(燭へし)結婚したって本当ですか「ご結婚されたんですね」
左手の薬指で存在を主張する指輪をめざとく見つけた取引先の担当者が浮かべたカモフラージュじゃないのかという笑顔と、おめでとうございますという言葉にどこか照れた表情にわずかに苦々しい空気を纏わせて「ええまあ」と答えを返すと、ほんとうに?ばかりに探る目線が向けられる。
「この年ですし……相手も同い年なもので」
「ああ」
それは仕方ないですねという同情なのか、いままで逃げてたのか言いたいのかよくわからない空気に、僅かに肩をすくめて見せると「ますます頑張らないと」だとか「家族を持つと仕事にも力が入りますよ」なんて言葉で長谷部はいわゆる「一人前」になったんだなというレッテルを貼られる。
ケッコンなんてしなくても俺は頑張ってたし、仕事に力を入れていただろう!なんてことは口にしないけれど、腹の中で声高に叫んだのはもう何度目か。
多様性なんと言葉があたりまえになってもう何年だ。
異性以外とも結婚という制度が使えるようになったのに、なぜか結婚しないというせんたくしはいつまでたっても認められない。なにが多様性だ。
そう言いながら長谷部がテーブルを叩いてもう数ヶ月。
そして長谷部が左手の薬指に指輪をはめてから同じだけの時間がたった。
そう長谷部は結婚しないのかという問いと、結婚していないことによるデメリットから逃げるために結婚した。
いわゆる偽装結婚だけど、そのことは長谷部とそして結婚相手である光忠だけが知っている秘密だった。
「誰でもいいから、いや誰でも良くないから困るんだ」
30を前にして「どうして結婚しないの」という言葉を突きつけられることがふえた。
結婚していないことなんてたいしたデメリットではないと長谷部はずっと信じていた。もちろんそれだけの結果は出してきた。
まだ仕事が面白いから、ご縁がなくてなんて言葉に「まだ若いからねえ」なんて言ってもらえていたのは20代後半に入るまでだった。
次第に答えを返すのが苦痛になってきた。まあそれはいい。
結婚していないと出世に差がつくぞという言葉も結果を出せばいいだろうと思っていた。
「え、藻部が?」
明らかに長谷部より仕事ができない同期が役付になったという情報に長谷部はまさかそんなわけはと言葉を失った。
「結婚したとたん仕事ができるようになるなら苦労しないだろう!」
ばんと長谷部がテーブルを叩くと、わずかに揺れたグラスからワインが溢れた。
「結婚したら家族のために頑張ろうって思うとか?」
「そんな理由でしか頑張れない人間が、長い目で見てずっと頑張れるわけがないだろう!」
両手でテーブルを叩くとグラスがぐらりと揺れたが、カウンターの奥から伸びた手にこぼれずに表面を揺らすにとどまった。
「長谷部くんはずっとがんばってきたものね」
「結婚なんてしなくてもずっと俺は会社のために…」
「あの契約も、あのプロジェクトも君が取ってきたのにね」
「光忠ぁお前はわかってくれるよなあ」
「もちろんだよ。長谷部くんは結婚なんてしなくてもずっと頑張ってきたよ」
カウンター越しに撫でてくる大きな手に甘やかされて、長谷部はふわりと笑みをこぼす。
わかってくれる人間はいる。
そう思って頑張ってきた。でも。
「でもダメなんだ!結婚しないとこれ以上は出世できない」
「そうなの?」
今まで仕事ができないからだと思っていたけれど、いくつかの部署で課長のままに定年を迎えようとしている人間全てが独身であることに気づいてしまった長谷部はグラスであふれそうな赤ワインをぐびっと飲むと小さくうなづいた。
長谷部が好きなフルボディの重い赤ワインが腹の中で熱を帯びる。
「ああもう誰でもいいから」
誰でもいいんだったら苦労はしない。
でももう一度だけ、短期間でいいから結婚してくれ。
その言葉に光忠が何か長谷部に問いかける、光忠はいつだって俺の味方だった。
「ああ、いいぞ」
そう答えたことは覚えている。
窓からの光に「んん」と長谷部は寝返りを打つ。
眩しい。
ん?どうしてだ?最近建ったマンションのせいで寝室はカーテンいらずになったはずだが。
ぼんやりした思考がしだいにカタチを作り始め、長谷部はがばりと体を起こした。長谷部の身体を包み込んでいたベッドは長く使ってマットレスがへたっている長谷部のものとは違い硬い弾力があり、さらさらと肌触りの良いシーツは紺色で何よりその寝室にしみこんだ香りは……
「長谷部くん、起きた?」
「光忠……」
「朝ごはんできたから食べて」
「すまない」
光忠の店で結婚についてクダを巻いたことは覚えている。
そのまま寝てしまって連れて帰ってもらったのか。
大学の同級生でずっと関係が続く光忠は長谷部が店で寝ようと、クダを巻こうと気にしない人の良い男ではあるけれど。
机に置かれた賽の目に切られた豆腐とワカメの味噌汁の香りが長谷部の胃を刺激する。
「すまない」
もう一度頭を下げた長谷部に「気にしないで」そう笑った光忠がすっと一枚の紙を差し出した。
何かダメにした請求書だろうか?そう思いながら長谷部は書かれた文字を読み上げた。
「婚姻届……婚姻届?え?」
「お前結婚するのか」
どこか裏切られたような気持ちで紙にもう一度目をむけた長谷部は「はああ?」と声を上げた。
相手の欄に書かれた名前は「長谷部国重」そしてどう見てもその文字は自分が書いたものだった。
「これは」
「誰でもいいから結婚してって君がいうから、じゃあ僕にしなよって言ったんだよね」
よくないだろう?何を言っているんだ?
「じゃあ君がいいよっていうから、書いてもらっちゃった」
どう答えたらいいのかわからずに長谷部は目の前にある味噌汁を手にした。
とにかく落ち着こう。
出汁と味噌のいい香りにはあと幸せな声がもれ、そして僅かに甘みのある味噌の味が酒が残る体に沁みる。
小さく切られた豆腐の喉越しと、わかめの滋味。
幸せだなあ。結婚したら毎日。いや、違うだろう。
「長谷部くん、もしかして、いや?」
働くビストロでも客の9割が見惚れている顔面がしょんぼりとした表情を浮かべる。長谷部はとにかくこの顔に弱い。
「いや、じゃないぞ。でもお前はいいのか」
「僕も結婚した方がいろいろ都合がいいしね」
ストーカーだのなんだのという光忠の抱えるトラブルを考えるとなるほどと思わず長谷部もうなづく。
「だからね」
ね?っていう笑顔に長谷部はうなづいていた。
助かるというかむしろこれはラッキーではないのか。
「あ、不束者だが」
「ふふ、よろしくね」
かくして長谷部は結婚したのだ。
偽装結婚は思いのほか居心地の良い毎日だった。
このままずっと、いやそうはいかないだろう。
おめでとうございますと言われるたびに「ありがとございます」と答えながらほっとする自分と、どこかこのままでいいのかという自分がいる。
結婚していないことで感じていた不都合は解消されたけれど…
「長谷部くんご飯できたよ」
「ああいまいく」
まあ光忠がやめようと言ったら考えたらいいか。
そうして長谷部は今日も光忠と食卓につく。
「君の役に立てて嬉しいよ」
光忠の笑顔がうなづく長谷部はまだ気づいていない。
光忠がもう2度と長谷部をにが好きなんてないということに。