君と彼が幸せになるまでの730時間、と183日(ミキクラ)▽地点0
三角に握られた赤い米と、その中に幾つか見えるつやつやとした豆。
そろそろシメにしましょうか、と席を立った吉田が持って戻ってきたのがそれだった。
赤飯だ。それもおにぎりの。
なんで赤飯?と思いはしたが、ほどほどに酔っていた三木は特に何も考えず「おっいいですね」と笑った。アルコールの所為で思考の回転が緩くなっている。
どうせスーパーの売り場でたまたま目につくか何かしたのだろう。宅飲みの席などそれくらいのものだ。
見慣れない食物にいつも目を輝かせて真っ先に反応する筈のクラージィは、仮眠用の布団の上で穏やかに眠っていた。吉田の愛猫が布団というかクッションの中央8割を陣取っているのでその端に寝ている形になっている。
平和な光景に心が和む。ここ最近忙しかったせいで酒を飲むのは久しぶりで、気が緩んでいる自覚があった。目を細めながら三木はだいぶ軽くなった缶を煽る。向かいでは吉田がよっこいしょ、と年寄じみた動作で座るところだった。
「たまに食べるとうまいですよね、どうしたんですコレ」
「どうって、お祝いですよ。大切な友人二人の『進展』の」
いかにも手ずから握りましたといった風のラップをぺりぺりとめくっていた三木はがっしゃんと音を立ててテーブルの天板にめり込んだ。
「わァ、すごい音しましたけど大丈夫ですか」
頭の上から聞こえる吉田の暢気な声が妙に遠い。
恒例と化した隣人同士の食事会には、それなりの量の酒類が持ち込まれることが度々ある。今日は変わり種の餃子を思いつく限り作ってみようという試みだった。売り場であれも入れてみようこれもやってみようかと大人の財力と好奇心に任せて食材を選んだ結果、大食い選手権でも開催できそうな規模の餃子が出来上がった。
とはいえ健啖家がいるおかげで卓上の皿は殆ど空のものが多く、三木の額以外に目立った被害はないのが幸いだった。
どう答えて良いか分からず、たっぷり数秒かけて漸く三木は顔を上げた。吉田の顔をまともに見ることができない。
「……ええと、すみません。何か記念日でもありましたっけ。生憎覚えていなくて」
「アッもしかして隠してるつもりでした?すみません、あまりにも幸せオーラが出てたので、大丈夫かなと」
吉田は「ああクラさんの分は別に取ってあるので気にしないで食べちゃってください」と付け加えた。違うそこじゃない。額の痛みを遠く感じながら横目で部屋の隅を伺うと、クラージィはまだ猫たちに囲まれて眠っていた。少しだけ安堵した。
進展。進展。勢いが進んで、物事が広がること。何が進んで?…いや。心当たりが無いわけでは、ない。ないが、ーーーまさか吉田が知っているわけがない。死に物狂いで平静を装ったが、表情筋が引き攣っている気がした。
「おめでとうございます、三木さん」
にやにやと緩んだ口元を隠しながら吉田が言う。あっこれ言い逃れできないやつだな、と三木は背後でガラガラと退路が崩れる音を聞いた。
因みに、吉田はクラージィと三木が親しい間柄であることは知っている。
クラージィが吉田に秘密にしておくことはしたくないと言い、三木もまたそれに同調して、二人で告げた。大丈夫デスと微笑むクラージィと違い三木は吉田に拒絶されることも覚悟していたのだが、ごく普通にそれを聞き受け入れたうえで「あっそれなら、次の集まりは少し間をおいた方がいいですか?」と世間話の続きを始めたのには流石に拍子抜けした。
後ほどこっそりと、いつでも留守にしますからねえ、と少し下世話な世話焼きおじさんの一面を見せた吉田に、余計な世話ですと苦笑しつつ安堵しなかったわけではない。
ただ、いつだったか酒の勢いで『大丈夫ですよ、俺クラさんに手を出すつもりはないので』と吉田に口を滑らせてしまったのは完全に失策だった。
吉田と二人だけの時で、三木は不覚にも完全に酩酊していた。あの時の自分を殴り倒したい。
本当は墓まで持っていくつもりだった。自分の身には有り余ると思っていた慈悲深いその人と、こうなれただけで天変地異並みの奇跡なのだ。それ以上の何かを望むつもりはない、と言ったら吉田は固まって、ひどく難しい顔をしていたのだけをはっきりと覚えている。いっそ普段のノリで女子の恋話のように「えーっそれでそれで?やだあ」と茶化してくれたら良かったのに、とも思っていた。
だからと言ってこんな状況を望んでいた訳では決してないが。
思い出したら眩暈がしてきた。
いやこんな下世話な親戚か飲み屋のオッサンみたいなことしてくる人だったかこの人??
「余計なお世話だとは思ったんですけどね。おじさん嬉しくって」
「………自覚があるんでしたら自重してくれませんかね…」
「だって嬉しくて。『絶対手は出さない』って深刻な顔で言ってたじゃないですか」
「吉田さん……………!」
声が大きい、と身を乗り出した拍子に卓がガタンと音を立てた。吉田が、三木さん、しー!と人差し指を立てるジェスチャーをする。慌てて本日2度目となるクラさんの目覚めの確認をした。まだ眠っている。
背中に変な汗まで掻いてきた。本当になんだこの状況は。
目の前には赤飯に、ニコニコ顔のお隣さん。
俯瞰してみてから、これは身に覚えのあるシチュエーションだなと思った。脳内のばあちゃんがおはぎを作らなきゃとニコニコし始めたので本格的に羞恥で死にたくなった。
たすけてくれノゾミ、ヒカリさんの時に全力でばあちゃんにのっかって揶揄ったのを謝るから。シチュエーションとしてはこちらのほうが数倍地獄かもしれない。
「おじさんとしてはちょっと心配してたのでよかったです」
「…吉田さん、俺とそこまで年齢違わないじゃないですか…」
「そこはほら、人生の先輩ですし」
にやにや顔はそのままだったので露骨に恨めしげな視線を送ってしまったが、当の本人は気にするそぶりもなくンフフ、と笑っている。続く言葉が出ず、三木はぐぅ、と呻いた。酒が急激に回ってきた気がする。お赤飯どうぞ、と思い出したように勧められたが到底それどころではなかった。なんの辱めだこれは。
「合意じゃなかったりしたら困りますけど、そうじゃないんでしょう?」
「…………当然合意でしたし、………めちゃめちゃ、幸せ、ですけど……」
何を赤裸々に言わされてるんだ俺は。それもお隣さんに。
「僕はね、友人が二人とも幸せでいてくれてるのが嬉しいだけですよ」
少しだけ、真剣な目をして吉田が言った。
やっぱり留守にしたほうがいい時は言ってくださいね、と揶揄する声色で言われ、三木は羞恥で爆発しそうな頭を抱えることになった。
* * *
▽マイナス730時間
「ほら三木さん、お部屋着きましたよ」
玄関を入り、肩を貸す形になった三木に呼び掛ける。朝方まで飲んでしまったので申し訳なさそうなクラージィを部屋へ戻し、この役を買って出たのが吉田だった。
「クラさん流しそうめん喜んでくれて良かったですね」
「んー、ああ…はい…」
「ンフ、すっかり酔っ払いですねえ」
時期外れの流しそうめんの機械は甥の家庭から借りた。本格的な竹のものではないが、縮小した流れるプールのような擬似的な川の中でそうめんが泳ぐし、内蔵されたライトで七色に光る。
いや無駄に凄いですねこれ。ハハッといつもの笑い方で感想を漏らした三木の横で混乱した様子のクラさんが「!?!?悪魔…!?」と拳を振り上げかけるのもすっかり恒例と化していて、最終的にはおじさん3人ではしゃぎながらかなりの量のそうめんを食べ切った。御歳暮で余りに余ったものの消費では到底足りず予備に買った袋も全て開けることになったのはご愛嬌だろう。
長身の三木を居間まで運ぶのは少々骨が折れた。
まだクラさんが引っ越してくる前から付き合い程度で三木と飲んだことはあったが、ここまで酔った姿を見るのは初めてだ。ここ最近どこも仕事が忙しいと言っていたのでそのせいもあるのかもしれないが、隙を見せてくれたようで嬉しくもある。
「次は三木さんのリクエストの番だってクラさん言ってましたよ、三木さん」
三木が譫言のように「…クラさんが、」と相好を崩した。本当に珍しい。ここまで緩んだ三木はなかなか見られないーーと思ったら、ムクムクと首を跨げてきた好奇心が吉田を負かした。
「ね、三木さんは、クラさんのどういうところを好きになったんですか?」
つい先日、二人からお付き合いを始めたとひどく真剣な顔で言われた時には流石に驚いた。
まさかまだお付き合いしていなかったとは思わなかった。あれで?と口に出さなかった自分を褒めたい。
三木は俯いて座り込んだままだ。流石に怒られるかな、と思いつつドキドキしながら沈黙を待っていると、ぽつりと三木が口を開いた。
「…電車で」
「電車?」
「ずっと前に電車の中で、クラさんが泣いてた小さい子どもを泣き止ませた事あったじゃないですか」
「ああ、ありましたねえ」
「なんというかこう、あああの人元神父様だったな、て実感が今更沸きまして。ブワッと。忘れてたわけじゃないんですよ?クソデカい料理に喜ぶところも慣れない日本語を真面目に覚えようとするところも放っておけなくて好きです。
でも、俺もああやって撫でてもらって良い子ですねって言ってほしかったなと、思い出しまして。まあちゃんと自覚したのはだいぶ後なんですが。バブみって言うんですか、あれちょっと違うんですっけ」
うんうん、と滔々と続く惚気に相槌を打ちながら勝手に拝借したグラスにミネラルウォーターを注ぐ。
三木の部屋には驚くほど物がない。小さなテーブルと椅子、それからベッド。最低限の家電は旧式の備え付けだが、それくらいのものだ。何度か招かれたことはあるがその度に自分の生活感溢れる部屋との差に少しの寂しさの匂いがした。
だから、三木の口からこうやって大切な誰かの話を聞くのは素直に嬉しかった。ましてやその相手も大切な友人なのだから余計に。
三木そのもののような部屋を眺めながら、クラさんのものとか置いてたりしないのかな、と完全に出歯亀の気持ちでキョロキョロしていた吉田は、
「ーーなので、俺はクラさんには絶対手を出さないって決めたんです」
「うん?」
思わず固まって三木の方を見た。なんだか話がすごく別の方向に飛んだ気がする。三木は相変わらず据わった目で床の木目を睨んでいた。うちの猫がよくやっている奴である。そこに何か見えるのかなと思うと少し怖い。
「え、お付き合いしたんですよね?」
「はい」
「クラさんが何か言ってたんですか?」
「いえ」
おっとこれクローズドクエスチョンになってるな、と少し思う。三木は変わらず床の木目を見たままだったが、少しだけ黒い頭がゆらゆらと揺れていた。
「生きていた時代が、違う人ですから」
ああ、と相槌を打つことは出来なかった。当時の彼の国の宗教観や価値観を詳しく知るわけではないが、三木の懸念は吉田にもぼんやりと想像がつく。
言葉に詰まって、吉田は掌を意味もなく握り込んだ。三木は長い脚を抱えて座り込む姿勢になっていた。
「ええと、そういう大事なことはクラさんとお話してみたほうがいいんじゃ、」
「いやです」
「ええ…、」
「あの人のことを、傷つけたいわけじゃないので」
今のままで俺には十分すぎるくらい幸せです、と。
おそらく三木が思いの丈を飲み込んでいるのはクラージィの本意ではないだろうと思ったが、吉田にそれ以上言うことはできなかった。
酔っているにしては白い顔の三木はあまりに思い詰めた顔をしていた。
「………昨日は、大変ご迷惑をおかけしまして…………忘れて貰えると助かります」
ああ、記憶残っちゃったかあ。
翌日、青かったり赤かったり白かったりおかしな顔色をした死にそうな顔の三木が超有名店の菓子折りを携えてきた。自分も聞き出してしまった立場ではあるので申し訳なさと居た堪れなさで胃が痛んだ。
いい歳をした男が二人、玄関先で微妙な顔を突き合わせたまま立ちすくむ図はなんともいえないものがあった。
絞り出すように、えーとなんのことですっけ、ととぼけるのが吉田にできる精一杯だった。
おそらく三木も嘘だとは分かりきっているだろうに、「・・・覚えていないなら、いいんですが」と語尾を濁す。顔色はともかくとして、昨日の追い詰められた子供のような気配はもうどこにも無い。
じゃあ、俺はこれから仕事なので、と一礼して、結局三木は吉田に菓子折りを押し付けていった。
何も声を掛けられなかった。
吉田は、菓子折りを持て余したまま、どうか友人二人が幸せであればいいと、そう祈った。