ディーノ君とお姫様(竜父子+レオナ・ポップ) トレードマークの黄色いバンダナを揺らす彼の姿を久しぶりに食堂で目にして、あたしは朝食の乗ったお盆を手にしたまま、空いた席へと向かおうとしていた足を止めた。
彼————ポップ君は配給されたオニオンスープの器を片手に厨房の奥へと入っていく。いつもの事なのか特に咎められることもなく、調理担当の者と軽い朝の挨拶を交わしているみたい。
調理場に立ったポップ君は片手鍋を火にかけて手にしていたオニオンスープを注いだ。何をしているのかと興味半分で近づくあたしに気づく事なく、ポップ君は材料置き場から卵をひとつ手に取って戻って来る。手慣れた様子で溶き卵の準備を終えると、彼はそれを片手鍋へと回し入れた。
「あらあらあら。戦時において食糧の横領は重罪よ、ポップ君?」
「わっ、姫さん!?」
からかい混じりのあたしの言葉に、ようやくあたしが側まで来ていた事に気づいたポップ君が肩を跳ね上がらせた。ふふふ、戦闘時の冷静さの片鱗を微塵も感じさせない素朴なポップ君もいいものね。
「ははは……見逃してくれよ。ほら、おれらは昨日の晩飯にたっぷり卵のオムレツ食っただろ? あいつはここ数日まともに食ってないからさ、その分だと思って……な?」
「あいつ…………?」
あたしとの会話の間もポップ君は手を止めない。手際よくスープと卵をかき混ぜ、元の器に戻し入れた。
「ディーノだよ」
「ディーノって……あの竜の騎士の御子息の?」
「ああ」
長らく沈黙し中立を保っていた竜の騎士であるバランが、あたしたち人間に助力するとなった時、彼がこの砦へと伴って連れて来たのが実子であるディーノ君よ。
あたしも初日にバランの腕の中で眠っていたのを見たっきりだわ。真っ青な顔色をして死んだように眠りについていたディーノ君は、アバン様の案内であっという間に砦の奥の部屋に通された。あれ以来一度も対面していないの。
身体が弱く臥せりがちで養生を要するという説明は受けていたし、ポップ君がそのディーノ君と親交を持ったとは本人からも聞いていたけれど、食事の世話までしているとは思わなかったわね。
「先日師匠のとこに行って色々あってさ。体調崩して昨日まで熱で臥せってたんだ。今日は起き上がれるみたいなんで栄養摂らせようと思って」
眉尻を下げてポップが小さく笑った。慈しみの色が浮かぶ瞳に、彼がディーノ君を心の底から心配しているのだと見てとれる。
ポップ君は引き寄せたお盆に先程の卵を追加したオニオンスープとパンを乗せ、空いたスペースに押し込めるように自分の食事を置いた。お盆を手に歩き出したので、少しの躊躇いの末にあたしも後をついていくことにする。
多国籍の兵士たちや集められた精鋭の戦士たちが賑やかにテーブルを囲む食堂を背にして、ポップ君は砦の奥の静かな区画へと迷う事なく足を向けた。
「……ん? 姫さんも一緒に食べる気なのか?」
「……ええ。あたしまだディーノ君にまともに挨拶もしていないの。せっかくの機会だし御一緒させていただくわ」
あたしの言葉にポップ君は何度か目を瞬かせた後、何を考えたのか楽しそうに口端を上げて笑った。
「ディーノはすげぇいい奴だぜ。くくくっ……姫さんも気にいると思うよ」
にやにや笑うポップ君の様子にあたしは閉口しつつ小さく息を吐いた。個人的に交流を持つかはさておき、パプニカの王女として竜の騎士の子息と顔を繋げておくのは、今後の事も考えれば必要なことよ。ここへ誘ったアバン様はもちろんのこと、おそらくフローラ様も既にディーノ君と顔を合わせているはず。他の各国の王や代表者はどうかしら。情報を集めて纏めておかなくちゃ。
そんな事をつらつらと考えていたあたしは、ポップ君が足を止めたのに気付くのが遅れてしまった。危うく彼を追い越しかけて、慌てて倣って足を止める。
「どうしたの?」
「……しっ。ディーノと親父さんが話をしている」
「…っ!」
口元に指を当てて澄まし顔のポップ君をよそに、あたしは思わず息を呑んだ。ポップ君曰くの親父さんとは、つまり竜の騎士バランのことじゃないの。いつの間にかディーノ君の部屋の近くまで来ていたのね。
何故かポップ君は廊下の曲がり角に身を隠すようにして佇んだので、あたしはそっと曲がり角から顔を出して先の様子を窺った。
廊下の最奥、行き止まりとなった場所にディーノ君の部屋はあった。部屋の扉は開かれ、その前に竜の騎士バランが剣を片手に戦装束を身につけて立っている。
あたしからは彼の背中しか見えないけれど、おそらくディーノ君と向かい合っているのでしょう。バランは背も高いし歴戦の戦士然として体格もいいわ。その上マントも羽織っているし。記憶の中のディーノ君は小柄な子だったから、父親の身体にすっかり隠れてしまって様子は窺えそうにないわね。
代わりとばかりに耳をそば立てる。頭の上からポップ君の呆れたようなため息が落ちて来たけど、あたしは気にしないことにした。
「行ってくる。帰還の予定は明日だが遅くなるだろう。お前は先に寝んでいなさい」
「……はい」
「ようやく熱が下がったばかりなのだから、無理はしないようにな」
「…………………はい」
芯の通った張りのある、けれど落ち着いた父親の声とは対照的な、変声期を迎えていない小さな子どもの柔弱な声。初めて聴いたディーノの声は、病み上がりのせいか芯や力を感じられないものだった。
「どうした? 今日は随分としおらしいな」
「……なんでもないよ。それより父さん、無理して怪我をしないでね」
「先日の擦り傷を気に病んでいるのか。あの程度は戦場では傷のうちにも数えないものだ」
「それでもたくさん血が出てたよ。ぼくは————」
「ディーノ」
少しばかり硬くなったバランの声色に、ディーノ君が言葉を失うのがわかった。
「戦うと決めたからには傷を負うこともあろう。私の息子ともあろう者がそんな気弱な事でどうする」
「……っ」
押し黙ったディーノ君の両肩へバランが手を添えるのが見えた。先程の声音とは相反した柔らかな空気を纏って、地に片膝を着いてディーノ君と視線の高さを合わせている。
威圧感を与えんばかりの表情と目力であたしたちを見やり、少しばかり慇懃無礼な態度を貫く彼が、例えここが戦場でなく相手が自身の息子とはいえ、地に片膝を着くとは。あまりにも意外すぎてあたしは言葉もなく彼らを見つめてしまった。
「私は何があろうとここへ、お前の元へと帰る。だからディーノ、私を信じて待っていてくれるな?」
「………はい」
ディーノ君に小声で何か促されて、バランは更に身を屈めた。少しの衣擦れの音と、僅かに息を吸って止める気配が静かな廊下に響き渡る。
「父さん、御武運を」
「………いい子だ」
バランの体勢からしてもしかして、ディーノ君ったら父親に勝利を祈願するキスでも送ったのかしら? えっと……そう、随分と仲のいい父子なのね。見てはいけないもの見てしまったかのような背徳感に、ちょっと胸がドキドキしてる。驚いちゃったわ。
バランが立ち上がって身を翻しながらディーノ君に部屋に戻るよう告げるのと、あたしが慌てて曲がり角から顔を引っ込めるのは殆ど同時だった。
胸を跳ね上がらせた状態のまま、あたしはバランすれ違うことになった。平静を装うのは王家の者として慣れているはずだけど、後ろめたさもあってか彼の目をまともに見ることができなかった。
「……冷め切る前にディーノに食べさせてやれ」
バランはといえば、すれ違いざまにポップ君の手にしたお盆を見やってそう告げると、顔色ひとつ、表情ひとつ変える事なく去っていく。
ううう、あの言い草だと、覗き見をしていたことは、しっかりとバレてるみたいね。
竜の騎士の父子に供されたのは、砦内において賓客を迎える際に使用される部屋だった。
とは言っても戦時に使うものだから、豪勢な内装のものではなくて、あたしやフローラ様が使ってる部屋と比べても、たいして間取りや備え付けの家具に違いはなさそうね。水差しと開かれた本が乗ったテーブルと、木造りの簡素な椅子、時代を感じさせる古びた物入れ棚と、全身が写る大きな鏡に小さな本棚。違うのは、父子が使えるように寝台がふたつあることだけ。
「……ポップ?」
聞き慣れぬ声を耳にして、あたしは我に返った。
声のした方を見やれば、窓際でカーテンを片手に男の子がひとり佇んでいる。少し癖の強い黒髪の、琥珀色の瞳をした小柄な男の子だわ。頬に小さな十字傷を負っていて、瞬きしたらこぼれ落ちるんじゃないかと錯覚するようなぱっちりとした目を瞠りながら、あたしからポップ君へと視線を動かす。ぽかんとした表情をしていたのも最初だけで、あたしを認識した瞬間に彼が纏っていた空気が硬くなったのがわかった。
なるほど、突然現れたあたしのことを警戒しているのね。でもそれをおくびも顔に出さないのは、あたしを先導して部屋に入ってきたポップ君が隣にいるからってことかしら。
「おはよう、ディーノ。朝飯持ってきた。あとおれの隣にいるのはレオナ。パプニカのお姫様ってやつ」
「おはようポップ。…………おはようございます、レオナ姫」
「初めまして、ディーノ君」
「………初めまして、お会いできて光栄です」
「今日は朝食をご一緒しても構わないかしら? 色々お話をしたいし、聞きたいわ」
「…………ポップも一緒ですか?」
「ええ」
あたしとの身長差もあってか、僅かに上目遣いで尋ねてくるディーノ君は可愛い男の子だけれど、ちょっと頼りない雰囲気がある。本当にあの雄々しい竜の騎士の実子なのかしら。まぁ、父親であるあの男からかけ離れた容姿から想像するに、亡くなったというお母さま似なのかもしれないわね。
ポップ君も一緒だということがわかって安心したのか、ディーノ君は小さく頷いてくれた。それを合図にポップ君は手にしたお盆をテーブルに置いたので、あたしもそれに倣った。
机の上に開かれて置かれていたのは、この周辺の草花の種類や生息場所について書かれている図鑑みたいだった。あたしが見ているのに気づいたのか、それともこれから食事をするのに邪魔だと考えたのか、ディーノ君は大切そうに図鑑を手に取ると、それを寝台の上に置いた。
パタパタと足音をたてて足早に戻ってくる様子は、実際の年齢よりも彼を幼く見せる。寝台の側の開かれた窓から朝の光が差し込み、ふんわりと背後からディーノ君を包んでいる様は、さながら天使を描いた絵画のよう。微笑ましさも、敬愛の情も、同時に浮かんできてしまう。
「ほら、ここんとこまともに食えてなかったから腹減ってんだろ?」
ポップ君は卵の散ったオニオンスープをスプーンで掬ってひと口食べると、そのスプーンごとディーノ君に渡していた。同じようにパンや水にも、ポップ君は必ず口をつけている。
それが毒味だと気づいて、あたしは唇を引き結んだ。つまり、この砦内にいる者たちを、いえ、おそらく人間という種そのものを、あの竜の騎士は信用していないということなんですもの。ひとり息子をここへ置いて行くことすら、きっとあの男にとっては不本意なんでしょうね。
ディーノ君はゆっくりとスープを口に運びながら、ポップ君と昨日読んだという本の内容について楽しそうに話している。どうやらディーノ君が臥せるたびに、ポップ君は実家やマトリフさんの家から何某かの本を見繕っては運び込んでいるみたい。もしかするとさっきの図鑑も、そうやってこの部屋に持ち込まれたものかもしれないわね。
ディーノ君は体調が良くなったら外へ出て花を摘みたいとポップ君に頼んでいた。父であるバランの装束に合わせた色の花で花冠を作って贈りたいのだと。なるほど、そのためにあの図鑑を見ていたのね。
ポップ君は時間を作って付き合うことを約束していた。あたしが想像してたよりもふたりは親しいみたい。
かくいうあたしといえば、先程挨拶をして以降、あまり彼と実のある話をできてない。当たり障りのない彼の父親の話や、ポップ君と知り合った経緯、普段砦内でしている仕事、面白かった本の紹介。もちろん多少親しくなることはできたけれど、込み入った話はまだできそうにないわ。例えばそう、この戦いで無事に勝利を収めた後、あの竜の騎士はどう身を処すつもりなのかとか。
これはとても大切なことなの。人ならざる力を持つ竜の騎士を、自国に招き入れ利用したいと画策する者は必ず出てくるわ。彼は、バランは、強すぎる。彼を手中に収めた国は計らずとも現状の均衡を崩してしまうでしょう。
あたしとしては、全てを無事に終えたのなら、彼にはディーノ君を連れて元の居場所に戻ってほしいと思ってるわ。大きな武勲をたてるであろう彼に日陰者になってほしいなとど口にすれば、義心や利己的な理由から反発を起こす者も現れるでしょうけれど。
「そういえば、そろそろだな」
食べ終わったポップ君がナプキンで手を拭きながら息を吐いた。あたしも最後のパンのかけらを飲み込み、紅茶の香りを堪能しつつ顔を上げる。
「ええ。各地の小競り合いは平定し終えたし、ピラァ・オブ・バーン……黒の核晶の残骸処理もバランの助力のおかげで近日中に終えるでしょう。残る敵幹部は大魔王の側近だけになったと思われるわ。…………そろそろでしょうね」
ディーノ君はなんとかといった様子で器のスープを飲みきると目を瞬かせた。やっぱりまだ復調には遠いのか、パンには結局手をつけられていないみたい。ポップ君に無言で皿を指差し促されて小さく首を横に振っている。
「あの…そろそろって……?」
「………大魔王バーンとの決戦の日、だな」
「…っ!?」
ポップ君の言葉にディーノ君は声を失って目を瞠った。手にしていたスプーンが、かちゃりと大きな音を立ててスープ皿の縁を撫で転がる。
「大魔王と戦う日が近いんだ………」
「ああ」
「……ポップも……行くの?」
「ああ」
「…………レオナ姫も?」
「空を翔ける大魔王の城に乗り込むためには、古の破邪呪文ミナカトールが必要なの。使えるのは今のところあたしだけ」
「……そう。ふたりとも戦いに行くんだ」
ぼくは何もできないのに。
視線を伏せて、小さくディーノ君が呟く。
膝の上に置かれたディーノ君の、握りしめた小さな拳が震えている。
無力感に苛まれて自己嫌悪をしてしまう。あたしにも身に覚えがあるわ。大魔王の侵攻が始まって以来、何度味わったことでしょう。
「ディーノ」
そんなディーノ君の傍らにやって来たポップ君は、その小さな手を取って両手で包みこんだ。俯くディーノ君の顔を覗き込み、おでこをちょんとくっつけあって諭すように話しだす。
「おまえは、おまえにしかできない戦いをしている。親父さんとふたりきりの時もそうだったし、この砦に来てからもずっとだ」
「ポップ……?」
「親父さんと共にある未来のために戦うって決めたんだろう? そしておまえは言葉通り毎日戦っている。おまえを襲い身体を侵す理不尽ってヤツと」
「………うん」
「おまえは今まで戦って勝ってきた。昨日だって勝利した。そんでもって今日を乗り越えて明日からも戦い続けないといけない。……わかるよな?」
「………うん。ありがとう、ポップ」
よし、と立ち上がったポップ君にくしゃりと髪を掻き回されて、くすぐったそうにディーノ君ははにかんだ。兄弟みたいなふたりのやりとりに少しばかり安堵したあたしは、けれどディーノ君がふと図鑑へと視線を投げたことが心に引っかかった。
食べ終えた食器類をお盆に乗せ、あたしとポップ君はディーノ君の部屋を辞した。食堂の片づけ当番にお盆を託し、喧騒止まないそこを並んで後にする。
ポップ君はこの後マトリフさんの所に行って打ち合わせをすると言うので、あたしは彼と別れて作戦室へと向かった。会議は午後からだったから、雑多な案件の書類仕事でも片付けようと思ったの。
けれど作戦室へと向かうあたしの足取りは少しずつ遅くなっていく。別れ際のディーノ君がどうしても脳裏から離れなくて。
ポップ君に諭されたディーノ君からは、確かに急いた焦燥感や卑下感はなくなっていた。でも少しばかり思い詰めたような表情で寝台の上の図鑑に視線をやっていたのが気になるの。まさかとは思うけれど。
気がつくとあたしは作戦室とは全くの別方向、砦の出入り口へと足を向けていた。
「レオナ姫、どちらへ?」
「気晴らしに散策します。護衛は不要です」
正門に配置された見張りの兵に声をかけられて、あたしは当たり障りない理由を述べる。
もちろん護衛兵をつけないことに渋面をされたけれど、深く追求されることはなかった。一応あたしもアバンの使徒として戦いに身をおいている者ですもの。散策とは口実で、何か事情があるのだろうと察してくれたのかもしれないわね。
もしディーノ君が父親であるバランの許可なく部屋を抜け出していたとしたら、それが公に発覚するとあたしたちと彼との間で色々と問題になるかもしれない。今までもおそらくポップ君がこっそり連れ出していた———とは言っても、ポップ君の場合は、ほぼほぼバランの非公認の許可の元でのことでしょうけれど———のでしょうし。護衛兵という名の目撃者を作るわけにはいかないと思ったの。
大きくて重たい鉄の扉が閉まるのを背中で聞いてから、あたしは砦の壁伝いにディーノ君の部屋がある場所を目指した。位置的にはここから百八十度正反対の場所にディーノ君の部屋はあるはず。
はたしてあたしの予想通り、ディーノ君の部屋の窓からは、部屋に備え付けの非常用の縄梯子が垂らされていた。ちょうどタイミングよくひょっこりと窓からディーノ君が顔を出す。
臥せっている事が多いと聞いていたから、運動などとは無縁だと思っていたディーノ君だけど、あたしの思い込みに反して機敏な動作で縄梯子を降りてきた。元の運動神経がいいのかしら。血は争えないというやつね。
地面に降り立ったディーノ君は少しばかり不安そうに周囲を見渡した。あの様子だとひとりで部屋の外に出たのは初めてなのかもしれないわ。その事についてはちょっぴり安心したかも。
「どちらにお出かけかしら、ディーノ君?」
「…っ?! レ、レオナ姫!」
「こんなところで会うなんて奇遇ね」
「……………レオナ姫は、どうしてここに?」
「ふふっ、なんとなくこうなる気がして」
苦虫を噛み潰したような顔をしたディーノ君がバツが悪そうにあたしを見てくる。現行犯ですものね、言い訳もないみたい。
「で、どこへ行くつもりだったの? お父様に花冠でも作りに行くのかしら?」
ポップ君と約束を取り付けていたけれど、大魔王との戦いの日が迫ったことを知って、待てなくなったのかもしれない。そう思っていたのだけれど。
「………違う。薬草を採りに行こうと思って」
「薬草?」
想定外の返事にあたしは面食らってしまって、馬鹿みたいにディーノ君の言葉を鸚鵡返しにしてしまった。
「父さんもポップもアバン様もレオナ姫も、この砦にいるみんなも、最後の戦いの日が迫っているんだよね? 戦えば怪我をする人もでる。回復魔法の使い手は貴重だし、手が回らないかもしれない。だから……」
「だからディーノ君が薬草を探してこようというの?」
こくんと小さくディーノ君が頷いた。さっきまで寄る辺のない子どもみたいな顔をしていたというのに、決意を口にしたせいか、その琥珀色の瞳は強い意志で固められているのがわかった。
自分自身の価値をきちんと理解できていない、子どもの戯言だと切って捨てるのは容易いわ。この砦に『無事』な姿で存在させて、あの竜の騎士を制御するための錨とすること。それがあたしたち人間から見た際のディーノ君の存在理由。だからこそ同盟国からの貴賓とも高貴なる虜囚ともとれる扱いをしているの。
でもきっと、ディーノ君にとっては、そんなあたしたち人間の事情なんて関係ないのね。傷つく人が現れることを悲しみ、共に戦うことのできない己の無力を嘆き、自分のできることを探そうとする。『人』として正しい在り方をした優しい子どもだわ。あたしたち人間は、いえ、あたしは、なんて傲慢な考え方をしていたのでしょう。
「薬草がどこに生えているかわかっているの?」
「うん。部屋に図鑑があっただろう? あれはポップがマトリフさんに借りて来てくれたものなんだけど、薬草のページにこの周辺の地図が挟まれていたんだ」
そう言ってディーノ君はポケットから端の折れた紙を取り出して広げて見せてくれた。なるほど、砦を中心に薬草の群生地が書き込まれてあるわ。たぶん普段マトリフさんやポップ君が調達してくる薬草はここから採ってきてるんでしょうね。
幾つかの書き込みのうちひとつは、ここからそう遠くないわ。あたしやディーノ君の足でも十分に昼食までに戻れる距離ね。一緒に行ってこっそり帰って来るのも可能だわ。
「わかったわ。じゃあさっそく行きましょうかディーノ君」
「えっ?!」
驚いたように声を上げたディーノ君をあたしはジト目で見返す。
「何よ? 戦時において物資の調達は重要事項よ。決戦の日を迎える前にたんまりと薬草を補充しておきましょう」
「いいの……?」
「あら、その反応からすると、自分がイケナイ事をやらかそうとしていた自覚はちゃんとあるのね?」
「…………うっ、それはその………」
「ほほほ、バブルスライムみたいに潰れていていい顔してるわ。さっきまでの辛気臭い顔よりは今の方がずっとマシだけれど」
「……君って思ったことなんでもずけずけ言っちゃうんだね」
「ええ。その方が相手のためにもなるでしょ。あたしも気持ちいいし……」
あたしの言葉にディーノ君は愉快そうに頬を緩め、それから小さく吹き出した。共犯者ふたりで顔を見合わせて笑いあう。口調の砕けたディーノ君は、昔馴染みみたいな雰囲気があって、なんだかとっても話しやすいわ。
「さぁ、お父様や他のみんなに見つかる前にちゃっちゃと行って帰ってきましょう」
「うんっ!」
元気に返事をして歩き出したディーノ君が地図とは全く違う方向へと向かっていったので、あたしは慌てて彼から地図を預かった。
地図によれば目指す薬草の群生地は砦の周辺を囲うように広がる森林を抜けた先の湖の近くにあるみたい。時期的にも悪くないから相応の量が採れるはず。
見張りの兵の目を盗んで砦を囲む塀をディーノ君のトベルーラで飛び越えたあたしたちは、ふたり並んで半ば散策気分で森の小道を進んだ。もちろんディーノ君の歩調に合わせることも忘れない。ディーノ君はゆっくりと景色を楽しみながら歩いている。普段は部屋に閉じ込められていて、窓から見える景色だけが自然を感じられるものなんでしょうね。この薬草採りが彼の気晴らしになればいいのだけれど。
「そう言えば今日はポップ君を頼らなかったのね」
「今日はマトリフさんのところで仕事があるって聞いてたんだ。いつもいつもぼくの我が儘に付き合ってもらうわけにはいかないよ」
「それもそうね。あたしも今日はひとりなの。久しぶりに羽を伸ばせちゃうわ、うふふ!」
「え……? レオナ姫ひとりなの? でも………」
周囲の景色をきょろきょろと楽しんでいたディーノ君が、弾かれたように顔を上げた。立ち止まり、首を傾げて思案する素振りを見せる。
ディーノ君の琥珀色の瞳を彩る瞳孔が僅かに狭まった。気配で獲物を見つけた際の肉食獣みたいな動きだなって思い至った頃、ディーノ君は再び何事もなかったかのように歩き出した。
「ディーノ君?」
「……なんでもないよ。行こう、レオナ姫」
「なんでもないって……そういう風には」
「大丈夫。早く薬草を摂って帰ろう。なんだか雲行きが怪しくなってきたし」
ディーノ君が空を仰ぐ。少し前まで曇りがちでも所々晴れ間を覗かせていた空は、今はどこもかしこも薄っすらと雲で覆われている。午後からは雨が降るかもしれないわ。
雲行きが怪しいというディーノ君の言葉。それが文字通りだけの意味でなかったことを、あたしは後ほど痛感することになった。
砦を出て三十分ほど歩いたところで、あたしたちは目的の薬草の群生地に辿り着いた。森を抜けた場所にその湖は広がっていて、ちゃぷりちゃっぷんとたてる小さな波音が耳に心地いいわ。見晴らしもよく、湖を取り囲むようにして薬草が生えている。風は暖かく緩やかで、気候もちょうどいい。これで青空が仰げれば最高のロケーションだったでしょうに……残念だわ。
それにしてもここにはあたしが想像していたよりも多くの薬草が生えていた。後で人をやって採取してもいいかもしれない。あたしとディーノ君だけでは持ち帰れる量などたかがしれているでしょうし。
ディーノ君は歩き疲れたのか、その場に座り込んでしまったけれど、そわそわと視線は周囲を見渡していて、さっそく薬草を物色しているのがわかった。逸る心を抑えきれない子どもらしい一面を垣間見られて、なんだかあたしは安心してしまった。朝食を共にするまでにあたしが抱いていたディーノ君の印象は、少しばかり諦観の強いおとなしい子どもというものだったのだけれど。こうして父親の言いつけを破って砦を飛び出したり、落ち着きの足りていない実際の彼を見ていると、似た者同士で親近感が湧いちゃうし、なんだか放っておけない弟ができたみたい。ポップ君がディーノ君を構う理由がわかった気がするわ。
「あ、ディーノ君、その辺りに生えてるやつ、み〜んな薬草みたいね!」
「……ホントだ! 図鑑に載っていたのとそっくりだ!」
あたしの言葉にディーノ君は目を輝かせると、四つん這いの状態で場所を移動し、薬草を摘み始めた。どうやら懐に布袋を用意していたらしく、そこへと薬草を入れていく。あたしもディーノ君と並んで薬草採取に勤しむことにした。
あたしはなり行きで薬草採取に同行することになったので、袋の類は持ってきてない。摘んだ薬草は一緒に入れさせてもらう。
ディーノ君の持ってきた袋がいっぱいになるまでにそんなに時間はかからなかったわ。ポップ君やマトリフさんを中心に薬学に長けた者全員で取り掛かれば、数日もかからずに携帯できるレベルのものになるでしょう。
少しばかり物足りなそうに袋を見つめるディーノ君に、あたしは砦への帰還を促した。
「そろそろ戻りましょうか。雨が降ってくる前に」
「……うん」
あたしが立ち上がると、少し遅れてディーノ君も立ち上がった。軽く立ちくらみでも起こしたのか僅かに揺れる身体を、ディーノ君は両足を踏ん張って耐えている。
手を貸すべきか躊躇したけれど、代わりにあたしは薬草の入った袋を持つことにした。ディーノ君にだって男の子としての矜持があるでしょう。同性の年上のポップ君にならともかく、一応お姫様のあたしに身体を支られるのは避けたがるかもしれないわ。
あたしがゆっくりと時間をかけて袋の口を縛っている間に、ディーノ君も立ちくらみが治ったみたい。ゆっくりとあたしの側まで歩いてくると、荷物持ちを担当するつもりなのか袋へと手を伸ばしてきたので、やんわりとお断りすることにする。
「これはあたしが持つわ。ディーノ君は両手を空けておいて、いざという時にお姫さまを守る騎士になってちょうだい」
「…………………でも……」
ただの口実だと気づいているのか、ディーノ君が不満気に唇を尖らせた。くるくる回る表情が本当に可愛らしいわね。
「ならばその薬草、私がお持ちいたしましょうか」
唐突に声をかけられて、あたしは弾かれたように顔を上げた。
今までずっと森の木の陰に隠れていたのか、茂にでも潜んでいたのか。いつの間にか木々の間を抜けてあたしたちの方へと向かって来る者がいる。
優男風の背の高い若い男だった。腰に剣を提げ、華美ではないものの王都に住む洒落者のようなデザインをした質の良い衣服を身に纏っている。薄い唇は笑みの形をしているけれど、目は全然笑っていないわ。その視線の先には、あたしではなく、ディーノ君がいる。
「ご機嫌麗しゅう、レオナ姫」
「………あなたは?」
「ロモスからの義勇兵のひとりです」
男はあたしと会話しながらも、ずっとディーノ君を見ていた。何が目的なのかわからないけれど、あたしの本能が警告を発している。この男の一挙手一投足から目を離すな、と。
「名を名乗りなさい。所属する隊の隊長の名前もね」
「私も隊長も名乗るほどの武勲はあげておりませぬ。我らの名など姫はご存じないでしょう」
言いながら男はディーノ君の背に手を置くと、そのままの体勢で歩きだした。自分で話を持ち出しておいて薬草の入った袋には見向きもしない。あからさますぎて、呆れて溜息も出るわ。
数度たたらを踏んだディーノ君は、半ば押し出されるようにして男と並んで歩き始めた。男の強引な行為を警戒して、ディーノ君の背中が緊張に強張っているのがわかった。
「一度君とゆっくり話がしたいと思っていたんだ」
「……………話がしたいのは、ぼくとではなく、父と、なのではありませんか?」
「もちろん君のお父上とも、ゆっくりお話しできればとは思っているよ。けれどなかなかその機会に恵まれなくてね」
「…………父の今後についてのお話ならば、ぼくを介してではなく、父に直接お尋ねください」
「……察しのいい子だなぁ。話が早くて助かるよ」
ディーノ君の口元が引き結ばれた。思い詰めたように視線を伏せ、小さな拳をぎゅっと握りしめている。
男は足を止めたディーノ君の背中から肩へと手を伸ばして、再び歩きだした。抵抗して足を縺れさせたディーノ君を、男は苛立たしそうに見やっている。
「待ちなさい」
想像以上に低くて抑揚のない声が出たわ。怒りに爆発しそうになる感情を、なんとか冷静さを保とうとする気概だけで抑え込む。
「身の証を立てるように私は命じているのよ」
あたしの言葉が早いか、男の動きが早かったか。男はディーノ君の二の腕を掴んで引き寄せると、小さな背中に覆いかぶさるようにして懐に抱え込んで拘束した。剣を引き抜き、刃をディーノ君の首筋に当てがう。
「お動きになりませんように、レオナ姫」
男が軽く剣を引く。あまり陽に焼けていないディーノ君の白い首筋に薄っすらと線が入った。少し遅れて、そこから血が滲みでる。
こんな状況だというのに、ディーノ君は顔色ひとつ、表情ひとつ変えなかった。今朝すれ違った際に見たバランにそっくりだわ。父親にあまり似ていない子だと思っていたのに、こういうところは本当に父子なのね。感心しちゃったわ。
「ディーノ君を傷つけておいて、五体無事にバランと話ができると思っているの?」
「話すのは私ではありません。ディーノ君にお願いしますから」
男は口端を吊り上げると、勝ち誇ったようにディーノ君を見下ろした。そして眉ひとつ動かさないディーノ君を目にして忌々し気に舌打ちすると、腕の中に捕らえていた小柄な身体を荒々しく背中から突き飛ばす。
「この剣の刃先には遅効性の毒が塗られている。解毒薬が欲しければ、父親に懇願して来い。戦後はロモスのシナナ王にお仕えして欲しい、と」
————死にたくはないだろう?
そう嗤うこの男は、国の行く先を憂い起った義士のつもりなんでしょうね。
突き飛ばされて転んだディーノ君の元へとあたしは駆け寄った。起きあがろうとする彼に手を貸しながら首元の傷を確認する。裂かれた皮膚下が青紫色に変色しているわ。毒の話は本当のようね。何よりこの時点でディーノ君を解放したことが、男の言葉が真実であることの証だわ。
なんという愚かなことを。おそらくバランは息子を傷つけたこの男を許しはしないでしょうし、砦にいる人間全てに不信を抱くことでしょう。彼が大魔王と戦う理由が、けっして人間を救うためではないことなど、各国の指導者やレジスタンス上層部の者は誰もが知っていることよ。
「このこと、ロモスのシナナ王はご存知なのかしら?」
「まさか。王はあまりにお優しくて、企てごとなどとは疎遠でおられる。大魔王を倒すことができても、このままでは世界の動きに取り残されてしまうでしょう。全ては私の独断です」
「あなたのその勝手な行動がどれほどシナナ王に、いえ、私たち全ての人間に不利益を被らせることになるか、その浅慮な頭と体によく刻みつけることね」
あたしの言葉などもはやこの男の耳には届いていないみたいだった。男はただただディーノ君の反応を、返答を、待っている。それにしか興味がないのだといわんばかりに。
ディーノ君は立ち上がるとゆっくりと顔を上げ、それから嗤う男を見据えた。両の拳を握りしめたまま、静かな声音で話しだす。
「ぼくの答えに変わりはありません。父の今後については、ぼくを介してではなく、父に直接お話ください」
「……死にたいのか?」
思い通りにならないことへの怒りと苛立ちが入り混じった荒れた口調で男が問いかける。
ディーノ君は男の言葉に薄っすらと微笑んだ。諦めと悟りの色が濃い影を落とした、あたしの心を締めつけ上げるような笑い方だった。
「ぼくは……ぼくは父さんの未来から、ぼくのせいで選択肢を奪うようなことは絶対にしたくない。ぼくはずっと父さんと一緒にいられるわけじゃないから。父さんがぼくの父さん以外の者として生きるための道を、ひとつたりとも閉ざしたくない」
「ディーノ君………」
あたしは言葉もなくディーノ君を見つめた。それは、いずれは父を遺して逝くことになる息子の、哀しくも寂しい決意の言葉。
「だからあなたがそれを願うのならば、直接父さんと話して。将来そうしたいと父さんが思ったなら、ロモスにでもパプニカにでもベンガーナにでも、きっと父さんは行くと思う」
ディーノ君は凪いで穏やかな琥珀色の瞳をして、静かに佇み男の次の言葉を待っている。
あたしは本当にディーノ君のことを何も知らないのね。ねぇ、ポップ君、きみは知っているの? 知っていて、そうして彼の側についていてあげられているの? そうなのであれば、きみはどれほど強い心の持ち主だというの。あたしはただただ唇を噛み締めた。
どれほどの時間が過ぎたのかしら。きっと実際は数秒のことなのでしょうけれど、あたしにとってはとても長いものだった。
男は冷たい目でディーノ君を見下ろすと、手にした剣の切っ先をあたしへと向けた。ディーノ君の言葉はやはり彼には届かなかったのね。
「先行き短いお前には死への脅しなど無意味だったようだが……こちらの姫が同じ目にあっても拒否の言葉を口にできるかな?」
男のあたしへの脅しの言葉に、すっとディーノ君の纏う空気の重さが変わったことにあたしは気づいた。琥珀色の瞳が僅かに眇められ、金色味を帯び始める。
そういえば薬草の群生地に辿り着く前、ディーノ君は今と似た雰囲気になっていた。何かに気づいて、ディーノ君は立ち止まって思案していたわ。
もしかするとその時からこの男はあたしたちの後をつけていたのかもしれない。おそらくその時は、隠れてあたしについてきている護衛兵か何かだとディーノ君は考えたのでしょう。
男が地を蹴って動きだした。剣を構え、切っ先を躊躇いなくあたしに向けて飛び出してくる。
魔法で迎撃しようとあたしが構えるよりも早く、男の剣を持つ手が風の刃に包まれた。風は鋭い刃となって男の手を数カ所切りつけ、副産物のように生み出された暴れる風は、男の手に握られていた剣をもぎ取って吹き飛ばす。
それがバギの効果なのは明らかだったし、また魔法を唱えた者も明らかだった。ディーノ君を見やれば、片膝を地につけた男に目もくれず、先程吹き飛ばした剣へと向かって走りだしている。剣を入手して毒の種類を特定するためだわ。
それに気づいて、あたしは剣と男を結ぶ直線上に飛び込んだ。男の動きを牽制し、ディーノ君が剣を入手しやすくするためよ。
けれど男はディーノ君と剣の先取を奪い合うことよりも、まずディーノ君自身の動きを止めることを選んだ。勢いをつけて体当たりしてきた男を受け止めることなど、小柄なディーノ君にできるはずがない。あっという間に吹き飛ばされて、地面をもんどり打ちながら滑っていく。
ディーノ君の倒れ様を見届けることなく、あたしは代わって剣へと走りだした。もう少しで届くとばかりに伸ばしたあたしの手は、男が振るった剣の鞘で弾かれてしまった。ほんの僅かの差で、剣は男の手に渡ってしまう。
男はそのまま身を翻し、森の中へと逃げ込んでいった。
まずい。後を追わなければ。あたしは男が逃げ去った方向を睨みつける。悔しいことに、枝葉を交差させる木々が、深く生い茂る草が、男の姿を完全に覆い隠してしまっていた。
「…う、っ…………」
「ディーノ君!」
ディーノ君は小さく呻くと、軽く咳き込みながら身を起こそうとしていた。ふらふらと揺れる上身体をあたしは慌てて抱き支える。
追いつくかわからない男を探して森を彷徨うよりも、とにかくディーノ君を連れ帰り、キアリーをかけて応急処置を施さなければ。毒を特定するのも、きちんとした解毒薬を用意するのも、ディーノ君の容体を安定させてから考えることにしましょう。
「……レオナ…姫、…怪我は?」
「大丈夫。手を鞘で打たれただけよ。後でホイミでもかけておけば痕も残らないわ」
「よかった……。せっかく…騎士に任命して…もらったのに………怪我させちゃって……お姫様の騎士……失格だよね」
「ディーノ君………」
自分こそ大変な状況になっているというのに、まずはあたしを気遣って心配をしてくれるのね。果敢に立ち向かう勇気を持ち、そして他人を慮る優しい心も持っている。本当に強い子だわ。
アバン様がディーノ君を小さな勇者だと言った意味が、ようやくあたしにもわかった。アバン様はディーノ君を竜の騎士バランの息子だからここへ連れてきたんじゃない。彼もまた大魔王に抗し戦う意志のある者としてこの砦に招かれたのね。
「あたしのことよりディーノ君は? 何か身体に異常はない?」
「……少し…だるいかな……。……ごめんね。あとでレオナ姫……アバン様に怒られるよね。ぼくのわがままのせいで……本当にごめんなさい」
ディーノ君の言葉にあたしは小さく首を振った。
あたしはまたしても思い違いをしていた自分に気づく。ディーノ君は自分自身の価値をきちんと理解して、己の為すべきことを把握している————悲しいくらいに賢い子だわ。
「ごめんなさい、ディーノ君。あたしあなたのこと、あなたのお父様を繋ぎ止めるための……」
「……ぼくを父さんと…レオナ姫たちを繋ぐ………礎だと考えてくれているのなら、……それはぼくにとって、……とても嬉しいことだよ、レオナ姫」
言葉を言い換えただけで、ディーノ君のその言葉はあたしが口にした言葉と同じだ。なのに、まるで印象を変えて柔らかくあたしの耳に届く。
ディーノ君は力なく微笑むと、血の気を失ったような真っ青な顔色をして、次第にぜいぜいと掠れた息を紡ぎ始めた。それが毒のせいなのか、元々彼を蝕んでいるという病魔のせいなのか、あたしには判断できない。
ディーノ君に肩を貸しながら、あたしは砦への帰路についた。衣服越しに伝わるディーノ君の体温も、苦しげに吐く息も、次第に熱くなっていく。ルーラが使えないことを、こんなにも悔やんだ日はなかったわ。
追い打ちをかけるようにあたしの頬に濡れたものが当たった。
いつの間にか曇天の空からは雨が降り始めていた。小雨から間もおかずに土砂降りのそれへと変わっていく。
どうしてもう少しもってくれなかったの。雨に濡れて身体を冷やしてしまえば、きっとディーノ君は余計に体力を使ってしまう。
「おおーい、姫さーん!」
恨み心を込めて空を見上げていたあたしは、近づいてくるポップ君の声を耳にして、安堵のあまりにこっそりと心の中で涙をこぼした。雨の中を縫うようにして、合羽を片手にしたポップ君があたしを呼びながら空を飛んでいる。おそらく散策に出たまま戻らないことを門番の兵に聞かされて、探しにきてくれたのでしょう。
大きく手を振っていると、あたしたちに気づいたポップ君が、音もなく空から降りてきた。
「こんな雨んなか何やってんだよ姫さ……ディーノ?!」
苦情を口にしようとしたらしいポップ君は、あたしが半ば抱えているディーノ君に気づくと、一瞬で顔色を変えた。手にした合羽をあたしに放って寄越すと、慌てて自分の着ている合羽を脱いでディーノ君に袖を通させ始める。
ディーノ君はあたしに支えられつつ、気力でなんとか立っているような状態だった。降りしきる雨に混じって大粒の汗を肌に伝わらせながら、茫洋とした瞳をポップ君に向けている。
「馬鹿野郎、雨なんかに打たれて身体冷やしてどうすんだ! ……って、もう発熱してるじゃねぇか!」
「ごめんなさい、道すがら詳細を話すわ。急いで砦に戻りましょう」
あたしの言葉に頷き、ポップ君はディーノ君にフードを被せた。首元から合羽の合わせを閉じようとしたところで、ポップ君の手が止まり、視線が一点に注がれる。
「おまえ………この傷、どうした?」
砦に戻ったあたしたちは、真っ先にマァムをディーノ君の部屋に招いた。彼女のキアリーで毒に対する応急処置を済ませ、身支度を整え終えたディーノ君を寝台に寝かせる。
キアリーのおかげで少し持ち直したらしいディーノ君は、ポップ君に解熱の薬草を処方されると、あっという間に意識を落として眠りについた。
ディーノ君に使われた毒は、特定には今のところ至ってない。マトリフさんもポップ君もディーノ君の様子を見ながら書物をひっくり返していたけれど、遅効性のせいもあって症状から判断するのが難しいみたいだった。
キアリーのおかげで今すぐ生命に別状はないのが唯一の救いね。健常者であればこのまま自然治癒に任せても構わないのだけれど、ディーノ君のように体力が低下した持病を持つ者は、根本から毒を取り除いておかねば身体や脳に後遺症が残る可能性があるのだと、先程マトリフさんから説明を受けた。
あぁ、あの男は解毒薬を持っていたのかしら。捜索に人員を割いてはいるけれど、無事に見つけられることを祈るしかないわ。
あたしはディーノ君の寝台の側に椅子を寄せ、浅い呼吸を紡ぎながら懇々と眠り続ける彼を看病した。背後ではポップ君とマトリフさんが書物と睨み合いを続けている。
どれほどの時間が経ったのかしら。ノックもなく、不意に部屋の扉が開いた。
振り返ると、作戦行動から途中帰還したらしいバランが、険しい表情を浮かべて入室してくるところだった。難しそうに唇を引き結んだアバン様が彼に続く。おそらくことの顛末をバランに説明してくださったのでしょう。
あたしは立ち上がり、バランに一礼した。アバン様もフローラ様も、砦にいる誰もがあたしを責めなかったけれど、こうなったのは間違いなくディーノ君の行動を止めなかったあたしのせいだもの。
「この度のことは私の責任です。ご子息を傷つけ、命を危険に晒してしまったこと、本当に申し訳ありません」
バランは顔を上げたあたしを一瞥すると、無言でさっきまであたしが座っていた椅子へと腰を下ろした。汗で額に貼りつくディーノ君の前髪を指先で避け、そのまま頬を辿って顎へと指先を滑らせていく。
首元に残る一文字の傷跡を目にして、バランは眉間を寄せて両の目を細めた。毒の特定のためにわざと残してある傷跡は、血こそ止まってはいるけれど、ディーノ君の白い肌に不釣り合いなほど赤く浮かび上がって目についてしまう。
「……んっ…………父さ……ん……?」
意識を取り戻したディーノ君の掠れた声に、バランが小さく息を吐いたのがわかった。
薄っすらとディーノ君の目が開いていく。今朝は宝石のように澄んで煌めいていた琥珀色の瞳が、今は焦点を失って濁り、鈍い光を湛えながら父親の姿を映していた。
「身体はどうだ? 痛むところはないか?」
「……平気。大丈夫…………」
バランは小さく溜息を吐くと、そっとディーノ君の上半身を抱え起こした。両腕で抱きしめて、ディーノ君の髪に顔を埋め、旋毛に口づける。
あたしはバランとは戦場でしかまともに接してこなかったので、脅威的・圧倒的な力を誇る彼がこうして自分の息子を慈しむ姿を初めて見て驚きを隠せなかった。人並外れた、いえ、人外の力を持つ竜の騎士も、己の血を分けた幼い生き物への対応は、人のそれと変わらないのね。
「ディーノ」
バランの低く静かな口調に、ディーノ君が小さく身を震わせた。
「私が今お前から聞きたいのは、そういう言葉ではない。わかるな?」
「……ごめんなさい」
「私はここにお前を連れて来たことを、今とても後悔しているのだ」
「……………ごめんなさい」
「不調を感じるところはないか? 正直に答えなさい」
「……あちこち痛くてよくわからない。あと…少し……息苦しい」
不安を訴えて甘えるように父親の胸に顔を埋めるディーノ君は、確かに部屋に戻って眠りについた時よりも喘鳴混じりの呼吸に変わってきているような気がした。浅くて早い呼吸を繰り返す様子も相まって、見ているだけのあたしまで苦しくなってくる。
「ねぇ、父さん。ぼく、ちゃんと息できてる?」
「………ああ、大丈夫だ。お前はきちんと息をしている。このまま落ち着いてゆっくり呼吸を続けていなさい」
掠れて細く揺れるディーノ君の問いかけに、バランは力強く頷いて問いかけを肯定してみせた。父の言葉に安堵した様子でディーノ君は目を閉じる。また意識を落としてしまったみたいだった。
あの男と対峙していた時はあんなにも毅然として冷静に対処していたディーノ君だけれど、きっと彼なりに精一杯背伸びしていたのね。父親の庇護の元、自分の症状に不安を感じて心を揺らす今のディーノ君は、年相応の等身大の子どもに思えるわ。
「……マトリフ殿」
静かなバランの言葉にしない問いかけに、マトリフさんが書物から顔を上げる。
「おそらく筋肉麻痺系の毒だ。麻痺のせいできちんと肺が広がらないから呼吸がしにくいんだろう。いずれ手足にも影響が出るかもしれねぇな」
「解毒薬は作れるのか?」
「対処療法的になっちまうが作れる。明日の朝までに用意しよう」
「明日の朝か」
バランが思案する様子を見せた。たぶん時間の経過による症状の進行にディーノ君がどこまで耐えられるか考えているのでしょうね。
「他に策があるなら騎士殿も動きな。手数は多い方がいい」
マトリフさんに促されてポップ君が立ち上がった。アバン様も手伝いを申し出てマトリフさんの許可を得ている。
あたしには専門知識がないから、マトリフさんたちの手伝いをしたくても邪魔にしかならないでしょう。バランがディーノ君の側についているというのなら、この部屋に残っていても何もすることはないわ。部屋を出ていく三人を見送りながら、あたしはほぞを噛んだ。
解毒薬の作成に役立てないのなら、あの男の捜索隊に加わろうかしら。なにせ男の顔を直接見ているのは、あたしとディーノ君だけですもの。
バランは間違いなくディーノ君を害されたことに怒りと不信を覚えているわ。
今後の身の処し方を考えあぐねているのか、たとえこのようなことが起こったとしても、それでもまだディーノ君を預けるに足る場所としてここが機能していると判断しているのか。彼はここを出て行くとも、出て行かないとも、言わない。
不意に部屋の中が青白い光に包まれた。神々しくも畏怖を感じるこの光は、あたしも何度か戦場で見かけたことがある。竜の騎士だけが持つ神秘の象徴、竜の紋章が放つ光だわ。
何事かとバランを見やれば、彼は額に竜の紋章を浮かばせていた。驚いたことに、彼の腕の中にぐったりと身を預けているディーノ君の額にも、バランのそれと同じ物が浮かび上がっている。知らなかったわ。ディーノ君もまた竜の騎士だったのね。
「何を……?」
「紋章を共鳴させて、少しばかりディーノの記憶を垣間見させてもらった」
バランの説明はあたしの理解の及ぶところではなかった。紋章を介して他人の記憶を見ることが可能だなんて。人と似た姿をしてはいても、やはり竜の騎士は人とは違う種族なのだと改めて認識する。
「レオナ…といったか、パプニカの姫よ」
バランはディーノ君の身体を寝台へと横たわらせながら口を開いた。あたしは頷き、彼の次の言葉を待つ。
「私は所用で少し出る。その間この子についてやってくれまいか」
「あ…あた……私で構わないのですか?」
「他に頼める者もいまい。だがこの子が願おうと二度と勝手に外へ出してくれるな」
「………承知しております」
「次はない。覚えておけ」
「はい」
バランの冷めた視線を受け止めて、あたしは口元を引き結んだ。今回の件は不問に付そうというのね。父親に花冠を作りたいと笑って計画していたディーノ君を思うと心が痛むわ。
眠るディーノ君を愛しげに見つめた後、バランは無言で真魔剛竜剣を手に扉へと踵を返した。
「何処へ行くのですか?」
「ディーノを害した男を追う。取引に毒を使用したのであれば、解毒薬を持っている可能性が高い」
「………それは、確かに。ですが、たとえディーノ君と記憶を共有しようと、今現在の男の居場所までは…………」
「その男の持つ剣にはあの子の血が付着しているのだろう? ならば追うことも可能だ」
「そう……ですか」
あたしには何故バランがあの男を追えると断言できるのかわからなかった。おそらく人の身には理解できない縁を辿って、バランは男を追うつもりなのでしょう。
静かに扉を開閉する音が背中に届く。部屋に残されたあたしは深く息を吐くと、まずはディーノ君の額に浮かぶ汗を濡れた布で拭うことにした。
「おはよう、ディーノ。調子はどうだ?」
「……おはようポップ、レオナ姫。今日は起き上がれるようになったよ」
朝食の乗ったお盆を手に、あたしはポップ君と連れ立ってディーノ君の部屋を訪ねた。ディーノ君の熱が下がって、ようやくバランの許可が降りたの。
ディーノ君はまだ復調しきれていないらしく、寝台から降りてくることはなかった。マトリフさんとポップ君が作った解毒薬の成分の溶け込んだ薬湯しか口にしなかったので、あたしは後で食べるようにと言い含めて干し葡萄をサイドテーブルに置いた。
そのサイドテーブルの上には、装飾のかけらもない小瓶がぽつんと置いてある。あの男が隠し持っていた解毒薬の入っていた小瓶よ。
あの日、男を追って砦を出たバランは、数時間ほどで戻ってきた。あの男の持っていた剣を手にして。
迎えに出たアバン様に念のための毒の特定を依頼して剣を託すと、バランは男から奪取したという小瓶を懐から取り出し、ディーノ君に飲ませた。次第に穏やな呼吸へと変化していくのを、あたしもバランも心から安堵して見守ったわ。
あの男の末路を、あたしは尋ねなかった。あの時のバランの内に秘めた怒りをひしひしと感じていたから。アバン様はご存知かもしれないけれど、あたしたちの誰にもお話ししてくださることはなかった。
「ん? あの図鑑はどうしたんだ? いつも寝台にまで持ち込んでたじゃねぇか」
「………うん。あれはもうマトリフさんに返したんだ」
「へっ? 何でだよ。親父さんに花冠作るんじゃなかったのか?」
「……………もうやめておこうと思って。また何かあったら、ポップやレオナ姫、……アバン様にも迷惑かけちゃうだろ?」
「ディーノ君………」
寂しそうに目を伏せてディーノ君は笑った。ポップ君はそんなディーノ君の髪をくしゃりと撫でると、小さな背中をぽんぽんと優しく叩く。
聡くて聞き分けが良すぎる子どもの姿を目にするのは、なんだか胸が重くて切なくなるわ。ポップ君はお調子者に見えて根は優しくて面倒見がいいから、こんなディーノ君を放っておけないのね。
もちろんあたしもそう。ディーノ君の側について支えてあげたい、励ましてあげたい。他愛ないお喋りをして、一緒に笑ったり喜んだりしたい。今日も、明日も、この先もずっと。
「花冠はお守り代わりに渡そうと思ってたんだ。でも父さんは強いから大丈夫……もう……要らないかなって」
「まぁ確かにおまえの親父さんは強ぇけどな」
ポップ君は苦笑しながらディーノと視線を合わせると、小さく首を横に振った。まるで言い聞かせるようにゆっくりと口を開く。
「おまえの親父さんは滅法強い。それは間違いない。でもな、おまえが信じなきゃいけないのは親父さんの強さじゃない。おまえの元へ必ず帰ると誓った親父さんの心だぜ?」
「父さんの……心……?」
「そうだ。たとえ何が起ころうと、どんな戦いを迎えることになろうと、必ずおまえの元へ帰る。そう言ってたろ? ……おれたちの前じゃそんなこと一言も口にしないし、そんな態度だって見せねぇけどな」
あたしが初めてディーノ君の部屋を訪ねた時のことね。つい先日のことのはずなのに、なんだか随分と前の出来事のような気がするわ。
「ねぇ、ディーノ君。花冠……作りに行きましょう」
「えっ……?」
「ちゃんとお父様にお話しして許可をいただいてから……ね?」
バランは言ったわ。『勝手に外へ出すな』と。つまりは話を通せと彼は言っているのよ。本当に不器用で頑固で————愛情深いお父様ね。
ディーノ君が心を込めて作った花冠は、きっとバランを助けるお守りになるわ。ただの花冠じゃない。帰るべき場処と想い定めたディーノ君が作るものですもの。バランを帰路へと着かせる道標となるはず。
「おっ、いいねぇ。おれも花冠とやらを作ってみっかな。よっし、一緒に親父さんに頼みに行こうぜ?」
「ポップ……」
「あたしもお父様のところへ一緒に行くわ。三人でお願いしましょう」
「レオナ姫……」
ありがとう、と口にしたディーノ君の顔が綻んでいく。それはやがて南の島に咲くという大きな花のような明るく元気な笑顔になった。やっぱりあんな寂しい笑い顔なんかより、今の笑顔の方がディーノ君には似合うわ。
「ああ…そうそう。姫じゃなくて、レオナって呼んでちょうだい。あたしたち………もうお友だちでしょ?」
「……いいの?」
「もちろんよ! さぁ、花冠を作りにいくためにも、外へ出れるくらいに体調を回復させなくちゃ。ポップ君、今日のディーノ君の昼食は任せたわよ! 思わず全部食べちゃうような絶品なやつをよろしくね!」
「って、おれが作るのかよ…………!」
ポップ君の呆れた果てたといわんばかりの声に、ディーノ君の楽しそうな笑い声が重なった。