約束になんてならない 少し話さねェーか、と本部の廊下を歩く迅に声をかけた時、彼が少しも驚いた様子を見せなかったのは『視えていた』のだろうか。
「ぼんち揚げ、食う?」
本部の屋上で、周囲を取り巻く廃墟になりかかった警戒区域を背に、迅はいつもの《、、、、》人懐こい笑顔を浮かべた。
「ああ」
差し出された揚げ煎餅の袋から、一枚取り出すと弓場は口に放り込んで噛み砕く。弓場は迅とは高校は別だったから知らないが、学校でもそれを持ち歩いていて、教師に取り上げられてもどこからともなく取り出すんだ、と嵐山が笑っていたことを思い出す。
甘めの醤油味が香ばしいそれを飲み下すと、弓場は少し迷って口を開いた。
さしもの弓場とて、差し出口ではないか、と迷わなくもないのだ。だから。
「太刀川さんのどこがいいんだ、お前」
「……そうだなぁ」
迅は僅かに瞠目すると、そこに潜んだ感情の揺らぎを見せまいとするようにくすんだ空を見上げてから、改めて弓場に向き直る。
「おれが音を上げた時にためらわずに殺してくれそうなところ、かな」
「物騒なコトを言う面じゃねェーな」
どういう了見だ、と弓場は迅をねめつけるように険しい視線を向けた。
「だね」
だが、迅は彼のスコーピオンさばきめいて、弓場の問い質すまなざしをやんわりと受け流すかのように、おそらくはあえて微笑んだ。
「でもきっと生駒っちも弓場ちゃんも、柿崎も……もしかしたら嵐山は違うかもしれないけど、もうおれがダメだ、限界だって、泣き言を言ってもきっとみんなは最後までおれをどうにかしようと手を尽くしてくれる。おれのそれがボーダーを壊すことになりそうだとしても。けど、きっと太刀川さんは寸毫も迷わずに、俺の心臓をトリオン器官ごと真っ二つに切り裂いてくれる」
まるで、うっとりと夢見るように、迅は告げる。その遥か上空から大地にしがみつく者たちを見下ろす、今日の空とはうらはらの蒼天のような瞳で、未来視ではない未来を望むように。
「おれは信用してるんだ、あの人の容赦なさを」
「迅、てめェ……」
安心してよ、弓場ちゃん、と迅は同い年の銃手へと視線を向ける。
「なるべく回避するようにはしてるから。でも、何にせよ、『絶対』はないからね」
三門市を慰撫する風が、亜麻色の迅の髪を揺らす。
「……もし、そんな万が一が起きてもさ、太刀川さんを責めないで。そんで、出来たら慰めてあげてよ」
「あの人がそんな安い慰めなんて必要らねェーだろォ」
弓場がそう吐き捨てるように、しかし慈しみを潜ませて告げると、迅はそうだね、と頷いた。
「おれに手をかけたって、きっとあの人は泣かない。後悔もしない。そんなことすべてを覚悟の上で受け止めて、きっと剣を振り下ろしてくれる。でも、きっと、淋しいってくらいは思ってくれる、と思う。……違うな。それはおれがそうあって欲しいんだ」
ははは、と迅は笑って、弓場の肩に頭を乗せた。
「だっておれは太刀川さんのことが大好きだから」
はらり、と闘いの場にあってもほのかな笑顔を崩さない男の頬を、透明な流れがひとすじだけ伝い落ちる。
「やだなあ、その時のこと想像したら涙が出てきちゃったよ」
照れくさそうに迅は掌で涙を拭うけれど、弓場はまさか、と慄然とした。
「視えてるのか、その《・・》未来が」
確率が低くても、遠い、遠い、先のことだとしても。
可能性はそれこそ幾らでもあるからね、と迅は静かに答えた。涙の痕はもう、じっと見つめなければ気づかないくらいに乾いてしまっていた。
「だからおれはそこにたどり着かないように、あがいて、もがいて手繰り寄せるだけだよ。それくらいしか出来ないから。メガネくんの時みたいに。だから、おまえたちがそれを手伝ってくれたら嬉しい」
「ンなの、当たり前だろ」
強い語調で即答する弓場に、迅は嬉しそうに可能性を映す碧い瞳を細めた。
「あともうひとつだけお願いあるんだけどさ」
「……なんでェ」
「弓場ちゃんはさ、好きな人が出来たら、立場がどうとか、ボーダーがどうとか考えないで、まっすぐに応えなよ。相手にも、自分の心にも」
手遅れになる前に、と迅の澄んでいるからこそ、そこに何もない虚ろな瞳が弓場を映した。
幾重もの未来がを視て、視通して、視続けて、いつか、迅の心全てを塗りつぶしていくのだとしたら。
「なんちゃってね」
弓場が圧されるように生唾を呑むのと、迅が肩をすくめてそう言うのはほぼ同時だった。
「悪いね、弓場ちゃん、約束があるんだ。俺、もう行くわ。じゃあね。それから」
「それから?」
「何でもない。弓場ちゃんは、きっと、大丈夫。うん」
自分を納得させるように迅はそう呟くと、くるりと背を向けてこの場を去って行った。
残る弓場は、今にも雨になりそうな曇天の下、大きく息をついて低く囁いた。
「……大きな、お世話だ。てめェは自分の面倒だけ見てろ。いくらとんでもねェーサイドエフェクトがあったとしてもな、俺らにとっちゃァ、迅、てめェーはぼんち揚げと女のケツが好きなろくでなしのダチなんだからな」
その囁きを聞くべき迅は、もはや壊れかけた街に吹く風だけだった。