鍋をくう■いじちくん視点
私は今、異様な緊張感をもってひとさまのマンションのエントランスに立っている。決して初めて来た場所ではないというのに、部屋の番号を押してチャイムを鳴らす、たったそれだけのことができないまま指先が冷えていくのを感じている。
きっかけは七海さんからの一通のメッセージだった。
[お疲れ様です。今日は残業なく上がれそうですか]
えええ七海さんから仕事以外の話題で連絡がくるとは何事だ?! これはもしかして――と一瞬脳裏をよぎったあの御方は今国外なのだそういえば、と思い出している間に[石狩鍋の消費を手伝ってもらえると助かるのですが、都合はいかがですか]と続いていた。
私はそれを三度見した。
石狩鍋、を消費……とはいったい何の話でしょう、ひょっとしてお夕飯……いやお夕飯?! えええ?! なぜ私に?! はっ、これはもしや五条さんの仕業? あのひともう帰ってきていらっしゃる……? 予定では明日午後の帰国だったはずなのに――
などなど思っている間にまたしても[急ですので無理な場合は遠慮なく]と続いてしまい、私はあわてて[いいえまったく! こんにちは七海さんお疲れ様です、六時には退勤するつもりでおりました!]と返事をしたのが二時間ほど前、で、だから私には七海さん宅の四桁の番号を押すだけの理由はあるというのに、そう、あるいとうのに異様な緊張感が指をこわばらせている。
こんなことをしているうちに後ろから「なーにやってんの? 寒いんだから早く押して」とかなんとか、あのひとが現れるような気さえしてくるし、そうでなくともこちらの住人の方と出会ってしまう可能性は十分にあり、すると今の私は完全に私は不審者、何かあってしまったら七海さんにご迷惑がかかってしまうのですよあああそれはだめです、それだけはダメだあってはならない、うわあああならばもう番号を押す、押すしかないのですよハイはいハイええいままよ――
かるい機械音が鳴って、止まった。
『こんばんは。今開けます。降りるのでロビーで待っていて』
「いっいえ大丈夫ですそんな! こちらから向かいますので大丈夫ですありがとうございます伺いますねそれでは!」
開いたガラスドアの先へ慌ててすべり込む。ついに入ってしまった……ここが七海さん宅、への入口……と思いながら暖色の照明があたたかな空間を横切りエレベーターの前へ向かう。上がるのボタンを押したときにはちょうど上から一台降りてきていて、どなたか乗っていらしたら会釈する感じでやりすごそう、というよりさっきから妙にへばりついているこの緊張感は本当に何なんだ、七海さんの自宅へお伺いする、ただそれだけのことのために……いや決してそれだけではないけれども七海さんは尊敬する先輩であり、関係も良好……だと私は思っているのでそんな、そんな気後れするようなことはまったくないはずの――
「よ!」
チン、と到着を知らせる音ともに開いた扉の向こうに居た人物に、私はひっくり返った。声が。
「ヒエエエエエェ五条さん?!」
「はいはいうるさいよも~僕今日はお忍びで来てんだからね」
見慣れないラフな格好をした五条さんに早くと急かされてエレベーターに乗り込むも、一度速まった鼓動はなかなかおさまらない。
「どういうこと、みたいな顔してんのウケる」
ゆるやかに扉が閉まった。
「いや……いつ戻られたんですか」
「さっき。でも誰にも言ってないから伊地知も言うなよ。予定どおり明日の午後に帰ってくるんだから僕は」
「またそんな勝手を……」
「任務はちゃんとしたんだからいいだろ。観光するより鍋食べたかったのよ僕は。はい降りた降りた」
なかば押し出されるようにして降ろされる。そのまま黙って歩く五条さんの後ろをついて歩く。しかし五条さんがいるというのに私までお呼ばれするなんて、いったい何人前の鍋が煮込まれているのだろうか。五人前程度ならおふたりで消費できそうなので……八人前? いやいや相撲部屋じゃあるまいしそんな……いや五条さんならやりかねないか。
「ななみー伊地知つれてきたー」
はっとしたときには玄関扉は開いていて、部屋のなかへと入って行く五条さんに代わるようにして七海さんが、ぬくもった空気といい香りをつれて私のことを出迎えてくれた。
「急にすみません。あがってください。実はもう少し食べ始めていて」
「いえいえこちらこそありがとうございます、お邪魔します。そしてこれもどうぞ」
「そんな気を遣ってもらわなくともよかったのに」
「いいえもう、私の気が済みませんので」
「ねーもうオマエらいつまでそんなとこいんの? はやく食べようよ鍋~」
廊下の奥から五条さんが呼んでいる。
「そうですね。上着はこちらで預かりますのでどうぞ」
促されるままに上着を脱いでお渡しする。
「伊地知なに持ってきたのケーキ?」
「パンですすみません」
「エーーー許さん」
「伊地知くんトイレはそこです」
「あ、はいわかりました」
モデルルームのように片付いた玄関で靴を脱ぐ。五条さんの靴の隣に揃えて置く。こんなことは初めてなのに、いつかの学生時代を思い出して勝手に懐かしく思ってしまった。
* * *
おふたりがあれやこれや言い合うのを聞きつつ鮭の煮えたのを食べている。北海道の海の幸を全部詰め込みました、といえる具材がぎゅうぎゅう入った豪華な鍋は、七海さんが管理しているのかと思えば五条さんのほうで、中身が減るのを見てはせっせと足して自分も食べている。なんだろう、新鮮な気がする。
「で、もう薄々勘付かれていると思いますが元凶はこのひとです」
そう言うも五条さんを見もしない七海さんは、つやつやと輝くイクラを小皿に足している。私はやはりそういうことでしたか、と思う。
「なーんだよ鍋食べたかったんだよ悪い?!」
言い返す五条さんはエビの殻を剥いている。
「ホウレンソウくらいしてくださいという話です」
「オマエらのスケジュールはちゃんと見たし」
「勝手にですよね」
「サプライズ!」
「それはひとの家を会場にしてするものじゃない」
「こたつの持ち込みはやめたんだから許せよ」
「そんなもの持ち込まれてたら出禁ですよもう」
えええ、この部屋にこたつを……? 高専にも置こうとか置けとか置くとか言って騒いでいたのは七海さんに断わられたからでしたか、なるほど。
「でもまあなに、土鍋買いに走らせたのは気がまわらなくて悪かったなと思ってるよ」
「何ですか急に取り繕って」
「えーんーかわいげ? 伊地知エビ食う?」
返事の前に皿にエビが置かれた。五条さんエビがおすきなんだな、と思って見ていたがすべての殻剥きを率先してやっていただけらしい。意外だ。
「シラフですよね」
「は? 当然だろこれ七海のエビな食え」
七海さんからは溜息がこぼれるも、エビは返却されなかった。そしておふたりの会話は少し途切れた。
「でもどうして石狩鍋なんですか」
私は綺麗に剥かれたエビをいただきながら、それとなく気になっていたことを口にしてみた。
「あ、気になる? それ七海にも言われたんだけどさ、やっぱ海鮮がいちばん鍋っぽくない? 水炊きとかトマトチーズ鍋とかのがよかった?」
「いいえ、こんな豪勢な鍋なかなか食べられないので」
なんとカニまで入っているのだ。私の思っていた石狩鍋と違い過ぎて、最初に鍋を見たときには静かに驚いた。
「しかし五~六人前はやりすぎです」
「それはミスったんだってば。三~四人前を想定してたさ僕だってさすがに」
ああ、なるほど。それで私が呼ばれたわけですね。
「んだけど伊地知オマエは最初から頭数に入ってたからな。残さず食いきれよ」
エエエウソ、えええ?! と思うが口にホタテを入れたばかりのために返事ができない。
「だとしてもへたすれば私たちより忙しい立場なんですよ伊地知くんは。今後は事前にご予約ください」
いえまさか、まさかおふたりより忙しいということは決してないと思います、ご予約はほしいですが。
「そんなんしたらサプライズ感薄まるじゃん」
「べつにいりません」
「いる! つうか集合つって来んの? 来る気あんの?」
ああ、五条さんの機嫌が悪くなるのが見える。七海さんの言うことはまったくそのとおり、だけれど五条さんはすすんで約束をしたがらないところのあるひとで、それはもちろん七海さんもよくわかっている部分であって……でもこうして「事前に」と言えるところが七海さんのつよさと言いますか、何と言いますか、流れた時間の濃度を垣間見るような、そんな……。
「努力はしますよ」
「努力だァ?」
「努力です。伊地知くんにしろ私にしろ……ねえ伊地知くん」
ええええ七海さん待って、待って今ここで私にパスしないでください待って。
「ええ、はいもちろん、最終的には、はい」
ああどうかこれ以上面倒なことを言い出されませんように。七海さんはさすが、この状況でも鍋をよそって食べている。
「ふうん……でも僕は忘れてないからな。あのときのオマエらめちゃくちゃノリ悪かったこと」
ひええいつ、いつの話ですか五条さん……! ほら、ほらもう七海さんも怪訝な顔をしていらっしゃる。
「ほらあのときだよあのとき! 冬みたいな日、花火しよって言ったのに全然ウンって言わねえのオマエらは!」
冬、花火……花火……?
ああー……ああ、あー……何かあった気がするような気がする。
「またずいぶんと昔のことを。でも付きあったじゃないですか結局は」
「同じテンションで盛り上がってはくれなかった」
「それはアナタがこちらのコンディションをすべて無視して言ってきたからでしょうが」
そうだ、そうでした。真夜中に起こされたような記憶がある。
「……そだっけ?」
「そうです。都合のいい記憶ですねまったく」
「記憶なんてそんなもんです~」
このくたくたに煮えたキャベツのように、当時の私はくたくただった。あの頃はいつも余裕がなくて、流れるように日々が過ぎていき、そのなかで七海さんにはたいへんよくしていただいて……ああそうだ、そのころから面倒見のよさといいますか、そうしたものをお持ちでした七海さんは。しかし五条さん……五条さんは、もう、どうして私なんかに構うのかまったく意味がわからなかった。七海さんといるとどこからともなく現れては去っていく嵐のようなひと、人類最強の名を冠することのできるひと、美しさと近づきにくさを醸すひと、威圧感のあるひと……などよくも悪くも強い印象のひとだった。今でこそ親しみやすさはあれど、当時は不服さに頬を膨らませたりするようなひとではなかった。
「あ、でもあのときのことでしたら私、意外と線香花火を落とさない五条さんの姿だけ鮮明に覚えてます」
「ああ、たしかに。よほど意外だったんでしょうね。私も覚えています」
「なーんだよそれ! もっとあったろ覚えておくべき名場面が」
「たとえば」
「たとえばあ? えー……なんかキレイだった」
何かを一瞬、迷うようにそう言った五条さんにめずらしさを感じる。でもたしかに綺麗でした。分厚いコートを着て、弾ける花火を眺めた夜は。
「存外平凡なものばかりでしたよね。アナタのことですから、どんなふざけたものを用意したのかとうんざりでしたが」
「まあワゴンの売れ残りだったからね。手で持つだけ、飛びも跳ねもしないフッツーのやつばっかだったけどあれはあれでアリだったな」
たしかに、五条さんにしては地味な花火だなあ、と思いながら線香花火を持っていた記憶がある。校庭の、手洗い場の近くで会話らしい会話もないまま淡々と花火をしていた。金の火花が映り込む五条さんの眼が綺麗だったことも、七海さんの「終わったらちゃんと寝てくださいよ」と言ったやわらかい声も記憶にある。そう多くはない花火を三人でして、そのあとはどうしたっけ。寒い寒いと言いながらも弾ける音、鮮やかな光を前にしながら――
「あ」
思い出した。七海さんを見やった。どうか同じことを思い当たっていてほしい、と思っての視線はすぐに同意をもって返された。
「あのあとって……たしか……」
その先を七海さんが補う、よりはやく五条さんが声をあげた。
「やーっと思い出した? ハッピーバースデー僕だよ、かわいい後輩くんたち」
ああ、そうだった。すべて思い出した。長らく留まっていた五条さんの線香花火が落ちたとき、不意にあのひとは言ったのだ――今月さあ、俺誕生日なんだよね。なんかひとことくれる?
七海さんと目が合う。あの日とよく似た表情で、さてどうしたものかと視線で話し合う。見たところ機嫌はそこねていらっしゃらないようですが、もしものときは私、七海さんに丸投げしますのでよろしくお願いいたします、の念を送る。七海さんの眉間には皺が寄った。
「で、これがケーキね」
いつのまに席を立っていた五条さんの手には白い箱が乗せられていて、ホールであることは中を見ずともわかった。
「ハッピーバースデー僕の季節だよふたりとも。びっくりした?」
はいしました。しましたけれど私は五条さんのその無邪気さのほうにも驚いている。七海さんでさえ迷うような溜め息をついている。
「つうかなんだよこの空気! 僕にだって誕生日くらいあるんだけどさあ!」
そりゃそうですけど、そりゃそうでしょうけど。
「それは今日、ですか」
「それはナイショ」
七海さんの重大な問いはウインクひとつで流されてしまった。もう私にはどうすればいいのかわからない。黙って煮える鍋の火を消すことくらいしかできない。
「あ、や、べつにマジでナイショってわけじゃないんだけどさ、なに、えー……まあ、知りたくねえかなと」
「それはセキュリティ的な話ですか」
「んーまあそうかな。七海も伊地知も似たようなこと想像してるだろ。だいたいあってるよそれで。つうかんなことよりこのケーキ早く食べたいわけよ僕は。だからこの鍋さっさと空にするぞ! 食えオマエたち! シメもあるんだからな!」
言うだけ言って五条さんはまたキッチンのほうへ向かって行った。ケーキを冷やすのだろう、たぶん。
「そういえばあのときもこんな空気になりましたね」
「そうでしたね……すっかり記憶の果てでしたが」
「私もですよ」
七海さんは大きく溜め息をついた。
「こうして絆されてきたのでしょうか、私たちは……このひとに少しずつ」
そうですね、とは言えない私は曖昧に笑うしかできなかった。というのもそれは七海さんだけで、私にとっての五条さんは胃痛の原因であるので、絆されるところにまでは至っていない。諸々のことは仕方がないとは思えるけれど、たとえば気まぐれなネコちゃんを相手するような広い心では私はまだ受け止められない。ここに七海さんの器の大きさと言いますか、面倒見のよさといいますか、私がかねてから尊敬する部分があると言いますか――
「伊地知くん?」
「っはい?!」
「イクラ食べます? 残していてもしかたないので」
小皿に乗ったつやつやのイクラが差し出される。
「あ、はい食べますいただきます」
「七海~これうどんついてたけどやめる?」
「やめる? どうして」
「オマエ麺類あんまじゃなかった?」
「平たくなければ構いません」
「そ? じゃこのままうどんコースで。伊地知コンロ」
七海さんちだというのに迷いなく動く五条さんにせかされるままガスコンロに火をつける。私は残っている大きな具材を小皿に取っていく。
「伊地知くん明日も仕事ですか」
「そうですね、いつもどおり」
「まだ少しのみます?」
「あ、はいすみません少し」
封を切ったうどんが鍋に放り込まれた。このひとこんなにも動くひとだったんだなあ……気分さえ向けば。
「五条さん、ちなみにあのケーキは何ですか」
「なにってなに、味?」
「味です」
「チョコレート」
「ではハイボールにします? このまま日本酒でもいいですが」
「いえ、おまかせでお願いしたいです」
これが合うと思いますので、と鍋とともにすすめられた日本酒のことを思うと次はケーキと合うものをすすめてくださっているのだと思う。ケーキが入るほどの余裕は胃になさそう、ということはべつとして七海さんの選んだものに間違いはない。連日の疲労が溜まっているとはいえもう少しだけなら酔いすぎることもないだろうし、たぶん。
「めちゃくちゃ多いかと思ったけど案外いけたな」
「ケーキはほぼ入りませんよ」
「私も無理です」
「えーそうなの? まあ僕が食べるからいいけど。でさあ、あのケーキなんだけど――」
うどんの煮えるのを待ちながら、よくしゃべる五条さんの話すのを聞く。
ふと私は、七海さんが復帰される前のことを思い出した。感情が態度に出がちな五条さんの、機嫌が目に見えていい日が稀にだがあったのだ。そのときのなんとなく声のかけやすい感じが……今の雰囲気とぴったり合うような……だめですね、詮索しては。七海さんの趣味とは思えないごちゃついた棚のことも気になるけれど、聞かないでおこう。おふたりが楽しそうであるのが一番なのだ。私は静かに相づちを打ちながら、飲み過ぎないようにだけ気をつけていればいい、とグラスを空にした。
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