音沢蕪君、危篤。
その知らせを受け、江澄は雲深不知処に急行した。
江澄が寒室に着いた頃にはすでに沢蕪君は意識がなく、そのまましばらくして身内や門弟に囲まれるなか息を引き取った。控えていた医師が脈を診てそっと首を横に振った瞬間、その場にいた者は皆涙した。
沢蕪君と称され、姑蘇藍氏だけでなく修真界を長年支え続けた偉大な仙師の死は覚悟していたここととはいえ、姑蘇藍氏の者達に大きな悲しみを残していった。
門弟だけでなく藍忘機や魏無羨も悲しみのままに泣いているなか、江澄だけが悲哀の世界から切り離されたように表情を変えなかった。息を引き取った沢蕪君を見つめながら、この後の葬儀のことや藍氏の新しい宗主就任について、江氏宗主である自分の役割などを考えていたのだ。
(我ながら薄情なことだ。沢蕪君のことをずっと想っていたというのに、涙も出ないとは。)
本当に沢蕪君に恋慕の情を持っていたのかと疑いたくなる程に、頭は冴えきっていた。
「藍忘機、大事な身内を失った悲しみはわかる。しかし含光君としてはいつまでもこうしていられないだろう。」
この男がこうまで感情のままに泣いている姿は初めて見る。同じように泣いていた無羨が身を寄せ宥めるように忘機の背を擦っていた。
「これから門弟達にも指示を出さねばなるまい。その前に顔を洗ってこい。それまで少しの間は俺が沢蕪君の側にいてやる。」
忘機は敬愛する兄の遺体から離れることを渋ったが、無羨が諭し一時部屋を離れた。門弟達もそれに付き従い、寒室には沢蕪君と江澄だけとなった。
「こうしてあなたと二人だけになるのは、いつぶりだろうな」
沢蕪君が寝かされている寝台に腰かけ、その白く大きな手をそっと握る。徐々に熱を失い始めているがまだ温もりが残っている。
(初めてあなたに触れるのが、死んでからになるとはな。)
最もそれは致し方ないことだ。江澄は確かに沢蕪君に恋慕の情を持っていた。しかし、それを沢蕪君に伝えたこともないし、まして誰かに打ち明けたこともない。
お互い四大世家の宗主でしかも男同士だ。この想いを相手に告げるのはただの迷惑にしかならない。そのことを江澄はきちんと自覚していたため、この想いは墓まで持っていくと早々に決めていた。
だから沢蕪君と江澄は大世家の宗主としての関係だけだった。二人とも宗主として、時には仙督の任に就きながら修真界に長年尽くしてきた。二人で会っても仕事の話しかしたことがなかったため、沢蕪君はよもや江澄が片思いをしていたとは思わなかっただろう。
(今後もこの想いは決して外には漏らさない。けれど今だけは…、もうこれがあなたに会える最後になるから。)
江澄はずっと触れたくてたまらなかった沢蕪君の顔をそっと撫でた。
「あなたは死顔も綺麗だな。流石俺の好みだけある。」
顔だけではない。優しい笑顔も、控え目ながらも同じ宗主として支えてくれる情も全てが好きだった。
髪を整え抹額に触れようとしたところで手を引いた。これは父母や伴侶しか触ってはいけないものだ。自分は触る資格などない。そう思った瞬間、叶わなかった恋慕の情が江澄の胸をひどく締め付け、気づけば沢蕪君のもう心音がしない胸に己の額を擦りつけていた。
「あなたが好きだった。気づかなかっただろう?ずっと、ずっと慕っていたんだぞ。いや、これからだって俺はあなたのことを想い続ける。」
涙が一筋だけ流れ、沢蕪君の衣に落ち消えていく。沢蕪君の命が消えても、喪失に苦しむ江澄の涙が消えても、この想いだけは消えてなくなったりしない。
「今までありがとう、ゆっくり休んでくれ。さようなら」
今は別れがただ苦しい。しかし、いつか宝箱から思い出の品を取り出し眺めるように、生涯一度の恋慕だったと懐かしめる日々が来ると信じたい。
「藍渙」
この音が江澄の喉から発せられるのは、この夜が最初で最後だった。
***
「待って!」
会社からの帰り道、江澄は急に後ろから誰かに手首を掴まれた。一瞬驚いたが、どこぞの酔っ払いが絡んできたのではと機嫌を急降下させ、勢いよく後ろを振り返った。
「なんだ!勝手に触るんじゃ…って、え?沢蕪君?」
「ああ、よかった。ようやくあなたに追いついた。」
息を切らすも手首をしっかり掴んで離さない男は、間違いなく沢蕪君だった。前世に比べれば髪は短くなっているしスーツを着こなしているが、この端麗な顔は間違いようがない。
「私を沢蕪君と呼ぶなんて。どうやら前世の記憶はあるようですね、江宗主」
くすりと笑う顔に胸が高鳴る。最後に見た曦臣の顔は血の気の失せた死顔だったがゆえに、生きて笑ってくれているだけでも込み上げてくるものがあった。
「まあ、あるかないかと言われればあるが。何というか…、久しぶりだな」
「ええ、本当に。ずっとあなたを探していたんですよ。」
「俺を?何でだ?」
「返事をしたくて」
「何のことだ?」
首を傾げる江澄を前にして、曦臣は軽く深呼吸をしてから江澄の手を両手で包み込んだ。少し顔を赤らめ、真剣な眼差しで江澄の目を見つめる。
「私もずっとあなたが好きでした」
「待て!本当に何のことだ!?」
「もしや、前世のことを全て覚えているわけではないのですか?」
今度は曦臣が小首を傾げた。しかも捨てられた子犬のような目で見つめられれば江澄にとってはたまったものではない。
「いや、覚えいている。けれど、あなたと俺は宗主としての関係しかなかっただろう!突然どうした!?」
「おや、あなたは私に愛の告白をしたではありませんか。」
「いつそんなことをした!?」
「私が死んだときにです」
江澄はひゅっと息を呑んだ。まさか、何故そのことを知っているのだと目が語っている。曦臣は心得たとばかりに笑顔で種明かしをした。
「ご存じでしたか?聴覚は息を引き取った後もしばらくは残っているらしいです。私は最期にあなたの声を聴いていました」
江澄は青褪めた。まさか、あの告白を全て聞かれていたと言うのか。死人にそんなことができるのかと思ったが、そうでなければ今の状況は説明がつかない。
確かに江澄も臨終の際は門弟以外にも子や孫や曾孫等大勢に囲まれていた。呼吸が苦しくなり目の前が暗くなって何も見えなくなってからも泣き声は聞こえていた。すでに、あの時死んでいたけれど聴覚だけは残っていたということなのか。
そう理解すると告白を当人に聴かれていた事実がこの上なく恥ずかしく、青褪めた顔が一気に赤く染まる。
「生まれ変わって記憶を取り戻した時、本当に嬉しかったんです。私もずっと江宗主のことを慕っていましたから。私達は両想いだったのだと。」
江澄は今度は目を白黒させた。この数分で首から上の色変わりが激しい。正直話についていけないとすら感じていた。
「両想い?は?あなたは俺のことが好きだったのか?」
「はい。ずっとお慕いしていたんですよ。けれど、この想いは雲夢と江家にその身を捧げたあなたにとっては迷惑でしかない。だから一生お伝えするつもりはありませんでした。同じ宗主としてあなたと会えるならそれだけでいいと言い聞かせてきたんです。」
曦臣は江澄の手を握ったまま感極まった様子で片膝をついた。
「けれど、今世ではもう我慢しなくてもいいのですね。江宗主、いえ江澄。私と結婚してください。」
「展開が早い!」
「駄目なのですか?何故です?私達は両想いなのですよ?」
またもや江澄の弱点をつくような表情で見つめてくる。強引で思い切りが良すぎる一連の流れに、沢蕪君はこんな人だったのかと混乱した。
「…結婚の前に色々段階があるだろ」
「段階?」
「ほら、その…待ち合わせしてデートするとか、気が合うようだったら正式に付き合うとか、それなりに続いたら同棲するとか」
「他には?」
「他にはって…色々…」
前世では怒らせてはいけない宗主と言われ、苛烈な三毒聖手として名を馳せた江澄がこんなに可愛らしい反応をすることに、曦臣は嬉し気な笑みを隠すことができない。
「わかりました。一つ一つ、二人で経験していきましょう。色々とね。では改めて、江澄、私と付き合ってくれませんか。」
江澄が求めてやまなかった曦臣の笑顔を前にして、返事を我慢すること等できそうになかった。前世で叶わなかった恋をもう諦めなくていいのだと思うと、自然と江澄の顔にもはにかんだ笑顔が浮かんだ。
「俺でよければ」
「あなたと一緒がいいんです。これからよろしくお願いしますね、阿澄」
「こちらこそ、…藍渙」
阿澄と藍渙。この音は今後何度も何度も二人の喉から発せられていく。