月よりも綺麗なあなた「月が綺麗ですねって…」
ベランダに面した窓から空を見上げて、こちらを向かないまま五条が言う。
「…漱石ですか?」
酒の入ったグラスの氷をカランと鳴らし、七海は恋人の方を見た。
「うん、それ」
「愛の告白…でしたっけ」
「うん、そう、それそれ」
確かに洒落てるなあとは思うんだけどさ、と五条はまた窓の外を見る。
「月、ほんとに綺麗だったらどうするの? たとえば誰かと一緒にいてさ、月が本当に綺麗だったら」
言えないの? その言葉。
「ちょっと面倒だと思うんだよねえ、僕は」
「言いたいですか? 誰かに」
「うん。たとえば硝子でも。悠仁とか恵でも」
ふっと笑って、
「パンダでもさ」
綺麗なものを綺麗だって言いたいじゃない。まああんまりそんな場面はないかもしれないけど。
何故パンダくんで笑うのですかと七海は思ったが、月の下のパンダは想像すると何だかほのぼのしていて、自身もふと口元が綻んでしまう。
「言えばいいんじゃないですか?」
「誤解されるかもしれないのに?」
「思わせぶりに言わなければいいんでしょう」
ああ、でも、この人が、
その言葉を口にすれば、多くの人が誤解してしまうのかもしれない…
惚れた欲目かと思いながらも、それは困ると思う自分もいる。
「五条さん」
グラスを置いて七海は恋人を真っ直ぐに見た。
「私に向かってそれを、思わせぶりにしないで、言ってみてください」
五条は七海を見た。唇は弧を描いて碧い瞳は揺蕩うように揺れた後、わずかに細められた。
「ななみ」
月が綺麗ですね
七海は立ち上がって恋人をかき抱いた。
月の光が白い。五条は笑いながら、ほんとうに綺麗なんだって。ななみ、見てみなよ。
窓の外の月を、見てみなよ、と、五条さんは言っているけど、七海は恋人の首に顔を埋めて、もうそれ以外見る気はないのだった。