誤解「これも食え」
「いいの?」
「この仕事は身体が資本なんだ。野菜だけじゃなくて肉も食え。」
江澄は後輩である男の皿に牛肉のたたきをよそった。
後輩と言っても年齢は相手の方が上だが、芸歴は江澄の方がずっと長い。目の前の男、芸名『曦臣』は最近舞台俳優になった男で、江澄も出演する舞台の端役に起用された。見た目は文句なく一級品であり、台詞の覚えも早く演技の勘も良いのだが、仕草や間の取り方はまだ素人感が抜け切れていない。
しかし、今後もっと経験を積み演技力を磨いていけば良いライバルになるだろうと江澄は早い段階で意識していた。
もう一つ、江澄が曦臣を意識し個人的に食事に連れて行く程に目をかけているのには理由があった。
それは……
「曦臣、大分誕生日過ぎちまったけどプレゼントだ。」
ハロウィンを過ぎてクリスマス仕様になった赤い包みを開けると、パーカーとスウェットパンツに靴下が入っていた。
「江澄、これ」
「たいして高いものじゃない。稽古着はもう一着持ってた方がいいと思っただけだ。靴下は……言わなくてもわかるよな?」
「だ、だって靴を履いてしまえば穴なんてわからないし…」
「そういう問題じゃないんだよ!いいか、靴下なんてそんなに高いもんじゃないんだ!見えないところもきちんとしておけ!いきなり関係者の飲み会に呼ばれることだってあるんだ。座敷にあがったら踵に穴が開いてましたじゃ恥ずかしいだろうが!」
舞台俳優は一部の売れてる人間以外はそれだけで食べてはいくのは難しい。バイトを掛け持ちしながら俳優業をやっている者は多い。そうなると節約は必須だ。江澄も最近になってようやく舞台俳優として食べていけるようになったが、そこまでの生活は決して楽ではなかった。だからこそ衣服代を節約したくなる気持ちは痛い程わかる。
わかるのだが……
稽古場での曦臣は目に余るものがあった。
稽古場で靴を履き替える時、曦臣の靴下は必ずつま先か踵に穴が開いている。ジャージも速乾性に特化した薄い生地のもので、膝の部分が擦りむけそうになっている。しかも上はよれよれのTシャツで、パジャマで来たのかと思う程にひどい格好なのだ。
江澄はショックだった。
整った品の良い顔立ちの首から下が貧乏丸出しなのだ。稽古場からの帰りに毛玉だらけの着古したスウェットの上下だった曦臣を目撃した時は、雷に打たれたような衝撃を味わい、思わず手を引っ張って近くの居酒屋に駆け込んだ。
「肉でも魚でも好きなものを食え!金は俺が出すから遠慮するな!!」
曦臣の顔が青褪めていたから、まあまあな剣幕で迫ったのだろう。だがここまで衣服代を節約しているということは、おそらく食事はまともではない。
「普段は何食べてるんだ。」
「や、野菜とか…あ、お粥も好きです。」
「肉は⁉︎魚は⁉︎タンパク質は何で摂取してるんだ⁉︎」
「お豆腐が好きなので大丈夫です。」
「大丈夫じゃない!!」
江澄は思わず涙が出そうだった。確かに自分もモヤシのシーチキン炒めには大変お世話になった。だが主食は白米だったし、週に何回かは特売品の鶏肉を口にすることも出来ていた。
江澄は昔から子供や動物が飢えている話が大の苦手だった。可哀想で可哀想で胸が締め付けられてしまう。
(曦臣にちゃんとした飯を食べさせてやりたい)
稽古場で曦臣を見かける度に曦臣が飢えていないか気になって仕方なかった。そのため稽古が終わると曦臣を食事に連れ出すようになり、幸せそうに笑う顔を見て腹を満たせていることにようやく安堵した。
しかし、そうなると次の心配が江澄の頭に浮上した。
「曦臣、もう少し衣服に金を掛けられないのか。」
そろそろ冬になり先日は真冬並みの寒さだったというのに、曦臣はジャケットの一つも着ていない。江澄は子供や動物が寒さに震えている姿も苦手だった。曦臣は寒くないと笑うのだが、江澄からすれば見た目がもう寒い。江澄が耐えられないのだ。
「俺のお古で良いならって、この間ジャケット渡しただろう?Tシャツは新品だぞ?何で着ないんだよ。好みじゃなかったなら悪かったけど、無いよりましだろ?」
「そんな!凄く嬉しかったんだよ!嬉しくて、絶対に汚したくなくて着れないんだよ。ちゃんと家に飾ってあるんだ。これも一緒に飾ろうかな。」
「いや、飾らないで着ろよ!次の稽古でプレゼントした靴下履いてなかったら怒るぞ!それにだ!今日着てたTシャツ、よれすぎて胸筋の谷間が見えてんだよ!目のやり場に困るだろうが!いいか、服なんてまた買ってやるから、もうちょっとちゃんとした格好をしろ。」
「新品より江澄のお古が欲しい。」
「そんなんでいいのか?」
もぐもぐ口を動かしながら小刻みに頷く曦臣を前にし、何て健気な奴だと内心感動した江澄は追加で天麩羅盛合わせを頼んでやった。
「ただいま戻りました」
しんとしたリビングに曦臣の声だけが響く。が、それもすぐに静寂の世界へ消えていく。
江澄が朝食にと持たせてくれたパンをダイニングテーブルに置くと、叔父が頼んだ家事代行者のメモが目に入った。冷蔵庫に作り置きを入れてある旨のメモだ。キッチンには曦臣の好物である海鮮粥も作ってあった。
ソファに荷物を置くと、赤い包みだけを持って寝室とは別の部屋に入っていく。
ブティックのように綺麗に衣服や雑誌類を収納している部屋。真ん中のガラスケースには江澄からもらったジャケットやTシャツが飾られている。そこに大事な供物のように包みをそっと置いた。
「阿澄が私のために…」
視線を上げると江澄と目が合った。
雑誌に載っていた江澄の写真を加工したポスターを額に入れて壁にかけているのだ。
曦臣は本名を藍渙といい名家の長男である。藍家は様々な事業に携わっている一族で、藍渙も叔父の跡を継ぐことに何ら疑問を抱いていなかった。
しかし、出会ってしまったのだ。
運命の人、江澄と。
江澄の名が売れるきっかけとなった舞台を仕事の付き合いで見に行き、その日から江澄に夢中になってしまった。
それだけならよくいるファンの一人だ。資産的には有力なパトロンになれただろう。
しかし藍渙はそれでは到底満足出来なかった。江澄の横で同じ目線で同じ道を歩きたかったのだ。
俳優業の話を叔父に打ち明けた日は初めて口喧嘩というものをした。
「もうよい!そんなに言うなら気が済むまで舞台俳優でも何でもやっているがいい!」
幼い頃から可愛がり、期待も大きかったが故に叔父は大いに怒った。
「ありがとうございます。私の気が済むまで頑張ります。」
しかし、あまりの藍渙の頑固さに最終的には叔父が折れた。
藍渙は実家を離れ俳優業の道を歩み出したのだ。
ただ江澄だけを目当てに。
実家から離れた生活は意外にも快適だった。スーツや襟のあるシャツを脱いでジャージで生活するのは驚くほど解放的だった。初めて買ったジャージやTシャツ、謎のキャラクター靴下に愛着を持ってしまい酷使してしまったが、そんなダルダルの格好をしているのも藍渙にとっては楽しかった。
「この靴下履くの勿体無いな。」
赤い包みから出した靴下を大事に胸に抱き、江澄の香りがする少し柔らかくなったジャケットを羽織った。
「阿澄、今日のデートも楽しかった。」
正面のポスターを恍惚とした表情で見つめる姿は、まるで宗教画を愛でる飢えた信者そのものだった。