201X / 01 / XX そういうわけだからあとでね、と一方的な通話は切られた。
仕事を納めるなんていう概念のない労働環境への不満は数年前から諦め飲んでいるが、それにしても一級を冠するというのはこういうことか……と思い知るようなスケジュールに溜め息も出なくなっていたころだ。ついに明日から短い休暇、最後の出張先からほど近い温泉街でやっと羽が伸ばせると、夕暮れに染まる山々を車内から眺めていたところに着信あり、名前を見るなり無視もできたというのに指が動いたためにすべてが狂った。丸三日ある休みのうちどれくらいをあのひとが占めていくのか……を考えるとうんざりするのでやめる。
多忙には慣れた。万年人手不足とは冗談ではない。しかしそう頻繁に一級、まして特級相当の呪霊が発生するわけではなく、つまりは格下呪霊を掃討する任務がどうしても多くなる。くわえて格下の場合、対象とこちらの術式の相性など考慮されるはずもなく、どう考えても私には不適任、といった任務も少なからずまわされる。相性が悪いイコール費やす労力が倍、なだけならば腹は立つが労働とはそんなもの、と割り切ることもできる。しかしこれが危険度も倍、賭ける命のも労力も倍、となることもあるのだ。そんな嫌がらせが出戻りの私に向くのにはまあ……まあ、であるが、あろうことか学生の身の上にも起こり得るクソ采配なのだから本当にクソとしか言いようがない。ただ今はあのひとが高専で教員をしているぶん、私が学生だったころよりは幾分マシになっているとは思いたい。そういう目の光らせ方をするひとなのだ、あのひとは。だから私は信用も信頼もできる。尊敬はしないが。
坂の勾配が少しきつくなった。ここから百メートル先、と書かれた看板が過ぎていく。
きっと私は到着した旅館であのひとと出くわすのだろう。疲れた顔で愚痴を言い出すか、うるさいくらいのテンションであることないこと話しだすか……いや、案外ぐったりしているような気がする。電話ごしの声はいやに落ち着いていた――あのさあ、ちょっとさあ……勝手なことはしたんだけど、その、悪いようにはしてないつもりだから――とかなんとか。そのこちらを伺うような声の調子にああこのひと、私から貴重な休みを奪っているという意識はあるんだなと思いつつも、いつもならさも決定事項かのように言ってくることを今日に限ってそうは言わず、言外にこちらに拒否権があることを含ませて言われたらもう、はあ……調子が狂ってしまう。狂ってしまった。だから私は黙って[わかりました]と返したのだ。
もう着きますから、の声に前方を見れば旅館が見えた。なんとも立派な佇まいである。最小限におさえたとはいえ埃っぽいまま上がってしまうのが申し訳ない。コートを着ているだけマシだろうか。靴も泥は落としてきたが……。
はあ。やはり労働はクソである。
* * *
私が決めた部屋とはあきらかに違うグレードの部屋へ案内されていることは、廊下を歩くうちからわかっていた。つまりそれはそういうことで、部屋を開けるなりあのひとが飛び出てくるか、あるいは夕食時にふらりと現れるか……とぼんやり考えていたら「この先がお部屋になります」と姿勢のいい案内係の方がそれ以上は近づかず、私を促したことから前者だと察した。もう溜め息も出ない。預かった鍵を挿し、引き戸を開けると和室らしい香りがした。短い廊下を歩き、襖に手をかける。きっとあのひとがくつろいでいるに違いない、さて第一声はどうしてやろうか――と畳を踏んだわけだが、しかし声は出せなかった。
寝ていたのだ。五条さんが。部屋の奥で横になって。
私が来たことなどとうに気づいているだろうにぴくりともせず、五条さんは眠っている。とりあえず荷物を置き、コートを脱ぐ。はや風呂を済ませて浴衣に着替えたいが……しかしこのあとの予定がわからない。時間はちょうど夕食時にさしかかろうとしている。これからすぐに運ばれてくるのだろうか。部屋食であることは想像できるがわからないな……もういっそ起こすか。たぬき寝入りかもしれないし――
「な~なみおつかれ、ふろはいる?」
……起きたらしい。振り返り見たひとは座布団を枕にして、まだ眠そうだ。
「入りたいところですがこのあとのスケジュールは」
「えー……まだ働きたいの?」
「そうではなく、夕食は何時ですか」
「んー……まだこないとおもう」
大きなあくびをこぼしている。相当眠いのか起き上がる気はないようだ。
「そこ露天……きたら僕てきとうにしとくからどーぞ」
「眠そうですね」
「そー……もうちょい寝たら復活するから……」
「ごゆっくりどうぞ」
「オマエもねえ」
言いながら目を閉じた五条さんは、まもなくして寝息を立て始めた。勝手というか何というか……自由なひとである。
タオルと浴衣を持ち、低いテーブルに散らかる温泉饅頭をひとつ取って食べる。本当に寝入ってしまったこのひとを放っておいていいものか、と一瞬迷ったがまあいいか、と思い直す。おおかたここも五条家に関わる場所であるのだ、たぶん。でなければこのひとがこうもすやすやと眠るはずはないし、こんないい部屋に案内されるはずもない。このひとに予定を狂わされることには不満もあるが、しかし己の身の丈以上の待遇を体験できることもある点においてはまあ……と思わなくもない。
あ、みっつも食べてしまった。うるさいのが静かなうちに風呂へ行かなければ。
* * *
「やあやあ七海くんお疲れ〜! ここ僕んちのアレなの知ってた? アハハ怒んないでごめーん!」
半屋外、テラスのような場所に設けられた露天風呂は完全なるプライベート空間で、明るいうちなら海もよく見えたに違いない。せっかくだ、明日は少し早起きをしようか。きっと清々しいに違いない。冬の冷たく澄んだ空気は――
「いやほんとごめん、溜め息ならいくらついてくれてもいいから邪険にしないで」
湯船が波うつ。真横へすべりこんできたデカい先輩に下から見上げられる。まだ三十分と経っていないというのにもう起きたのか、このひとは。
「ねーえーななみー」
湯けむりごしだというのに目がうるさい。白っぽく濁った湯が跳ねている。私はついに溜め息をついた。
「……邪険にするつもりまではありませんよ、面倒なので。着信に出た私にも責任はありますし」
「だよねー!」
舌打ちした。私は悪くない。
「スミマセン調子に乗りました」
「よろしい」
一段上へ座る。冷えた空気が上半身に心地いい。五条さんは肩まで浸かっている。
「勝手にプランいじったけどよかった?」
「ハズレだったら暴れますよ」
「それはオマエあれよ、何年の付きあいだと思ってんの?」
「信じてますよ」
「もうバッチリ期待して! スペシャルグレードのアフタヌーンティーにしといたから!」
向けられたウインクに私の表情は死んだ。
「というのは冗談です。でも明日時間あったら食べたいナ~って思ってます」
「アフタヌーンティーをですか」
「温泉街スイーツ食べ歩き計画がね、ありまして」
へえ。このひとも明日はオフなんだろうか。
「やさし~い七海くんなら付きあってくれるんじゃないかな~なんて期待のもとに……きゃっ! 言っちゃった!」
謎のテンションで顔を両手で覆うひとを眺める。
このひとも相当疲れているようだ。
「翌朝の気分によります」
「それは今夜の僕のパフォーマンス次第って話?」
「いえ私は寝ます最低八時間」
「えー僕六時間でいいんだけど」
もうあがろう。十分あたたまった。
「おい! もう出んの?!」
「のぼせたくないので。五条さんはごゆっくり」
なんでだの何だの言うのをはいはい、と無視して引き戸を開けた。
* * *
浴衣の丈が足りないことなど茶飯事だが、さすがは五条さんの、といえばいいのか……そこまでひどいことにはならなかった。座ってしまうともう立ち上がれない気がして、探索がてらのぞいた寝室には布団ではなく天蓋付きのベッドがあった。歴史ある旅館の佇まいだっが、時代というのか客層というのか、そういうものに合わせて気を配っているのかもしれない。海外からの観光客も少なくない土地だ、丈の長い人間向けの客室という可能性もある。
出窓から外をのぞいたり広縁に置かれた椅子に腰かけたりしていると五条さんがあがった音がした。風呂で寝落ちてはいなかったようだ。
「ななみー浴衣とってー!」
家かここはまったく……いちいち世話の焼けるひとだな本当に。
「寝ぼけるのもほどほどにしてくださいよ」
「さんきゅ!」
ガラガラガラ、バタン。はあ……。
まもなくして出てきた五条さんは、いまひとつ乾き切ってない髪のまま温泉饅頭をひとつつまんで「ご飯なんだけどさあ」と話し始めた。
「実は僕が突然無茶振りしたもんだからさあ、いまたぶん厨房テンヤワンヤしてると思うんだよね」
もう七時前、そろそろかと思っていたところでこの申告だ。最悪である。
「いやそんな目で見んなよ僕悪くないリクエストあれば聞くって言うから」
「何をリクエストしたんですか」
「クリスマスと正月両方して」
悪い。十二分に悪い。最悪だ。
「だってクリスマスも正月も僕たち超多忙だったし!」
「だからってアナタ今更そんな季節外れなことを」
「まだ一月! まだ一月!」
「もう半分過ぎてるんですよ……嗚呼私のカニ鍋はどこへ」
「カニ鍋はくるよ」
は?
「具体的にはクリスマスケーキとお節食って言ったからそれといっしょにくる」
「……そうですか」
まあ……まあいいか。ケーキは食後にくるとしてお節とカニ鍋ならまあ……そこまで悪い組み合わせではないだろう。そんな気がする。いや気のせいか。
「とりあえずできたやつから持ってきて〜って言う? アルコールも」
「無理でなければ」
とそのとき、ちょうど電話が鳴った。受話器をとった五条さんの口ぶりからするに夕食の連絡なのだろう。さて何からくるだろうか。海鮮は出てくると期待しているのだが。
「ケーキは食後でって言われた」
「そりゃそうでしょう。焼いたり固めたりする時間がありますから」
「サンタ乗っけてあんのかな、マジパンの」
「乗ってたらいくつだと思われてるんだって話ですよ」
「ハ〜? クリスマスには必須だろサンタ」
「そんなことより髪、もう少し乾かしたほうがいいのでは」
「えーーーもうめんどい」
「三分もあれば乾くでしょうに」
言いたいことが透けて見える視線が向けられる。しかしその手に乗る気はない。
「しませんよ」
「けーち」
洗面台へと向かった五条さんを見ながらやれやれと思う。
ドライヤーの音がし始めてしばらくのち、玄関口のほうからノック音がした。ひと声あって戸が引かれ、重箱を持った仲居さんが現れる。
「大変お待たせいたしました。こちらがお節でございます」
二段のお重が広げられた。とても急ごしらえとは思えない料理が詰められている。
「しかしご期待に添えたかどうか」
「いいえありがとうございます。こちらこそ季節感のない無茶を言ってすみません。あのひとは黒豆と栗きんとんがあれば満足しますから」
「ねえ聞こえてるんだけど」
ドライヤーを終えた五条さんが戻ってきて言う。
「聞こえるように言いましたので」
ちいさく笑った仲居さんは、それから蓋のついた小鉢を差し出した。
「詰めきれなかった分はこちらにございます。お口に合いましたら」
さすが、お見通しらしい。この旅館は五条さんにとって息のしやすい場所なのだろう、と察してはいたがその読みは当たっていたようだ。その証拠にデカいアラサーが小鉢を受け取ってはしゃいでいる。
「七海さまはお酒を嗜まれると悟さまより伺っております。勝手ながら、こちらに当地のものをご用意いたしました。もちろん和洋問わず定番のものもございますので、ご希望などございましたらぜひに、おっしゃってくださいませ」
「お気遣いをありがとうございます。せっかくなのでご当地のもので、おすすめがありましたらそちらをまずはいただきたく」
「僕にはー?」
「悟さまにはこちらを」
出てきたのは果実のジュースのようだ。パッケージと色から察するに梨だろうか。ここでの五条さんの定番なのかもしれない。
「さーさー食べよ食べよ! 鍋は適当に僕らやるからさ、とりあえず料理全部並べて」
そうして机上は皿でいっぱいになり、急かされるままに乾杯、宴が始まった。
* * *
「で。今日はお忍び旅行か何かですか」
無言でカニを食う、なんてことにはならないのが五条さんとの食事である。なんだかんだとどうでもいい話を続けるから、こちらが聞きたいことが聞けたのは殻入れがいっぱいになるころだった。
「オマエは? 忍びたかった?」
「そうしたければ出ていませんよ」
先ほども言いましたように。
「でも悪くないだろ、ここ」
「ええ。それは本当に。しかし寝こけていたのには驚きましたよ」
「あー……まあどうせオマエしか来ないしいいかって」
「寝てないんですか」
「寝てるよ、僕が足りる分は。これ最後雑炊でいい?」
「そう思ってアナタ今せっせとほぐしているんでしょう、それ」
「そだよ~」
向かいの手元の取り皿にはカニの身がこんもり盛られている。このひとエビもそうだったが剥く作業、わりとすきなんだろうか。
「五条さん」
「なーに」
まだ少し具は残っているが……まあいいか。カニだけ引き揚げておこう。
「……これも剥いといてください」
「なに? 言いかけてやめんなよ」
「べつに何も。言いかけてませんよ」
鍋の火を入れ直し、卵を溶く。
「うーそ言いかけた。かわいいなって思った?」
「一番ありえないこと言わないでください」
「ありえなくないし~。オマエたまに言うだろ、僕のことそうやって」
「記憶にないですね」
「あ、じゃあれ全部心の声か」
「だとしたら勝手に聞かないでください」
「悪いねえ聞こえちゃうんだよ僕くらいになると。もう米入れていい? カニも」
どうぞ、と言う前に米もカニも入れられ、溶いた卵も早く貸せと手を伸ばされた。急に慌ただしいひとだな。
「はい終わり、あとは待つだけ。次は七海」
は? と思ったら立ち上がった五条さんが真横にきていた。そのままごろんと横になったと思ったら胡坐の上に乗り上がってきた。なんなんだ。
「炊けるまででいいから七海貸して」
向こうを向いているせいで表情は見えない。見えるのは白い頭だけ、あとは重さと体温しかわからない。
「五条さん」
「撫でて」
「……アナタいつから犬になったんですか」
「犬じゃないネコチャン」
たしかに、と思ってしまったがそういうことではない。
「な~で~て~」
じたばたする足が視界の端に入る。このまま放っておいたら寝るんじゃないかこのひと、と思うので鍋の火を弱める。
「なーなーみー」
じたばたに加えて胡坐の間で頭が揺れだす。
はあ……困ったひとだ。
しかたなく撫でる。放っておくと余計なことをしかねない姿勢なのだ。雑炊がまる焦げになるのも嫌だし、そういうわけだ。
「ななみー……」
じたばたが止んだ。また眠そうな声になっている。
「はー……ケーキ……」
何もしていないだろうに指通りのいい髪を梳いている。猫っぽい、とは思わなくはない。気まぐれにやってきては構えとねだり、気が済んだらさっさと離れていく。猫だ。
「食べれるんですか」
「んー……明日にしていい?」
「ご自由に」
「もーねむい」
「ベッドで寝てください」
「うー……ななみ……雑炊……」
「私が食べておきますから」
「やだ僕もたべる……」
「はいはい」
「んー……」
寝入ったらしい。いつになく急に電池が切れたな。
いい酒を片手に五条さんをなで続けてみる。しかし意味のわからない状況である。いったいどうしたらこんなことになるのか……さっぱりわからないが、寝息をたてる五条さんは静かであたたかい。
あと小一時間もすれば起き出すとして、雑炊はまたあたためなおすとして……近辺のグルメ情報でも調べてみるか。明日もどうやらこのひとはここにいるらしい。嬉々としてクリスマスケーキを食べたあとに「はいじゃあ昨日言ったとおり今日は~」と外へ連れ出されるのだ。わかっている。けれど私はこの部屋でゆっくりしたい気もあり、さてどうしてこのひとを言いくるめようか……だが酔った頭ではろくなことを思いつかないな。とりあえずはアフタヌーンティーができるのかどうか、あとで聞いておくか。