埃っぽいふたり生き物が動こうとする気配を感じて、ビューガの意識はすぐさま覚醒した。息をひそめ目を閉じたまま、ビューガはここがどこかを思い出す。答えは人の瞬きの隙もないくらいの時間ではじき出された。
「(ライトの部屋…)」
ビューガは永遠井ライトの部屋の隅で眠っていた。まだ出会ったばかりの、ビューガの親方の部屋。
ビューガは張っていた緊張の糸をほどく。人間の子ども相手に傷を付けられるほど、己の体はやわではない自負があるからだった。
ぺた、ぺた
フローリングを歩く足音。体重の軽さの分かる、小さな音。
ぺた、ぺた…
足音はビューガの目の前で止まった。
ビューガの眠っている場所は、ライトの部屋の隅に置いてある机の前だ。夜中に使う理由はないだろうと、ビューガは組んだ手をそのままにそっと気配を探る。殺気はもちろん攻撃的な気配もない。
続いてビューガはライトが自分の目の前にしゃがみ込む気配を感じ取った。
「…」
頭を、触られている。
ビューガがそう理解する頃には、もうライトの手はビューガの頭を3往復していた。ライトの手は、ビューガの頭をひたすら左右に動いている。
犬猫でも撫でているつもりか?とビューガは内心腹を立てるが、振り払うほど不快なわけでもない。
子どものすることだ。放っておけばそのうち…。と、ビューガはライトを無視してもう一度眠りに落ちようとしたが、それよりも先にライトが動いた。
すーっ…
「…何をしている?」
「あれ、起きてたんだ?」
「起きるだろう、これは」
ライトの鼻は、ビューガの頭に埋まっている。
その状態で息を吸われるのを黙って許せるほど、ビューガはライトに気を許した覚えはなかった。
悪びれた様子もなく、ライトはそのまま話し始めた。
「人ってさ、飼い犬とか飼い猫とか、こうやって吸ったりするんだって」
「…何故だ?」
「さぁ。なんでかなと思って」
「俺を犬猫扱いするな」
すーっ…
「おい」
人間の子どもを気軽に振り払えるほど、ビューガは人を理解していなかった。
どの程度力を加減すればいいか分からない。せっかく見つけた親方を、粗末に扱うわけにはいかない。ビューガは手を出すのを諦め低い唸り声を出す。
ライトはすぐに笑った。
「唸るな唸るな。いや、すごいなって思って」
ライトがビューガの頭から離れる。ビューガはようやく目を開けた。
月明りの差し込む部屋の中、ビューガの目の前に片膝をついて座っているライトは笑っていた。
小さな手がまた頭を撫で、耳を撫で、頬、喉を通り、それから胸部へ。人間なら心臓がある位置。ビューガもそれは知っている。
ライトの目は、ビューガを映している。
「ここには何もないみたいだ」
「…ふん」
ビューガはゆっくり瞬きをする。ライトの表情の意図は、ビューガには分からない。
ビューガの体には匂いがない。体温もない。人間のような臓器もない。体の中身などない。からっぽだ。人間とは全く違う世界の生き物で、神だからだ。比較することが間違っている。
しかし受け流すには、犬猫扱いされたことも、断りなしに好き勝手に触れられたこともビューガは気に入らなかった。
「人間界の生き物と一緒にするな。あと」
ビューガはわざとらしく視線を動かす。部屋中を見回し、それからライトに視線を戻す。
「お前に言われたくないな」
「…ふっ」
ここ数日見慣れた顔で、ライトは笑った。この笑い方は本当に楽しんでる時の笑い方だろうと、ビューガは認識していた。
この家の中で、唯一時間が止まったようなこの部屋。床に適当に転がるトロフィーや賞状。埃の積もった楽器。壊れたカーテンレールにぶら下がるカーテンは、朝も夜も半分だけ開いている。
ビューガが机の前で眠ることを選んだのは、わざわざ埃の上で眠りたくなかったからだ。この部屋で埃が積もっていないのは、廊下へ続く扉の前、ベッドの周り、この机の周りくらいだった。夜間にライトの行動に邪魔されない場所は、選択するまでもなかった。
立ち上がったライトは、まだ笑っていた。
「存在しないみたいな奴同士か。そんな俺達が大会で優勝するのも、面白いんじゃない?」
「面白いかは知らん」
「ははっ。…おやすみ」
「…あぁ」
ぺた、ぺた…
ライトがベッドに戻ったことを見届けて、ビューガはもう一度目を閉じた。
こんな固い床の上に座り込んだら、人間は冷たかったり痛かったりしないんだろうか。
眠りに落ちる間際ビューガの脳裏にふと疑問が生まれたが、それ以上考えるより前に眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
すーっ…
すっかり慣れた気配がして、ビューガの意識は覚醒する。
ビューガは目を閉じたまま、気配に向けて頭を押し付ける。「いたっ」という声が聞こえてきたのを確認して、ビューガは目を開ける。
「犬猫扱いするなと言っているだろう」
気配の犯人のライトは、鼻の辺りを押えている。痛みはすぐに引いたのか、それほど経たずに手はどけられた。
それを確認したビューガは、もう一度ベッドに体を伏せ目を閉じる。だが、ビューガが再び眠りに落ちるより前にライトが口を開いた。
「ビューガさぁ、最近臭うよな」
「…?」
理解できないライトの言葉に、ビューガは目を開ける。
ライトは顎に手を当て考えるそぶりを見せている。それからビューガの頭を掴んで、ライトはもう一度顔を埋めた。
すーっ…
「うーん、埃かな」
ライトがしばし考え込んで出した言葉を、ビューガは鼻で笑った。
「それは、この部屋が埃だらけだからだろう」
相変わらずまともに掃除なんてしていないこの部屋は、常に埃だらけだ。ビューガの体自体には体臭などないが、長く臭いの傍にいれば多少臭いがつくことは考えられる。
ライトは「あぁ…」と呟きながらビューガの頭から離れていく。
「へぇ、そう」
「…なんだその反応は」
ビューガは目を細めて睨みつけるが、ライトは笑ったまま「俺も埃っぽいか?」と自分の腕を嗅いでいる。
「聞くなら部屋を掃除してからにしろ」
「それもそうか」
ライトは満足したのか、布団の中に潜り込む。大きかった布ずれの音がだんだんと収まっていく。
「おやすみ」
「…オヤスミ」
出会った頃と変わらぬ埃まみれの部屋。床に転がるトロフィーと賞状は少し増えた。楽器にも埃は被ったまま。
ビューガは何となく落ち着かなくて、ベッドの上をそっと動く。納まりのいい場所を見つけ、目を閉じる。
ライトの部屋の、小さな体に不釣り合いな大きなベッド。その余っている足元の空いているスペース。いつの間にか勝手に使うようになったその空間で丸まり、ビューガはもう一度眠りに落ちた。