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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第二章。兄上が夢から醒めて江澄のために生きることを決意するお話。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #オリキャラ
    original characters

    酔生夢死 月は眉のように細く無数の星が瞬いている夜だった。
     雲夢江氏の若い門弟は、戌の刻が終わろうとしているときある高貴な絵師が滞在している金麟台の部屋へやってきた。
     大きく燃え上がるろうそくの明かりに少女の満面の笑顔を浮かびあがる。
    「白木蓮殿、これがこたびの姿絵の報酬にございます」
     江澄の弟子である白蓮蓮が、腰ひもから卓の上にぱんぱんに膨らんだ小さな革袋を恭しくおくなり、じゃらじゃらと特定の貨幣がこすれあう音がおびただしく聞こえた。
     その音からおそらくは庶民であれば数か月余裕をもって暮らせるほどの金子が入っていることに藍曦臣は気付いて目を丸くした。たった二枚の姿絵にこんな大金をなぜ。
    「こんなにかい?」
    「はい、おかげさまで木蓮殿が描いてくださった師父の姿絵はまるで極楽浄土におわす菩薩のようだと蘭陵金氏内で大好評でございます。その人気は飛ぶ鳥落とす勢いで、蘭陵金氏内で『忘羨』を抜いて今月の売り上げ一位になりそうです。印刷所も姿絵の屋台の人も嬉しい悲鳴をあげています。ここまで反響が大きいだなんて、持ち込んだ私も鼻が高いです!」
     白蓮蓮は興奮を隠さずに言った。これから雲夢江氏はじめ他の世家の領地でも彼の姿絵を売り出すそうだ。
     今日より少し前、藍曦臣は目の前にいる少女から彼女の師父が笑っている絵を描いてもらえないかと持ち掛けられたのだ。
    『白木蓮殿、師父の姿絵をまた描いてもらえないでしょうか』
     師匠を苛烈だとおそれている世間の人々に、彼が笑顔を浮かべることもあると伝えるためだと師を心から敬愛する弟子は訴えてきた。不機嫌な表情を浮かべた絵はすべて回収するとまで彼女は藍家の宗主に誓った。
    『また』という言葉が少しひっかかったが、彼女の江澄を思う気持ちに藍曦臣はじわりと胸打たれ、また共感も抱いた。
     姿絵のように実際の江澄は人相がたしかにあまりよくないのだが、その心根は他者に献身を惜しまず愛情深く、たまに見せてくれる笑顔も盛りを迎えた花のように生き生きとして朝露のように透き通った明るい光を放っている。彼の心映えに触れてすさんで虚無と化していた心が癒された身としては、ただ世をにらみつけているだけの屋台の姿絵に思うところはあった。だから、藍曦臣は彼女の頼みを引き受けることにした。ただ引き受けるだけでなく、笑っている江澄の隣に自身の肖像画も置いてはどうだろうかと絵師は若い依頼主へ提案した。藍曦臣の醜さが江澄の隣にあればその心映えの美しさがいっそう際立つと思ったからだ。
     白木蓮は二枚の姿絵を、頼まれたその日のたった一晩で描いた。きれいなものをきれいだと醜いものを醜いと、感じたことをありのまま描いたらあっという間に描き上げられた。微笑んでいる江澄も無慈悲な夜叉もどちらも、まるで絵師白木蓮の中から外へ出る機会をずっと待っていたかのようだった。
     世の人々が、彼がかいまみた江澄の本性を受け入れてくれたのならこんなにうれしいことはない。蓮蓮によれば江宗主はまるで仏のようだと姿絵をおがむ人もいるそうだ。きれいなものだけをみてしまったせいで人の命を奪ってしまった己の愚かさも少しは世の役に立ったらしい。
     作品への世の反応を知ってまだ傷の残る心を静かに震わせていると、新人の絵師は思いがけない言葉を依頼主からかけられた。
    「おまけにですね、木蓮殿。実は師父と夜叉の『かっぷりんぐ』絵を描いてほしいと印刷所から依頼がきました」
    「え"?」
     驚きのあまり我ながら変な声をのどから出してしまった。
    『かっぷりんぐ』絵はたしか愛し合っている恋人同士の絵だったはずだ。江澄と夜叉は恋人どころか友人ですらない。夜叉は単に江澄の引き立て役だ。なぜそんなことになるのだろうと絵師は困惑するばかりだった。
     それがですね、と白蓮蓮は事情を説明し始めた。
    「菩薩のとなりにいる夜叉、相いれない存在のはずなのに二人並んでいるとまるで分かちがたい恋人同士のようだと世の乙女たちの妄想をふくらま……いえ想像力を絶賛掻き立てているそうです。夜叉のまがまがしさは愛する菩薩に近寄るものをはねのけるためなのだ、夜叉は蓮池の主で江宗主は毎朝そうとは知らずに蓮池の蓮に微笑みかけているうちに夜叉は彼に恋に落ちたのだとかとそれはもう自由に二人の設定を作り始めているようです。まことに世間は好き勝手に夢を見るのが好きですね! もし木蓮殿が『かっぷりんぐ』絵を描いてくださったら江湖中に配る予定だそうです」
     依頼をもらえるのは絵師としてとても嬉しいことだが、藍曦臣は複雑な感情をいだいた。
    「だが『かっぷりんぐ』絵は『心から愛し合っている人同士』でないとだめなんだろう? 江澄と私は忘機や魏公子のよう道侶ではないしそもそも恋人でもない。私たちは単なる知己なのだから『かっぷりんぐ』絵を描くわけにはいかないよ」
     それに夜叉は藍曦臣の心の一部ではあるが実在している人物ではなく架空の存在だ。実在の人物と架空の存在を恋人同士に見立てるとは世の女性の想像力はげにたくましい。
     いやひょっとしたら夜叉を通して江澄への恋情や彼に抱いている藍曦臣の欲望が漏れてしまったのかもしれない。それは人に裸を見られてしまったかのようで非常に恥ずかしいことだった。
     新たな絵の依頼を断りながらかつてない羞恥を覚えていると、追い打ちをかけるように若い弟子は天真爛漫な笑顔でとんでもないことを言い放った。
    「ではさっさと師父を押し倒して知己越えなさればよろしいじゃありませんか。そうすれば『かっぷりんぐ』絵を描くのに何の支障もありませんよ」
     真面目な藍曦臣は、さらなる羞恥にその場で身を悶えるどころか叔父のように吐血しそうになった。
    「わ、わたしが江澄を、お、お、おし、おしたおっす」
    「あら、どうなさったのです木蓮殿。冗談に決まっているじゃないですか。この不肖の弟子の言うことなどどうか真に受けないでください。ははは」
     絵師のうぶな反応に、彼より二回りは年下の娘は腹を抱えて笑いだす。からかわれたのだ。これは座学時代の魏公子以上にとんでもない人物かもしれない。
     藍曦臣は気を取り直すため、咳払いを大きく一つした。だんだん叔父に似てきたような気がする。
     今回も白蓮蓮は藍曦臣をおだてて『かっぷりんぐ』絵を描くよう説得してくるかと思ったが、この依頼は断りますとあっさり彼女は告げた。
    「目の色はちがいますけど、わかる方には沢蕪君が夜叉の雛型になっているとすぐわかるでしょう。世間は好き勝手に夢を見ますから、沢蕪君のおっしゃる通り、お互いを心から信頼しあっている『単なる知己』であらせられるだけなのに、大世家の宗主お二人が恋人同士になったとでも世間に一度思いこまれたら誤解を解くのは大変でしょうから」
     そう含みのあることを言ってちらりと探るような視線を藍家宗主へ白蓮蓮はよこした。
     この聡い娘はどうやらとっくの昔に江澄への恋心を見透かしているようだ。だからこそ姿絵の話を持ちかけてきたのだろう。江澄にとって良い影響をもたらそうとしていることを、彼に好意を寄せている藍曦臣ならばきっと断らないと踏んでいたから。
     白蓮蓮がこちらの気持ちをはかるようにわざと言ってきた知己越え――江澄と情を交わすことなど藍曦臣はこれまで考えたことすらなかった。己の愚かさのせいで、江澄の大切な人々も命を落としてしまった。今のように友としてそばにいることを許してもらっているだけでも僥倖としかいいようがない。彼を想って肉欲の熱を夜ごと放っているが、知己よりも先を望む資格は藍曦臣には初めからないのだ。
     それに清楚で慎み深い仙子を好んでいる彼が(なんとはなしの雑談で結婚相手の条件を聞いたときあまりに理想が高く唖然とした)情人として男の藍曦臣を望むことはありえないだろうこともよくわかっていた。
     江澄の頬に手を伸ばすことは水中に浮かぶ月をとらえるに等しかった。どんなに月を恋しく思って掌中に閉じ込めたいと身勝手な欲を抱いてもそれは決して叶うことはない。
     けれど、江澄をこの腕に抱くことをあきらめてはいても、彼が特別目をかけているからといって白蓮蓮に、いいや彼女だけでなく、江澄が話しかけるもの触れるもの視線を送るものすべてに藍曦臣は嫉妬してしまう。江澄のすべてを独占したくてたまらないと彼の中にいる夜叉はもがいている。
     おそらくはそれに気づいてあの弟子は藍曦臣に支援を申し出てきたのだろうし今もこちらの心情を試すようなことをほのめかす。 
     我が子のような年齢の若者にさえ己の胸の内をいともたやすく見破られてなんと浅ましいのかと藍曦臣は我ながら呆れた。これは藍家の血筋なのか、藍曦臣個人の特性なのかは判別がつかない。
     かつて人々から羨望と尊敬のまなざしを集めていた聖人君子に彼はもう戻れない。ふしぎと戻りたいとも思わなかった。
    「これは君が取っておきなさい」
     卓におかれた今にも中身がこぼれそうな革の袋を、藍曦臣は黒い袖で指した。彼は夜着にかける羽織を金家から借りていた。
    「どうしてですか? これは絵師殿への報酬ですよ」
     白蓮蓮は相手が目上である沢蕪君であってもためらいなく眉を寄せた。
     自分が納得いかなければ相手が誰であろうとおもねらない姿勢は雲夢の元大師兄とよく似ている。おそらく雲夢江氏の家風なのだろう。温氏の生き残りである藍思追もいたって姑蘇藍氏の静淑としたたたずまいである。世家の家風は血の縛りを越えて若い世代へ受け継ぐことができるようだ。
    「君こそちゃんと報酬を受け取りなさい。今回の姿絵の件は君が最初に発案したものだ。私も姿絵の屋台を通りかかるたびに江澄の姿絵に思うことはあったけれど、私はあの姿絵をなくしたいとさえ考えたことはなかった。君は無名の絵師が描いた絵を持ち込んで世に広めるよう印刷所と交渉して蘭陵金氏中の姿絵の屋台へ並べさせた。それがいかにたいへんな苦労だったろうことは世俗に疎い私でもわかる。これは君が江澄のためにがんばったあかしだよ、白蓮蓮。江宗主はじつに才気にあふれた師思いの弟子を持った」
     心からほめると、ついさきほどまで大人をからかっていた若い娘は幼子のように丸い頬を赤くさせた。照れくさそうにくしゃりと笑った。
    「沢蕪君、過分なお言葉をたまわり不肖の弟子は恐縮するばかりです。ですが、約束は約束です。これは徹夜で私が依頼した絵を描いてくださった白木蓮殿の労力への対価なのです。それに、私は直接稼いだお金ではない限り、人からお金を受け取らないことにしております。あ、新年のお年玉は別なのですけれども!」
     師父は幼い頃から私たち姉妹に毎年下さるんです!と、雲夢江氏の弟子はにこにこ笑って言った。この娘は心から江澄を慕っている。藍曦臣は目を細めた。
    「ではこのお金で書物を買いなさい。自ら得た知識はたとえ焼き討ちにあって故郷を追われてもだれも奪えない。君が買う本は私が買って君に与えたものだと思ってくれたらいい」
     姑蘇藍氏の宗主は、駆け出しの仙師へ過去の経験にもとづいた助言をした。先人に敬意を示すかのように彼女はかしこまって拱手する。
    「沢蕪君のお心遣いに重ねて感謝申し上げます。ですが、不肖の弟子は、以前でたらめの本を読んで師父よりきついお叱りを受けました。以来、学問の書を買う前には師へ一言相談するようにかたく言いつけられております。その師父から、雲深不知処の蔵書閣は選りすぐりの本がそろっているとうかがっております。もし弟子が今後座学へ参加することがあればそこへ自由に出入りできるようおゆるし下さればたいへんありがたいです」
    「蔵書閣は座学に来ている者ならば誰でも自由に入れるよ。座学に入らずとも江澄のゆるしがあればいつでも雲深不知処へ来なさい。案内してあげよう」
     相手の要求をかわしながら相手をたてつつ自身の要求を伝える。若者の頭の回転の早さに藍曦臣は感服するほかない。自ら町中で商売をやってきたということもあるのだろうか、彼女はまことに交渉上手だ。
     この若さでこれほど世慣れているなら誰かの張り巡らした奸計や謀略にやすやすとひっかかることもなかろう、過去の藍曦臣とちがって。それは過去、陰謀の嵐に翻弄され幾度の戦火に燃えた修身界の安寧を守ることにもつながるだろう。
     障子を開け放った窓から入る夏の夜風にろうそくの火が揺れ動く。煌々として白く明るい光もまた窓から部屋へ射しこんでいた。
     はるかかなたの空で弓の握のように細い月をかすませるかのように無数の星が瞬いている。
     人はみな元は星であると言ったのは異国の呪術師だったか。
     昔読んだ異国の呪術書によると、人は死ぬと魂は空に昇って星になり時が満ちると輪廻の輪に還るのだという。死者の魂が夜空を照らし、地上に生きる人を守り導いているそうだ。生者が闇をさまようことのないように、闇に姿を隠した虎狼のうなり声に怯えないように。
     藍曦臣は江澄の人を頭からくるむような温かな心根に触れるまで、阿瑶が秘めていた虎狼のような残虐な心どころか、夜叉のようにまがまがしく冷酷無慈悲な存在が己の心にいたことすら知らなかった。自身の奥底にあったものさえ気づけずにいたのに他人のそれまでわかるはずはない。
     今金麟台で過ごしている時間も夢のようなひとときだが、この世に生まれてから金光瑶と過ごしていた日々のほうが、まるで地に足をつけず酒に溺れ夢に生きていたかのようだった。
     藍曦臣は阿瑶が見せてくれていた心地よい夢にずっと浸っていた。蓮が満開に咲く何の憂いも穢れもない極楽浄土。悪事を重ねながらもどうしてそんな清い夢を金光瑶は藍曦臣にはわざわざ見せてくれたのか、彼の本心はこの金麟台での滞在で少しばかりつかめたがいまだ全容ははっきりわからない。これは冷淡なのかもしれないが、もう言葉を交わすことのできない彼が心に抱えていたものを藍曦臣はこれ以上追求したいと思わなくなった。
     阿瑶から差し出された酒を酒とわからずに――気付こうともせずに一人溺れていたのは藍曦臣だ。酒に溺れながら己は決して泥にはまみれない、沈むことはないという愚かしい夢にふけっていた。
     藍曦臣が物心ついたときには実の両親という泥がすぐそばにあった。けれどその泥は叔父や長老たちに忌み嫌われ、藍曦臣兄弟はそれから遠ざけられ触れずに過ごしてきた。両親は実のところ離れて暮らしていながらも小さな美しい花を水の上で咲かせていたのに。
     その花を見ようと思えば忘機より年長の曦臣は見られたのにそれをしなかった。
     それはひとえに両親の泥に触れて自身が汚れその泥に沈んでしまうかもしれないのが怖かったからだ。ひとたび泥に足がつけば父のようになってしまうのではないか、一門を率いる宗主としてそれは失格の烙印を押されてしまう、大人たちの期待を裏切った厄介者だと思われてしまう、誰からも愛されなくなってしまう――そんな卑しい保身から美しくもむなしい夢にずっと逃げ込んでいた。
    『あなたも弟もお父様も同じ人間よ』
     だから泥にまみれてもかまわないのよ、とずっと母親は長子に囁いてくれていた。死してなお子の夢に現れてまで。
     母の真意をようやく汲み取った藍曦臣は、もはや極楽浄土を眺めて歩く夢をうつつで望むことはない。
     胸が張り裂けそうな悲しみを味わいながらも、身を焦がすような嫉妬にさいなまれても剥き出しの裸を公衆にさらしてしまったような恥にまみれても、それでもなお人は芯から心が満たされることがある。
     先だっての夕方、楽しそうに藍曦臣の琴をつまびいていた青年を脳裏に思い浮かべる。
     たとえ江澄から情人として愛されなくても、もし天の果てと海の終わりのように二人が遠く離れ離れになっても彼のために生きたいと藍曦臣は思った。
     江澄の知己として、彼が命がけで守ろうとしているものをともに守りたい、彼が見ようとしているものをともに見たい。それ以外の道を藍曦臣は歩みたいとはもう思えないーー江澄が藍曦臣へ与えてくれた幸せを彼にかならず還したかった。
     白蓮蓮に今この大金を渡そうとしているのもその一環だった。江澄が大きな期待を寄せている弟子から報酬といえど金を受け取るつもりははじめからなかった。
     だが肝心の弟子は聡く謙虚で、藍曦臣をうまくかわして師以外からの厚意を頑なに受け取ろうとしない。死へ少しずつ歩こうとしていた藍曦臣を後ろから引っ張り止めても頑なに名乗り上げなかった彼女の師匠のように。
     大世家の宗主として若い子弟に受け取るよう命じることもできるが、それではまさにこちらの都合を押し付けているだけだ。
     過去によかれと思って――実際のところは義兄弟という居心地のいい夢に身を置きたかった己の欲望だった――聶明玦は望んでいなかったのに、藍曦臣が善意を押し付けたことで彼の命を奪ってしまった。同じ過ちをふたたび繰り返すわけにはいかない。
     藍家の宗主は少し思案して、雲夢江氏の子弟にこう頼むことにした。
    「ではその金で雲夢のお酒を私の代わりに買ってきてくれないか。今日の夕餉のとき江澄が酒を飲みたいとこぼしていた」
    「もちろんです! この白蓮蓮、しかと承りました」
     少女は元気よく返事をして、さっき卓に置いたばかりの革袋を腰帯につるした。落としてしまわないように太い鎖につないでいる。お金の持ち運びはやはり手慣れているようだ。
     酒が飲みたくなってきたというのは江澄の体の調子が健常に戻ってきたというあかしだ。そしてそれは彼ら二人の別離を意味していた。
     これから知己として以前より深い親しみをもって交流していくことはあっても、お互い大世家の宗主という立場である以上、今のように密に接する機会はもう訪れることはないだろう。
     想い人との蜜月は終わりに近づいていた。金麟台での滞在はしかし、蜜月が終わった後、寒室の外へようやく一歩踏み出す力を藍曦臣に与えてくれた。
     己の醜さやうかつさへの嫌悪感、生き延びた罪悪感よりも江澄のために生きたいという願いが、閉関して人との関係を断っていた彼の心を今はっきりと大きく占めている。
     泥の中から伸びる一本の花芽のように、それは今にも天へ向けて花を咲かせようと大きく蕾を膨らませていた。

     雲夢江氏の子弟が藍家宗主の部屋を去ろうとしたとき、ふと足を止めて思い出したように言った。
    「そういえば、不機嫌な顔をした師父の姿絵、姿絵の屋台でぜんぜん減らないのですよ。がんばって雲夢と蘭陵金氏の両方で回収しているのですが」
     それどころか一番上の列で夜叉をはさんで笑顔の師父の隣に掲げられてしまっているのだと少女は悔しそうに拳を握った。
     一番上に飾られているということは、おそらく人気があるということだ。そこで藍曦臣はあっと気付いた。
    「ひょっとしたら売り上げがいいと需要があると印刷所に思われてしまっているんじゃないかい?」
    「!!!?」
     藍曦臣が思いついたことを指摘するなり、しっかり者の弟子はあどけなさの残る顔を赤くも青くもさせた。長い両腕を胸の前で所在なさげに振っている。今までになくなんとも落ち着きなく忙しない。
    「ま、ま、まったく気付きませんでした、うわああああああ恥ずかしい!」
     と、錯乱したかのように叫んで娘は部屋を一目散に飛び出していった。
     藍曦臣の前で子弟のお手本のように行儀良く振舞っていた彼女は目上への礼儀を明後日の方向へすっかりほっぽりだして慌ただしく去った。
     しっかりしているようで年相応の面もあるな、と開け放たれた戸を閉めようとして彼女の親ほどの年齢になる藍曦臣は少し、いやとても安心したのだった。
     戸の外では満天の星空が広がっている。今宵は中秋の満月のような明るさだった。
     藍曦臣は、もう少しで蝋がつきかけていたろうそくの火を消し、しばし星の光を眺めるため戸を開け放つことにした。

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    PROGRESSたぶん長編になる曦澄その4
    兄上、川に浸けられる
     蓮花塢の夏は暑い。
     じりじりと照りつける日の下を馬で行きながら、藍曦臣は額に浮かんだ汗を拭った。抹額がしっとりと湿っている。
     前を行く江澄はしっかりと背筋を伸ばし、こちらを振り返る顔に暑さの影はない。
    「大丈夫か、藍曦臣」
    「ええ、大丈夫です」
    「こまめに水を飲めよ」
    「はい」
     一行は太陽がまだ西の空にあるうちに件の町に到着した。まずは江家の宿へと入る。
     江澄が師弟たちを労っている間、藍曦臣は冷茶で涼んだ。
     さすが江家の師弟は暑さに慣れており、誰一人として藍曦臣のようにぐったりとしている者はいない。
     その後、師弟を五人供にして、徒歩で川へと向かう。
     藍曦臣は古琴を背負って歩く。
     また、暑い。
     町を外れて西に少し行ったあたりで一行は足を止めた。
    「この辺りだ」
     藍曦臣は川を見た。たしかに川面を覆うように邪祟の気配が残る。しかし、流れは穏やかで異変は見られない。
    「藍宗主、頼みます」
    「分かりました」
     藍曦臣は川縁に座り、古琴を膝の上に置く。
     川に沿って、風が吹き抜けていく。
     一艘目の船頭は陳雨滴と言った。これは呼びかけても反応がなかった。二艘目の船頭も返答はな 2784

    tarutotatan082

    DONE明朗と命を絶とうとする江澄と?な曦臣の監禁曦澄になるはずのもの嘉日


    今日は本当にいい日だ。

    江澄は戴冠式を終え、立派な宗主然としている金凌を見て小さく息を漏らした。小生意気な甥の落ち着いた言動への感動も成長の早さへの嘆きも含まれたものだった。江澄は大きく息を吸っていると、金凌がこちらに向かってくる。
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    金凌が丁寧に拱手をする。周りの目がある時は血縁であると忘れろ、と何度言っても叔父上、叔父上ときゃんきゃん吠えていた姿が嘘のようだった。それでも、よく出来たでしょ、と言わんばかりに緩む金凌の口元を認めて江澄は薄く笑った。
    「この度は戴冠おめでとうございます。江家は金宗主を力の限りお支えします」
    江澄は久方ぶりに眉の皺が解ける感覚を得ながら屈託なく笑みを返す。金凌は江澄の聖母のように盛り上がった頬肉を見てわずかに目を瞬かせた後、満面の笑みを返す。見慣れない江澄の表情に金凌の隣に控えていた家僕が目を見張った。
      金凌は確かによく頑張ったと思う。金光瑤の一件を経て、財と力のある金家を引きずり落とす理由を漸く見つけた他家の横槍は酷いものだった。助言すら許さなかった金光善の時代を思えば 7443