さすがに頬が痩けてきたなと、まじまじと彼を見てしまったのは幾つの頃だったろうか。確か五十路を越えたあたりだった。
ラーハルトは、郊外の家にヒュンケルと暮らしている。
人が何と言おうと普通の恋をしてきたと思う。ただ、人よりは少しばかり命の危険が多かったり、世界を救う機会があったりしただけで、日々彼を慈しんだり、時には衝突したりしながら愛着を深めてきたのは極ありふれた幸せの形だった。
しかし、ひとつだけ。
寿命の差については、世の多くの恋人たちなら直面しないであろう課題だった。
ラーハルトの恋人は、ラーハルトを置いて人生を駆けていく。
おはようと共に目にする姿は日々変化していく。最近では頬骨が目立つ様になってきた。
「それ、よくするよな」
「それ?」
起き上がる前に問われた。
同じベッドで朝を迎えたが、傍目には親と子、いや祖父と孫のようにしか見えぬ二人だ。もちろん昨夜もなんら色めいたことはなかった。単に寄り添って眠るのが好きだからそうしているだけだ。
「その、撫でるの」
「ああ」
向かい合って目覚めた朝は、枕へ頭を預けたまま腕を伸ばして頬を撫でる。それは五十路のいつぞやからの癖だった。
皺の増えていく、肉の削げていく顔に触れて、今日も愛おしいなと目を細める。
「これはオレの楽しみでな」
「妙なやつだ」
ヒュンケルが布団を出ようとするので、すっと先に起きて介添えした。腰が痛むようだから負担を掛けない方が良い。
家事はラーハルトが請け負っている。ヒュンケルは重い水桶を持てないし、目が悪くなったから包丁も危ない。
「なあ……」
食卓でリーディンググラスを掛けていたヒュンケルが、数日前に街で買ってきてやった新聞を読みつつ茫洋と呼びかけてきた。
「どうした? 朝飯ならもうちょっと掛かるぞ」
「いや物忘れがな。なにかあったんだが……なんだったか……」
細い指で紙の端を弄りながらあまりに一生懸命に首を傾げているので、ラーハルトはくすりと笑みを零した。
「とにかく飯にするから待て。その茶がぬるくならない内には用意する」
目玉焼きはよく焼くのが昔からの彼の好みだ。けれど固いバゲットは顎が怠いらしくて、お気に入りはいつしかふわふわのパンに変わった。舌が鈍くなったからスープの味は濃いめに。
「……あっ!」
突然ヒュンケルが悲鳴を上げたから茶でも転かしたのかと振り返ったら。
「思い出した!」
彼は目を真ん丸に見開いてオロオロと周囲を見渡していた。
「しまった……」
「なにがだ?」
問いかけると、ヒュンケルは悄気返って眉尻を下げた。
「誕生日おめでとう、ラーハルト……。こんな事を忘れてしまってたなんて……」
「ありがとう。そういうこともあるだろう。さ、食おう」
朝食を並べて席に着いたが、ヒュンケルはフォークにも手を付けず肩を落としていた。
「オレは耄碌した。プレゼントの用意もしてない」
「構わんよ」
「おまえ、幾つになったんだっけ」
「ちょうど九十だ」
「そうか……若いな」
魔族の九十といえば、もう十倍も生きられるという年齢だ。実際にラーハルトは現役の戦士だ。介護の必要なヒュンケルとの能力差は大きいのが実情だが。
「今更なんなんだ? その辺の由無し言は織り込み済みではなかったのか?」
「………」
冷めていく目玉焼きに目を落とすヒュンケルの憂いに好奇心が掻き立てられた。
ラーハルトは、食事をさておいて背筋を伸ばした。
「こうしよう。プレゼントはおまえの本音だ。言え。いま考えているすべてを」
ヒュンケルが息を詰めた。それ程に言いよどむことならば是非とも聞きたい。
なにせ、知る時間はもう長くはないのだ。
「おまえが秘密にしている事ならばオレにとっては何よりの贈り物だ。どんな酷い言葉も聞こう」
しばしの黙考の後、ようやっとヒュンケルは顔を上げた。
「頬を触られるのが嫌だったんだ」
「何十年も我慢してたのか?」
「そうだ」
ヒュンケルはポツリポツリと話し始めた。
ラーハルトの指はとても気持ちよい事。だがラーハルトの指先に伝わっているのは皺だらけの肌の感触である事。その時の視界にある筋肉の豊かさと、その時に見返される痩せ細った体。男盛りの肉体を前にして、もはや性的な艶など欠片もない自分。労働を任せきりにしている申し訳なさと、そのありがたさ。
溢れる魅力と頼り甲斐に己だけが惚れ続けてゆける状況の狡さを、懺悔のように語られた。
ゆったりとテーブルに頬杖を突いて、それらを嬉しく拝聴した。直接に聞く惚気というのは実に良いものだ。
「なので、なぜおまえは未だにオレを愛しているのだろうと……」
吐き出し終えたヒュンケルは、まるでイタズラのばれた子供みたいにちんまりと椅子に座っていた。おかしな男だが、ラーハルトの愛を疑ってはいない点では合格だ。
ラーハルトはだらりと座っていた身を起こして、背もたれに体を預けて腕組みした。
「なぜ、か。……分からん」
ヒュンケルは我が目を疑うかのように瞼をしょぼしょぼしているが、いくら名答を求められても期待には沿えない。こればかりは理屈では無いのだ。
「だがな、オレの母は、最期は床に伏しているばかりの人だったが、最期まで好きだったぞ。理由は分からん。おまえの事もそうなるのではないかな」
精一杯、正直に答えたらヒュンケルは瞬きをやめて、じっと目を合わせてきた。審判の時だ。
「……おまえの作ってくれた飯、すっかり冷めてしまったな。すまない、食べようか」
ヒュンケルはフォークを持ち上げた。無事に想いは通じたようだ。
心が裸になる静かな朝を噛み締める。
「やはり、おまえと話をするのは楽しいな」
ラーハルトがしみじみ呟くと、ヒュンケルは口をへの字にして肩を竦めた。
「まあ力も姿も枯れたからな。話し相手にくらいはなれて良かったよ」
「見た目も好きだぞ? 可愛いじいさんだなと常々思ってる」
「なんだそれ」
良かった。本日もヒュンケルの笑い声が聞けた。
いい誕生日だ。
2023.10.09. 21:35~23:25 +α
SKR