波間にて「ねえ、遠野くん。ほんとにいいの? 無理してない?」
ぎしり、とわずかにフレームの軋む音を立てながらいつになく弱気な口ぶりでかけられる言葉に、胸がつまされるような心地を味わう。困ったな、こんな顔させたいわけなんかじゃないのに――ふぅ、とわざとらしく息を吐き、どこか物憂げに揺れるまなざしをじいっと見つめながら答える。
「……そんなことないけど。鴫野くんは嫌だった? そんなに」
ちょっとショックなんだけどなぁ。
わざとらしく意地悪めいた口ぶりで答えれば、かすかに潤んだ瞳がじいっとこちらを捕らえる。
ちょっとくらいはうぬぼれてもいいのかな、こういう時って。それだけ大切に思われてる証、だなんて思ってもいいんだろうし。
初めての〝お泊まりデート〟の宴もたけなわ。そろそろ眠りにつこうか、という段階にきたところで勃発した問題――それが、妙に遠慮をしてみせるこんな態度だった。
学生向けの一人住まいのアパートに置けるベッドは当然ながら一台きり。平均的な規格からは多少並外れた身体に合わせて、多少手狭になることくらいは覚悟した上で購入したロングサイズのセミダブルベッドは、いつも通りにひとりで眠りに就くのならともかく、ふたりで休むにはすこしばかり窮屈だ。
「僕が下で寝ようか? ならいいでしょ」
「だめだよ、そんなの」
「だったら我慢して?」
「我慢じゃないし……」
いじけた子どもみたいないやに無防備な口ぶりとともに、わずかに震えた指先がぎゅっと寝間着越しにこちらの腕をつかむ。
「じゃあさ、〝お願い〟って言ったほうがいい?」
あやうく揺れるまなざしをじいっとのぞき込むようにしながら尋ねれば、やわらかな髪の隙間から姿を覗かせた綺麗な形の耳がかすかに赤く染まる。
どうしよう、困らせたいわけじゃないんだけどな――いつもなら滅多に見られるはずもない危うげな表情は、心地よく心をゆさぶって離してはくれない。
「そんな――でも、ありがとう」
答えながら、長くて綺麗な指先がはらうように優しくこちらの髪に触れてくれる。
「あのね、遠野くん」
「なあに?」
魅入られるような心地でおだやかにゆらぐ瞳をじいっと見つめれば、吐息まじりの優しい言葉がぽつりと落とされる。
「寝ぼけて遠野くんのことぎゅうってしちゃうもしれないけど……それでもいい?」
「大歓迎なんだけど」
きっぱりと答えてみせれば、途端に、見つめ合うまなざしには気恥ずかしそうな色がみるみるうちに浮かぶ。
「あと、いきなり襲ったりとかはしないからね。よくないでしょ、そうゆうのって」
ばつが悪そうに洩らされる口ぶりに、愛おしさとしか呼べないものがみるみるうちに浮かび上がる。そういうところだよね、ほんとうに。
きっといままでなら知るはずもなかった顔をこうして新しく教えてもらえる度に、心の内はいつだって、鮮やかな花が咲きこぼれるような喜びで満ちていく。
「いきなりじゃないならいいけど?」
いたずらめいた響きをたずさえるようにしながらそっと答えれば、かすかに潤んだ瞳の奥では幾重にも折り重なったまばゆい光が瞬く。
「遠野くん、」
あたたかな吐息混じりにうんと優しく名前を告げられれば、鼓膜だけなんかじゃなくって、心の内までがただおだやかに震わされてしまう。
「それでさ、僕も言っておかなきゃいけないことがあるんだけど」
ふぅ、と静かに息を吐き、ゆるやかに答える。
「僕、寝起きがすごく悪いみたいで……おかしなこと言ったりとか、したりとかするかもしれないから。先に謝っておくね」
途端に、どこか強ばって見えた表情はおだやかにゆるむ。
「どういう意味なの、それ」
くすくす笑いながらかけられる言葉を前に、照れくささを隠せないままにぽつりと言葉を洩らす。
「いや、寮にいたころに郁弥に散々言われて。自分じゃあよくおぼえてないんだよね、だからどんななのかっていうのはうまく言えないんだけど……」
「楽しみにしてるね、じゃあ」
言葉につれるようにして、長くて綺麗な指先がするり、とやさしい手つきで髪をなぞる。
「なあんかさぁ」
やわらかに瞼を細めるようにしながら、うんとおだやかなぬくもりに満ちた言葉が続く。
「夢みたいだなって思って。いっつも思ってたから、遠野くんともっと一緒にいたいな、お別れしなきゃいけないなんて寂しいなって。きょうはもうずうっといっしょで、寝る時もいっしょで――明日起きたらさ、遠野くんにいちばんに会えて、『おはよう』って言えるんでしょ? こんなにうれしくっていいのかなって思って、ほんとうに」
ひどく無防備なまっすぐさで届けられる言葉に、いびつな心の内はただ音も立てずにゆるやかに軋む。
ずっと知らなかった、こんな感情が自分の中にあることすら。
「僕だってそうだよ」
信じてくれる? ささやくように答えれば、長い睫毛をかすかに震わせたうんとゆっくりのまばたきがこぼれ落ちる。
「好きだから?」
「……そうだね」
やわらかに落とす言葉は、あたたかな波紋をしずかに広げる。
「ほんとに嬉しかったんだよ、泊まりにきていいよって言ってくれて。何回言っても足りない気がするもん、ありがとうって。ほんとにありがとう。遠野くんのこと、すごく好きだよ」
「……うん、」
頷き合いながら、波打つシーツの上でそっと指と指とを絡め合う。
「あのさ、眠くなるまでおしゃべりしててもいい? もったいないからさ、なんか」
「いいよ」
「あと、こわい夢見たりしたら起こしてくれて良いからね。遠慮しないでね」
「……そんなわけにいかないでしょう」
「遠野くんって意地っ張りだよね。いいのに」
くすくす笑いながら、差し伸ばされた指先がかすかに額に張り付いた髪をはらうようにそっと触れる。
幼い子どもをあやすようなひどくやさしいその手つきは、うんとおぼろげで儚い記憶のありかをしずかにたぐり寄せる。
〝きょう〟が終わりを告げるまでは、あともう少し。
ゆるやかな波間を漂うにしながら、夜の帳が静かに降りていくのに身を任せる。