パロの話2 さとるが人間の姿になったその日、建人は殆ど眠れずに朝を迎えた。
目を閉じると昨夜の人間のさとるの姿が浮かんでしまい、あの美しい顔や長いまつ毛、滑らかな白い肌に体が熱くなって心の臓はドクドクと早く脈打って眠るどころでは無かったのだ。結局一刻程しか寝られなかった。
日の光に目を開けて隣に眠るさとるを見ると猫の姿で丸まって寝ていたので安心した。また人間になっていたらどうすればいいか建人には分からない。
にゃ、にゃ〜とさとるはなんだかよく分からない寝言を言っている。朝日を反射してさとるの真っ白い毛はキラキラと輝いている。思わず撫でようと手を伸ばすが、昨夜の事を思い出しなんだか恥ずかしくなり触れる事は出来なかった。
そんな絶賛混乱中の建人であるが、任務は待ってくれない。今日は電車に乗って銀座に行かなければいけない。勿論さとるも一緒だ。さとるは昨夜のことは全く気にしていないのか建人の隣を鼻歌を唄いながら歩いていた。
駅に着いて乗車券を買って駅員に見せる。駅員は建人とさとるを見て
「猫はちゃんと抱いて乗ってね」
と建人に告げた。
「……抱いて、ですか」
普段の建人であれば気にするほどの事でもなかった。駅員の言う通りにさとるを腕に抱いて電車に乗っていた。だが今日の建人には恐ろしく難易度が高い。建人の足元で座って抱っこを待っているさとるを見る。宝石のような青いくりくりとした目が建人を見つめていた。
……さとるは猫。人間じゃない。いつもやっている事だ。心頭滅却すれば火もまた涼し。
そう自分に言い聞かせて建人はさとるを持ち上げて抱える。ただ、さとるの事は見れなかった。
そんな建人の様子にさとるは首を傾げるだけだった。
電車内の空いてる席に座り外の景色を見る。くるくると矢継ぎ早に変わる景色を眺めるのが建人は好きだった。さとるは大人しく建人の膝に座っている。前は良く建人に話しかけていたのだが、一般人には猫の鳴き声にしか聞こえない為、鳴き声に反応した人に撫でられ毛並みをぐちゃぐちゃにされて以来、電車内では置物のように静かにしていることにしているようだ。
建人は外の景色からさとるに目を移した。
座っている背中から尻尾にかけての線が美しい。
——あのさとるも首筋から肩にかけての線が芸術的だったな。
今の状態を人間に置き換えるならまさしく建人の膝の上に座っている状態だろう。あの姿のさとるは白く長い腕を建人の首に絡ませてきゃらめるの様に甘く溶ける様な笑みを建人に見せてくれるのだろうか。
そこまで考えてはっと建人は立ち上がる。膝に乗っていたさとるはニャッと叫んで転がり落ちた。だが猫の体のおかげか華麗な着地を決めていた。
「な……いきなり立ち上がって何!?けんと!僕吃驚したんだけど!?」
さとるは文句を言う。建人は眉間に皺を寄せ凶悪な顔をしながらさとるに言う。
「若者ならば、立って年配の方に席を譲った方がいいだろうと思ったまでです」
「席ガラガラだけど!?」
「いいから。これも修行です。ほら、さとる。こちらへ」
そう言って建人は席を離れ入り口付近に立つ。さとるは渋々着いていき建人の足元に座る。
建人は凶悪な顔そのままで考えていた。
窓硝子に自分が映っている。人でも何人か殺した様な顔だ。
内心は酷く動揺していた。
思い当たる節は幾つかある。さとるが特別自分を気にかける事への優越感。他人が触れる事への嫉妬。さとるの目に自分が映ると酷く満たされた。猫の姿だから今迄気にも留めなかったが、人間の姿が建人の背を押した。
——これではまるで自分がさとるに戀をしているみたいじゃあないか!
自覚と共に好きな相手が四六時中一緒にいる幸福と猫の姿では如何にも出来ないという絶望を建人は同時に味わった。
そんな建人を知ってか知らずか大量の依頼が舞い込んできた。学生兼探偵見習い兼退魔師の二足の草鞋ならぬ三足の草鞋を履く建人はそれこそ忙殺された。余計な事を考えなくて良いので今の建人には都合が良かった。それでも時折、月の満ち欠けを見て満月が近付けばまた人間のさとるに会えるかと空を見上げて思ったりもした。
ひと月はほぼ働き詰めだったが漸く落ち着いて建人は久し振りに夜にゆったりとした時間を過ごしていた。折角だからと読みかけになったまま放置していた本を読んでいたらさとるが器用に扉を開けてやって来た。口には櫛を咥えている。さとるは建人の前までとてとてと歩き、咥えていた櫛を建人に渡す。
「けんと、毛並み整えて」
猫なんだから自分で毛繕い位出来るだろうにさとるは時々こうして建人に頼んだ。さとる曰く、建人にやってもらうと気持ちがいいらしい。さとるは言い出したら聞かない。建人は溜め息を吐いて文庫本を閉じ、さとるに言う。
「分かりました。ほら、後ろを向いてください」
さとるはにゃ〜と機嫌良さそうに鳴き、建人の指示に従った。
その真っ白な毛にそっと櫛を入れる。力を入れすぎても入れなさすぎても駄目なのだ。なるべくゆっくりと優しく毛並みを梳いていく。梳いた所から光を反射して白銀に輝いていく。その輝きを疑問に思って建人は窓の外を見ると今日は満月だった。あの人間のさとるを見た時から一ヶ月ほど経っていたのか。窓を見ながら櫛を持つ手を動かしたら毛ではない感触があった。
慌てて建人はさとるを見る。さとるの真っ白な美しい毛並みは真っ白な男性の染みひとつない広い背中に変わっていた。
「あれ?また?」
さとるが声を上げる。低く耳に心地よい声だ。耳から頭に染み込んで建人を痺れさせる声。
建人は誘われる様に美しく隆起する肩甲骨に指で触れた。すべすべとして吸い付くような肌だった。肩甲骨を触る動きにさとるはびくり、と反応しうひゃあっと声を上げこちらを向く。
「何?……けんと……?」
振り向いたさとるの目はソーダ水みたいに潤んでいた。あんまりキラキラと光っているものだから頬に触れようとすると、さとるはまた猫に戻ってしまった。
さとるに触れた指はジンジンと熱さを訴えていた。
しかし、問題はそこでは終わらなかった。
さとるが人間なる間隔がどんどん短く、しかも、猫に戻るまでの時間が長くなっていった。
さとるは尻尾を地面に叩きつけながら
「流石にまずい気がするからその内里に戻って老人どもに文句言ってくる」
と鼻息荒く言っていた。猫なので鼻息はスピスピとしか言わなかったが。
建人もまずいとは二つの意味で思っている。
一つ目は今は夜だけだがまだいいが、昼間の往来で戻ってしまったら全裸の男性が突如現れるという珍事件が起こるという事。
二つ目はこれ以上人間のさとるを見たら自分でも抑えられない何かが溢れ出しそうだという事だった。
事が起こったのは夜な夜な森の中から人間とは思えない声が聞こえるという依頼を受け、そこに巣食っていた異形を退治した時だ。
依頼自体は問題なく終わり、すぐ後ろに避難していたさとるを振り返ると、そこには裸体を惜しげもなく晒し座り込む人間のさとるがいた。
「ごめん、けんと。また戻っちゃった」
眉を八の字に下げて困った様にさとるは言う。建人はさとるに近付き慌てて自分が羽織っているマントをさとるに被せる。
今の季節は夜は肌寒い。それに森の中とはいえ万が一人が通らないとも限らない。
さとるはマントの前をかき合わせ俯いている。長く白いまつ毛が影を作っている。
「僕、明日は里に行ってくる。けんとは一日お休みしてたまには学校に顔出しなよ」
さとるが言葉を紡ぐと真珠の様な歯が見えその隙間からあかい舌が見え隠れする。
マントは建人の太腿位しかない丈だから座っているとは言えさとるの全身は隠せない。マントの合わせ目から覗く月の光を受けて白く浮かび上がる脚が清らかなくせに艶かしかった。
建人はさとるの目の前に片膝をついてマントの握るさとるの手に自分の左手を重ねる。
目の前に訝しげなさとるの顔がある。唇は桜色だった。
——さとるの唇はどんな味がするのだろう。砂糖菓子が好きでよく強請ってくるからさとる自身も甘いのだろうか。
そんな事を思ってさとるに顔を近付け、唇同士が触れ合おうとした時、
さとるが猫に戻った。
さとるはにゃあっと鳴いて立ち上がる。
「良かったー戻った!これで帰れるよ。けんと!」
そういってさっさと先に行ってしまう。
残されたのは呆然とする建人と白い毛が付いた黒いマントだけだった。この毛は帰ったら何とかして綺麗に取り除かなければ。黒い生地に白は目立つ。
「……クソッ」
気持ちの行き場が無くて建人は虚空に向かって悪態を付いたのだった。