いたくない いたくない「日和どうしたの、それ。怪我?」
いつものように通学のバスに揺られる最中、吊り革を持った右手をちらりと横目に見た郁弥がどこか怪訝そうなようすで声を掛ける。
「あぁ、これね」
人差し指にはぐるりと、半透明の防水素材の絆創膏が貼られている。
「紙の端でスパッて切れちゃって。大したことじゃないよ、そんなに」
「ならいいけど、包丁か何かで切ったのかなって思ったから」
「そこまでじゃないよ、心配してくれてありがとう。でも結構痛かったから、郁弥も気をつけて。乾燥してるとなりやすいみたい」
「へぇ」
揺れる車内の中、すこし動かしづらくなった指先を思わずぼうっと眺める。
絆創膏の下の傷の正体と、そのきっかけはほんとうのことだった。それでも――話すつもりがないことがひとつ、このささやかな傷の下には隠されている。
「痛っ」
机の上にいつのまにか溜まっていたダイレクトメールを整理しようと思っていた時だった。すぱん、と鋭い切れ味は人差し指の腹に真一文字の切り傷を浮かび上がらせ、鮮血を滲ませる。
参ったな、そこまで深くはなさそうだからまだよかったけれど。ひとまずはティッシュできつめに抑えてようすを見ていれば、絶妙なタイミングを見計らうみたいに、お手洗いから戻った鴫野くんがそっと姿を現してくれる。
「遠野くんどうしたの、怪我?」
「あぁ、紙で――」
不十分な説明でも、状況を見てすぐに察してくれたらしく、「あぁ、よくあるよね」だなんてやわらかな微笑みまじりの答えが返される。
「叔父さんのところで書類の整理のお手伝いがよくあるんだけどさ、怪我するといけないからっていつも指サックとか手袋とか貸してくれて」
ちょっと見せて。何気ない風にそっとこちらの指先を捕えると、じっくりと傷口を確認してくれる。
「よかった、そんなに深くまでは切れてなさそうだよ。まだ痛い?」
「そんなには」
「そっか、ならよかったや。絆創膏ってどこ?」
「そこの引き出しの二番目の」
答えるや否や、こちらよりも即座に動いて、目的のものをすっと取り出してくれる。
「ありがとう、わざわざ」
受け取ろうとするこちらを前に、わざといじわるをするみたいにひらりと指先は宙を舞う。
「……鴫野くん」
「いいから」
しばしばそうするみたいに得意げに笑いながら、ぺり、と音を立てて封を開ける。
「出して、手」
請われるままに指先を突き出すようにすれば、長くてしなやかな鴫野くんの指が、包み込むみたいなやわらかさでこちらのそれにそっと触れる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、いたくない。すぐよくなある」
歌うように軽やかに囁きながら、半透明の絆創膏がくるりと巻きつけられる。
「えっと……」
ぱちぱち、と戸惑いを隠せないままにゆっくりのまばたきとともに答えれば、すこし照れくさそうな笑顔がすぐさま溢れる。
「あぁ、ごめん。くせで。やだったよね」
「……ううん、そんな。ありがとう」
すこし掠れた声で答えれば、眦をきゅっと下げたやわらかに花の綻ぶような笑顔がそれを受け止めてくれる。
「いつもしてたんだよね、怪我が早く良くなるおまじない」
答え終わるのと同時に、そっと指先を持ち上げるようにしてかすかに触れるだけの口づけを落とされる。
ひどく手慣れた滑らかな手つきに、ざわりと心は穏やかに軋む。
「これもそうなの?」
「遠野くんにだけだよ」
いたずらめいた笑顔を前に、思わずじいっと瞼を細めながら見つめ合う。
「乾燥してるとなりやすいんだよ、ハンドクリーム塗るだけでもぜんぜん違うからね」
「あぁ、ありがとう」
「大事にしなきゃだめだから、ね」
嬉しそうに微笑みかけながら、ひとまわり大きな掌は包み込むようにやわらかに、こちらのそれに触れる。まるでここだけが時の流れ方が姿形を変えたかのようなおだやかさに包まれるのに、ただぼんやりと身を任せる。
「そういえばさ、郁弥。きょうの午前の講義のことなんだけど」
「あぁ、なに」
わざとらしく話題を切り替えながら、指先を包んだ半透明の絆創膏にぼうっと目をやる。ごく浅い傷はもうとっくに癒えていて、ただ無用なお飾りに過ぎ無くなっていて――それでも。名残を惜しむ気持ちは、優しいおまじないをこのまま封じ込めておくことを選ばせた。
たとえ防水でも、プールで激しく泳げばすぐに剥がれてしまう。このままにしておけるのはあともうすこしだけで、だからこそ。
うんとささやかすぎる証に閉じ込めた願いを封じ込めるように、指先にぎゅっと力を込める。