ニアリーイコール「じゃあ僕たちこっちだから、ハルも真琴もまったね〜! 」
「橘くん、今日は色々とありがとう。七瀬くんもまたね」
いつも通りの控えめでやわらかな笑顔の横で、満面の笑顔と一際明るくはずんだ声が届けられる。すぐさまくるりと身を翻して歩き出す二対の背中をぼんやりと眺めていれば、話す内容こそ聞こえてこなくとも、穏やかな親密さは自然とこちらへと伝わる。
いやはや、なんと言えば良いのかは、まだうまく言葉が見つかりそうにはないのだけれど。
「どうした、真琴」
ぼんやりとその場に立ち尽くして居れば、隣を歩く幼馴染からは当然ながら疑問の声が上がる。
「――いや、なんかさ。随分仲良くなったんだなあって思って、あのふたり」
取り繕うような笑顔と共に答えれば、「ふうん」だなんていかにもな気のない生返事が返される。まあ――わかりきった話ではあるのだけれど。
思わず苦笑いを浮かべるようにしながら、続く言葉を手繰り寄せるようにしていく。
「ほら、遠野くんって最初のほうだと、どことなく俺たちに遠慮してたでしょう? なにか話す時にも一旦郁弥がワンクッションになる、みたいな。無理もない話だと思うんだけどさ、最近はそうでもないっていうか。貴澄と二人でいることも多いみたいだし。まあ、貴澄がわりと誰にでも積極的に話しかける方だからっていうのはあるのかな」
年齢よりも落ち着いた知的な雰囲気で、自己主張はやや控えめなように見える遠野くんと、いつでも賑やかでその場にいるだけでパッと明るい雰囲気をもたらすムードメーカーの貴澄――例えば同じクラスにいたとしてもあまり接点がなさそうに見えるふたりが、あんなにもごく自然に共に居る姿をしばしば目にするようになるとは思いもよらなかったのだけれど。
「チャラついてるところだけは似てるな」
「ふたりともおしゃれだって言いたいの? わかるけどさぁ、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょ」
嗜めるように答えれば、すっかり見慣れてしまった不服そうなまなざしにじろりと睨みつけられる。
ただでさえ目力が強いんだから、そういうのはごく親しい間柄だけに留めておいた方がいいってちゃんと注意した方がいいのかな? いや、わかってやっているのかもしれないけれど。
「遠野くんってセンスがいいもんね、貴澄もそうなんだけどさ。色んなことへのこだわりとか好奇心が豊富っていうか」
「貴澄のは見境がないだけだろ」
「だからさぁ……」
思わず苦笑いを浮かべながら横目に視線を送れば、相変わらずの冷ややかなまなざしが浮かぶ。
貴澄の話題を出した時に限らず、本人の前でも一貫してこの調子なのだから、ブレがないというか、なんというか。不思議なのは、これでも決してはなから拒絶をしているわけではない、寧ろ、内側へと踏み入ることを受け入れているほうだということなのだけれど。
こちらの態度に気づいたのか、いかにもとしか言いようのない不機嫌そうな仏頂面はそのままに、ぽつりと静かに言葉が落とされる。
「悪いって言ってるわけじゃない、別に。そもそもあいつがそういう性格だからだろ、遠野が俺たちと合流できたのだって」
「あぁ――、」
わざとらしいほどの素っ気ないそぶりを装った態度の裏には、ひどく不器用な優しさがかすかに滲む。
「びっくりしたよね、あの時は――さっき外で会ったんだけどって、ほんとうになんでもないふうに遠野くんといっしょに戻ってきてさ。さすが貴澄だよなあって思ったけど」
「やりかねないだろ、あいつなら」
「それって褒めてるって思って良いんだよね?」
ちらり、と横目に視線を送りながら尋ねてみれば、不機嫌そうな苦笑いが浮かんでいるのを確認できて、思わず笑い出しそうになってしまうのをグッと堪える。
素直じゃないよなぁほんと、こういうところだけは。
大学選手権のあの日、すこし用事があるから――と席を外してくれたことの理由が何なのかなんてことは、殊更に聞かなくともあの場にいた誰もがわかっていた。
長い時間をかけてやっと再会を果たすことが叶った岩鳶水泳部の四人だけの時間を作ろうとしてくれたこと、そのために自ら身を引いてくれたのであろう遠野くんを探しに行ったのだろうということ――そのふたつだ。
「後になってからわかったんだけど――貴澄だってさ、もしかしたら寂しかったんだよね、ずっと。みんなと過ごす時間が楽しいからっていっつも俺たちに付き合ってくれるけど、どうしても入っていけない場所があることはいくらだってわかってて」
水の中と、陸と――特別な居場所を追い求めた世界はそれぞれに隔たれていて、だからこそ、未熟さゆえにぶつかり合うばかりの自分たちの緩やかなつながりを保ち続けるための力を幾度ももたらしてくれたところはあるはずなのだけれど。
あの時、それぞれに立場は違えど、身を引くことを選ぶしかなかったふたりがそれからもごく自然にああしてふたりでいるようになったことは、ごく自然な流れだったと言えるのかもしれない。
「しょっちゅう言ってるもんな、仲間はずれって」
「そういえば遠野くんはちょくちょく行ってるみたいだよ、バスケサークル。部活と違って予定の合う日にふらっと行くだけでも歓迎してもらえるし、体力作りにも気分転換にもなるから結構楽しいみたい。ハルも来ればいいのにって言ってたよ、たまには陸でも勝負しようって」
「……貴澄がいるからだろ」
吐き捨てるように答えると、ぷい、わざとらしいほどにぎこちなく視線をそらされる。
水の中でならあんなにも自由自在に軽やかに動けるのに、ひとたび陸に上がるとひどくぎこちなくしか動けないのをどうやら思った以上に気にしているらしい。
現に、半ば無理やり引っ張っていくような形で参加してもらったバスケ対決で貴澄曰く『だいぶ手加減した』らしいのに惨敗した時には随分不服そうだったし。
どうやらこの件にはあまり深く触れない方がいいのだろう――懸命な判断を下したところで、すこしだけ改まった気持ちでそっと話題を切り出す。
「――そういえばさ、いまならもう言ってもいいと思うんだけれど。すこし前に遠野くんとちょっと話したことがあったんだよね。ハルが東コーチと打ち合わせがあるって言って来れなかった時に、向こうから話してかけてくれて。ちょうどいい機会だから、すこし時間をもらってもいい? って」
「へぇ、」
ぎこちなく逸らされていたまなざしがこちらへと向けられると、その奥には途端に鋭い色がちらりと鈍く澄んだ色が光る。
「俺も前から遠野くんとゆっくり話してみたかったからさ――ありがとう、すごく嬉しいって答えたらなんかちょっと照れてて。らしいよね、すごく」
笑いながら答えれば、いつもどおりのあの仏頂面にややひびが入るのがわかる――どうやら前置きはこの辺で切り上げて、早く本題に入った方がよさそうだ。
「はじめは水泳の話をしてたんだよね、霜狼のコーチから薦められたトレーニングの方法だとか、スポーツ力学の話だとか――遠野くんってすごく勉強熱心なんだよね。大学の講義で習ってること以上に勉強になるようなことをたくさん話してくれて――でもそういうのが本題じゃないんだろうなっていうのはわかってたんだけどさ」
こほん、と咳払いをこぼしたのちに、慎重に話を切り出す。
「大学選手権の前――必要以上に俺たちのことを牽制するような態度に出たことも、勝負しようだなんて言い出したこともすごく申し訳なかったって思ってるって。あの時、一緒に泳げてほんとうはすごく嬉しかったし、感謝してるって。それにハルにも……あんなのただの八つ当たりだった、いまさら謝って許してもらおうだなんて虫のいい話があるわけないだろうけどって、すごく反省してるって。だからって自分からはうまく言えないし、ハルだってそんなの望んでないと思うけど、もし話してもいいって思える日がきたら俺から伝えてもらえると嬉しいって」
いつになく神妙な面持ちから、ゆっくりと唇を押し開くようにしてぽつりとこぼされた言葉は「あいつらしいな」だなんて答えだ。
「気にしなくたっていいだろ、そんなの。あの時の泳ぎで答えならもうとっくに出てる」
答えは水の中にいつだってあるのだからそれでいい、ときっぱりと答えてみせるあたり、さすがに陸に上がった人魚ならではというか、なんというのか――とは言え、地上で暮らすには言葉でのコミュニーケーションは欠かせないものなのだけれど。
「ハル……、」
ぎこちなく言葉を探すこちらを前に、きっぱりとした口ぶりでの返答がかぶせられる。
「夏也先輩から聞いてる、それに」
「えっ」
ぱちぱち、と思わず瞼をしばたかせるこちらを前に、訥々とした口ぶりでの手繰り寄せるような言葉が続く。
「あいつは昔からああだからって――平気なフリが得意なだけで、ほんとうはすごく傷つきやすくって、キツい言葉が出る時だって過剰な防衛反応みたいなもんで、本心から言ってるわけじゃない。子どもの頃からずっと親御さんの仕事の都合で転勤が多かったから友だちも作りづらくて、人と深く関わるのも苦手だったんじゃないかって。郁弥はそういう中であいつがやっと出会えた、引き離されずにずっと側に居られる友だちだったから自分から離れていかないように必死になるのも仕方なかったんだってわかってほしいって――だからってあいつのやり方が正しかったわけでもないし、取り返しがつくわけでもない。遠野だって、本当に申し訳なかったっていまだに思ってる。もしどうしても受け入れられないならそれでもいいけど、あいつが郁弥とこれからも一緒にいたいって気持ちだけは大目に見て受け止めてやってほしいって」
どこか重く苦しげに洩らされる言葉に、迫り上がるようなかすかな息苦しさをおぼえる。ああそうか――そうだったもんね、ハルだってずっと。
ずっと隣で見守り続けることを許された間柄だからこそ、いまさらのようにわかった気がした。ハルが遠野くんのことを許さずにいられなかった理由がなんだったのかなんてことが。
まだ胸の奥底でずっと息づいているはずの、やわらかく軋んだ鈍い痛み――その芯に決してやすやすと触れてしまわないようにと、穏やかにほほえみかけるようにしながら俺は尋ねる。
「それで、なんて答えたの? ハルは」
遠慮がちな問いかけを前に、すっかりお馴染みの涼しげな口ぶりでハルは答える。
「夏也先輩みたいな人が遠野のそばにいてよかったって」
「あぁ……」
隠しきれない安堵がじわり、と広がっていくのがわかる。お人よしにも程がある、だなんてことは散々ハルから言われてきたせりふだけれど、それはハルのほうだってそうだ。
表情や態度にあまり出ない上に口数も少ないせいもあって何かと誤解を受けやすいだけで、ハルはいつだって変幻自在に姿形を変える水のようにしなやかに他者を受け入れ、相手の立場を思いやる優しさが溢れている。
「手のかかる弟がふたりに増えてこっちも大変なんだよ、すこしくらいはねぎらってくれって言ってた。嬉しそうだったけどな、その割に」
「夏也先輩らしいね、すごく」
笑いながら答えれば、言葉はなくとも、たおやかにこちらを受け止めてくれるような笑顔が静かにこぼれる。
「そういえば貴澄もお兄ちゃんだもんね、そういう意味でも相性がいいのかなぁ」
貴澄の弟の颯斗はあれからも岩鳶SCRで水泳を続けていて、もう少し学年が上がれば県の大会にも挑戦したいと意欲を示してくれているらしい。
笹部コーチの紹介を受けての岩鳶SCRでの臨時アルバイトと、そこで出会った颯斗の存在は、地に足のつかないままだった不甲斐ない自分に『いま』へと続く道を切り開いてくれたかけがえのない宝物だ。
「別にいいけど、どうだって――」
ぎこちなく目を逸らすようにしながら、ぽつりぽつりと言葉は続く。
「遠野だってもう、『郁弥の友だち』ってだけじゃないだろ。あいつはもう俺たちの仲間なんだから、郁弥以外とも自然といられるんならいい事なんだろうな」
「まぁ――そうだよね」
真面目で優しくて気遣い上手――それでいて、きっとすごく寂しがり。不器用な性分ゆえにいびつな棘を纏うほかなかった彼が、次第にこちらに打ち解けて新たな絆を築きつつあるのならそれはきっと、良いことなのだろう。
「でも――」
口ごもりながら告げられる言葉にじいっと耳を傾けるようにすれば、すこしだけ掠れた頼りない言葉がこぼれ落ちる。
「夏也先輩は心配だって言ってた。郁弥はなんだかんだでいまだに日和離れが出来てないから、面白くないんじゃないかって」
「あぁ……それは確かにあるかも、ちょっと」
良くも悪くも素直で感情の起伏が激しい郁弥はこのところ、前にも増して強気なそぶりを見せる機会が増えたように思う。いままでならそのクッション役を引き受けていたのは遠野くんなのだろうけれど、このところもっぱらその役割を引き受けているのは旭のように思える。
「まあでも大丈夫でしょ、郁弥には旭だっているわけだし」
「こっちにまで巻き込まれなければどうだっていい」
「ハルならそういうと思ったけどさぁ」
「わかってるなら問題ないだろ」
呆れたように答えるぽつりと答える横顔をじいっと見下ろしながら、気づかれないようにちいさく息を吐く。
たぶんこれ以上は話たって無駄だと思っているに違いない――まあ、たしかにその通りではあるのだけれど。
「ねえハル、信号変わったよ」
思わずそっと袖を引くようにして合図をすると、途端にじろりと冷たいまなざしに睨みつけられる。悪目立ちすることになるからそういうのは控えろ、だなんて言われていたことをうっかり忘れていたことにいまさらのように気づく。
「あぁごめん、つい」
「そんなことしなくたってわかる、緊急の時だけにしろ」
気まずい気持ちからそっと目を逸らすようにすれば、並んで歩くこちらのすぐ隣を、しっかりと腕を組んで歩く男女が通り過ぎていく。都会に出てきて驚いたことのひとつは、こんなふうに人目があることなんてすこしも臆せずにふたりの世界を築き上げている恋人たちの姿がやけに多いことだ。
すぐに何かと噂が回る田舎町と違って、良くも悪くも他人への関心が薄い都心ならばそういったことへの自由度も段違いだからこそなせることなのだろうか。信号待ちのわずかな時間の間に抱き合っているカップルを見た時には、随分とびっくりしたものだけれど。
そういえば、いまさらかとは思うけれど、隣を歩く幼馴染とは勿論、仲間たちとは恋愛の話をほとんどしたことがない。
旭が高校時代にひとつ上の先輩に片思いをしていたことがあったらしいだとか、宗介が大会の日に見知らぬ女の子(本人から聞いたところによれば、鯨津高校のマネージャーだったらしい)と話をしている場面くらいなら見かけたことはあるけれど、思い当たる節は強いて言えばそのくらいだ。
貴澄なら――交友関係は随分広いようだし、中学時代から常に女の子からの注目を浴びていたのだから(宗介や凛曰く「小学校の頃から常にあの調子」だったらしいけれど)いまも相手がいたってすこしもおかしくはない。もしそういう話があるのだとしても、こちらに気を遣って話題に出さないようにしてくれているだけのような気もするし。
ちょっとくらいは聞いてみてもいいのだろうか。いや、なんとなく恥ずかしいな。同じゼミの仲間内ならともかく、もっと近しい仲間内のそういった話だなんて、いやに生々しく感じるから。
「真琴、どうかしたのか」
こちらを見上げながらの不服そうな問いかけが投げがられる。
ありのままに話したって特に問題はないだろうか――いや、そうでもないな。そんな余計なことに現を抜かすなとか、そういった類のお小言が返ってくるに決まってる。
「いや、きょうの夕飯どうしようかなって思って――こないだの野菜の余りがまだあるから痛んじゃう前に使っちゃいたかったんだけど」
「いいから鯖にしろ、それなら間違いがない。鯖はどんな食材にも調味料にもあう」
「だからハルのその鯖への絶対的な信頼はなんなの? そういえば思い出したんだけどさ、こないだ遠野くんに教わった鯖料理のレシピがあって」
雪解けならとうの昔に済ませているとは言え、まだあまり得意ではないらしい相手――遠野くんの名前を出したところですこしだけ表情は強張るのに、大好物の名前を出せばすぐさまにそれはほどける。
わかりやすいよなぁ、こういうところ。
「俺にも教えろ」
「後で送るから。それよりこの後ってちょっと時間ある? すこし付き合ってもらいたいところがあるんだけど」
人並みをかいくぐるように歩きながら、小さく頷いてくれる姿をそっと確かめ、安堵に胸を撫で下ろす。
ゆるやかに、ひそやかに、時は流れ続ける。
俺たちがいまもそこにある決定的な何かを知ることになるのは――あともうすこしだけ、先の未来のことになるのだけれど。