モメント かくん。
大きな身震いを起こしたのにつれて、ぴったりと重ね合わされていた瞼がふるふると震える。
「ごめん――寝てたみたいで。重くなかった? 平気?」
眼鏡のフレームにそっと手をかけ、ごしごし、と無造作な手つきでらんぼうに瞼をこすりながらひどく恐縮したようすで声をかけられる。
「ううん、ぜんぜん。それより、遠野くんは大丈夫なの?」
間近に見つめあう眼差しに浮かぶ憂いを、すこしでも打ち消せるように――やわらかに笑いかけるようにしながら答える。
「疲れてたんでしょ、無理もないよね」
「でも……」
心底申し訳なさそうに髪をかきあげなら吐息まじりにこぼされる声に、心をしずかになぞられるような心地を味わう。
いつものように駅で落ち合ってから部屋まで招いてもらって、夕食をご馳走になって(きょうだってもちろんすごく美味しかった)、手分けして食事の片付けを終えて、前から評判だった配信のドラマを隣あって座りながら一緒に観て――主人公たちの元へと、まさに脅威が迫り来るその瞬間だった。無防備にこちらへとしなだれかかる心地よい重みと温もりに気づいたのは。
「わぁ! って声が出そうになった瞬間に気づいたからさ、間一髪だったよなぁって思って」
一時停止ボタンを押したままにした画面上では、いつからか、美しい山々の風景を写し出したスライドショーが流れ続けている。
「起こしてくれたっていいのに……いや、ごめん。僕が悪かったよね」
「だから言ったでしょ、謝らなくっていいって」
ふるふる、と頭を振ってみせながら、ゆっくりと掌を差し伸ばし、やわらかな髪へと触れる。
「気にしないでいいって、別にそんな時間だって経ってないしさ。疲れてたんでしょ? 仕方ないよね。ちゃんとベッドで寝た方がいいよ、僕はいいからさ。連れてってあげようか?」
「そんな……」
尚も気まずそうに口籠るのだから、思わず堪えきれない衝動に駆られるような心地で、囁くように声を顰めるようにして答える。
「大丈夫だよ、安心して。寝れなくなるようなことしないからさ」
「鴫野くん、」
途端に、間近に見つめ合う瞳の奥では、ぼうっとあやうく滲んだ色が灯る。
ああもう、ほんとうにかわいいな。
あんまり困らせるようなことばっかり言ってたらそのうち本当に嫌われるんじゃないかだなんてことが気掛かりになってくるけれど、こんな顔で応えてくれるのを知っていれば我慢のしようもなくなってしまう。
「きょうも朝から練習だったんでしょ? 忙しいのに会ってくれてさ、ほんとに嬉しかったんだよ。休める時に休んだ方がいいに決まってるでしょ、無理しなくていいからね」
「でも……」
「かわいいなーって思ってみてたんだよね、遠野くんの寝顔。安心してくれてるんだなぁ、よかったなぁってのもね」
途端に、気恥ずかしさと安堵の両方を混ぜ合わせたかのようなやわらかな笑みがそうっと広がる。
「もう結構いい時間だもんね、そろそろお開きにしないと」
手元のスマホの画面を確認すれば、時刻は21時過ぎ――まだまだ夜はこれからな頃合いだし、予定していたのよりかは幾分かは早い――とは言え、残念ながらまだ平日の中日ではあるのだし。
「ごめんね、途中になっちゃって」
心底申し訳なさそうな顔をして答えてくれるのがあんまりかわいくて、いますぐぎゅうっと抱きしめたくなるのをぐっと堪える――だめだめ、そうじゃなくって。
そうっと顔を近づけ、僅かな睫毛の震えをじいっと見つめるようにしながらゆっくりと言葉をつむぐ。
「いいよそんなの、今度またゆっくり続き見よ? 休みの前の日だったら徹夜だって出来るでしょ」
「あぁ――、そうだね」
眼差しに穏やかな色がぼうっと滲むのにつれるように、こわばって見えた口元がかすかに緩やかな弧を描く。
出会って間もない頃にしばしば見せてくれたのとはまるで違う――どこか幼くて無防備なその笑顔を、心から愛おしいと思う。
「ネタバレ踏まないように気をつけておくからさ。それとも別の用事の方がいい? ほら、前に行ってみたいって言ってた本屋さんとか」
「……考えておくね」
「うん、楽しみにしてる」
笑いながら、そっと指と指とを絡め合う。
一歩アパートの外へと足を踏み出せば、途端にきりりと肌身を突き刺すようなつめたい風が頬をなぞる。
絵の具で塗りつぶしたみたいにぺったりとした濃紺の空の上にはまばらに光る星と、一筆書きで描いたみたいな細い三日月が浮かぶ。地上に光が溢れすぎたせいで随分とシンプルになってしまったこの空模様にも、もう随分と慣れてしまったな、だなんてことをいまさらのように思う。
「夜になるとまだ寒いもんだね、もう三月なのに」
寒がりなのにめんどうがって手袋を滅多にしない遠野くんがめいっぱいに伸ばしたスエットの袖から僅かに顔を覗かせた掌をぎゅっと握りしめているのを横目でそっと眺めるようにしながら、思わずぼうっとちいさく息を吐く。
容姿も立ち居振る舞いもどれを取ったって年齢よりも幾分か大人びて見えるのに、ふとした瞬間の仕草や表情にはふいにこんな無防備な幼なさを見せてくれるのだから、その都度、たまらない気持ちにさせられてしまう。
「いくら三寒四温だって言ってもねえ」
笑いながら、握りしめられたままの掌をそっと掴むようにしてこちらのコートのポケットの中へと招き入れれば、途端に、やわらかく滲んだまなざしにはかすかな戸惑いの色がそっと灯る。
「しぎ」
「寒そうだったから、つい」
すっかり冷たく縮こまってしまった指先へと熱を伝わせるように――ぎゅっと包み込むように握りしめながら、ささやくようなやわらかさで声を落とす。
「大丈夫だよ、誰もいないよ」
そんなにはずかしい? 僕とこうしてるの。
レンズ越しに揺れるまなざしをじいっと見つめながら問いかけてみれば、ばつの悪そうな色がみるみるうちに瞳を覆い尽くす。
ごめんね、そんなつもりないんだよ。信じてくれないだろうけど。結局は甘えてる証なんだよね、こういうのって。
捕えるみたいにぎゅっと握りしめていた指先の力を緩めるようにしてにっこりと笑いかければ、うんと照れくさそうな笑顔がそっとこちらへと注がれる。
「……あるわけないでしょ、そんなこと」
「うん――ありがとう」
答えながら、小さなポケットの中でもう一度、ぎゅっときつく指と指とを絡め合う。
こうしている時にいっそのこと、誰かに見られていたらいいのに、だなんてことを思うことがある。それこそ、ほど近くに住んでいるらしい郁弥あたりにでも。
もしかすれば遠野くんだってそんなふうに思うことくらいあるんじゃないだろうか。勿論、確かめるはずなんてないのだけれど。
「ごめんね、我慢できなくって」
「いいよ、そんなの」
こっちだってそうだし。かすかな声でそう囁かれれば、心はざわりとたおやかに揺れる。
まばらにあかりの灯るアパート、時折いっしょに立ち寄るパン屋さん、年季の入ったようすの木製の看板をぶら下げた喫茶店――いつしかお馴染みになった町並みを、わざと遠回りをするようにぐるりと迂回しながら、最寄り駅へとまたきょうもこうしてふたりで向かう。
「思い出すんだよね、こうしてると」
入念な手入れの施された見知らぬ誰かの家の軒先からこぼれ落ちる花をぼうっと見つめながら、ぽつりとやわらかに言葉を落とす。
「最初は断ってたのにね、送らなくっていいって」
「あぁ――」
傍からは、どこか気まずそうな笑顔がそっと溢れる。
「ごめんね、意地張っちゃって」
打ち消すように明るい笑顔で答えれば、ぼんやりと穏やかな熱を帯びたまなざしがじいっとこちらを捉えてくれる。
「まぁ……僕だってそうだし」
ぎこちない笑顔を前に、やわらかに笑いかけるようにしながら続く言葉を紡ぐ。
「嬉しかったんだよ、僕は。まだ一緒にいたいなって思ったのは僕だって一緒だったからさ、あぁ、遠野くんもそうだったんだなって――おんなじなんだなって」
「鴫野くん……」
いつしか、蜜を帯びたようにあまく潤んだ瞳がじいっとこちらを捉えてくれているのに気づく。
ねえ、そんな顔見せてくれるのなんてきっと僕にだけだよね? 子どもじみた独占欲と、あまい息苦しさ――その両方が胸の内側でぐっと迫り上がって、ふつふつと穏やかに心を揺らすのを抑えきれなくなってしまう。
「ごめんねでも、断っちゃって。だってさあ、僕は一緒に居られて嬉しいけど、遠野くんは僕のこと送ってくれたあと、家までひとりで帰らなきゃいけないでしょ? そんなの当たり前だって言われるかもだけどさ――ぜったい寂しいよなって思って」
「……そんなこと考えてたの」
ほんのひと匙ばかりの戸惑いと喜びが溶け合ったかのようなあたたかな吐息混じりの言葉に、ふつふつと穏やかなぬくもりがこみあげてくるのにただ身を委ねる。
「何度目だったかな、遠野くんが言ってくれたでしょ? きょうは用事があるから一緒に出よう、送っていくよって。僕は断ろうってしたのに、気にしないでいいから、一緒に行こうって――嬉しかったんだよね、すごく。ほんとうに用事があっただけかもしれないけどさ……甘えてくれてるんだなあって思って」
精一杯にはにかんだ笑顔で答えながら、微かに揺れるまなざしをじいっと見つめる。
「好きになってくれてありがとう、遠野くん」
「……そんなこと、」
「言わせてよ?」
笑いながら、ポケットの中で絡めあった指先をぎゅっときつく握りしめる。
「無理もないでしょ、片想いだったんだからさぁ」
「慣れてなかったってこと?」
「なんでそういう言い方になるかなぁ」
わざとらしくむくれたふうに答えながら、強気な笑顔を見せてくれるのをぼうっと眺める。
出会って間もない頃に見せてくれたそれと、表向きだけは重なって見えるのに、あの頃とはまるで違う不器用で歪な棘の下に隠されていた無防備で穏やかな温もりがここには溢れている。
「遠野くんだってそうだったと思うんだけど」
わざとらしく唇を尖らせながら、続く言葉を紡いでいく。
「旭のことが好きなんだと思ってたんだよね? 僕のこと」
こんなに一途に思ってたのになぁ。冗談めかした答えを前に、ばつの悪そうな苦笑いが返される。
「だってそれは……無理もないと思うんだけど」
「よかったよね、検討ちがいで」
得意げに笑いながら、微かに赤らんだ顔をじいっと眺める。
ああ、暗がりに隠されて見えづらくなっているけれど、いまごろきっと真っ赤に染まってるはずのあの綺麗な形の耳に触りたいな。いますぐにでも。ただどうしようもなく暴れ出す衝動をぎゅうぎゅう抑えつけるようにしながら、さらりと頬をなぞるひんやりと冷たい夜風に身を委ねるように、そっと瞼を細める。
「ね、もうすぐ着いちゃうね」
人もまばらな住宅街を抜けるように角を曲がればすぐに、家路へと着く人たちで溢れているはずの駅前どおりへと出てしまう。
ただの大学生のこちらはともかく、遠野くんは将来有望なスポーツ選手なのだから――怯むように掌に込めた力をそっと弱めれば、強気に笑いかけるようにしながら遠野くんはぎゅっと握り返す。
「とおのくん、」
すこしばかりの戸惑いを溶かした声で答えれば、強気な笑顔がそっとそれを包み込んでくれる。
「言えばいいだけでしょ、自慢の恋人ですって」
隠しようのない照れた様子の――それでも、迷いなんて感じさせないきっぱりとした口ぶりに、心はさわさわと音も立てずに揺さぶられる。
「みんなの前でも言ってくれるの、それ」
小声で尋ねるこちらを前に、すこしだけ声を顰めるようにした優しい響きが落とされる。
「……決まってるでしょ、そんなの」
答える代わりに、ぎゅっと絡めあった指に力を込める。
駅前へと続く大通りには、ぱらぱらとまばらな人影が見える。
すこしだけ緊張した心地を隠せないまま――それでも、たしかな思いを込めるようにと、ポケットの中で少し汗ばんだ指先をきつく絡めあったまま、そっと視線を交わし合う。
「鴫野くんと次に会えるのは週末だよね」
「その前にまろんでまた会えるかな」
「楽しみだね」
確かめ合うように頷き合いながら、まだ言葉にならないいくつもの思いのかけらをそうっと飲み込む。
「車来るよ、気をつけて」
「あぁ、ありがとう」
ポケットの中で手首をそっと掴んでくれる指が、いつの間にか穏やかな熱を帯びているのにいまさらのように気づく。
「来週にはもうだいぶあったかくなってくるんだってさ、衣替えの準備ならいまのうちにってラジオで言っててさ」
「じゃあいまだけってこと? こういうのも」
「そうかも」
くすくす笑い合いながら、まばらに行き交う車をぼうっと眺める。
信号の向かい側には、見知らぬ誰かの姿――それでも、もうそんなことなんてどうだってよかった。
あともうすこしで、僕たちが『恋人同士』になってからのはじめての春が訪れる。