーのことかよ」
「それだけじゃないですけどね」
納得がいっていない様子の雷我は不満そうに瞳を細める。ぼくもですけど大概に「せんせい」も面倒臭そうじゃないですか、とはさすがに言わなかった。
自分の大好きな二人が仲良くやってくれているのは嬉しい。付き合っていると聞かされた時には大喜びして跳ねまわったくらいには。だけど自分の知らないところでいつの間にやら繋がりを深くして、自分の知らない二人を見せ合っているのだと思うと少しだけ寂しい。
どうにも悔しかったので、ノラは雷我に懐いた猫をこちらに引き寄せようと、掌に餌を乗せて床にしゃがみこんだ。